四話「奴隷の願い」
「ミラ様」
「な、なによ…」
執務室兼応接室、ついでにミラリールの寝床になっているソファーが置かれた部屋で必死に城の主人はペンを走らせていた。
大きな窓を後ろにした机と、向かいあったソファーと挟まれた背の低い机。
紙が積まれた執務机で青い顔で紙を睨むミラリールとソファーに一人腰掛けティーカップを口に当てているミクス。
「あれから三日経ちましたが、アル君と初日以来あまり話せていないじゃないですか」
「仕方ないじゃない! そもそも私は人間との話した事なんて全くないからわからないのよ!」
「でも最初から親しげだったではないですか?」
「あれは――その…頑張っていたのよ。変にテンションが高かったのもあった訳で…それに狙ったかの様に仕事が急に問題が山積みになって…そりゃ私だって何も考えていない訳ではないわよ…でも…」
「全く…面倒くさい人ですね。」
そういうとカップとポットを手にミクスは立ち上がる。
「ホント、言いたい事だけ言って去るわね、貴方」
「お仕事の邪魔してはいけないですからね」
「今更よ…はぁ…そんな軽口すら疲れを感じてしまうわ」
「私は楽しいですよ」
青みがかった銀髪を揺らして、執事服の男性はにこやかな笑顔を残して扉を締めた。
「もう…なんなのよ。 でも――少し肩の力が抜けたかしらね」
僕がこの城に三日が経った。
白レースから朝陽が顔を撫でる。ふかふかのベットの上で微睡む午前のほがらかな時間だ。
――暖かい。
冷たい床で壁につながった手鎖が届く範囲での部屋から一変した世界。
記憶が曖昧だけど初日に気付けばこの部屋のベットで寝ていて、後にこの部屋が僕の部屋だと言われた。
「ミラ様の…身体…」
記憶を辿る中で、僕のここに来た日の記憶のほとんどはお風呂場でのあの姿が殆ど。
くるりくるりと大人二人が一緒に寝ても余裕があるほどのベットを齢二桁に満たない少年が声にならない声を上げて、タオルを身体に巻きながら転がる。
「はぁ…」
奴隷として。
そう、奴隷として数々の教育を受けてきた少年だが、彼が奴隷として買われた時の想像とは全く異なる日常が目の前に訪れた。
ふかふかのベットも、大浴場の暖かい浴槽も、お腹いっぱいに満たされる食事も、どれも夢のような時間がのんびりと流れてる。
「はぁ…」
ため息二つ、アルと名付けられた少年はそれでも戸惑っていた。
というよりは、『わからない』が正しいのだろうか。
自由にしていいと言われて以来、ミラとアルは交わした言葉は朝の挨拶くらいだった。
城に来て、一度じゃ覚えられないほど広い部屋部屋をミクスに案内された、その中で一つ彼にとってショックな出来事があり、それからアルは少し落ち込んでいる。
チュンチュンと窓の外で楽しげに二羽の小鳥が鳴いていた。
それに誘われる様に少年も窓の元へと歩き出す。
「あ、あれは――」
カーテンの隙間から外の景色が見る、それをきっかけにアルは小走りで外へと向かって行った。
「おや、どうかしましたか?」
アルの部屋は左館二階の端、つまりは城の正門から見て左側に広がる花畑が一望できる場所にあった。
水を吐き出すホースを手にアルに気付いたミクスが振り返る。
「あ…いいえ、見えたのでなんとなく、です…」
「そうですか――ね、綺麗でしょう?」
「え?」
ミクスの言葉に驚くアル。
「この花畑、アル君には綺麗には見えないですか?」
「あ、いえ…とても綺麗です。こんなに色が沢山あるとは知りませんでした」
ふふ――と笑みを浮かべてミクスは花々に目を向ける。
「そうですね、ここは私自慢の花畑なのです。春には春の、夏には夏の、四季折々の花々が咲き続けるのです…でも、そろそろ春の花は姿を消し始めるのでアル君に見てもらえてとっても嬉しい」
「…嬉しい?」
「ええ。一人でずっと愛でていた花々をミラ様やアル君に見てもらえて、綺麗だと言っていただける事が私は嬉しいのですよ」
春の淡い色の花々。黄色や橙の暖色をした小さな花がグラデーションを描く様に咲並び、その中で青い大きめの花が点々と咲いていた。
「アル君にとって嬉しい事はありますか?」
「ぼくの…嬉しい…?」
途端に戸惑うアル。何故ならば、そんな事を考えた事もなかったのだから。
計算式を持って答えを導き出す以前に数字を知らない、そんな状態でずっと生きていたのがアルという奴隷なのだ。
外の世界を鼻から知らず、およそ記憶の全てをあのE舎と呼ばれていた明かりのない牢屋だけだったのだ。
そんな彼には…やはり考え及ぶ訳もない世界の質問だった。
「わかりません…」
主人の質問には必ず答えよ。
彼の奴隷としての教育がその言葉を生み出す。
「そう、では――」
表情を変えることなく、にこやかにアルに向かうミクス。
遠くに手を向け魔術で動いていた水道を止め、膝を地面について少年と目線を合わせる。
「これから沢山考えて、沢山経験して、自分の嬉しいや好きを探すと良いですよ。アル君はずっと奴隷として生きてきた…その過去はもう変えられませんが、未来は変えられます。ただ言われて動く人形ではなく、歳相応に笑って泣いて学んで――子供でいいのですよ」
「……。」
軽くアルの頭を撫でるミクス。その手の感触はといえば、今にも壊れてしまうガラス細工の様だと、そう感じていた。
「貴方はまだ子供です、一人の人間です。物でも魔術で作られた人形でもありません。誰かと共に、そして自分自身と生きるという事を考えていいのですよ。そして、何よりも我が主人様はそれを望んでいらっしゃると思います、言ってたではありませんか。 『――友達になって欲しい』とね」
「は…はい…」
「ふふ、考えてと言いましたが、そんな難しい顔はしなくていいのですよ。アル君はアル君らしくこの城で生きてくれればいいだけで、ただ…奴隷だから、という考えは持たなくていいと言いたかっただけですので」
それでもアルの表情は理解ができていないといった感じだった。
だけど、ミクスという大人のいう事だから――と、きっと正しいことを言っているからとりあえず飲み込んでしまおうとそんな表情にも見える。
ミクスは唇に手を当て思考した、そしてポンと手を叩きアルの手を取ると立ち上がった。
「ミッ…ミクスさん?」
驚くアル、しかしミクスは構うことなく花畑に向かう。
「アル君、この花達の中で君が一番ミラ様に似合うと思う花を一つ選んでください。そして選んだら…」
その先をミクスが伝える。それを聞き遂げたアルは一つの花を手に彼女のところへと駆け出すのであった。
コンコン。
軽い音を立てて扉が叩かれる。
「…ん、ミクスかしら? なにーどうぞー」
応接室、即ち今はどこかの主人の寝室になっていても本来は来客を迎える部屋だ。
だからこそ、その部屋の扉は絵柄の彫られた一際大きな扉である。
真っ白な壁紙が続く廊下に存在感を放つ重厚な扉がゆっくりと開かれた。
「…あら?」
部屋の最奥に扉に向かって置かれた執務机で紙の山に囲われたミラリールは、扉の後ろから現れた小さな影に驚きの声を上げる。
「アル…どうかしたの?」
詰まりながらも平然と、青い顔で精一杯に笑いながらミラリールは問いかけた。
そう、扉を叩いたのはアルだった。庭の花畑から真っ直ぐにここに向かって、ここに来るために彼は城の中に戻って来たのだ。
「…こ……」
「うん?」
声をあげる事に慣れていない少年、何かを伝えるということもまた彼にとって経験のないことだ。
何かを言おうとしている――それは理解できるが、俯いて発せられた小さな声はミラリールには届かない。
「どうしたの…花?」
ペンを置き、扉から奥に入ってこなかった少年の元へと歩き、屈んでアルの目線に合わせる。
「…こ…れ…うん…」
アルはおずおずと手にした一輪の花を前に出そうとして、しかし出せずにいた。
「綺麗な花ね、これはなんていうのだったかしら――」
「これ…を…!」
意を決してか、声が少し張り上がった。
事態の読めないミラリールは内心で驚きながらも笑顔を崩さない。
「これ…ミラ様に、似合う…と思って…」
淡い青色をした小さな一輪の花。その花弁には点々と光沢があり光を反射させると濃い紫色だったり空色だったりと様々な彩りを見せた。
「私に?本当!?」
ミクスの言葉は大したことはなく、
『この花畑でミラ様に似合いそうな花をプレゼントしてあげてください、きっと喜ばれますので』
というものだった。
「ありがとうアル…とても嬉しいわ…」
ミクスの思惑通りに、そして彼女も黒幕の存在に気付きながらもそれでも嬉しいのは本当だった。
思わず涙ぐんでしまうくらいには。
「ね、アル、私の髪につけてくれないかしら?」
「え…でもわからない、です…」
「いいわよ適当で、お願い」
下を向き髪をアルに預ける。
茜色の髪に震える小さな手が触れた。
「――ね、アル」
「は、はい」
「なんでこの花なの?」
「それは…」
ミラリールの右前髪に茎がするすると掻き分け進んでいく。
「ミラ様の、白い肌と一緒だったら…綺麗だと思い、ました」
「そっか、ありがとう」
小さな手が髪から離れた、それも束の間の事。
「わわわっ――」
空を漂った手が体に収まるよりも早く、少年の身体はミラリールの腕の中に引き寄せられていた。
アルほどでは無いが細く伸びた手足、しかしやはり男女の身体は確実に別物で女性特有の柔らかさにアルは包まれる。
お互いの鼓動が早く、それでもお互いのペースで脈打つ。
いきなりのことで強張るアルの身体。
それでもミラリールはまるで心臓を探すかの様に抱き締める力を僅かに強める。
――暖かい。
無意識に溜まっていたため息が溢れ、アルの緊張も解ける。
「お礼しないといけないわね…何かして欲しい事はある?」
「して…欲しい…」
ミクスの言葉の続きを思い出す。
――もしも、できるのならお願いもしてみると良いですよ。アル君のできる様になりたい事、あるでしょう?
「いきなり言っても浮かばないか」
耳元で囁く声が離れていく、アルの頭を撫でて立ち上がるとミラリールは「ありがとう」と机へ再び向かう。
しかし、アルの指がミラリールの黒を基調とした沢山のフリフリのついた服の端を掴む。
「あの、ミラ様…」
「なに?」
「文字を…読み書きを教えては、もらえ、ませんか…少しでいいので…」
この城にやって来てアルがショックだった事、それは書庫に行った時のことだった。
何千、何万、幾つあるのかすら想像のつかない本の世界にアルの胸は静かに湧いていた。
しかし、本を手に開いてみれば…もう文字が読めなくなっていたのだ。
アルにとって記憶の中にある絵本を見つけても、知らない物語を知ろうと思っても、もう二度と読めない。
その事実を知ってしまったのが少年にとって、あまりに大きすぎることだった。
奴隷が何かを願ってはいけない。奴隷だから。奴隷として。
まるで呪いだ。刻まれたモノがアルという個を消していくのだ。
「うん!いいわよ!」
初めての願い。怖くて、怖くて、イケナイコト――なのに。
ミラリールの笑顔に戸惑うアル。嬉しそうで、そして幸せそうな彼女の顔に自分の今までが崩れていく。
「アルからの初めてのお願いだもの!毎日教えるわ!」
友達として。
その言葉の意味を、アルが理解するのはきっともっと先なのだろう。
しかし、理解はできずとも…その温もり、『暖かさ』は確実に感じていた。