三話『名無しの子』
「ねえ、貴方名前は?」
馬車が道を進んでいく、人の町から離れた道を選んでいるからか走っている道はずっと、地面が剥き出しになっただけの土道だった。
席は手綱を握る人が座る席と、馬車の屋根付きの荷台に二人がけの席がある。
現在二匹の馬の手綱を握るミクスという男性と、その後ろに座るのがミラリールと目隠しをつけた少年。
目隠しのつけている少年はミラリールに奴隷として買われ、今は奴隷商からミラリールの城への道中だ。
「名前は…ないです。僕にあるのは番号だけ…」
「そ、じゃあ貴方は今日から『アル』よ、こんな事もあろうかと昨晩考えていたの」
「アル…?」
「そうよ、アルタイルっていう星から取ってアル。気に入らなかった?」
「い、いえ!嬉しいです、アル…アル…僕の、名前。」
「お二人ともそろそろ着きますよ」
馬車は森を抜けていく、太陽の日差しを透かした緑のサーチライトが走る馬車に流れていく。
そして遂に樹々の無い空間へと馬車は飛び出る。
山林の僅かに人の手を感じる道を登っていくと、それなりの高さの崖の上にそびえる城が姿を見せ始めた。
「到着で御座います」
「ん、ありがとう。アルの目隠しは時間になれば自然に取れるって話だったけど、取れないわね」
「ここならば私が安全に外せるかと」
「そっか、ミクスの魔術工房でもあるものね、お願いするわ。私は上から食べることしか出来ないから」
「了解しました。」
少年の顔を鷲掴めるくらいの大きな手が、その視界を奪う布に陰を落とす。
ミクスが小さく呪文のようなものを呟きながらその布を撫でると、するりといとも簡単に外れた。
「眩し――わああ…」
感嘆の声。2日弱振りの光に驚いたけど、アルは目の前にあるものにそれ以上の驚きを覚える。
真っ白な城があった。
雪に覆われているかの様な真っ白な城郭だ。
人気のない森の土地を贅沢に高い塀で囲われた城、三本の塔と大きな館、城門は馬車二台が同時に出入り出来そうなほど大きい。
「じゃあ、行こう!私達の家へ!」
軽やかな足取りで、未だ呆気に取られているアルの手を引いたミラリールは本館の玄関を目指し歩き始める。
城門から玄関まではざっと見ても100メートル弱はあるのではないだろうか。
その道中には大きな女性が天に手を向けている噴水、右や左を見れば色取り取りの花畑。
どれもが眼を見張る、見惚れてしまうような美しさや艶やかさを持っている。まるで桃源郷の様な場所だった。
万華鏡の様な景色に眼を奪われつつ、白塗りの城壁の中で、ブラックパールの様な光沢のある黒色の玄関へとたどり着く。
「ただいま。」
「お帰りなさいませ」
そんなミラとミクスの二人のやりとりをきっかけに重く鈍い音を立てて扉は開いていく。
城の中も外の様子に劣らず絢爛豪華だった。
水晶の中に入ったかの様な大きな窓が太陽の光をきらびやかに透かして廊下を照らし、赤く伸びる絨毯は薄くともクッションの様に柔らかで――。
「…なんか、寒い。」
しかし、城の中の景色を見てアルはそう呟いた。
「あら寒い?何か上着持ってくる?」
「い…あの、いえ…なんというか…僕がずっといた所と同じ様で…寒くはないのですが寒い感じというか」
「うん?なんでしょうねそれ、ミクスわかる?」
「多分それは、寂しいではないでしょうか」
アルから見ればおよそ二倍はあろうかというミクスの身長。それでも、一生懸命にその顔を見ようと顎をあげる。
ふふ、とミクスは屈んで少年の頭を撫でた。
「寂しい、というのはですね。アル君がいた場所もそうでしたし、この城もそうですが、人気がないとか一人ぼっちで悲しくなるときに感じることなのですよ」
「――寂しい、か。確かにね、使い魔達もあと一週間は戻ってこないし、住んでいると言えるのは私とミクスだけだったものね」
「もっと言えば、つい最近までは私しかいませんでしたから」
「ね、アル――」
ミクスと並んでミラリールは屈んで少年の手を取る。
その時ようやく、奴隷の少年――彼女がアルと名付けた少年は初めてしっかりとミラリールの顔を見た。
艶やかに肩よりも長く伸びた夕陽色の髪、アルを映す緋色の瞳はその髪よりももっと鮮やかに…まるで血の様に赤い瞳だった。
――貴方の血、とっても素敵ね。
アルはあの言葉を不意に思い出した。あの時はローブに仮面で顔なんてわからなかった、しかし今彼女の顔を見ながらその言葉を思い出すと確かにこの人が言ったのだと、なぜか確信が持てた。
妖しく、妖艶に、人を引き込んで離さないその瞳はまるで――怪物にすら思えたのだから。
「ね、アル」
「な…なんでしょうか」
見惚れていた。ミラリールの言葉が届くまで永遠の様な刹那だったが、必死にそれを悟られまいとアルは応える。
「私とミクス、そしてアルとでここを寒くない、暖かい家にしましょう」
「は、はい…」
そうして、この時から三人の生活が始まるのでした。
「ミラ様、アル君はまずお風呂に入れてあげては如何でしょうか?」
「そうね、準備ってできてる?」
「この城は私の思い通りですので帰ってきた時にはもう出来てますよ」
「流石だけど、私まで思い通りに動かされているみたいで少し癪だわ」
「ミラ様」
「なによ」
「暖かいお城にしましょうね」
「んっ――んんん!まぁいいわ、お風呂頂いてくる!アルも行くわよ!」
「では、私は馬車を戻して、御夕飯には早いので簡単なお料理を用意しますね」
「おねがーい!」
アルの手を引いてずんずんと、「もう何よ、全く…」と呟きながら彼女は大きな廊下を進んで行く。
一歩遅れて歩くアルは御主人様が怒っているのかと少し恐怖した、しかし不意に見えたその横顔はどんな顔だったか――アルにはそれを形容する言葉を持ち合わせてはいなかったが、少なくとも怒っている様には見えなかった。
かぽーん。
浴場に軽い音が響く。
「広い…」
「でしょ、30人は余裕を持って入れるそうよ」
シャワーと椅子のセットが何十台も並ぶ大浴場、浴槽も彼女の言葉を容易に信じられるほどに石作りの大きな物が彼らの前に存在した。
「な――なななななななわわわわわ!?」
広大な浴場に驚いたアル、しかしそんな事は一瞬で過去のものへと変わってしまう。
自分よりも少し歳上の女性の体だった。すらりと伸びる手足に、程よく出る所は出て、キュッとしまっているくびれ、その一切を――その一糸纏わぬ姿を――はっきりと見てしまったのだから。
「んーどうしたのかしら? 貴方のその小さな手じゃ背中まで洗えないでしょう、私が洗ってあげるわ」
いきなりの女性の裸に驚きを隠せないのがアルの本音だが、彼は奴隷としての仕事に御主人様の背中を流すという事もあると教育をされている。
自分の感情よりもその奴隷としての教育が真っ先に出たのか、アルはミラリールの言葉に従った。
「ふふ、私は兄妹いなかったからこういうの少し憧れていたの」
泡がモコモコと広がり、アルの体を包んでいく。
「アルは細くて綺麗ね。 貴方がどう言われてきたのかは知らないけれど私は好き。」
木製の椅子に座るアルの前にはガラス鏡とシャワーノズルと蛇口だけ。
後ろに座るミラリールの手がうなじから髪を捲り上げる。
「麦の穂の様な優しいブロンドも、ダークブラウンの瞳も、この滑らかな肌も」
「ひゃう」
ミラリールの指が首元から背骨をなぞっていく。
「痩せすぎなのはこれからね、沢山美味しいものを食べましょう…さ、流すから目を閉じて」
あなすがまま、されるがままに少年は目を固く閉じる。
暖かい水が全身の緊張した肌を流れていく――一度、そして二度と。
――まだ開けては駄目よ。
耳元で囁く声が聞こえた。
その時、少年の左の首筋に二点の冷たい感触があったかと思った刹那、再びお湯が頭からかけられた。
かぽーん。
「この音はね、鹿威しと言って、竹に溜められたお湯がその重さで下を向いて、その反動で石を叩く音だそうよ。ミクスの拘りらしいわ」
広い浴槽にそれでも二人並んでお湯に浸かる。
アルは――彼女がそう名付けるまで名前すらなかった少年は確かに奴隷として生きる宿命を気付いた時から持っていた。
しかし、同時にまた齢二桁を目前にした少年である事も事実だ。
簡単に言ってしまえば、女性の裸体に興味とそれを抑える羞恥を持ち合わせる多感な年頃でもあった。
どこを見ればいいのか――そんな感情がお湯とは違う、触れ合う肌の熱を感じながらアルは戸惑っている。
「私もこういう風情は好き」
そんな彼の悶々とした葛藤をアルの御主人様はつゆ知らず、さも平然んと語りかけた。
「ね、アルは――」
そしてまた奴隷商人に売られる為の『商品』だった彼にお湯に浸かるという経験もなく、熱に絆される意識が微睡むという経験もなく。
緊張の頰の熱や、早まっていく膨れ上がっていく血流の熱も、認識できるほどの経験は…。
「アル!アル?!え、ちょっと死んじゃうわよ!?アル――!!」
なかったのである。
「ミラ様、一言を言わせてもらってもよろしいでしょうか」
「何?」
「流石に裸で廊下を歩かれるのは女性としてどうかと思います…それも、裸の少年を抱えてなんて」
「仕方ないじゃない、アルがのぼせしまったのだから」
ポタポタと廊下に水滴を落としながら、ミラリールは裸のまま同じように濡れたままのアルを両腕で、お姫様を抱き上げる騎士の様に抱えていた。
「それでもお互いを拭いて出てくるくらいはミラ様なら可能でしょう」
「私だって人間の事はあまり知らないから焦っていたのよ!」
「まぁ、私には性別という概念はないので良かったですが他の…あるいは男性がいたら襲われてしまいましたよ」
「あら、私が人間の男に組み伏せられると?」
得意げにミラリールは笑ってみせるが、格好が格好なのでミクスには全く格好良くは見えなかった。
「それに一緒に入られたのですか? そのくらいの人間は多感なお年頃なのです、ミラ様のお姿はその…良い影響を及ぼすとは思えませんが…」
「この子は貴方みたいなゲスな感情は持っていないわ。純真な私の愛し子よ」
「ふふふ…そうだと私も思います」
「なによ、そのニヤついや顔は。」
「いえいえ、少し思い出し笑いを」
「なんでこのタイミングなのよ…まあいいわ。アルの服って用意してある?」
「はい、御座いますよ」
「そ、さすがミクスね」
「ありがとうございます、お部屋はどちらに?」
「二階左の私の部屋の隣にしようと思うわ」
「ああ、あのミラ様の荷物を押し込んだだけの…」
「明日には片付けるわよ!」
「それはよかった、いい加減にお仕事部屋兼応接室のソファーで眠られてはお身体に障ると心配していましたので」
「全く…減らない口ね、じゃあ私はアルをベットに寝かしてから食堂に向かうから」
「そちらもご用意できてますのでいつでも、ああそう言えば――」
二階のアルの部屋になる場所へと彼の着替えとタオルを手に歩き始めたミラリールの背後からミクスは言葉を続けた。
――もう吸われたのですか?
びくりと、その肩を一度跳ねさせたミラリールは平然を装って振り返る。
「まだ、我慢できるわ。もう少し、この子には痛い思いをして欲しくないもの」
「そうですか、すみませんお節介でした」
「本当よ…でもありがと」
階段を登る。玄関から各廊下へと繋がる大きな広間の大きな階段で二階へとミラリールは歩みを進める。
――ね、ミクス。
もう一度、彼女は振り返った。
――私、未来がこんなに楽しみなのは久々よ!
そう言ってミクスに向けた笑顔はまるで、唯一無二の太陽の様な笑顔だった。