「愛人……ですって?」
何を言われているのか、彼が何を期待しているのか、アリナはわからなかった。じっと見つめていると、ブラモアの顔が近づいてきた。情欲がチロチロと茶色の瞳に揺れている。とっさに腕で口元を隠すと、彼の唇が手首に当たった。キスをされかけたのだと知って、ゾッとする。眉を下げたブラモアは、残念そうに頭の位置を元に戻した。
「まだ、聖女の任に就いているからか?」
問いの意味を計りかねて、彼の表情から真意を読み取ろうとする。
「それとも……俺の妻になれなかったから、拗ねているのか」
「何を言っているの?」
得体のしれない恐怖に心臓を掴まれて後ずさると、ブラモアは一歩、近づいてきた。
「俺は二十五になった。この国では二十五になれば、よほどの理由がない限り当主になるのが決まりだと、アリナも知っているだろう? そのときに、妻が決まっていなければならないとも」
知っているが、それが今の行為とどう繋がるのだろう。
「本来なら、婚約解消ではなく君の任を早めに解いてもらうべきだった。けれど君は、あまりに民衆に人気があり過ぎたんだ。任期の満了を待たずに解任をさせたら、多くの者が不満を持つだろう。――俺があとしばらく、待つことも考えた。だが、前例がないと却下された。両親は、君が生涯聖女になるものと決めつけて、俺の意見を取り上げてはくれなかったんだ」
苦悩に満ちた声音に、アリナはジリジリと後ろに下がった。その分だけ、ブラモアは迫ってくる。危険が近づいていると、頭の中で警鐘が鳴っている。ここにいてはいけない。今すぐに部屋を飛び出し、神殿に戻らなければ。
「愛しているんだ、アリナ。俺は、君以外を妻にする気はない」
「だけど、あなたは女神の前で愛を誓ったわ」
「あんなものは、偽りだ。俺は彼女を愛していない。胸の裡では……アリナ、君への愛を誓ったんだ」
「そんなことって」
絶句したアリナの肩に手が伸びてくる。身をかがめて腕をくぐり、床を蹴って扉に向かった。
「アリナ!」
扉に手が届く前に、背後から抱きしめられた。ゾワゾワとおぞましい感覚に全身をくるまれる。
「君は生涯聖女になど、ならないだろう? 俺の元に戻ってくると約束をしたじゃないか」
首筋に顔をうずめられ、うなじに唇を寄せられて吐き気をもよおした。喉の奥で不快を抑えて、毅然とした声で問う。
「奥様はどうするの? あの方は、もうあなたの妻なのよ」
「何も心配はいらない」
「彼女を実家に帰すつもり?」
「できなければ、君を愛人として屋敷に囲うよ」
「愛人……ですって?」
底冷えがするほどの冷たい怒りに胸を刺された。
「そのための部屋をどこにするのか、もう決めてある。表向きは、屋敷に建てる神殿に仕えてもらうという形にするから、君の名誉を傷つけることもない。神殿の建築場所は、東屋の奥の広場だ。あそこなら誰はばかることなく、ふたりで愛の時間をたっぷりと味わうことができると思わないか?」
なんて身勝手な、と心の中で叫んだアリナの耳に、熱い吐息が吹きかけられた。
「約束どおり、君はこの屋敷に帰ってくるんだ。モナミス家には、どっちにしろ帰れないだろう? 俺との婚約が解消されたからといって、求婚してくる者が出てくるとは思えないしな。つまり、君の居場所は俺が用意する神殿にしかないということだ」
反論が喉まで出かかっているが、出すわけにはいかなかった。皇子ラコットに求愛されたなどと、言えるはずがない。
(応えると決めたわけではないもの)
彼もまた、本気かどうかもわからない。生涯聖女となりうる娘だと知って、にわかに興味を持っただけの可能性もあった。ずっと想われていたとも取れなくない発言をされたが、ラコットと言葉を交わしたのは、あのときがはじめてだった。彼が自分に興味を示した理由は、それしか思い当たらない。
「アリナ」
熱っぽい声とともに、腹のあたりをまさぐられた。その手が胸元に移動して、乳房を掴まれる。ヒッと喉の奥で悲鳴を上げると、顔を掴まれて無理やりブラモアに向けさせられた。陰々とした輝きを放つ茶色の瞳に総毛立つ。
顔が近づいてきて、両手で彼の首を抑えたが抵抗らしい抵抗にもならなかった。
「恥ずかしがっているのか? それとも、まだ聖女だからと思っているのか……アリナ、俺たちは将来を誓い合った仲だろう? 女神アナビウワトだって、許してくれるさ。いや、むしろ子どものころからの誓いをまっとうしようとしているのだと、祝福をしてくれるはずだ」
恐怖のあまり、声も出せなくなっているアリナは必死に、腕に力を込めてブラモアを押しのけようとした。彼は余裕の笑みを浮かべて迫ってくる。
「大丈夫だ……使用人のほかは、誰も屋敷にいないと言っただろう? 人目を気にしなくてもいい。神殿に帰る前に、互いの想いを確認しあおう」
「っ……い、や……っ」
ようやく出た声は、小さすぎて悲鳴にもならなかった。しかし、ブラモアの耳には確実に届いている。それなのに彼はアリナを離そうとはしなかった。
「安心して、俺に身をまかせればいい」
ラコットのときは、きちんと「私は聖女」だと言えたのに、なぜ今は言えないのかと、自分を歯がゆく思う。くやしくて、情けなくて、涙が滲んだ。
「感動しているのか……俺の気持ちは、ずっと変わらない。アリナ、愛している」
それならば、なぜ無理強いをしようとするのか。こちらの気持ちも考えず、自分の都合のいいように解釈をして迫ってくるのだろう。
(女神アナビウワト……私に、逃れる力を!)
目を閉じて祈りをささげる。彼はこんなにも強引な男だっただろうか。わからない。会わない間に、こういう人間に育ってしまったのか、もともとの性格で気がつかなかっただけなのか。
使用人しかいないのならば、助けは来ない。自力で逃げ出さなければと、歯を食いしばったアリナの乳房が強く掴まれた。
「あうっ」
痛みにうめいた瞬間、ブラモアを抑えていた腕の力がゆるんだ。
「アリナ」
うっとりとした声に背筋が凍る。迫る唇から逃れようと首を動かしても、手のひらでしっかりと押さえつけられていて、かなわなかった。
「愛している」
ささやきの息が唇に触れて、アリナは心の中で絶叫した。
* * *
胸のざわめきが止まらない。不穏な気持ちに突き動かされて、ラコットは馬車の準備を命じて城内に戻った。アリナがブラモアの屋敷にいる。彼女も望んでいることなのか、ブラモアが呼びつけただけなのか。
後者であってほしいと望みながら、彼へ送る結婚祝いの品になりそうなものを見繕う。シルクの布に、立派な鹿肉の塩漬け。自分の手持ちの剣の一本と、今日の焼き菓子をカゴに詰めるように命じた。
(これだけあれば、気楽な祝いの品と言えるな)
決してアリナがいるから訪れたわけではない。たまたま出向いたら、アリナがいたのだ。これなら彼女の名誉を傷つけることもなく、さりげなく訪問ができる。
(卑怯でもなんでもいい)
万が一の不安がまとわりついている。もしもブラモアが彼女に手を出そうとしていたら、思い切り邪魔をするつもりだ。
(あいつには、そんな権利はない)
婚約を解消した側なのだから、アリナを求める権利など、ブラモアだけでなくマリス家自体にないのだ。結婚の祝福を担当した聖女を屋敷に招き、礼をすることはままある。けれど、おそらく目的は違っている。
(憶測だが、予想は大きく外れていないはずだ)
逸る心を抑えて馬車に乗りこんだラコットは、イライラしながら到着を待った。
御者に声をかけられるより先に、馬車の扉から飛び出したラコットは、ノッカーに手をかけて打ちつけた。ほどなく男の使用人が顔を出し、ラコットの姿を見て目を丸くする。
「突然の訪問、すまないな。先日、ここの当主が変わっただろう? 俺が王となるときに、大いに助けてもらうべき相手だからな。祝いの品を運びがてら、挨拶に来た」
焦りを抑えて笑顔を見せれば、使用人はうろたえた気配で玄関ホールの奥にある階段に目を向けた。
なるほど、ふたりは二階かと視線を向ける。すぐに気を取り直した使用人が、背筋を正して丁寧な物腰で言った。
「あいにく、主人どもは出かけておりますので」
「出かけている? 馬車はそこにあったようだが」
「それは、ええ。ですが、大旦那様たちはご友人の屋敷へとお出かけになられておりまして」
「俺が会いに来たのは、先の当主じゃない。結婚をしたばかりの、新当主ブラモアだ」
ラコットの背後に、祝いの品を抱えた御者が立った。
「これを送ろうと思ってな。俺の気に入りの剣のひとつだ」
御者の手から剣を手にして、使用人に見せる。柄の部分に大ぶりのルビーがはめ込まれている、立派なものだった。
祝いの品を受け取って、追い返すわけにもいかないと判断をしたらしい。少々お待ちくださいませと、使用人は階段を駆け上がった。遅れて出てきたメイドに、焼き菓子を持ってきたから茶の準備をしてほしいと伝える。うなずいたメイドは落ち着かなさげに目を動かしながら、別のメイドに茶の準備を命じると、客をひとりにするわけにもいかないと思ったのか、この場にとどまった。
悪い予感は当たったのかと、ラコットは視線を階上に向けた。先の当主たちが出かけているのなら、アリナはブラモアとふたりきりでいるはずだ。あるいは彼の新妻も同席している可能性もあるが、それはないなとラコットは根拠のない確信を持っていた。
はたして、結果は彼の予想通りだった。
戻ってきた使用人に案内されて、御者と共に二階の談話室に入れば、苦々しいものをにじませた愛想笑いのブラモアと、どこか安堵した気配をただよわせているアリナのふたりだけだった。
「わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
握手のために差し出された右手を握り、ブラモアの肩越しにアリナをうかがう。彼女は窓際の壁に寄り添うように立っていた。いまにも窓を開けて、外に飛び出してしまいそうだ。何かあったことは、ふたりの雰囲気からして明らかだった。もう起こってしまった後なのか、寸前で間に合ったのか。
「聖女を呼んでいたとは、知らなかったな。邪魔をしたか」
「いえ……ラコット様もご存じのとおり、婚姻の儀を執り行った聖女を屋敷に招くのは、よくあることで特別なものではありませんよ」
言いながらもブラモアの目は憤懣を隠しきれていない。どうやら間に合ったらしいと、彼の瞳から知り得たラコットはアリナに笑いかけた。
「そんな部屋の隅にいなくとも、長椅子に腰かければどうだ。茶の準備をしてくれと、こちらのメイドに頼んである。焼き菓子は王城のものだから、聖女にとってはありきたりの味だろうが、ブラモアはめったに口にできない品だろう」
「それは、わざわざありがとうございます」
鷹揚にうなずいて、ラコットは祝いの品をブラモアに披露し、剣をうやうやしく受け取ったブラモアは使用人に命じて他の品をふさわしい場所に運ばせた。
メイドが茶を運んでやってきた。ラコットの持ち込んだ焼き菓子のほかに、果物のハチミツ漬けが添えられている。テーブルに並べられたそれらを囲んで、ラコットはさりげなくアリナがひとりで座れるよう、ブラモアを自分の向かいの席に誘導した。
会話はそれほど弾まなかった。簡単な挨拶と、自分が国王になった折にはよろしく頼むと言ったほかは、天気の話と先代当主についてなど、たわいない内容で終わってしまった。出された茶を飲み干すと、ラコットはさっさと立ち上がって別れを告げた。
「急に邪魔をして、すまなかったな」
「いえ。わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
「うん。焼き菓子はまだ残っているはずだ。新妻にも王城の味を教えてやってくれ」
ブラモアが、早くラコットを追い出したがっているのが見て取れた。アリナとふたりきりになりたいのだ。
そうはさせるかと、極上の笑みを張りつけて、さりげなくアリナに声をかける。
「そうだ。神殿は王城のすぐそばだからな。ついでに送り届けよう」
ピクリとブラモアの眉が持ち上がる。アリナはそそくさと立ち上がり、お言葉に甘えさせていただきますと頭を下げた。
「アリナ」
「もう、話は終わりましたから」
引き止めるブラモアをピシャリと遮り、傍に来たアリナにうなずく。彼女の手を取りエスコートしたいところだが、ブラモアの前でそんなことをすれば、彼女の自尊心を傷つけるかもしれない。
伸ばしたい手をこらえて、ラコットは彼女とともに馬車に向かった。
「ではな、ブラモア」
声をかけて、アリナを先に馬車に乗せる。ラコットが乗りこみ、馬車の扉が閉じられて、御者が馬を歩かせた。
ぬかるんだ道に揺れる馬車の中、マリス家の門を抜ければアリナの肩から力が抜けたように見えたラコットは、訪れてよかったと自分の行動に満足した。




