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王の情愛と聖女の純潔ー皇子は女神の聖女を王妃に求めるー  作者: 水戸けい
◆エピローグ 聖女として、王妃として。そして、私自身として。
19/19

(恋しいと……愛しいと思ってしまっていた)

 真っ青な空に、薄い絹に似た雲がゆったりと広がっている。


 太陽はたっぷりとした光で地上を抱きしめていた。


 これ以上ないというほど、晴れがましい日にふさわしい晴天に恵まれたのは、女神アナビウワトが祝福しているからだと、誰もが考えていた。


 王都に住まう人々は朝食を済ませると、足を急がせて、あるいはのんびりと、王城を目指して歩いた。気の早い者は日の出とともに準備を終えて、王城の門が開かれるのを今や遅しと待ちわびていた。


 続々と集まる人々の笑顔につられたのか、これからおこなわれることに心を弾ませているからか、門を守る騎士たちの顔つきは、いつもよりやわらかかった。


 しばらくして、開門の鐘が鳴らされ、重厚な鉄の扉が開かれた。


 それぞれに精一杯のオシャレをした市民たちが、満面に笑みをたたえて門をくぐる。顔見知りを見つけては、にこやかに挨拶を交わしていた。


 彼等が目指すのは、王城の正面広場だ。騎士たちが、走り出そうとする者に注意をしている。


「危険だから、走らないように!」


 注意をされた者は、軽く肩をすくめてペロリと舌を出した。誰もが心を明るく浮き立たせていたので、注意をされた者の心情を察して笑った。騎士たちの声を聞いた者が、走りかけた者に「危ないぞ」とおだやかに声をかけ、言われた側も「いや、すまない」と素直に詫びて、大きな混乱もないままに、誰もが楽しい気持ちで広場に到着した。


 これほどよろこばしい日に、争いを起こそうなどと、ひとりも考えたりはしない。


 誰も彼もが輝かしい未来をまなざしに浮かべて、ゆるぎなくそびえる王城を見上げている。二階のバルコニーには、王家の紋――太陽を支える龍の図柄が刺繍されている垂れ幕が下がっていた。


 しずしずと王城の中から聖女たちが姿を現し、いよいよだと市民たちは口をつぐんだ。聖女の先頭を行くのは、白銀の髪をした少女だった。手には高足皿を掲げている。皿の上には果物が乗せられていた。続く聖女たちは木の枝や水の入った壺などを持っている。


 アリナの後継として選ばれたツァーリは、胸を高鳴らせながら群衆の視線を一身に浴びていた。晴れがましさと緊張に、幼さを宿すふっくらとした頬を紅潮させている姿は愛らしい。そんな彼女を、エクトルは誇らしげにながめていた。


 広場の中央には、祭壇が組まれている。聖女たちは祭壇に上って、王城へ体を向けると手にしていた高足皿や木の枝、壺などを祭壇に並べた。


 すう、と深く息を吸う音が聞こえるほど、聖女たちは胸いっぱいに息を吸い込み、厳かな旋律の祈りを紡いだ。市民だけでなく、騎士たちもうっとりと聞き惚れる。


 聖女たちの涼やかな声が絡まり合って、豊かなうねりに変化した。空に上る祈りの声は、風を受けて広場だけでなく王城の中にも届いた。


 それを聞くアリナは、ドキドキと胸を高鳴らせて体を硬直させていた。手を置いた腹部は、ふっくらと大きくなっている。新しい命が宿っていることを示すそこに、日焼けをしたたくましい手が乗せられた。


 腹を撫でられ、アリナは手の主を見上げた。やわらかな緑の光がアリナを抱きしめるように、やわらかく細められる。


「ラコット様」


「皆が、俺達を待っている」


 はにかんでうなずいたアリナは、向けられた彼の手のひらに手を重ねた。


 歩を進めてバルコニーに姿を現せば、わっと歓声が上がった。聖女たちの祈りの声がかき消えてしまうほどの祝福に、アリナの目にうっすらと涙の膜が張った。


(ああ、私……私、こんなにも)


 人々に祝福されている。全身でよろこびを表している民たちは、アリナが王妃になることを心の底からうれしいと、態度で伝えてくれていた。


 背中を押されて、アリナは前に出た。ほほえんで軽く手を振れば、歓声はさらに高まった。ラコットも大きく手を上げて、国民たちの声に応えている。堂々とした立ち姿に、誰もが全幅の信頼を寄せていた。


 あれから三年。


 今日はラコットの二十五歳の誕生日であり、即位の日でもあった。アリナの背後に気配が近づき、肩に手を乗せられる。振り向けば、ラコットの母が目じりをとろかせていた。


 無言でうなずかれ、アリナも首を縦に動かす。


 よかったわね、おめでとう。


 彼女の目が、そう告げていた。


 お母様、と動いた唇は震えて、声が出せなかった。目に張った涙の膜がふくらんで、目じりに水の玉を作った。王妃の細く長い指にぬぐわれて、ふたりは硬く手を結んだ。


「ありがとうございます」


 やはり無言で首肯した王妃の目にも、よろこびの涙が浮かんでいた。


「これからは、あなたが王妃よ。民を、国を……息子を、よろしくね」


「はい」


 小さな声での会話は、群衆の声に紛れて聞こえていないはずなのに、ラコットの手はいたわるように、励ますようにアリナの背に添えられた。


 見下ろせば、祭壇の上で聖女たちが熱心に祈りを奏でていた。中心となっているツァーリの姿は堂々としている。聖女の中で誰よりも小柄な彼女が、強い存在感を放っている様子に、胸が詰まった。


(あれだけ、不安がっていたのに)


 いざ儀式がはじまれば、無心に祈りの音色に意識を埋没させられる彼女は、音楽の才能が豊かなのだろう。体中から祈りを放っているかのような姿に、すべての聖女が呼応している。色素の薄いツァーリの姿は、陽光に溶けてしまいそうなほどにまぶしかった。


 祈りの声がひときわ高くなり、たっぷりと余韻を引いて静まると、群衆の声も潮が引くように小さくなった。ラコットが右手を上げて、朗々と声を響かせる。


「今日という日を迎えられて、よろこばしく思う! これまでどおり……いや、これまで以上に親しく、おだやかで楽しい日々を過ごしていこう」


 わぁ、と声が上がって、帽子を投げたり手を振ったりと、人々はラコットの呼びかけに大きな動作で応えていた。すべては彼の人望だ。期待の目を一身に受けても、たじろぐことなく悠々とした笑みを浮かべているラコットの芯の強さとたくましさに、アリナは目を細めて尊敬の気持ちを高めた。


「アリナ」


 促されて、アリナも民衆に手を振れば、人々はますます熱狂的な声を上げた。聖女たちが群衆に向けて両腕を差し出せば、人々は声を静めて指を組んだ。さきほどとは違った祈りの旋律が紡がれる。ツァーリを中心として、人々の祈りの声がひとつになり、アリナも指を組んで声の輪に加わった。


 かつて聖女であった自分が、王妃となって人々とともに祈っている。


 想像もつかなかった道に立ち、歩もうとする未来に不安がないわけではない。けれど体に宿る命と、支えてくれる緑の瞳があれば大丈夫だと勇気が湧いた。


(私は……これから正式に、王妃として人々を守り、導いていくのね)


 聖女として女神アナビウワトに祈りをささげ、人々の安寧を望むのと目的は変わらない。肩書が違っているだけで、内容はおなじままだと心を鼓舞して目を開ければ、緑の瞳がふんわりとほほえんでいた。


(この人の傍で……生きていく)


 人々の期待に応えると心に決めてすぐに、彼に求められ、惹かれて迷った日々が、遠い昔のことのように感じられる。この国の人々は、アリナが本当に女神アナビウワトの神託を帯びて王妃として立ったのだと思っている。あの日から今日までの間に、アリナも目が見に導かれて、こうなったのではないかと考えていた。


「ここに長くいては、体に障る。そろそろ奥に戻ろう」


 群衆に手を振ったラコットに腰を押されて、アリナは人々に背を向けて城内へ戻った。歓声が追いかけてくる。


 これから祝いに駆けつけた異国の大使や貴族たちの挨拶を受けるため、ラコットは広間へ向かった。アリナは人々の声の余韻を耳に含ませたまま、温室へ行く。


 ひとりになりたいと告げて、アリナは温室の小さな人口の滝の前に立った。


 あの日、ラコットに森の奥に連れていかれて見た光景と、はじめての口づけが肌によみがえる。


 あれがすべてのはじまりだった。


 アリナにとっては、大きな転機のきっかけだった。


 口元に淡い笑みを浮かべて、アリナは凪いだ心で水の流れを見つめながら、無意識に腹部を撫でていた。アリナが聖女ではなくなったと民衆に伝えても、大きな混乱は起こらなかった。ツァーリの提案を聞いたラコットが工夫して、エクトルたちに「アリナは女神から、王を支えて民を安寧に導くようにと告げられた」と、ウワサを流していたからだ。


 生涯聖女になるのでは、と語っていた人々は、おもしろいくらいにあっさりと、アリナは次の王妃になるのだと言いだして、それが当然のことだと受け止められた。


 一度だけ、その話が広まってからブラモアに呼ばれたことがある。彼に会う必要はないとラコットに止められたが、アリナはツァーリをともなって彼の屋敷に出向いた。ひとりきりではなかったことに眉をひそめられたが、彼は愛想笑いを浮かべてもてなし、ウワサは本当のことなのかと問うてきた。


 屋敷にはやはり、彼の両親も妻の姿もなかった。


「俺は本気で、君を引き取るつもりでいるんだ」


 庭のどこに、どんな神殿を造るかの計画も進んでいると伝えられ、アリナは毅然と口を開いた。


「すべては、女神アナビウワトがお決めになられることですので」


 あくまでも聖女らしく、姿勢を崩さないアリナの姿に、ブラモアは舌打ちをしそうな顔つきで「そうか」とつぶやき、神殿への寄付だと言って金貨の入った袋を出した。受け取ったアリナは早々に席を立つと送迎の馬車を断り、彼の屋敷を後にしてツァーリの両親のいる家を目指した。


「あの、アリナ様……どちらへ?」


 とまどうツァーリに、民の家を訪問するのは聖女の務めのひとつでもあると言って、彼女の生まれ育った屋敷の前に立った時の驚きは、ありありと思い出される。


 貴族とは名ばかりの、庶民の生活をしている家だとは聞いていたが、屋敷のありさまは想像以上のものだった。


 かつて立派であったろう門扉は崩れかけ、壁にはツタが這いまわり、手入れの者を雇う余裕がないのであろう庭は、草木が伸び放題の荒れ果てた、というよりは、人の手を加えていない野山をそのまま運んできたと言ってもさしつかえない状態だった。かろうじて整えられている場所は、薬草畑だと恥じ入るツァーリに教えられた。


「おじい様が、薬草に詳しいのです」


 だから育てて医者の真似事もしているのだと、ツァーリはもじもじしながら手入れが不足している玄関ポーチに目を向けた。


「おじい様も、異国に渡られるのかしら」


「いえ……長く住んだ土地を離れるのは、悲しいからと言っていました。薬草畑も心配だし、おじい様の作る薬を頼りにしている人もいるからと」


「立派な方なのね」


「船の旅は、大変ですし」


 軽くうなずいて言葉を受け止め、アリナはキレイに磨かれたノッカーに手をかけた。来訪者が触れる場所は、きちんと掃除がなされていて、住人の心根が透けて見えた。ツァーリが両親との別れを寂しくなるのも、わかる気がした。おそらく、大切に愛情いっぱいに育てられたのだろう。


 しばらくすれば、上等ではないながら、身なりのきっちりとした上品な女性が現れた。アリナの姿を見て、その後ろに小さくなって立っているツァーリに視線を映すと、喜色を満面に広めて扉を大きく開けたしぐさで、彼女がツァーリの母親なのだと察せられた。


「さあ、どうぞ奥へ。何もありませんけれど。――あなた、あなた!」


 声を張り上げて主を呼んだツァーリの母親は、使用人に命じて急いで茶と茶菓子を用意させると、こぢんまりとした応接室に案内してくれた。すぐにツァーリの父親と、祖父も現れて席に着き、聖女となったツァーリの訪問を心からよろこんだ。


「旅の無事を祈りにまいりました」


 おごそかに告げて、アリナはブラモアから受け取った金貨をそっくり彼等に渡した。


「アリナ様、それは」


「いいのよ、ツァーリ。旅に出るのには、たくさんお金がいるでしょう? 向こうについてからも、何があるかはわからないわ」


「ですが、それは神殿への寄付として渡されたものです」


「ええ。だから、神殿からの祝福として、あなたの家族に贈るのよ」


 特別扱いをしているわけでも、不当に寄付金を使っているわけでもないと伝えれば、ツァーリは両手で顔をおおって肩を震わせた。心配そうにする両親と、もの言いたげな祖父の表情を見たアリナは、少し席を外しますと断って、草が生い茂る庭に出た。


 こんな機会でもなければ、ツァーリと家族はゆっくりと別れを告げることもできなかっただろう。ラコットに止められ、出向く不安を抱えてもブラモアの屋敷を訪れたのは、ツァーリと家族を合わせたかったからだった。彼の家で寄付金を受け取れたのは、ありがたかった。


(私は、祈ることしかできないもの)


 ツァーリの両親が無事に船旅を終えて、新天地ですばらしい生活を送れますように。


 残ると決めた彼女の祖父が、心おだやかな日々を過ごしていけますように。


 指を組んで祈るアリナは、彼女の祖父は孫を気にして残ることに決めたのではと考えた。足取りもしっかりとしていて、若々しい印象を受けた相手が、長い船旅に堪えられないとは思えない。きっと、ひとり国に残していく孫娘が心配で、彼女に気を使わせまいと、やさしいウソをついたのだろう。


 心の奥がほっこりとする。ツァーリの家族に会えてよかったと、アリナは口元をほころばせた。あたたかな家族の姿に、民のすべての生活を重ねて、そんな国であればいいと願う。


 そしてラコットと自分も、あんなふうに子どもを愛せる親になりたいと噛みしめれば、過去の記憶に飛んでいたアリナの耳に、呼び声が届いた。


「アリナ様」


 現在に意識を戻したアリナは、軽やかなツァーリの声に振り向いてほほえんだ。うれしげに頬を紅潮させているのは、立派に大役を果たした自信からだろう。


「あ、お邪魔でしたか?」


 足を止めた彼女に首を振り、おいでと手のひらを向ければ駆け寄って来た。


「何か、うれしいことでもあったの?」


「はい、あの……両親から手紙が届いたんです」


 即位式に合わせて、他国の使者が大勢この国を訪れている。交易船も祝いのにぎわいを商売の好機とみて、来航していた。そのうちの一艘にツァーリの両親からの手紙が乗せられていたのだろう。


 彼女の笑顔は、儀式を無事に終えられた安堵だけではなかったのか。


 まだ封を切っていない手紙を見せられ、「アリナ様の前で、開こうと思ったんです」と、はにかむツァーリをうながして休憩所に向かった。


 席に着くと、ツァーリは深呼吸をして封を切った。中から、鮮やかな一葉の風景画が現れる。広々とした平野に、ぽつりぽつりと見える民家と大木。のんびりと過ごす牛の姿もあるそこが、ツァーリの両親が落ち着いた土地の景色なのだろう。


 添えられていた手紙には、アリナから受け取った金貨で土地を手に入れ、牧場の主として生活をしていると書かれていた。


 あの金貨があったからこそ、この生活を手に入れられた。感謝をしてもしきれない。まだまだ安定した生活とは言えないが、不自由なく過ごしている。ツァーリが聖女の任を終わるまでには、牧場の経営を安定させておくつもりだ。


 短い手紙を胸に抱いて、安堵と困惑をにじませているツァーリの肩に手を乗せる。


「よかったわね」


「はい、ですが……私を迎えるつもりなのでしょうか」


 困惑の理由を聞かされて、アリナは「どうかしら」と頬に指を当てた。


「手紙には、待っていてほしいとも、迎えに行くとも書いていなかったから、判断はツァーリにゆだねるということではないかしら」


 口をつぐんでうつむいたツァーリの表情が、髪に隠れる。アリナの後継として紫の聖女に選ばれた誇らしさと、家族に会いたい素直な気持ちの狭間で揺れているのだと、華奢な姿をあたたかなまなざしでながめた。


(まだ、時間はたっぷりあるわ。未来は誰にもわからないものだもの。ツァーリなら、きっと女神がステキな道を示してくださるはずよ)


 自分の身とツァーリを引き比べて、アリナは温室の木々に視線を転じた。キラキラと陽光を透かした木の葉は、ラコットの瞳そのものだ。彼の瞳の森に飛び込んで、新たな道を歩みはじめた自分のように、ツァーリにもすばらしい未来が与えられますようにと願う。


「そうだ。ツァーリのおじい様のところにも、何かが届いているのではないかしら。その手紙のことも、伝えたいでしょう?」


「それは……そうですけど、聖女が家族と過度に接するのは、あまりよくないことなので」


「戒律で止められているわけではないわ。問題とされるのは、過剰な行為よ」


 家族を優先しすぎたり、女神に尽くすという本分を忘れて淫らな行為に及んだりしなければ問題ないと伝えれば、チラリと彼女の瞳に期待がよぎった。


「ですが、呼び出しもないのに屋敷を訪れれば、やはり気持ちのいいものではないと、思われる方も少なくないのではありませんか?」


 他人の目など気にしなくてもいいと言いたいところだが、ツァーリの姿は人目につきやすい。うまく彼女と祖父を会わせる方法はないかと考えたアリナの目に、小さな花を咲かせている草が映った。


「ツァーリのおじい様は、薬草に詳しいと言っていたわね」


「はい」


 不思議そうに返事をされて、にっこりする。


「それなら、草花の扱いにも長けているのではないかしら」


「どうでしょう? 薬草の話はよく聞いていましたけど、ほかの植物については」


 どうしてそんなことを聞かれているのか、ツァーリはわかっていないらしい。うかがう目の彼女に、アリナは答えた。


「この温室に呼んでいるときに、偶然に会ったことにすれば問題ないと思うのだけど」


 いたずらっぽく伝えれば、目を丸くしたツァーリの満面に、みるみる笑みが広がっていった。


「アリナ様……あのっ、でも、あの」


「ラコット様に、薬草に詳しい貴族の方がいらっしゃるとお伝えして、温室を見ていただいてはどうかと伝えるわ。ラコット様が会ってみたいとおっしゃって、こちらに迎えたときに、いつものようにツァーリが私の話し相手として来たら、偶然に祖父が温室にいた、ということはありうるのではないかしら?」


「っ……ありがとうございます!」


 ほほえんだアリナは、「お茶にしましょうか」とツァーリを誘った。


 * * *


 昼間の話をラコットに伝えれば、来客の応対に忙しくしていた彼は、長椅子のクッションに体を預けながら「近いうちに、呼ぶとしよう」と約束してくれた。


「アリナは、ずいぶんとツァーリをかわいがっているんだな」


「彼女のおかげで、私はこうしていられるのですもの」


「どういうことか、くわしく聞きたいな」


 身を起こしたラコットの隣に腰かけて、アリナは迷いをツァーリに吐露し、彼女に励まされて気持ちを素直に認める勇気を得た日の話を彼に伝えた。聞き終えたラコットが、ふうむと顎をさすりながら深い息をこぼす。


「すると、ツァーリのおかげでアリナと俺は結ばれたわけか」


「感謝しても、しきれません」


「俺もだ」


 うなじに彼の指がかかって、緑の瞳が近づいてくる。唇がやわらかく押しつぶされて、アリナは目じりを細くした。


「女神アナビウワトではなく、ツァーリが導いてくれたんだな」


「そうかもしれません。ですから、わずかでもツァーリの力になりたいのです」


「会わせるくらいは、たやすいことだ。だが、その計画では、ふたりきりにはさせてやれないが、かまわないのか」


「そこまですれば、ツァーリは逆に恐縮してしまいそうなので」


「なるほどな。アリナは、ツァーリのことをよく知っている」


「少し、似ているからかもしれません」


 かすかな笑みを唇に乗せて、まつ毛を伏せた。


「似ている? たしかに、どちらも紫の聖女として、民の信認を受けてはいるが」


「それだけではありません。聖女として立派に過ごさなければと気負いながら、心に迷いを疼かせているところが、おなじではないのかと」


「アリナは、迷っていたのか? 俺の求婚をきっぱりと断った、あの時も」


 はじめて言葉を交わした日を持ち出され、アリナは赤くなった。


「俺が先走り過ぎたせいだな……責めたいわけじゃない」


「責められているなんて、思ってはおりません」


「じゃあ、なんだ?」


 滝の傍での口づけを思い出してしまったなどと答えられるはずもなく、アリナは耳まで赤くなりながらうつむいた。


「アリナ」


 顎に手をかけられて、上向かされる。軽く唇を寄せられて、答えながら胸に広がる愛おしさを味わった。


 自信なさげに差し出された手に、吸い込まれるように手を重ねたあの瞬間から、もうすでに恋をしていたのだろう。森に入り、滝に感動をしてバランスを崩し、支えられた時の腕のたくましさ。抱きしめられたときの肌のぬくもりに、体が熱くなった。


 やわらかな森の光に似た緑の瞳に見つめられたいと、心が疼いた。彼の傍にいたいと強く望んだ。あの時に抱えた得体のしれない感情の名前を、今はもう知っている。


(恋しいと……愛しいと思ってしまっていた)


 誰なのかも知らないままに、惹かれていた。彼が皇子であると知って、怖気づいた。聖女である自分に、どうして皇子が求婚するのかわからなかった。だけど、心は寄り添いたがっていた。


 生まれたての感情を持て余していたころの自分は、幼かったのだと振り返る。自分の感情を把握できずに怖がって、生涯聖女になるのだというウワサにすがって逃げようとした。


(なんて、弱かったのだろう)


 向き合わせてくれたのは、ラコットの真摯な瞳とエクトルの気遣い、ツァーリの真心だった。彼等に感謝を返したい。そして、彼等が大切にしているものを守りたい。


 胎内に宿る新たな命に手を乗せて、アリナはほほえむ。


「まるで女神だな」


 ラコットの声はからかいに満ちていたが、まなざしは真剣そのものだった。


「もしもそうなら、父親であるラコット様は、神ですね」


「俺が神か」


 女神アナビウワトの弟神、海をつかさどるオツミマウチであるのなら、異国との交流も滞りなく、この国を豊かにしていけそうだと満足そうに続けられ、クスリと笑う。


「そのように、ならねばな」


「あまり、気負い過ぎて疲れてしまわないでくださいね」


「なに、その時は女神に癒してもらうとするさ」


 頬を寄せられ、そっと腹を撫でられる。


「新たな時代を、輝かしいものにしよう」


「ええ……ラコット様」


「今は、ラコットと」


「……ラコット」


 幸福の吐息を重ねたふたりは、それぞれの瞳に広がる豊穣な世界へと魂を羽ばたかせた。


-fin-

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