(女神アナビウワト……私はもう、聖女ではいられません)
月明かりが地上を柔らかく抱きしめている夜更けに、黒のローブをまとったアリナは神殿を抜け出して丘を目指した。丘の上にはすでに人影があった。ドキリと胸が高鳴って、足が止まる。見つめる影はこちらを見ていた。手を伸ばされて、そろそろと近づくと淡い光に浮かび上がったのは、ほっとしたようなうれしげな表情だった。
「来てくれて、礼を言う」
いえ、と唇を動かしたが、声にならなかった。伸ばされた手に指を乗せれば、ギュッと掴まれた。
「夜の森ではぐれるのは、昼よりも危険だからな」
ならばなぜ、こんな時間に森に誘ったのかと胸に浮かんだが、見せたいものが夜でなければならないのだと、すぐに打ち消した。
夜の森が危険であることは、子どもであっても知っている。それでもなお誘いに乗ったのだ。森の姿を知りたかったから――ラコットと、過ごしたかったから。
強く握られた手を引かれて、森の中に足を踏み入れる。木の葉に遮られた月明りは影となり、足元がほとんど見えなかった。ラコットは迷いのない足取りで進んでいく。闇に沈んだ足元でさえも、昼間のように見えているみたいだった。
アリナの足元を気遣って、彼は手本を見せるようにゆっくりと足を動かしている。彼の動きに合わせるアリナの足先は、たまに盛り上がった木の根に触れることがあった。見えていないアリナを想定して、わざと動きを大きくしてくれているのだと気がついて、胸が熱くなる。
言葉ではなく態度と目線で教えてくれるラコットの、繋いだ手から伝わってくるぬくもりは、月光よりも頼りがいがあった。
昼とは違う森の景色は、どこに目を向けても何かがひそんでいるようで、緊張感が湧いてくる。恐怖と好奇心をない交ぜにした感情に、子どもに戻った気分にさせられた。
無言のまま、けれど目線や指先でアリナを意識しながら、ラコットは奥へ奥へと進んでいく。見知らぬ光景は、異世界へと続く道みたいだった。
このまま進めば、女神アナビウワトの前に出られるのではないか。あるいは妖精の国にでも到着してしまうのではないか。
夢想に胸を躍らせながら、わずかな恐れも抱えつつアリナが連れていかれたのは、岩の壁の前だった。ぽっかりと暗い穴が開いている。それは生き物を呑み込もうと待ち焦がれている、悪魔の口のように見えた。
「この中だ」
「入るのですか」
おびえが声に出てしまった。大丈夫だと言いたげに、笑みを深くしたラコットに連れられて、アリナは洞窟に入った。
(ラコット様がいらっしゃれば、大丈夫)
どんな危険や困難が待ち受けていたとしても、彼がいてくれるのならば問題ない。どこから生まれる確信なのかはわからないが、アリナはラコットの手を握り返して暗闇の恐怖を打ち消した。
ラコットの足が止まる。振り返られたのだとはわかったが、月明りの届かない洞窟内では、どんな表情をされているのか見えなかった。むろん、こちらの顔も見えていない。
残念だと思う気持ちと、見られなくてよかったという安堵が交互にやってくる。いまのアリナは、全幅の信頼を顔中にあふれさせているからだ。
(お慕いしております。ラコット様)
心の中ではっきりと、自覚を言葉に変えてみたが、音にするつもりはなかった。本当に立場を無視して、彼の申し出を受け入れていいものか迷っている。
ツァーリの言葉を受けて、アリナは自分の想いを認めると決めた。それが女神アナビウワトへの信仰を薄めるものではないと気がついたからだ。むしろ受け入れずに否定し続けているほうが、思考を捉われてしまう。いったん受け止め、それからどうするかを考えればいい。迷っているのなら、迷いをそのまま認めればいいのだ。ツァーリのように。
(拒否をすれば、それだけ重くのしかかってくるのだもの)
逃げられないのだから、認めるほかに道はない。立ち向かうのではなく、それを踏まえてどうするのかを考えるのだ。
しばらく立ち止まっていたラコットが、ふたたび歩きはじめた。湿っぽい洞窟内の空気を、ふたつの足音が震わせている。
どこまで連れていかれるのだろう。どこでもいい、ラコットがいるのなら。
そんな思いで歩いていると、ふいに前方が明るくなった。と言っても、昼間のように白くまぶしい光に出会ったわけではない。月光のしらじらとした明かりでもない。ランプのオレンジですらなかった。
淡い緑の輝きが洞窟の壁を照らしている。日に透けた木の葉よりもほんのりとした、黄緑色の光に向かってラコットが進んでいく。やがて、広い空間に到着した。
「わ、ぁ」
目を見張ったアリナは、広がる光景に圧倒された。洞窟の壁が淡く発光している。エメラルド色に満たされた洞窟内は、幻想的としか言いようがなかった。ふんわりと浮かんだ緑の輝きの中に、うながされて進み出た。
「これを、見せたかったんだ」
はにかむラコットの声に顔を向ければ、健康的に日に焼けた彼の肌が緑の光に染まっている。木の葉とおなじ色をした瞳は、同系色の光を受けてキラキラと輝いていた。
(ラコット様の瞳の中に、入りこんだみたいだわ)
緑の光に包まれたアリナの心が感動に震えていた。望んでいた場所にたどり着いた。ずっとここで過ごしていたい。彼の瞳に抱きしめられて、生きていたい。
「ラコット様」
ふわりとした声で名を呼べば、問う目を向けられた。なにを言おうとしたのか、自分でもわからない。ただ、彼を呼びたかったのだ。自分をもっと、見つめてほしかったのだ。
唇が存在感を主張して、薄く開くと吐息が漏れた。悩ましく艶やかな自分の息に、キスを求めているのだと気がついた。
はしたないとは思わない。心の底から、ラコットを求めているからだ。
(女神アナビウワト……私はもう、聖女ではいられません)
清らかな体でなくともいい。相手がラコットならば、汚されたい。いや……彼との行為なら、神聖なものになる。すべての命を育み、守る女神の御座す山すそから広がる森で結ばれるのならば、新たな命の芽吹きを求める行動を起こすのならば、きっと祝福を受けられる。
確信めいた願いを抱えて、アリナはラコットを情熱に潤んだ瞳で見つめた。
彼が皇子であることも、自分が聖女であることも、この瞬間は……この場にいる間だけは忘れていたい。心をくつろげて、自分と向き合い、彼と向き合って、まっさらな気持ちで素直になりたかった。
ラコットの手がアリナの肩にかかり、首を上って頬に触れた。真摯なまなざしに魂が吸い込まれる。
わずかに顎を持ち上げられて、近づいてくる彼の瞳を見つめていると、求めるものを与えられた。
* * *
落ち着かないので、時間よりも早く丘に到着してしまった。むろんのこと、アリナの姿はない。このまま来ない可能性もあるが、来てくれるはずだと願いを込めて月を見上げる。
どのくらい待ったろうか。
ずいぶん長く待った気になったが、それほどでもなかったのかもしれない。アリナはじっとラコットを見つめて、立ち止まっている。迷っているのだろうか。だが、ここまで来たからには、興味があるはずだ。
手を差し伸べると、アリナは恐る恐るといった足取りで近づいてきた。
「来てくれて、礼を言う」
朝まで待ち続けるつもりでいた。落胆して城に戻る覚悟も決めていた。だから、彼女の姿を見つけた瞬間のよろこびは、消極的な気持ちに対する照れくささを交えたものになった。
待ちぼうけを食らわせては悪いと、断りのセリフを言いに来ただけかもしれない。せっかくのうれしさに水を差されたくなくて、アリナの手を握る。
「夜の森ではぐれるのは、昼よりも危険だからな」
たしかにそうだが、それよりもアリナが帰ってしまうことを恐れていた。なんて臆病なのかと自信のなさに呆れながら、森へと進む。アリナは何も言わずに、手を引かれるまま森に入った。
足元は見えづらいというよりも、まったく見えなかった。多少の夜目が効く上に、狩りなどで幾度も入っているラコットには問題ないが、ほとんどの時間を神殿内で過ごすアリナは不安だろう。
わざと動きを大きくして、彼女に足場の具合を伝える。言葉で指示をしてもいいのだが、気持ちが昂りすぎて声が出せなかった。
(ずっと、いつまでもこうして、ふたりで歩んでいたい)
足元の見えない、薄暗い場所だとしても、アリナがいれば太陽よりも力強く背中を押してもらえる。
(やはり、俺の妻はアリナしかいない)
多くの民を抱えて進む道は、一筋縄ではいかないものだ。自分を支え、勇気を与え、時に導き、共に支え合って国を守っていける相手は、アリナのほかにいやしない。
あの場所に到着すれば、彼女に思いの丈をすべて伝えよう。どれほど思い続けていたのか、いかに深く愛しているのかを語るのだ。
拒絶される可能性はある。しかし、何も伝えないまま諦めようとしていた日々を思えば、臆病な気持ちにはならなかった。どうして想いを伝えぬままに、生きていけると思えていたのか。過去の自分を鼻先で笑いながら、ラコットは目的地を目指した。
ぽっかりと開いた洞窟の入り口を凝視するアリナの表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。怖がっているのか、好奇心を抱えているのか。計りかねたが、ここまで来ればこの先の景色を見せないという選択肢は、もはや存在していなかった。
手を引けば、アリナの体は従った。無言のまま洞窟内へ入っても、彼女はひと言も発さなかった。
掴まれるだけだったアリナの指に力がこもり、手を握られてハッとした。足を止めて振り向いたが、アリナの表情どころか姿さえも見えなかった。完全なる闇の中で、互いの存在を知らしめているのは、かすかな息遣いと繋がっている手のぬくもりだけだ。
(怖いのか)
当然だろう。特別な意味があって握り返されたわけではないと言い聞かせても、期待をしてしまう心は止められなかった。
抱きしめたい衝動を抑えて、目的地へと歩みを進める。しばらくすれば、目指す輝きが現れた。
淡い緑に輝く光景を目にしたアリナの、息を呑む気配にほほえむ。
ヒカリゴケに包まれた空間に入った瞬間、ひそやかな感嘆の声を上げたアリナは圧倒されていた。
「これを、見せたかったんだ」
彼女は気に入ってくれたらしい。大きな目をさらに大きく開いて、幻想的な風景を堪能している。エメラルド色の光に包まれたアリナは、夢の中にいるような顔をしていた。
彼女の存在が――今この光景が夢ではないかと、ラコットは不安になった。現実は、ひとり丘の上で立ち尽くしているだけではないか。自分を哀れに思った女神が、夢の中だけでもと幻の慈悲を与えてくれているのかもしれない。
(いいや、違う)
これは現実だ。夢でも幻でもなく、目の前には生身のアリナが立っている。淡い緑の輝きに包まれて、微笑を浮かべている。
見つめていると、彼女がこちらに目を向けた。ふっと表情が消えて、頼りなげな雰囲気に変わった。
「ラコット様」
かすかな呼び声が、誘いに聞こえた。そんなはずはないが、そうなのだろうか。
期待を込めて視線で問うたが、彼女は何も言わなかった。
薄く開かれた唇から漏れた吐息に誘惑されて、手を伸ばす。肩に手を置いても、彼女は身じろぎすらもしなかった。首を撫でて頬に触れても、彼女はちっとも嫌がるそぶりを見せずに、それどころかまっすぐにラコットの瞳を見つめてくる。
青空に似た瞳に、黄緑の光が揺れている。木の葉を透かした陽だまりのようだと、ラコットの魂は彼女の瞳に釘付けになった。鼓動が高まり、唇が甘く疼いた。
ふっくらとした、無防備に薄く開いている唇を味わいたい。
(かまわないのか?)
抵抗しない彼女の顎をわずかに持ち上げ、ラコットは身をかがめて彼女の吐息に唇を重ねた。




