「私のほうこそ、生涯聖女にふさわしくなんてないわ」
数日ぶりに雨が上がり、水平線の向こうにもったりとした紫がかったオレンジの光が浮かんでいる。聖女たちの足取りは、心なしか軽やかだ。雨が嫌いなわけではないが、神殿に閉じ込められているのは、やはりつまらなかったのだろう。
それぞれに室内での楽しみを持ってはいるが、外出を控えなければらなない、というのは聖女の前に若い娘なので我知らず閉塞感を覚えていたのかもしれない。
身支度を整え、女神アナビウワトに朝食の膳を運び終えたアリナは、雨の名残に濡れている窓の外に視線を投げた。上りくる太陽の光を受けた水たまりが、鏡のようになっている。木の葉についた朝露よりも大きな水の玉は、さぞ美しく輝いていることだろう。
朝食を終えたら丘に行こうと決めて、アリナが廊下を進んでいると白銀に近い髪が揺れているのが見えた。色素が薄く、小柄な姿は妖精のようだと称される新任の聖女だ。名前は確か、ツァーリ。
「おはよう、ツァーリ」
振り向いた彼女の透けるように白い肌は、青味がかっていた。薄い青色の瞳は心なしか潤んでいる。
「体調でも悪いの?」
眉根を寄せれば首を振られた。か細い声で大丈夫ですと言われたが、ただでさえ白い肌に血の気がないのだから、心配しないほうが無理だ。
「気分がすぐれないのなら、休んでいていいわ。今日は強いてのお勤めはないのだから」
フルフルと首を振るツァーリの瞳の潤みが気になる。熱でもあるのか。しかし、それなら肌が赤くなるはずだ。いったいどうしたのかと表情をうかがうと、ふたたび小さな声で「なんでもないんです」と顔を伏せられた。
「なんでもないようには見えないわ。言いづらいことなの? 人の耳が気になるのなら、私の部屋にいらっしゃい」
「あの、でも」
言葉では抵抗しているものの、腕を引けば素直についてきた。体調ではなく悩みがあるのかと、考えながら部屋に連れ帰って長椅子を勧める。
「つらいのなら、横になってもいいわ」
「そんな……アリナ様の前で、はしたない恰好はできません」
「いいのよ。私もあなたも、おなじ聖女だもの」
「ですが」
「遠慮しないで」
気持ちをなごませる甘いものかお茶でもあればと思うのだが、あいにく何も置いていない。あるのは水差しの水だけだ。とりあえずそれを彼女に勧めると、恐縮しながら受け取られた。
「すみません。これから、朝ごはんなのに」
「かまわないわ。食事は逃げないもの」
姿の見えない聖女のために、食事はどうするのかと世話役のトモロコ家の者が様子を見に来る。部屋で取ると言えば運んでくれるし、後で食べると言えば準備をしておいてくれる。
水を飲んで、ほっと息をこぼしたツァーリのまつ毛が震えている。唇は固く結ばれ、小さな体は萎縮していた。前に庭で出会ったときとは、違っている。あきらかに、何かあるのだと伝わってきた。
あれこれと質問をしても、余計に尻込みをさせてしまうだけだ。普段通りに接して、気持ちをくつろがせなければと、アリナは笑顔を作った。
「朝食のことが気になるのなら、ここで食べましょう。運んでもらえるように言ってくるから、待っていてね」
彼女をひとり残して出るのは気がかりだが、いなくなってしまったりはしないはず。心の奥に焦りに似た不安を抱えて、アリナは目に入ったトモロコ家の者に朝食をふたりぶん、部屋に運んでほしいと告げた。
「ついでに、お茶を多めに用意してくれる?」
「はい。茶請けもお持ちいたしましょうか」
「そうね。お願い」
察しのいい相手でよかったと、アリナは急ぎ足で部屋に戻った。
「頼んできたわ……ツァーリ?」
戻ったアリナは、すすり泣いている彼女の傍に寄り添った。言葉をかけるより先に、背中に手を当てて軽く擦る。嫌がるそぶりはないので、そのまま無言でなぐさめていると、ノックがされた。泣いている姿を見られたくはないだろうと、扉を薄く開いてワゴンを受け取り、手ずからテーブルまで運んだ。
「さあ、朝食が届いたわ。お茶とお菓子もたっぷりと用意をしてもらったから、ゆっくりできるわよ」
顔をおおっていた手を下げて、ツァーリはコクンとうなずいた。涙がいっぱい溜まった瞳で見上げられ、彼女を救いたいと心が疼いた。明るい顔を心がけ、テーブルに皿を映すとツァーリも手伝った。ふたりで女神アナビウワトに祈りをささげて、食事をはじめる。黙々と食べてはいるが、ツァーリの目はもの言いたげに時々アリナに向けられる。言葉を探しているのだろうか。
食事を終えてお茶を飲み、しばらくしてからツァーリが鈴を転がしたような、愛らしい声でおずおずと言った。
「あの、アリナ様」
「なぁに?」
ゆったりとした口調で返せば、モジモジされた。
「アリナ様は、ずっとこの神殿にいらっしゃるのですか?」
それは私が知りたいと心の中で思いつつ、小首をかしげた。
「さあ、どうかしら。わからないわ……それをお決めになるのは、女神アナビウワトだから」
「そう、ですよね」
「それが、何か?」
口を開いたりつぐんだりして、ツァーリが迷う。じっと待っていると、悲壮な顔で告げられた。
「私、生涯聖女になりたいんです!」
「え」
「そうならないと、居場所がないんです」
しゅんとしてしまったツァーリの全身を、悲しみが包んでいる。どういうことか聞いてもいいのか、彼女が話すのを待つのがいいのか決めかねて、アリナは無言で小さな姿を見つめた。
「わ、私……行く場所がないんです」
やがて、ぽつりとツァーリが言った。
「私の両親は、貴族とは言っても庶民と変わりがなくて……今度の交易船に乗って、遠くに引っ越してしまうんです。私なら、生涯聖女になれるはずだから、がんばりなさいって言われました」
ポカンとして、ツァーリを見つめる。ギュッと膝の上で握られた拳が痛々しい。
(戻って……は、来ないから、こんなに打ちひしがれているのよね)
それにしても、娘が聖女に選ばれてから、任期が終わる前に引っ越しを決めるとは、何を考えているのだろう。ひとりぼっちにされる娘を哀れには思わないのか。
しくしくと涙をこぼすツァーリに、どう言葉をかけていいのかわからない。聖女の任をすぐにでも解いてもらえるよう、最年長の聖女に相談をしてみようか。しかし、聖女を選ぶのは女神アナビウワトだ。女神が許可をしなければ、ツァーリはここを離れられない。一縷の望みを託して、神託の儀式をおこなったとして、希望が砕かれたときには今よりずっとつらい思いをするのではないか。
「ツァーリ」
呼びかけてみたが、言葉は続かなかった。女神はきっと許してくださると言いたくとも、気休めにしかならないとわかっている。女神の意見は、誰であっても推し量れない。
「こんな考えで生涯聖女になりたいなんて、女神が許してくださるわけはないって、わかるんです。だって、自分のためですもの……女神にすべてをささげたくて望んでいるわけではない者を、選んでくださるはずがないって思うと……どうしていいのかわからなくて……アリナ様も、似た境遇であられるので、お話ししてもわかっていただけるかもしれないって、思ったんです」
うなずいてはみたものの、彼女の置かれている状況と比べれば、アリナはまだ逃げ道があった。婚約は解消され、生涯聖女にならなければ居場所はないと考えてはいたが、両親は健在なので次の婚約者が選出される可能性は高い。
(私は、甘えていたんだわ)
頭を強く殴られたような衝撃を受けて、呆然とツァーリを見つめる。婚約解消はたしかに不名誉なことだし、待っている人がいない状況で、生涯聖女にならなければと考えるに足る要素ではある。だが、本当の意味で帰る場所がなくなったのかと問われれば、そうではなかった。
羞恥を覚えて、逃げだしたくなる。
生涯聖女になるのではとウワサされ、最上位の聖女である紫のケープを許されて慢心していたのだ。
「私のほうこそ、生涯聖女にふさわしくなんてないわ」
うわごとのように告げれば、えっ? とツァーリが目をまたたかせた。目じりに残っていた涙の粒が頬に落ちる。それはとても純粋で、清らかだった。
「迷いがあるのよ」
胸の上に手を乗せたアリナの目には、ラコットの面影がにじんでいた。彼に心を乱されている。こんな状況で、生涯聖女になれるわけがない。だが、彼になびくつもりもなかった。
「何を、迷っていらっしゃるのですか?」
「自分がどうしたいのか、よくわからないの」
聖女の矜持を捨てる気はない。だが、気持ちはラコットに囚われている。中途半端な心をどう表現すれば、伝えられるのか。
「ツァーリ。あなたは、両親と共に遠くへ行きたいの? それとも、この国にとどまっていたいのかしら」
「それは……両親と離れるのは、とても悲しいです。もう二度と会えないかもしれませんから。だけど、聖女の任を途中で放り出したくはありません。そうしたら、もうどこにも帰る場所がなくなってしまうって思うと……どうしたらいいのか」
声を震わせた彼女の頬を両手で包み、笑顔を見せてから抱きしめる。髪を撫でれば、おずおずと腰に腕を回された。
「大丈夫よ……きっと、なんとかなるわ。女神アナビウワトは、この世のすべての生きとし生ける命に祝福をくださるのですもの」
「……はい」
か細い声を受け止めたアリナの胸には、ラコットを頼る気持ちが湧いていた。彼なら、任を終えたツァーリの居場所を作れるはずだ。相談をしてみる価値はある。
彼と出会えたことは、ツァーリを救う伏線だったのかもしれないと、アリナは幼さを残す肩をしっかりと抱きしめた。
* * *
エクトルを通じてアリナからの呼び出しを受けたラコットは、浮つく心を抑えきれないでいた。温室に彼女をいざなってから数日間、アリナとは会っていない。もうすぐ交易船がやってくるので、その準備に参加していて忙しかったのだ。
パリッとした簡素なシャツと動きやすいズボン、足元は頑丈な革のブーツで整えたエクトルは、ふたたび森に入りたいと望まれるのではと予想していた。滝を目にしたときのアリナは、無垢な少女そのものだった。清らかで愛らしい表情を思い出せば、また連れて行きたいと望みが浮かぶ。
待ち合わせ場所が、神殿の裏の丘であることも、そうではないかとラコットに思わせた要因だった。
いそいそと出かけたラコットは、先に丘の上に立っているアリナの姿を見つけ、清廉なたたずまいに思わず足を止めてしまった。
(なんて、美しいんだろう)
うっとりと見惚れるラコットの目には、純白の礼服ドレスに身を包んだアリナが、世界に祝福されているように見えた。さんさんと降り注ぐ昼の光りは彼女の金色の髪を内側から輝かせ、体に寄り添う純白のドレスが幻想的な雰囲気を追加している。森に顔を向けているのは、その奥に行きたがっているからだろうか。足ごしらえをしっかりしておいてよかったと、ニヤリとして彼女に声をかけた。
「アリナ」
振り向いた彼女は、安堵と憂いを混ぜた笑顔を浮かべていた。心配事があるらしい。
「お呼びたてして、申し訳ございません」
「いや」
折り目正しく頭を下げられ、艶めいた呼び出しではなかったのだと思い知らされる。そうだろうとは思っていたが、ほんの少しの期待を完全に打ち砕かれて落胆した。
「何か、問題があるのか」
とっさに浮かんだのは、ブラモアの顔だった。彼女を傷つけた男の顔面を思い切り殴ってやりたいが、アリナの体面を考えると難しい。その上、有力貴族の当主であるから、次代の王としては表面上のトラブルは避けなければならなかった。
自分の立場がもどかしい。
彼女の気持ちが、こちらにないこともまた、ブラモアを糾弾できない理由だった。
「なんでも、遠慮せずに言えばいい。そのために俺を呼んだんだろう?」
エクトルを使ったのは、表向きの相談ではないと言っているも当然だった。彼なら正式な使者としてではなく、用件を伝えられる。城にも神殿にも自由に出入りできるトモロコ家の総領息子で、まだ子どもという彼の立場があればこそできることだった。
「ええ……少し、言いにくいことなのですけれど」
「歩きながら話そうか」
聞かれたくないことなら、人目につかない場所にいるほうがいい。丘の上にふたりでいる姿を見られては、詮索をされるかもしれない。
(それよりも、共に森に入った姿を見られるほうが、関係を怪しまれるか?)
自分にとっては好都合だが、アリナには不名誉なウワサになるだろう。彼女に判断をゆだねると、このままでと返された。
「そうか」
残念に思いながら、自分の肩ほどまでしかない彼女を見下ろす。胸深くに抱きしめて、抱えている憂いをすべて取り去りたい。胸中に巣食う悩みを打ち明ける相手に選んでもらえた栄誉を、誇りに思う。
「こんなことを、皇子であるラコット様に相談をするのは、失礼かもしれないのですけれど」
「だからこそ、俺に相談をすると決めたのではないか?」
「ええ……そのとおりです。あの、新しく聖女となった少女のことなのですけれど」
言いづらそうにしながらも、アリナはよどみなくツァーリという娘の話をした。
彼女の両親は、今度の交易船に乗って遠くへ引っ越しをする。彼女は聖女の任を途中放棄して、親と共に出ていく希望はない。けれど寄る辺がなくなってしまう。生涯聖女になるしか道はないが、居場所が欲しいためだけに望んだとしても、女神アナビウワトの許可が得られるはずもない。
そう言って悩んでいるのだと、自分のことのように顔を暗く曇らせて語るアリナは、憂いのために艶めかしさを増していた。心を想いにそそられながら、なるほどとラコットは首を動かした。
「その、ツァーリという聖女がどんな娘かは知らないが、今度、さりげなく姿を見るか……いや、何かの折を見て話を……ああ、両親も娘のことを案じていないはずはないだろうから、貿易船が来るより前に、未来の身の処し方を知っておいた方が、双方ともに安心するだろうな」
考えながらしゃべるラコットは、すがる目のアリナを抱きしめて唇を重ねたい衝動に駆られた。
(堪えろ、ラコット)
自分を叱って、ブラモア屋敷でおびえていた彼女の姿を思い出す。あんな顔をさせたくはない。
「近々、あの温室に呼ぶことにしよう。少し待っていてくれないか。ひとりで来るのは不安だろうから、そうだな……数日中に、ふたたび雨が降ってくれるといいんだが」
「雨、ですか」
「そうだ。雨で丘に上がれないアリナが、代わりに温室を訪れたとすれば、誰も不審には思わない。そのときに、付き添いとしてツァーリを伴えばいいだろう」
不安げにアリナが空を見上げる。雨が上がったばかりの空は、彼女の瞳とおなじ、さわやかな青を広げていた。雨を予想させる雲の影は、どこにも見えない。
「まあ、雨が降らなくとも来られる理由を、考えておく。少し時間をくれ」
「ありがとうございます。すぐに、ツァーリにお話をしてもよろしいですか」
「うん。安心させるには足りないかもしれないが、呼ぶまでの気休めにはなるだろう」
頭を下げたアリナは、裾をひるがえして神殿に戻った。少しも未練を見せない彼女の後姿に、惚れた方が負けというのは、こういうことなんだろうなと、ラコットは晴れ渡る空を見上げて腰に手を当てた。




