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王の情愛と聖女の純潔ー皇子は女神の聖女を王妃に求めるー  作者: 水戸けい
◆第三章 揺らぐ心と求める気持ち
10/19

(ああ、女神アナビウワト……私は、あなたへの信仰心を失ったわけではありません)

 * * *


 アリナの涙を追いかけるように、雨粒がひとつ、またひとつと温室のガラス屋根を叩きはじめ、やがてそれは豪雨となって世界を包んだ。


 ふたたびの激しい雨に、アリナの心が洗われる。どうして自分は泣いているのだろう。悲しいのか、悔しいのか、ありがたいのか――それすらわからず、アリナはただ、ハラハラと涙をこぼしていた。


 しゃくりあげるわけでも、うめくわけでもなく静かにあふれていたものは、やがて雨の勢いに押されて止まり、瞳を潤ませて頬に跡を残すだけとなった。指先でそっと目尻を拭ったアリナは、深く息を吸い込んで温室の緑の気配を体に満たした。


 花の姿は見えないけれど、ほんのりと甘い香りが鼻先に触れる。これは樹木の匂いだろうか。気を引かれて立ち上がり、フラフラと温室の中を歩いていると、小さな人工の滝を見つけた。


 森の中で見た天然の滝とはくらぶべくもない、愛らしいサイズのものだが、とうとうと流れる水の姿に心を打たれて、アリナは足を止めた。


 石を組んで作られた滝の上には、低い木が植えられている。子どもひとりくらいなら水浴びができそうな広さの滝つぼの周囲を、釣り竿に似た形状の草が囲んでいた。水と草がたわむれているかのような様子に、アリナの口許に笑みが浮かんだ。


 水音は温室の壁にさえぎられてくぐもる雨音と、さほど変わりない強さだった。ともすれば、ふたつの音が互いを追いかけて遊んでいるようにも聞こえて心がなごむ。草木の気配が満ち満ちた空気に包まれ、水の音色に耳を澄ませば、憂いが溶けていった。


 どのくらい、そうしていただろうか。


 足音が聞こえて振り向けば、籠を手にしたエクトルが、不安そうな目で口元に笑みをたたえて立っていた。


「あの、お邪魔でしたか」


「いいえ……どうしたの?」


「お食事をお持ちしたんです」


 あら、とアリナは眉を持ち上げた。神殿を出てから、ずいぶんと時間が経ったと思っていたが、まだ昼時だったのか。


「ありがとう、エクトル」


 祈りの邪魔をしたわけではないとわかったからか、エクトルはうれしげに温室の奥にある休憩所にアリナを案内した。


「エクトルは、この温室にはよく来ているの?」


 迷うことのない足取りに問えば、快活に「はい」と答えられた。


「小さいときから、遊びに入っていたんです。ここなら迷子になっても、危なくないからって」


 まだ幼いエクトルが「小さいとき」と言ったのがおかしくて、クスリと笑いの息を漏らす。


 布屋根の東屋に到着すれば、エクトルはイスに上って柱にかけられているランプに明かりを点けると、籠の中身を取り出してテーブルに並べた。パンに野菜と蒸した魚が挟まれている。コップを置いて、腰に下げていた水筒からお茶を注いだエクトルは、さあどうぞとアリナをうながした。


「あなたも一緒に食べるのね?」


「ひとりで食べるより、ふたりのほうがおいしくないですか?」


「そのとおりだわ」


 イスに腰かけ、アリナはサンドイッチに手を伸ばした。ほかの誰でもなく、エクトルが来てくれたことがありがたい。これが彼の父ミズーリだったら、立場を意識していただろうが、エクトル相手ならわずかな気負いも必要なかった。


「だけど、ビックリしました」


「何が?」


「ラコット様ですよ」


「どうかしたの?」


 にわかに胸がざわめいて、話の続きが気になった。


「朝、いきなりお菓子を持って行くって言いだされたので、新しくお菓子を追加で作ったんです」


「どういうこと?」


 ドキドキと胸が高鳴っていく。


 いきなりお菓子を持って行く、と言いだしたということは、前からの計画ではなかったということか。ブラモアの屋敷を訪れたのは、予定していたものではなく急遽決まったことだった。理由は、アリナが彼の屋敷に出向いていると知ったからではないか。


(まさか、でも……いいえ、そんなわけないわ)


 自分に都合のいい考えだと否定したアリナの気持ちに気がつかず、エクトルは彼女の予想を肯定した。


「アリナ様がマリス家に行かれたと伝えたら、途端に怖い顔をして、どこかに向かわれたかと思ったら戻ってこられて、マリス家の新領主に祝いの品を届けるから、すぐに準備をするようにっておっしゃったんですよ」


 サンドイッチにかぶりつくエクトルの横顔を呆然と見つめて、アリナは危機を救ってくれた、ブラモアの肩越しに投げられたラコットの視線を思い出した。


(私が、あそこにいると知って、来てくださった)


 不穏なものを察して、助けに来てくれたに違いないと考えるのは、都合がよすぎるだろうか。けれどほかに、どう受け止められるというのだろう。ラコットは、アリナがブラモアに呼ばれたと知って、すぐさまマリス家を訪れる準備を整えた。それも新領主に祝いを述べに行くという、己の立場を考慮した軽率ではない方法を考えて。


 ――俺の妻になれ。


 鼓膜の内側から、彼の声が聞こえた。


 ――アリナ……君を待つ人はもういない。ならば、俺の妻になるのに何の問題もないだろう。


 なびきそうになる心に気づいて、うろたえる。なぜ心が乱されるのか。ラコットとは、それほど親しく接してきたわけではない。あの日、丘の上で出会い、森に誘われて滝を見た。それだけの関係だ。なのに心は彼に流れていきたがっている。


「アリナ様? おいしくなかったですか」


 エクトルの声に我に返って、ううんと笑みを浮かべたアリナは、サンドイッチを口にした。ほろほろと崩れる白身魚を咀嚼していると、漁に参加したラコットが、釣った魚の中で一番活きのいいものをアリナに出してくれとエクトルに託したことを思い出す。


「ねえ、エクトル。ラコット様は、どちらにいらっしゃるのかしら」


「エクトル様なら、執務室か議会室だと思いますよ。それか、王様のところです」


「お仕事をなされているのね」


「自分が国王になった時に、勉強不足だったら困るって、しょっちゅう言っておられます」


 勤勉な方なのだと、アリナは精悍なラコットの姿を中空に浮かべて見つめた。木の葉はラコットの緑の瞳を想起させる。彼の瞳に包まれている気がして、アリナの心は弛緩した。自覚した瞬間、身震いする。


(私は、聖女なのよ)


 己を叱咤しても、心は向きを変えなかった。胸の奥にラコットが住み着いている。女神アナビウワトへの信仰よりも、深い場所にラコットのほほえみがこびりついていた。


 嘆息すれば、エクトルが首をかしげた。なんでもないわと笑いかけ、お茶に手を伸ばす。


(生涯聖女になるかもしれないと言われている私が……どうして)


 あと二年の任期を残して、敬虔の念を揺さぶられるなんて。


(試練、なのかしら)


 雨は恐ろしいものだが、同時に恵みでもある。それとおなじことなのかと、天幕と木の葉の隙間に見えている空を見つめた。


 ガラスの屋根は無数の雨で濡れており、水の幕を透かして見る空は暗くにじんでいた。


(私は、試されているの?)


 あと二年の間に、生涯聖女として生きていくのか、民のひとりとして生きていくのかを定めろと言われているのかもしれない。


(ああ、女神アナビウワト……私は、あなたへの信仰心を失ったわけではありません)


 ただ、心にラコットが深く刻まれてしまっただけなのだ。どうしてこうなってしまったのだろう。唇を奪われてしまったからか。


(いいえ、いいえ)


 違うわと心の中で首を振る。


 キスをされたから気にしているのではない。その前段階から、彼の存在に心が揺らいでいた。だから唇を奪われてしまったのだ。――キスを、受け入れてしまったのだ。


 彼のたくましさとぬくもりに触れて、体がほんのりと熱を持って心がゆるんだ。あれは、聖女ではなく、ただひとりの女となった瞬間だった。


(私は、ラコット様に惹かれている)


 自覚すれば、もう「聖女である」とは言えなくなった。不思議そうなエクトルの視線に気づいてはいたが、笑いかけてごまかす余裕はなくなっていた。


「ねえ、エクトル」


「はい」


「ラコット様は、とてもすばらしい方ね」


 唐突に言っても、エクトルは不審に思わずパッと顔を輝かせて、大きな声で「はい」と答えた。疑念をわずかも持たずに、ラコット様はすごい人ですと声を弾ませる。


「漁は、僕よりもずっと上手なんです。弓だって、とっても上手で。剣の腕は、見たことがないんですけど、お父さんがすごいって言っていました。ぜんぜん偉そうにしないから、とってもいいって民も言っています」


「そう言っていたわね」


 昨日、たっぷりとラコットについてエクトルから聞かされた。その時にも思ったが、エクトルは相当ラコットに入れ込んでいるらしい。


「だけど、それほどすばらしい方なら、花嫁候補はとても多いのではないかしら」


 自分を選ばずとも、ラコットには才色兼備な女性がたくさん紹介されているのではと問えば、エクトルは目をまたたかせて首をかたむけると、視線を斜め上にそらした。


 唇を尖らせて考える姿を、ドキドキしながら見つめる。


「結婚したいって言っている人はたくさんいますけど、みんな自分じゃ釣り合わないわって言っています」


 返事は、アリナの期待したものとは違っていた。彼の言う「みんな」とは民のことだろう。貴族の娘たちではない。


「そうなの」


「はい。僕は、アリナ様がエクトル様のお嫁さんになったらいいなって思ってます」


 さらりと言われて動揺し、コップを掴み損ねて倒してしまった。


「あっ」


「わ! 大丈夫ですか、アリナ様」


「ええ、うっかりしてしまったわ」


 さいわい、お茶はそれほど残っていなかった。ハンカチを取り出して軽く拭けば、エクトルが水筒からお茶を注いでくれた。


「ありがとう」


 にっこりしたエクトルは、お菓子も持ってきたんですよと籠から焼き菓子を取り出した。


「今日は、ずっと温室にいてもいいってラコット様に言われているんです。だから、お茶とお菓子をいっぱい持ってきたんですよ」


「そうなの」


「はい! だけど、アリナ様の邪魔になりそうだったら、出てくるようにって」


 顎を引いたエクトルに、うかがうように見つめられて微笑する。


「雨の日の温室でピクニック気分に浸るのも、きっと楽しいわね。私の相手をしてくれる?」


「もちろんですっ!」


 顔を輝かせたエクトルの望みは、自分の望みでもあるのだとアリナは笑った。


 ――僕は、アリナ様がエクトル様のお嫁さんになったらいいなって思ってます。


(私も、今ならそう思えるわ……だけど、本当にそれは許されることなのかしら)


 * * *


 壁の向こうから雨音が沁み込んでくる。ミズーリ相手に剣の稽古を終えたラコットは、体を拭うと窓際に立った。やはり降り出したかと口の中でつぶやいて、稽古場の片づけをしているミズーリに顔を向ける。


「すまないな」


「それは、いきなり稽古につき合えと申されたことについてですか。それとも、息子を貸してほしいとおっしゃったことにでしょうか」


 苦笑しながら「どちらもだ」と答えれば、なにもかもわかっているというふうにうなずかれた。長い付き合いのミズーリは、こちらの考えが透けて見えているらしい。


「あまり急がれませんように」


「わかっている」


 主語がなくとも、アリナについて言っているのだと伝わった。あえて主語を抜かしたのは、アリナとラコット双方への配慮からだ。うっかりと誰かの耳に入ってしまわないとも限らない。


「父上は、どうなされている」


「おそらく大臣たちを迎えて、あれこれと話し合っていることでしょう」


「交易の問題か」


「問題というほどではございませんが、海の向こうはこちらと文化が違いますので」


 うむと首を動かして、ざっと相手国の概要を脳裏に並べる。


「俺も参加してこよう」


「よろしいのですか?」


「何がだ」


「様子を見に行かれなくて」


「エクトルがいれば、問題ないだろう」


「息子をずいぶんと信頼してくださっているのですね」


 うれしげに頬をゆるめたミズーリも、ラコットがエクトルを温室に向かわせた理由をわかっている。彼が警戒されるほど大人ではなく、聖女たちには弟のように思われているからだ。彼ならアリナも心をくつろげて過ごせるはずという意図をわからない男ではないのに、子どものこととなると、それを超えてもなお、よろこばしいものなのか。


(子どもか)


 いずれ自分も子を持たなければならない。政治もさることながら、後継者を育てることも国を守ることに繋がる。自分の妻はアリナがいい。彼女のほかには考えられない。


「どう思う」


「何がでしょう」


 目顔で伝えれば、察しのいいミズーリはすぐに気づいた。


「私は、よろしいかと」


「そうか」


「エクトルもよろこびます」


「なぜだ」


 柔和な笑みを向けられて、ふと気づく。エクトルはラコットとアリナをおなじように慕っている。だから、ふたりが結ばれることをよろこぶだろうと、ミズーリの目が語っていた。


「そうなりたいものだ」


「民も歓迎いたしますよ」


「その前に、だ」


 彼女の気持ちがこちらに向かなくては、実現不可能。吐息を漏らせば、彼女の唇の感触を思い出した。ふっくらとやわらかな赤く可憐な花弁。あれをふたたび味わいたいが、ブラモアの屋敷でおびえていた姿を思えば、求められるはずもない。


「悩ましいものだな」


「人の心というものは、予測はできても読めないものですから」


 耳にささやく雨音を聞きながら、ラコットはうなずいた。


 まるで天気のようだなとミズーリにつぶやけば、天気の方がまだ読めますと返された。

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