夢物語 夜の丘
夜の丘
「君は、もう行ってしまうんだね……」
「…………」
「そうだろう?」
こんなに幻想的な、満天の星が輝き夜空に満ち溢れ落ちて来そうな、不思議とほの明るい夜の丘。その頂きに一本だけそそり立っている巨木が、丘の上に漆黒のような濃く深い影を落としていた。その闇の中には一人の男が立っている。今、その暗闇の中から、思い詰めたような顔をしたその男が、一歩だけ足を前に踏み出した。星の光によって、ゆっくりと男の、その姿が浮かび上がって見えた。その男は、私自身なのだ。
私の瞳には、一人の女の後ろ姿が映っている。
女の長く黒い髪が、丘を駆け登る夜風に流れ、闇の中でも艶やかに靡いて(なびいて)いるのが見えた。若い女の体の美しい曲線が、男にとっては、これより他には無いほどに、魅惑的な輪郭となって、影絵のように揺れている。
私には、その女の心が読めない。その女とは、もう百年も付き合っているように思えるし、今しがた出会ったばかりの女のようにも思われる。不思議だ。女と言うものは、いつまで経っても男にとっては謎でしかない。女が今、本当は何を考えているのかは、私には皆目、見当が付かない。
「君は、もう私の前から去って行くんだね……そうだろう?」
私は今までに何度、その女の後姿に、このように問い掛けただろう。
女は振り向きもせずに、ただこう言った。
「あなたの生きる世界に私は、もう既にいないのよ」
「それなら、私の世界では、君はもう死んだ、ということだね」
一瞬、風の止まった夜の丘の上で、女の死を持ち出したのは、私だった。
「そう。あなたの生きる世界では、そういうことになるわ」
「…………」
女は、まだ振り向かない。
「君は、……この二人が立っている世界、この瞬間は、永遠に失われることは無いと信じられないのかい?」
「もう、すべて失われたのよ。忘れて」
「どうしても、二人の瞬間だけは永遠だと信じられないのかい?」
「…………」
「どうしても……」
女は、まだ振り向かない。
女の後ろ姿に問い掛けるしかない私の声は、哀しく響き、虚しさから、次第に絶望の呟きへと変わっていった。
「信じられないわ。あなたのいる世界に、私はいないのよ。どうして、それを分かってくれないの?」
と言った女の少し高い声は優しく、柔らかく響いて、別れ話をしていると言うのに、どこか甘えているように聞こえるから、男にとって女の声とは不思議なものだ。しかし、その無責任な優しさ、甘く誘うように聞こえる澄んだ声音が、私を、ただただ期待させ続け、裏切り、私の若い情熱を虚しく浪費し尽くした。私は、この女のために、若さも愛情の対象も、すべて失うことになったのだ。
「私の前から去って、あの男のもとへ行くのか……」
と私は、悔恨を滲ませて、ほとんど呻くように囁いた。
そのとき、悪戯に強い風が吹いた。私の囁き声を、女は聞き得ただろうか。風が、私の嘆きを全て掻き消してしまっただろうか。
女は、どうして振り向くことさえしないのだろうか。一体全体、女は今なにを考えているのだろうか。私の、その女に対する疑惑は、いつまでも尽きることがなかった。
女の長い髪が、風に逆らって舞った。右手で髪を風に乗せるように顔から払いながら、ようやく女は私に横顔だけを向けて、流し目を送るように私を見た。
私は、はっと胸が詰まって惑乱した。私に再び色気を起こさせるな、と誘惑の強い女から、誘惑に弱い自分を守るように、私は本能的に身構えてもいた。
女は、白い素肌と、それを包む絹のような白い光沢のある着物を、星明かりに輝かせて、ゆっくりと遂に振り向いた。私には、その動きは軽やかに、桜が舞い散るように見えた。その一瞬は、私の目には残像となって、いつでも再現可能な光景のように思われた。
目を伏せていた女は、左手の細い指に髪を絡ませたあと、軽やかな髪の一筋一筋を風に解かせながら、顔を上げた。その黒く潤んだような大きな瞳が、私を捉えた。私には、女のその一連のしぐさも、ゆっくりとした幻のような、余韻を残す光景となって、その残像が脳裏にいつまでも繰り返されている。
風の中の私の虚しい囁きは、女の耳に届いていた。
「あなたの前から去って、私は、あの人のもとへ行くわ。あなたといる時には感じることの無かった幸福が、私と彼の二人を包むはずですもの」
と言った女の視線は、私の方を向いてはいるが、その焦点は、ほとんど影の薄い私の体を通り抜けて、どこか遠くの草原にあった。女のその声は、希望に満ちていた。女の心は今ここになかった。私は、ついぞ女の、そのように弾んだ明るい声を聞いたり、自然と開かれた心を感じたことはなかった。
私は悟った。数え切れぬほど肉体を重ねたこの女とは、ただそれだけのことで、今は女にとって私は、もう透明な無力な存在であることを。そして、そのことは、私が認めたくない事実として、かなり前から、ずっと胸の内に宿っていた。
――どこで私は、生きる道を間違ってしまったのだろう。
私は、女との交際よりも前、もっとずっと前まで時を遡って自問していた。
「もう、行きます」
俯き、星明かりを失って沈んだ影になっているはずの私の顔を見て、女は、そう言った。
女の視線を痛々しいように感じながら私は、呼吸も忘れてしまったかのように、胸を詰まらせながらも無理矢理、溜息を漏らして、明るい星空を見上げた。
私の顔を微かに照らし、南の空に白く輝いている大きな星を見つめながら私は、まだ何とか彼女の感情に訴え掛けようと試みていた。
「私は作家だから、君との出逢いから、愛し合った日々、そして、この別れのことを、文章に書き記そう。そして、君との記憶を芸術作品にまで昇華させて、物語として、いや、たった一編の詩でもいい、永遠に人類の文化史の片隅にでも残せたら、これに勝る自分の生きる目的は無いと思っている」
「そんなことをしても虚しいだけよ。あなたが死んだ後に、そんな文章の書き記されたものが残っているのか、あるいは跡形もなく消え去ってしまっているのか、それはもう、あなたにとっても、私にとっても関係の無いことなのよ。死ぬって、そういうことでしょう」
「すべては、いま生きている間だけのことで、それ以外は、どうでもいいと?」
「私は、あなたの前から去ってゆく、ただそれだけよ」
「ただそれだけではない。君が、私の前から去って、あの男のもとへ行くのは、私の記憶の中では、君が生命を失うと言うことと同じだ」
「あなたの記憶の中に私は、もういないの。そう思うようにして下さい。私を忘れて」
「今日までのことをすべて、きれいさっぱり忘れ去ることなんて、できるものか。この私の夢の中でさえ、君を忘れるしかないなんて……」
女は何も応えなかった。
いつかその女との、このような別れがくることは、私にも分かっていた。もう二度と再び逢えなくなること、それはそれで良い、と思っていた。これっきりで、お仕舞い。それで良かったのだ。別れとは、生きてゆくこととは、そう言うものなのだから仕方がない。
でも、私は、女との出逢いと別れを、ただ忘れ去るべきことではなく、もっと大切にしたかった。女と過ごしたすべての時間を、その出逢いから、激しく求め愛し合った刹那、何気なく続いて行った二人の日常、そして思いもしなかった突然の別れ、その最後の瞬間までの一瞬一瞬のすべてを何とかして心に、いつまでも留めて置きたかった。
いつの頃からか、たぶん、それは私が、もう若くは無い、と自覚した時からだったと思う。
私は、その女と逢うこと、その一度一度きりを、いつも初めて新たな女と出逢うような、常に人生においての一期一会と思うようになっていた。その女との一期一会の一つ一つを、できるだけ多く心の中に、永遠の光として灯して置きたかった。
しかし、心とは、なんと不確かなものなのだろう。心の内にある火は、心の外にある火と同様に、すぐに消えてしまいそうなのだ。
そして、心が真っ暗で、空っぽになってしまうと、私は哀しいことと、虚しいことばかり考えるようになってしまう。生き続ける意味を見失ってしまう。
だから、私は、その女との一日一日、女との一瞬一瞬、それを一期一会のように大切に、しっかりと自分の心に留めて置きたかった。死の瞬間まで、いつでも頭の中に再現できるような鮮明な思い出として置くために、自分の脳に記憶させて置きたかった。
どうしたら、もっとも強く、鮮烈な記憶として残して置くことができるだろう。
もちろん、その女と死ぬまで一緒にいることが、その一番の方法であることは分かっているが、それは不可能であることが問題なのだ。私と女は、これから別々の道を歩んでゆくのだから、それはできないのだ。
それでは、ただこのまま女と別れたら、どうなるか。
私は、女への未練、女を取り戻したい衝動と、取り戻すことは不可能であることに絶望し、悲痛な叫びを上げ続けるだろう。自分には女との未来はないが、女と次の男には未来があることに、私は堪え難い思いをして、遂には女との記憶をすべて忘れ去ろうと努力するしかない、と思い至る。そうなることは明らかである。女を諦めて、なおかつ、女との記憶を、いつまでも、自分の死の瞬間まで大切な思い出として残して置くためには、どうしたらいいのだろうか。私は、そのことばかり考えていた。
もし、その女が死んだら、もし、その女の存在が、この世から消え去ったならば、私は、その女を忘れることなく、いつまでも大切な記憶として置けるだろうか。いや、そうではない、と思った。
私は、その女が、ただ夜の丘の天空に白く輝く大きな星のように、永遠に私の記憶の中に輝き続けて欲しいと思った。女を映した星が、落ちて消えて欲しいなどとは思わない。
その女の死も、私自身の死も、私の心が空虚になってしまうこととは関係がない、と思った。結局は、私の全ての望みは、女の存在そのものではなく、ただいつまでも再現可能な記憶だけの問題なのだ。
しかし、記憶とは何なのだろう。
その女との過去は、今は存在しない。記憶の中にだけ、存在していたかのように思われるだけだ。今たしかに在るのは、私が女を口論の果てに失うくらいなら、女が星のように遠く手の届かないものとして、いつまでも、ただ美しく輝いていて欲しいと思っている、この瞬間だけなのだ。今この瞬間の記憶しか存在し得ないのであれば、今は存在しない過去の記憶は、もはや初めから存在していなかったのと同じことだ。過去の記憶なんてものは、この夢の中の出来事と区別がつかない、たわいのないものに過ぎない。
だから、私は不意に、もはや過去の記憶の中だけの存在となった女の、その瞳の奥の空虚を確かめると、両腕で女を抱え上げた。不思議と女は、球技の球のように軽かった。私は、重力を全く感じることなく、星空へ目掛けて、女を力の限り投げた。
宇宙空間に投げ出されたかのように女は、ゆっくりと回転しながら直線的に夜空を突き抜け、やがて白い彗星となって急激に加速していった。星空を遠く流れて、南の空の白い大きな星と衝突し、一度、強く激しい閃光を放ったかと思うと、やがて何事も無かったかのように星空は、永遠の静寂を取り戻した。
私は、女を、南の空の、白い大きな星の中に、永遠に閉じ込めた。
そんなことで、女との出会い、過ごしたすべての時間と別れを、いつでも再現可能な大切な記憶として残して置くことができるだろうか。
それは、無理なことだと思った。
ただ私は、そんなことでもしなければ、その女を諦めることができなかった。