第一章 第一話
しおれ、悲しみ、滅入り、不安を抱え、
苦しみにさいなまれ、ゆらぎ、くじけ、うなだれ、
よろめき、めげ、涙し、孤独に締めつけられ、
心置き忘れ、打ちひしがれ、うろたえ、落ちこみ、
夢失い、望みを絶ち、
……あとは生きることしか残されていないほど、
ありとあらゆる人間の弱さを吐き出すがいい。
――藤原新也 著「メメント・モリ」より
第一話 殺戮の先陣
――一面の銀世界。
音も無く、降り続ける雪。ひたすらに続く白い地面。
その中で、一か所だけ赤に塗り潰された場所がある。
そこに君は横たわっていた。
僕は君を見て泣いていた。
謝る事にも、嘆く事にも意味は無い。
君には、もう僕の声は届かないのだから。
それでも僕は、涙を流し、慟哭をし続ける。
やがて雪は降り続け、赤い地面も、君の姿も覆い隠していく。
君の姿が、見えなくなっていく。
君が、居なくなっていく。
それがどうしようもなく哀しくて、悲しくて。
それでも僕はどうしようもなく泣き続けるしかなくて。
やがて全てが白に塗り潰されていった。
君も、僕も、何もかもが――。
――そして僕は今日も目を覚ます。
君の居ない現実を、今日も生きていく――
――けたたましいベルの音で、ハクトは目を覚ました。
手さぐりで目覚まし時計を探し、叩く様にしてスイッチを押す。
気だるい身体を起こし、瞼をこする。
濡れた感触。『またか』、と不明瞭に呟き、立ち上がった。
毎夜、同じ夢を見ているとハクトは思う。
内容はいつも思い出せない。
ただ、涙の跡と、軋む胸が哀しい夢だったのだろうという事を教えてくれる。
と。益の無い思考を中断する。この事に対する答えは、この七年来出た試しが無いのだ。
部屋を出てキッチンへ。
トーストを焼き、夕飯の余った材料でサラダを作り、皿に添える。
コーヒーメーカーをセットした所で、玄関のドアが開いた音がした。
そしてキッチンへ入って来た人物に、挨拶を。
「おかえり、母さん」
「あぃ。ただいまぁ~っ」
聞くからに眠そうな声に、苦笑を漏らす。
母が眠らない内に、ハクトは矢継ぎ早に伝言をしておく。
「昼と夕方の分も作って冷蔵庫に入れてあるから。全部タッパーごとチン出来る様にしてあるよ。……いつも言ってるけど、寝過ぎて時間無かったらシンクに突っ込んどいて良いからね。――あと、コーヒーはどうする? ブラック? カフェオレ?」
「……コーヒー抜きで」
――そりゃホットミルクだ。呆れ混じりに呟いた声は、母には届かなかったろう。
「じゃあ……いただきます」
「はい、いただきま~~……すぅ」
言い終わるや否や頭から突っ伏す母を見て、ハクトは眉を寄せる。
「……そんなに眠いなら、無理しなくて良いのに」
給料が良いからと夜勤をメインにしている母とハクトが顔を合わす時間は少ない。
せめて確実に一緒に居れる朝だけはと、意地になって母は家族の時間を作ろうとしている。
……家事を殆ど僕に押しつけて、独りにしてるのが後ろめたいんだろうなぁ。
でも、とハクトは思う。
別に家事をするのは苦痛ではないし、親を恋しいと思う時期は過ぎた。幸い騒がしい友人を持った事だし、寂しいと思う暇も無い。
それに放任している訳でなく、何かと気にかけてくれているのだから、後ろめたい事は何も無い、とハクトは思う。
そんな何かと心配性な母を心の中で労い、寝室からブランケットを取り出し背中にかけてやる。
そして一人で朝食を済ませ、『これを見たらベッドで寝るように。疲れが取れないよ』とメモ書きを残し、家を出た。
「――やっぱ筋力極振りが最強やと思うんよ」
急に妙な事を言い出した友人に向かってハクトは眉を歪めた。
「……体力と持久極振りで充分でしょ? 雷武器と呪術あれば」
そうすげなくハクトは友人――アカシに言い返す。
昼休み。机を付き合わせ、ハクトと一緒に昼食をとっているのは二人。
もう一人――サイトウは口を挟まず、黙々と食を進めている。
よって自然、会話はハクトとアカシの応酬のみとなる。
アカシは大げさに被りを振って、続ける。
「かぁっ、センセーは分かってないなぁっ。両手持ちから突如繰り出される四桁のダメージ……! 『隙を見せれば殺る』……そんな一撃必殺のロマンは筋力にしか醸し出せへんやろ」
「スズメバチ付ければ他のステ振りでもそれだけ出せるよ? というか、ロマンとか言い出す時点で語るに落ちてる気が……」
「おぅ? 言うたなっ、んなら脳筋に惚れさせたるわっ! ――っつう訳で、今日センセーの家に泊まりに行くから、よろしく~。一からキャラ作って、リレーでプレイしようや。月曜日は祝日やし、三徹できるしなっ」
唐突かつ図々しい友人の物言いにハクトは苦笑を返しながら。
「もう、いつも急なんだよ……。まぁ、大丈夫なんだけどさ。今日も母さん、遅出で朝まで帰って来ないから。ただ三徹は断固として断る。――っと。サイトウ君も来る?」
「ん」
一文字の返事と共に頷きを返したサイトウに、ハクトは笑みで応える。
不躾なアカシ、無遠慮な返しをするハクト、気の無い態度のサイトウ。
一見、他人からすれば気分を害しそうな言動を三人共してるが、それは互いが友人の距離にある証でもあった。
ハクトがアカシと知り合ったのは中学校に入ってすぐの頃だった。ひょんな事からマイナーなゲームの話で盛り上がり、そこから仲良くなった。そこに後になってサイトウが加わったという形だ。
ちなみに『センセー』というハクトのあだ名は、『昨今のTVゲームを網羅しとる!』と思えるほどのハクトのゲームについての知識に感服した事から、アカシが付けた物だ。不名誉なニックネームではあるが、ハクトは極端なインドア志向かつゲーマーなので、反論のしようが無い。
アカシはよく、親が留守しがちでやりたい放題できるハクトの家に泊りがけで遊びに来る。
今の誘いもその類のものだった。
アカシが『よっしゃあ、決まりやなっ』と勢いよく宣言した。
その時だ。
「――スズキ君、今日も学校に来てないんだって……?」
会話の切れ目になって、不穏なクラスメイトの発言が耳に飛び込んできた。
ハクトが思わず声の方へ向く。
そこにはハクトと同じ様に友人と机を付き合わせ、雑談に興じている女子の姿があった。
別の女子が、返す。
「それどころか、家にも帰ってないらしいよ? 母親が警察に連絡したんだって」
「それって例の『神隠し』? 最近、噂になってるよね」
「もしかしたら組織絡みの誘拐かもよ。十代の子ばっかに集中してるらしいし……警察も動いてるらしいよ」
「あっ! 昨日職質されたのソレ絡みだったんだ! 何にもやってないのにオカシイなって思ったんだけど!」
「嘘っ、マジ!? ホントにヤバイんじゃない!?」
それを皮切りに身近な問題と感じたのか、一気にその話題で女子達は盛り上がった。
だが、『怖いねぇ』などと言いつつも、面白がってるのが明らかな事から、何処か彼岸の火事を見物するかの様な感じを受ける。
ハクトは視線を戻す。友人二人も今の会話を耳にしたようだった。
「……だ、そうだよ? 泊まりに来るの、危ないんじゃない?」
いつも晩御飯の後に集まるのを見越した発言だった。
しかしアカシは。
「そうなったらそうなったでええやん。女子の話が本当やったら、多分妖精達に会えるで」
「……そのフェアリーって、ムキムキで男だったりしないよね」
「分かってるやん! さすがセンセー!! そしたらウチら、ドーテーの前にショジョを失うけどな!」
「ウホッ、アッー!」
最低なアカシの冗談に、サイトウが無表情のまま続いた。そんな二人にハクトは乾いた笑いで返した。
茶化せる、という事は当事者感や危機感を持っていないのと同義である。
彼岸――『あちら側』の事だと思っているのは、僕等も同じだった。
「――どうしてこうなった」
TV画面内の惨状に、ハクトは思わず呟いた。
頭を抱え、一しきり悩んだ後。
「……『筋力しか上げたらアカン』とか言って、持ってるソウルを全部筋力上げるのにつぎ込んだのが悪いんだ。どんな攻撃でもかすっただけで死んじゃうじゃないか」
「いや、サイトウ君が悪乗りして、万能鍵使っていきなり呪死状態に持ってったのが一番アカンやろ……ゲーム開始直後から体力半分縛りやで」
「……それを言うなら、ハクト君がプレイヤースキルを過信してどんどん奥に進んでったのも。ここ、被弾前提の敵配置」
一通り互いの罪を糾弾した後、揃ってため息を吐く。
要は、プレイしていたゲームは『詰んでる』段階に入っていた。
進む事も退く事も出来ない状態だ。
「……とりあえず休憩に、コンビニ行こっか」
ハクトの提案に、二人は頷いた。
時刻は、日付が変更される直前だ。
玄関を出て、マンションの塀の向こうに見える夜空には月が見える。
蒼く白く、夜闇をハッキリと照らす光だった。
その光によって、空に点在する薄い雲の輪郭が映し出される。
「あ~……もうこんな時間かぁ。補導されない様に、すぐ帰って来ないと」
「え? そこはエロ本立ち読みのチキンレースやろ?」
「うん、一人でやっててね。僕等は買う物買ったらすぐ出るから」
時間は刻々と零時に近づいていく。
しかしマンションは静寂に包まれ、変化は無い。
彼等が居る上階の廊下にも、階段にも、地上にある駐車場にも。
「ぐっ」
「えっと、サイトウ君……何で親指立ててるの? いや、僕は絶対参加しないからねっ。……何で二人とも無駄にテンション高いのさっ!」
そして、何処かの時計の針が、頂点を示した瞬間。
――全ての空間が、闇に包まれた。
「――――えっ?」
ハクトの呆けた呟きが響く。
その声に応じたかの様に、更なる変化が起こる。
空に、紅い光が灯った。
形状は真円。それが月である事は疑いない。
しかし、月はそんなに黒かったろうか。月の光はそんなに紅かっただろうか。
だからその光の出現は、『日の出』や『月が昇る』などの日常的なイメージからは到底かけ離れていた。
もし夜に『日蝕』が起こるとしたらこうなるのだろうか。そんな場違いな感慨を抱く。
紅い光は雲を徐々に照らし出していった。
先程まで薄黒く、透過して空を映していた雲は、その様相を完全に変えていた。
黒い月の紅い光によって、雲は尽く赤黒く染まっている。
風によってゆっくりと運ばれるそれは、夜空に漂う瘴気の様に思える。
そうして出来あがったのは、血肉をキャンバスにぶちまけた様な、グロテスクな空だ。
その異様に、三人は言葉を失った。
誰もが呆けた様に、ただ空を見つめるしかなかった。
「……あっはっはっ。今年は天体ショーの当たり年やけど、こんなん見れるなんて……本当にウチら、ラッキーちゃうん?」
長い沈黙を破ったのはアカシだ。
努めて明るい口調を作っているが、聞いてすぐそれを分かるくらいに、空々しい。
「……皆、手」
次に言葉を紡いだのはサイトウだった。
それを聞いて二人は弾かれた様に自分の両手を見る。
――いつの間にか、左手の親指に青い光が灯っていた。
その光はゆっくりと、蛍の光の様に、明滅している。
光源はいつの間にか親指にはまっている、指輪だ。
徐にアカシが右手の指で、その指輪の光に触れる。
瞬間、アカシの眼前に何かが現れた。
「うぉっ!」
呻くアカシの前にあったのは、親指の光と同じ色をした、『窓』だ。
ゲームやパソコン上に出てくる、メッセージウインドウを思わせるその内側には、文字があった。
アカシはそれを見て取り。
「何や、これ……」
その言葉を受け、ハクトとサイトウも自分の『窓』を表示させる。
ハクトは『窓』の文字を読み取る。
○ステータスポイントを決定してください
STR(筋力) ←5→
VIT(体力) ←5→
DEX(器用さ) ←5→
AGI(敏捷力) ←5→
INT(知力) ←5→
MEN(精神力) ←5→
PER(感応力) ←5→
LUC(運) ←5→
残りステータスポイント 0
≪決定≫ ≪やり直し≫
それを見て、考えても、ハクトの頭に浮かぶのは疑問符だけだ。
書いてある事はTVゲームなどでの、プレイ開始直後のキャラクターメイキングを思わせる。しかしそれが空の異常と、どうしても因果関係で結びつかないのだ。
「――あ~っ。こうして割振るんやな。じゃあ、ウチはやっぱり脳筋系にするかな」
そうハクトが悩んでいると、アカシは早くも状況を呑みこんだのか、しきりに『窓』にタッチして何やら操作をしている。
「ちょっ……アカシ君。この指輪が何なのかも分からないのに、そんな即断しちゃあ――」
「――じゃあ僕は魔導師系のステ振りにするね」
「サイトウ君までっ」
「とりあえず進めてみないと、何も分からないよ。ハクト君は自由に決めて良いよ。僕とアカシ君でバランスは取るから」
「そんな……」
煮え切らない態度を取るハクトを尻目に、二人は操作をどんどん進めていく。
「ハクト君、PERっていうのは……?」
「えっ、えっと……多分、策敵範囲に関わるステータスだと思う。FPS系のゲームで見た事があるよ。FPSではレーダーに敵が赤点で表示されるでしょ? 例えばその値が高ければ高い程、遠い敵でもレーダーに映せる、みたいな感じじゃないかな……」
「なる」
「おっ。次は職業設定かっ。え~っとこん中やと……ライトウォーリアやなっ」
「じゃあ、僕はクレリックにする」
「早っ。……というか、これRPGなの!?」
そんな感じで、二人がもうメイキングを完了してしまいそうな勢いだった。
慌ててハクトもステータスの割振りを始める。
まず≪STR≫の欄の、数値の左右にある矢印に触れてみる。右の矢印に触れても反応が無かったが、左の矢印に触れると、『5』の数字が減って『4』になり、≪残りステータスポイント≫が『1』になる。
試しに次は≪DEX≫の右の矢印に触れると、『5』から『6』になり、≪残りステータスポイント≫が再び『0』になった。
(なるほど……計四十のポイントを八つのステータスに割り振るんだ)
次に確かめるのは最大値と最小値だ。≪STR≫を減らし続けると『1』で左矢印の反応が止まる。
今度は≪VIT≫も『1』まで減らして≪DEX≫を増やし続ける。
≪DEX≫は『13』まで増えた。
そこからこの段階での上限は無しで、最小値は『1』だと言う事を読みとる。
(という事は、現段階での最大値は『33』で……それじゃバランス悪過ぎるから、多くても『9』に抑えるか。そうすると『9』に出来るステータスは四つ……)
そんな思考を経て、何とはなしに≪DEX≫≪AGI≫≪PER≫≪LUC≫の四つの値を『9』にしたその時だ。
「センセーッ! ちょっとこっち来てみっ!!」
「え、えっ!? まだステ振りの途中……!」
「もう一回指輪に触ったら、ウィンドウ閉じるから、早よ来ぃっ!」
「ああっ、もうっ」
半ば自棄になりながら指輪に触れウィンドウを閉じた後、アカシの元へ向かう。
アカシは自分のウィンドウを指さしている。サイトウは既に内容を見た様で、俯き、顎に手を当て、考え込んでいる。ハクトは覗きこみ、文字を読んだ。
○チュートリアル○
あなたは今、異世界にいます
あなたが元の世界に戻る為には、あなたを異世界に取り込んだ原因――≪母大樹の枝≫を取り除かなければなりません
≪母大樹の枝≫はあなたの今居る街に点在しており、恐ろしいモンスター達がそれを守っています
あなたは街を探索し、モンスター達を退けながら、≪枝≫を見つけ出さなければなりません
モンスター達の戦いには、あなたが今しがた授かった≪冒険者≫としての力が役に立つでしょう
お気を付けて――これは“ゲーム”なんかではありません
モンスターとの戦いに敗れ、殺されれば、現実と同じ様に死が訪れます
それでは――あなたの行く先に祝福を
「……何これ。何の説明にもなってないじゃないか」
荒唐無稽過ぎて、この文面をそのまま信じる事は出来ない。
また信じたとしても、『自分達は異世界に囚われているらしい』『モンスターが居て、それらに襲われる危険性がある』『ここから抜け出す為にはそれらと戦う危険を冒し、街を探索しなければならない』くらいの情報しかない。
どうやらこのメッセージの主は、この状況をRPGに見立てているらしいが、そもそも『ゲーム』として成り立ってない。
『ゲーム』とは、遊びだ。心身共にゆとりがある状態で行う、享楽なのだ。
この異常な空の下で。はめた覚えのない指輪をして。訳の分からない説明の上で行えるものではない。
そんな事をハクトが思っていると。
「――GANTZに似てる」
「……え? 何て言ったの、サイトウ君」
「ん。こういう、ロクな説明も無しに何かと戦わせられるっていう状況は、RPGっていうより……GANTZに似てるなって」
「えっと、エロでグログロな青年漫画だよね? 最近映画にもなった」
「……ハクト君の言葉が合ってるかどうかは置いといて。僕が言いたいのはそのGANTZと同じ様に――『本当に真剣に取り組まないと、死ぬかもしれない』って事だよ」
「――っ」
サイトウの言葉に、ハクトは戦慄を覚える。
不気味な空。異様な状況。そして今見たメッセージ。それらが合わさって、サイトウの言う事に説得力を帯びさせていた。
「大丈夫やって。とりあえずその≪枝≫を探そうや」
そんな中、能天気なアカシの声が二人にかけられる。
「アカシくんっ。こんな状況でよく気楽で――」
「――気楽に行かなしゃあないやん。この場に留まって頭悩ませても答え出んやろし。とりあえずヤヤコシイ事は後回しにして、とにかく動こうや。それにな――」
アカシが自分の腰を指さす。
そこにはいつの間にか鞘に収められた剣があった。長さと形状からして、歩兵用に作られたショートソードだろう。
「――職業決めたらいつの間にか付けとったわ。……こんなん見たらワクワクしてこぉへん? RPGを自分達の身体で、リアルに体験できるんやで? もうそれ考えたら早よ試しとうて試しとうて、しゃあないわ」
にかっと笑うアカシ。
ハクトは目を見開き――いつもの様に呆れ混じりのため息を吐いた。
……アカシの言葉を額面通りに受け取った訳ではない。
いくら軽い性格だとは言っても、こんな異常な状況下……まともな精神でいられるはずがない。
それでもアカシはいつも通りに振舞って、三人の不安をどうにかしようとしていたのだ。
今も震えている、剣を指さす手。それを見て、悟った。
「……分かったよ。こうなるのを夢見なかった訳じゃないしね。リアルRPG――プレイしてみようじゃないか」
ハクトはアカシに乗り、不敵な言動を作る。
それを見たアカシは破顔し、地上へと続く階段の方へと振り向く。
「よっしゃぁっ!! 目指せぇっ≪母大樹の枝≫っ!! 倒せぇっモンスターッ!!」
「オー」
「……ってちょっと待ったっ! 僕まだステ振りも終わってないっ!!」
そうしてサイトウ、アカシ、遅れてハクトの順に、マンションの階段へ向かう。
サイトウが下へ向かう階段へ、アカシが上へ向かう階段の前へ差し掛かった時だ。
――ヒタヒタと足音を立て、階段を降りてくる存在があった。
三人はそれに気付き、上階への階段の方へ視線を向ける。
異形が、そこに姿を現した。
全身は裸。胸にある乳房から女性である事が見て取れる。しかし。
上腕、そして脛から先がビッシリと体毛で覆われている。人間のそれではなく、動物のそれを思い起こさせる毛並だ。
頭部を見ると、二足歩行生物のシルエットとは裏腹に、山羊の様な頭骨があり、そこから蛾のそれを思わせる二本の触角が角の様に伸びている。
人間に近い身体の造りと、頭部の特徴から悪魔……バフォメットを連想させる姿だ。
そしてその右手には――成人男性の背丈ほどもある、巨大な鉈が握られていた。
鉈は石塊の様な鈍い色彩に、至る所にべっとりと付いた赤黒い染みと付着物で彩られている。
その異様を見て、三人は背筋が凍ったかのように固まった。
その間にハクトは頭上に、先程自分達が見ていたウィンドウのものと同じ様な文字が浮かび上がっているのを見てとった。
そこにはこう書かれていた。
“The Reaper”
徐にその異様は片手に持つ得物を振り上げ――降ろした。
超重量を持つそれはゴウ、という風鳴りと共に――目の前に居たアカシに振り下ろされる。
危ういタイミングで、後ろに倒れ込む様にしてアカシは後退する。
アカシの眼前を、鉈が通り過ぎる。
鈍い轟音と共に、コンクリートに鉈の刃が突き立った。
異様はゆっくりと、コンクリートから刃を外し、また頭上に持っていく。
呻く様にして『ひ』という一音を断続的に漏らしながら、アカシは後ろに下がろうとする。
だが腰を抜かしてしまったのか、身体が上がらず、震える手でじりじりと後退するしかなかった。
再度、刃が振り下ろされようとする。
――その時。
「ファイアボール――!!」
そんな一声と共に、異様の頭部に爆炎が生じる。
その衝撃で異様は怯み、斬撃を中断した。
同時に二つの影が上階から飛び出――アカシと異様の間に着地した。
一つの影はアカシの腕を掴み、立たせ、異様から距離を離そうとする。
もう一つの影は異様の前へ立ち塞がり、三人と異様の間で対峙した。
「下の階段に居るもう一人は任せたぞ! アキラっ!!」
「――了解だ。お前はその二人を頼む、シュウ」
アキラと呼ばれた者は背中にある長大な大剣を抜き放つ。
シュウと呼ばれた者は、アカシとハクトを押し出す。
「逃げるぞっ!! 走れっ!!」
戸惑う二人は、それでも声に従って走り出す。
その場を去る前に、ハクトは後ろを振り返った。
大剣が風を切って振り上げられた。
鉈が唸りを上げて振り下ろされた。
打ち合わされた刃が火花を散らし――二つの刀身は弾かれ、離れる。
アキラはサイトウを背にする様に後退しながら、異様の斬撃を弾く。
異様はアキラに向かって執拗に鉈を振り下ろす。
それはファンタジーの再現だった。
――悪魔と剣士の戦い。
遠ざかる両者を見ながら、ハクトはそう思わずにいれなかった。
マンションの西側の階段――先程居た場所とは反対側の吹き抜けに、三人は居た。
シュウは息を切らせながら、ハクトとアカシは先程までの戦慄が冷めぬまま呆然としながら。
離れた場所で、金属が打ち合う音が聞こえる。戦闘音。未だアキラが魔物と戦っている事を表している。
シュウは息がある程度整うと、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「良いか……? 時間が無いから必要な事だけ話す。その指輪がパラメーター設定しろっつってきただろ? それが終わるとその設定に応じた力が与えられる。例えばSTRが1だったとしても、何割かは腕力が増す。それだけでも全然違うからな。まだ設定してないなら早くやっとけ」
言われ、ハクトは震える指でウィンドウを呼び出し、設定を行っていく。
『早く』という言葉に従い、何も考えないまま、決定を押す。
そして次に職業一覧が現れる。内容を吟味しないまま、『さっきのパラメーターに合った職業は……』という考えに従い、≪シーフ(盗賊)≫の職業を選択する。
『この設定で良いですか?』という問いには迷う事無く『はい』を。
後は先程アカシに見せてもらったメッセージが現れたので、すぐさまウィンドウを閉じる。
自分が取り返しのつかない事をしてしまった事に、気付くはずも無かった。
ハクトが操作している間にも、説明は続いた。
「指輪のメッセージに、モンスターが出るってあったよな? そいつ等には種類があって、名前の頭に“The”の付く奴を、俺等は『特異個体』って呼んでる。……要はボスキャラなんだよ、さっきのは。かと言って逃げられない訳じゃないから、普通は戦闘は避けるんだけどな……」
「じゃあ、何で……」
助けてくれたのか。途切れた言葉からシュウは続きを読みとり、答えた。
「“この夜”が初体験な奴等を見て、放っとけるか馬鹿。俺はすぐアキラの援護に戻る。お前等二人はできるだけこっから離れて、≪枝≫を見つけて来い。距離にもよるけど、それで俺等も帰れるから。もう一人のツレは俺等に任せとけ。俺とアキラが揃ってれば、ソイツ連れて逃げるなりなんなり出来るから」
ハクトがシュウを見つめた。乱れる感情は治まらず、顔に出ている様だ。
シュウは子供を宥めるように、ハクトの頭に手を置く。
「大丈夫だ。『特異個体』が他にも居る可能性は低い。雑魚が沸いてるかもしれんが、落ち着いて戦えば、初期状態でも十分対処できるから」
――違う。
ハクトは思う。
シュウが言う様に、不安も恐怖もある。
だが――彼とその仲間に戦場を任せて、自分だけがおめおめと逃げ出すのに、後ろめたさを感じていたからだ。
命がかかっているのは、先程までの体験で良く分かった。
でも、この二人は命を懸けて、自分達を助けてくれようとしている。
――僕達も援護に加わった方が。
そう言い出せない自分は、弱くて、情けなくて。
そんな自己嫌悪をハクトは拭えなかった。
「……よし、じゃあ行こう。お互い、また会えると――」
――その時。
今まで空間を震わせていた戦闘音が、唐突に消えた。
アキラが魔物を倒したのか。それとも……。
どうしようもない不安からか、シュウが吹き抜けを上がり、アキラが居る東側の階段の方へ向いた。
ハクトとアカシは思わずそれに続き、廊下を見る。
その向こうには――
◆
時間は少し遡る。
空間を彩る火花が剣戟の結果として生じている。
超重の石塊が振るわれる。それを鉄の大剣が弾く。
――要領はバットのスイングだ、とアキラは思う。
スイングは腕の力だけで行わない。足首から腰へ、腰から腕へ、腕から手へ。その絶え間ない連動がボールを飛ばす力を生む。
そして捉えるのは、目標の芯だ。刃ではなく、鉈の側面を狙い、振り切る。
そうすれば力は無駄なく伝えられ――例え相手の得物がこちらの数十倍のものだろうと弾く事が出来る。
そうしてアキラは数合打ち合い、相手の斬撃の全てを問題無く捌ける事を確認する。
相手が斬撃に込める力も――どうすれば相手の力に打ち勝てるかも。
次の剣戟。アキラは自身の得物――クレイモアをフルスイングする。袈裟がけに振るわれた鉈は、横に大きく打ち払われ、敵の身体がバランスを崩す。
勿論自分も反動で剣を大きく弾かれている。だがアキラはその反動に逆らわず、従い、回転を始める。そして両手武器スキル≪アクセルターン≫を始動させた。
≪アクセルターン≫は身体を一回転し、長柄の武器を遠心力で横に薙ぐという動きを行う。
故に、アキラが描く動きは――回転しながらの横振りの一撃だ。
がら空きになった胴に、強烈な斬撃が入る。クレイモアの刃が走った通りに、血飛沫が迸る。
アキラはそこで止まらない。動きを制動して、逆袈裟の一撃。
重い連撃に、敵は怯む。
アキラは追撃をかける。クレイモアは斬撃も刺突も可能な両刃の大剣である。自身の加重、クレイモアの自重……それらを合わせた、渾身の突きをアキラは放った。
――敵が鉈を振り上げた。
だが遅い。刺突を終えた後に、バックステップを行える。アキラはそんなタイミングで攻撃を放った。
クレイモアの刃が、敵の胸肉に突き立つ。急所は外してしまった。これでは仕留めきれない。だがこれまでの応酬で充分に対抗できる相手だという事を感じ取っていた。戦闘が長引いても問題は無い。
刃を抜き、飛び退く為に脚に力を込めた。その時。
今まで片手で振るっていた敵が、もう片方の手を、鉈の柄に添えた。
――そして猛烈な勢いで、石塊が振り下ろされる。
速度は先程までの倍近い。
避けきれない。そう判断したアキラはクレイモアを掲げ、その斬撃を受け止めようと試みる。
……しかし。先刻まで何倍もある質量を弾き続ける事が出来たのは、何故だったのか。
その考えに至るには、残されていた時間は短すぎた。
――クレイモアが叩き折られ、巨大な刃が自分の身体を通り過ぎる。
バックステップを始めていた事から、斬撃をもろに受ける事は避けられたはずだ。だが。
右肩から脇腹にかけて、猛烈な熱を感じる。ただ、熱かった。
力が、抜ける。武器を取り落とし、身体が崩れ、膝が床につく。
右半身の感覚が無い。見やると、床にはクレイモアと、その柄を握ったままの右手が。
――ぶしゅっと、何かが吹き出る音が自分の身体から聞こえた。
呆けた様に、見上げた。
悪魔が、振り上げた鉈を――
視界が宙を舞う。二転三転する視界。
ようやく定まって、アキラが目にしたのは。
視界の半分近くを占めるコンクリートの床。悪魔の背中。
それに恐怖で崩れ落ちている、先程まで自分が助けようとしていた少年。
――助けないと。
そんな思考を裏切り、身体は動かない。そもそも、身体の感覚が無い。
やがて悪魔は少年の頭部を鷲掴みにする。
肉が千切れ、骨が折れる音が響き――脊髄ごと少年の首は引き抜かれた。
その光景を最後に見て。
アキラの意識は完全に寸断された。
◇
――その向こうには、悪魔の姿があった。
手には無造作に掴まれた、二つの丸い物体。大きさはバレーボール大。物体から伸びている毛の様な物を握り、悪魔は二つまとめて掴んでいる。
片方には尾の様に長い物が付いているが、二つとも共通したナニカだという事を、アカシには理解できた。
ボタボタと、雫をしたらせ、悪魔と一緒にその二つはこちらに向かってくる。
そしてこちらに近づいた事で、その物体の形を見て取る事ができた。
そのナニカは、見覚えのある顔を張り付けていた。
そう、アカシには見覚えがある顔だ。
先程自分達を助けてくれた男の顔と。
先程自分達と遊んでいた少年の顔と。
その顔の一つは、眠る様な表情で。
もう一つの顔は、苦痛と苦悶に歪んだ表情で。
何でその二つの顔が、そこにあるのだろう。何で顔だけが切り取られた様に、そこにあるのだろう。
さっきまで。さっきまで遊んでいたのに。さっきまで自分達の為に戦ってくれたのに。
何故友達の顔が――サイトウの顔が何故そこまで歪められ、残酷に切り取られ、ただの物の様に扱われるのか。
何故。何故。何故。友達だったのに。一緒に遊んでくれたのに。一緒に笑ってくれたのに。一緒に楽しんでくれたのに。何故。何故。何故。何故。何故何故何故何故何故何故――
――全てを理解した時、アカシの感情は暴発した。
身を震わせる恐慌。それをわずかに上回る、脳を焼く憤怒。
思考は消失している。ただ許せないという想いがあった。
――獣の様に雄叫びを上げながら、アカシは悪魔に突進した。
鞘から剣を抜き放ち、悪魔に向かって斬りかかる。
技巧など無い。感情に任せ、がむしゃらに剣を振るだけの一撃。
剣が悪魔の肉を裂く。だが足りない。まだ殺せない。
もっとだ。もっと。もっともっともっと……!!
視界が赤い飛沫で染まるまで、アカシは剣を振るい続ける。
それでも目の前のモノは消えない。
これほどまでに憎いのに。今すぐこの手でその何もかもを斬って、消し去って、殺し尽くしたいのに。何度腕を振るっても、無くなってくれない。
――唐突に、アカシの視界が真っ暗になる。
頭に感じる、万力の様な圧力。全身が感じる、嘘の様な浮遊感。
そして、巨大な物体が自分の腹に突き入れられる感覚があった。
血が、肉が、内臓がそれに押しのけられ、逃げ場を失った一部が、口から溢れだす。
「ぉ、ぼっ……」
喉が血で溺れ、声が発せない。
意識が薄れていく。どこまでも深い、深淵に堕ちていく様な感覚。
そしてアカシが最後に感じたのは、更に強まった頭部への圧力と、水気混じりの破砕音だった。
◇
ハクトは恩人と友人の首が地面に打ち捨てられ、もう一人の友人が無残に殺されていく光景を見せつけられた。
前に立つシュウの背中越しに、全てを見届けた。
時間が凍った様だった。実際には刻一刻と状況が変化し続けているのだが、脳がそれを受け付けてくれないのだ。
恐ろしく静かで――残酷な時間をハクトは味わっていた。
アカシの頭部を潰した後、悪魔は鉈を振ってそこからアカシの身体を引き抜く。まるで汚物がこびり付いたかの様な扱い。
……相手には良心の呵責も無いし、自分達を殺める事に対しての躊躇も無いのだろう。
僕達が地面に這う虫を踏み潰す様に。アイツは自分達を殺しても、微塵も心が動かされないのだ。
そんな事が読み取れる行動だった。
そして悪魔はこちらに悠然と歩み寄ってくる。
死が、暴虐が、残虐が。ゆっくりと、確実に迫ってくる。
「――逃げろ」
前方から声が聞こえる。
視界の端に意識をやると、シュウが背中を震わせているのを捉えた。
恐怖か。怒りか。それを今推し測る事は出来ない。
シュウは右腕を掲げ、火球を生み出した。
そうしながらも、シュウは繰り返す。
「逃げろ。頼む……逃げてくれ」
言葉が継がれる度に、火球が悪魔に放たれる。
しかしそれを受けても、悪魔はそれを意に介さない様に、ただゆっくりと前進を続けている。
視界が大きく歪む。そこでハクトは初めて自分が涙しているという事に気付く。
それでもハクトは涙を拭わない。前を見据え、眼の前の光景の全てを見届ける為に。
シュウは続ける。
「逃げて……お前は――お前だけは、生きてくれ」
それを聞いて、ハクトは確かに思った。
――嫌だ、と。そうはっきりと、ハクトは思った。
悪魔の頭上を見やる。“The Reaper”という名前。
先程まではウィンドウと同じく青色だったそれは、今では赤色に変わっていた。
――思った通りだ。
最早、別の誰かの物の様になった思考を、ハクトは続ける。
――これはチャンスだ。
アキラが、アカシが、そしてシュウが加えた攻撃で、着実にダメージは与えられていったのだ。
故に、敵の名前の色が変化したのだろう。
――倒せる。今なら、倒せる。
右手を腰に伸ばし、いつの間にか帯びていたナイフを鞘から抜き放つ。
そして足が一歩目を踏み出し――口から叫びが上がった。
「……ぉぉぉぉおおおおあああああああああっっっ!!!」
弾かれる様にして行われた疾走。
視界の端は歪み、高速で後ろに流れていく。はっきりと映っているのは敵の姿のみ。
現実感が無い速度。恐らく脚力が強化されたのだろう。そんな速さでの動きの中でも、やるべき事は見失わない。
相手は迎え撃つようにして鉈を振りかぶる。横振りの斬撃。
敵の目前で立ち止まる。かがむ様にして斬撃を避ける。頭上を猛悪な勢いで風が流れた。
そしてまた前へ進む為の一歩を。
先程より、更に力を込めて。
――置いていかない。
ハクトは想う。
そんなのは嫌だ。“もう”誰も悲しみの中へ置いていかない。皆――僕が連れていく。
殆ど忘我の淵にある僅かな意識が、そんな思考を残していった。
勝機はある。
名前の表示からして、恐らく相手の体力は僅か。
捨て鉢でも攻撃を繰り返せば、倒せる見込みはある。
その為に前へ。立ち塞がる死へと向かう。
そしてそれを穿ち壊す為に――疾走の勢いの全てを乗せて手に握られたナイフを突き出す。
鈍い音と共に、刃が相手の胸に突き立つ。
だが、浅い。一センチも沈み込んでいない。
だからそこで止まらない。柄を掴む両手に渾身の力を入れ、押し込む。
そして伝わる感触を頼りに、ナイフを捻じりながら、相手の筋繊維の隙間を探る。
「――ぁぁぁぁあああああああああ!!!!」
自身の絶え間ない絶叫。ただ叫ばずにはいられなかった。自分を突き動かすものに従い、叫び、力を込める。
ゆっくりと、確実に刃が奥へと進んでいく。
ふと、相手の片腕が上げられた。
角度は垂直。恐らく刃ではなく、柄での一撃を狙ったものだ。
それも構いはしない。最早自分の何もかもが壊れても良い。目の前の相手を倒せるのなら。
直後――鉈から爆炎が上がった。
それが誰によってなされたのか、考えるまでもない。
爆発の勢いによって重心が崩され、得物の自重によって相手の身体は後ろへと崩れていく。
ハクトは離れない。相手ごと倒れるつもりで身体を前へ押し込み続ける。
巨体が背中から地面に倒れる。そこに覆いかぶさる様に倒れた勢いで、刃がまた少し前進する。
もう刃の殆どは相手の身体に沈み込んでいた。
ふと頭に圧力がかけられた。そして自分の身体が上に持ち上げられていく。ナイフを掴む手が離れた。
浮遊感。頭部に込められる力。頭蓋からみしみしと鳴る音。増していく鈍い痛み。
それらに抗う様な、獣の様な唸り声が自分の口から洩れる。
しかし。自分の頭を掴む手が、徐々に沈む。軋む音が、千切れ砕ける音に変わっていく。
――また爆発音。
衝撃と共に自分は解放され、また浮遊感を味わった。
それでも戸惑いはしない。自分がそれだけを為す為の、機械となった様な感覚。
もうそれだけしか考えられない。
眼下を見据える。相手の胸から生える様にして在る、ナイフの柄。
落下と共に、ハクトはそれを自身の足で踏み込んだ。
沈む感触の後に、足から抵抗を感じた。
その瞬間に後方へ跳ぶ。
滑る様に地面に着地し、前を見据える。
……ゆっくりと立ち上がる、悪魔の姿。
徐に胸に突き立つナイフを掴み、無造作に引き抜く。
瞬間。間欠泉の如く赤黒い液体が勢いよくそこから噴き出した。
途端に勢いは止むが、それでもどくどくと絶え間なく液体は流れ続ける。
悪魔は歩く。
一歩、二歩……三歩。
痛みも感じないのか、その歩みに淀みは無い。
――しかし。
唐突に悪魔の身体が崩れ、両膝が地面に付く。
そのまま前へ倒れ、そして……ピクリとも動かなくなった。
――静寂。
数秒の間、自分の世界には音が無かった。
それが徐々に戻っていく。
荒い自分の呼吸音。後ろから感じる、こちらに近づいてくるシュウの足音。マンションを流れる微かな風の音。
次に、視界に意味が戻った。
単なる映像でしかなかったそれの意味を理解していく。
倒れた悪魔の身体。
壁に打ち捨てられたアカシの死体。
コンクリートに転がる、二つの生首。
――堰が切れる様に、感情が溢れた。
滂沱の様に涙が溢れる。
身体が震え――叫びの様な嗚咽が漏れた。
肩に手が置かれる感触。背後に佇む気配。
それを感じながら、ハクトはただただ――泣き続けた。
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