『ケモナー』さんは語りたい
私は『獣人』が好きだ。
特に、狼系の獣人が好きだ。
ただひとつだけ。勘違いのないよう、これだけは理解しておいてほしい。
私はーーーー『獣耳』はそんなに好きではないのだ。
※
『獣属性』。
これは日本のサブカルチャー世界において、ひとつのジャンルとして確立しているといっていいだろう。
おそらく、いわゆるオタク好きする普遍的な『萌え絵』を思い浮かべた際に、それが『猫耳を生やした美少女』である確率は非常に高いと踏んでいる。
どんなにライトなオタクであろうと、一度ぐらいはその要素が絡んだ作品をたしなんだことがあるだろう。それぐらい、『獣属性』はサブカルチャー内で浸透している。
しかしその『獣属性』は、一口にまとめてくくることができない、くくって欲しくないジャンルでもある。その属性を有する者のなかでも、嗜好の方向性はかなりの分化がみられるからだ。
これを語るには、まず『獣人』について考察せねばなるまい。
サブカルチャー世界において創造されるキャラクターたちは、この人間社会における様々な要素からその姿かたちが与えられているのは今さら語るべくもないが、そのなかで、“獣”と“人”の混合……すなわち『獣人』が生み出されたのはかなり初期の段階だ。
これはもともとオカルト世界において、すでに獣としての特長を有する人間が創造されていたことからもわかる。
狼人間(ワーウルフ、ルーガルー)しかり、パン妖精(山羊の角と下半身をもつ人)しかり。
これらが創造されたのは、人が文明をもち、『人の世界』と『獣の世界』を別けて考えるようになったからだ。人には人の営みがあり、獣には獣の営みがある、といったものだ。
分化したからキッチリ区分されるかというと、実はそうではない。人はなにかしらの“集合”を設けると、いずれ必ずそこから外れた例外を考えるからだ。
それはつまり、『純粋な獣ではなく、また純粋な人間でもない存在』、あるいは『獣であると同時に人間でもある存在』。
それは獣と人のあいだの子……すなわち、『獣人』である。
そしてあいだの子である以上、考察が進めば必ず至るのは『その獣人はケモノに近いのかヒトに近いのか』という問題だ。
サブカルチャーのみならず、あらゆる創作世界において獣が人間性、すなわち知性をもつことは珍しくない。
肉体的には完全な獣でありながら人間の言語を理解し、ときに人間よりも高潔な精神性をもつ存在として描かれることもある。これはかつて力強い獣たちを神の使いとして崇めていた時代のなごりだろう。
とはいえ精神面まで語っているとキリがないので、今回は身体的特長のみにしぼって話を進めよう。
反論を覚悟して独断するならば、ヒトが猿(獣)から人間になった瞬間、すなわち“二足歩行が可能になった姿”が『獣人』としたい。
四足歩行から二足で立ち、両手で物を扱えるようになって初めて身体的に『人』としての要素が入ってくるといえる。
おそらくこの状態の『獣人』として想起しやすいのは、正統派な西洋ファンタジー世界における“犬人間”、“猫妖精”、もしくは“トカゲ人間”であろう。
顔の造形はほぼ獣の状態を保ち、体毛、肉球、爪、鱗、尻尾、水掻きなどの特長をもったまま二足歩行での活動を可能にしているものだ。
のちの考察で区別するためにここでこのタイプの獣人を『原獣形獣人』と呼ぶこととする。
ちなみに、体の一部分のみを完全に人化させたものを『獣人』とすることもある。
例としては日本の都市伝説“人面犬”、エジプトの“スフィンクス”、ギリシャ神話の“ラミア”などがあげられるが、これらは“合成獣”的存在として扱い、申し訳ないが今回は考察から除外するものとする。
近年のモンスター娘な創作は筆者も好きだが、話が進まないのでその辺は察してほしい。いや本当に。
さて、話を戻そう。
先の“犬人間”は二足歩行以外はほぼ獣とおなじ特長を残しているかたちをイメージしたが、昨今の風潮ではそうでないものを『獣人』とすることも多い。
有り体にいえば、人体の“耳”のみを獣のものと互換させたもの、もしくはそれに尻尾がつくこともあるもの。
俗にいう“猫耳”ないし“犬耳”、すなわち“獣耳”である。
ここではそれらを区別して『部分的獣人』と呼称したい。
この『部分的獣人』が生まれた背景にはおそらく、人間には無いパーツであることと、彼ら『獣人』が元来もつキャラクター性によるところがおおきいと思われる。
現実の獣を観察すると、彼らが“感情”をおもてにだす際に動くのは“耳”、“尻尾”、そして“体毛”である。
犬ならば機嫌がよく嬉しければ“尻尾”を振り、怯えて悲しければ“耳”を伏せて“尻尾”を股下にたらし、威嚇する際には“体毛”を逆立てて怒りを表現する。
おそらく、かつての表現者たちはそんな動物たちの感情表現を人間に備えさせてみようとしたのだろう。
漫画的な絵画において、“喜怒哀楽”の表現は基本である。そしてその方法のヒントを身近な生き物たちから得ることは決してありえないことではないだろう。
こうしてみると『原獣形獣人』が“獣”から“人間”に近づけるべく創造されたものであるのに対して、『部分的獣人』は“人間”をもとに“獣”の要素を盛り込んで創造されたものであると考えられる。あえていうなら『原獣形獣人』は“獣寄り”、『部分的獣人』は“人間寄り”ということになる。
昨今のサブカルチャー世界においても、『部分的獣人』として描かれるものはやはり性質的にも人間寄りの場合が多い。人間社会と友好的であったり、どこか野性的な部分を失った“ペットとしての獣”のイメージだ。
反面、『原獣形獣人』は生活の基盤やもっている価値観が人間とは違っていることが多い。つまり『獣としての感覚』が強いのだ。
さきに断っておくと私は別に『原獣形獣人』と『部分的獣人』のどちらが優れているかを語りたいわけではない。すでにどちらもキャラクターとして確立している以上、どちらも好きなだけ愛でれば良いとおもう。
しかし、出発点がちがう以上はその向ける好意の種類も違ってくるのは当然だとも思うのだ。
『部分的獣人』を好む者は、いうなれば『獣性を有した人間』を好むのであって、これは出発点が漫画的表現を好むサブカルチャー好きである傾向が強い。
対して、“獣寄り”の『原獣形獣人』を好むのは、もとから自然界の生き物が好きな動物好きの者だ。元来からの猫好き・犬好き・獣好きの人間がそれらを描く作品を手にとっているのである。
ちなみに私は幼少期に動物を取り扱った学習漫画を多数読みあさり、本好きとなってシートン動物記やファーブル昆虫記を経由していくうちに中学でサブカルチャーへと出会い、開花したオタクである。
むろん漫画が好きであることは否定しないが、今でも毎週のようにNHKの動物番組を観て、猫の写真集を衝動買いすることが頻繁にあるのをかんがみると、やはり“動物好き”が源流にあることは否定できない。
そんな私を『ケモナー』と呼ぶことはなんらおかしくはなく、そしてそれを恥じる必要が私には感じられない。
『ケモナー』。
それはサブカルチャーにおける“獣”をあつかった作品を率先して愛でる人間の俗称である。
そう、私は『ケモナー』である。
獣を愛し、人外の営みに想いを馳せる『ケモナー』である。
人の世界に媚びることなくそこに在る、彼ら独自の文化と生きざまを目に映し、理解せんとつとめる『ケモナー』である。
ゆえに、故にだ。私は声に出さずにはいられない!
『獣耳娘』は、ケモナーの範疇ではないのだと!
私は、『猫耳と犬耳、どちらが上か?』というオタクの至上命題にも忌避感がある!
猫耳? 犬耳?
なにを馬鹿なことを言っているのだ! 獣人を耳単品で語るでないわ愚か者が! 獣耳はファッションアイテムの一部ではないだ!
そう、獣人の良さとはその造形だけではない! その“獣”としての性質すべてに愛でるべき要素が盛り込まれているのだ!
時に飼われて媚びへつらい、
時に交わらず孤高を貫き、
時に友として隣に立ち、
時に敵として牙と爪を突き立てる。
嗚呼、その自由な生きざまの美しきかな! それを愛でてこその『ケモナー』!
中身を見ずに外側のかたちだけで物を判断しようなど失笑に値する!
え? じゃあ獣耳娘は嫌いなのかって?
ナ ニ ヲ イ ッ テ イ ル ン ダ キ ミ ハ !
家猫系の三角耳。
山猫系の丸型耳。
ビーグル犬系の垂れ耳。
長毛犬系の柔らかな毛並みの耳。
秋田犬のような丸まった尻尾。
猫のようなしなやかで長い尻尾。
それらを女性が装着したときの愛らしさは……………………たまりませんわなぁ、それは。
猫耳に罪はない! 犬耳にも罪はない!
罪があるのはすべてをひとまとめにして『なんかこーいうのが好きなんだろお前らは』的な視線を向けてきやがる自称一般人どもだ!!
…………失礼。少々興奮してしまった。
ともかく、獣人は素晴らしいのである。
私もいちケモナーとして、『獣属性』を愛でる者として、これからも一層彼らを愛でていく所存である。
今回の論に何らかの意見のあるかたは是非とも御一報いただきたい。膝を交えて語り明かしましょう。
とりあえず、語りたいことも言えたので今回はこの辺で。それではまたいつか、何処かでお会いしましょう。
反論も批評もばっちこいです。