第3章 その7
ラザラスに渡された皮袋の中を覗き、パーキン・ゴールドワーカーは「えっ」と頬を引きつらせた。ずっしりと重みはあるが、何度見ても詰まっているのは銀貨だけだ。光り輝く祝福されし貨幣の王、パトリア金貨は一枚もない。
(なんだなんだ? ふざけてんのか、このコットン貴族! あんなに危ない橋渡らせといて報酬がこれっぽっちとはどういう了見だ? くそ、ニヤけ面して笑いやがって! てめえの三白眼にはてんで似合わねえその下まつげ、端から全部引っこ抜いてやろうか!?)
「何かな? まさか取り分に不満でも?」
「いやー、ハハハ! 滅相もない! あのう、だけどラザラス様、確かボク、借金を帳消しにできるくらい報酬は出してやると言われた覚えがあるんですが、これではちょっと清算しきれないと申しますか、つまりですね」
「おや、君は私の想定の上をいく負債者だったのか。よろしい、面倒をかけたことだし同じ金袋をもう一つ用意してやろう」
「わあー! ありがとうございます! ……あの、ですが、ちょっと申し上げにくいんですが、それでも全然あのクソヒゲへの返済額に届かな――」
「ほほう、まだ私に文句があると?」
落ち目とはいえ今なお権勢を誇る貴人が問うと取り巻きの荒くれどもが一斉に剣を構える。ヒエッとパーキンは後ずさりし、刺激しないようにへりくだりながら「いやいや、これは文句ではなく最初の約束の確認で」と食い下がった。
「君は少々自分の働きを過大評価しすぎではないかね? 最初に我々を手引きしただけで後はおろおろ眺めているだけだったのに、これ以上を望むのは強欲というものだ。職人階級には十分な財貨だろう? 喜んで拝領して、さっさと北パトリアの田舎へ帰るのが賢明な選択だと思うがね」
これ以上話すことはないとばかりにラザラスがパチンと指を鳴らす。するとパーキンは屈強な衛兵二人に肩を掴まれ、有無を言わさず第一商館の裏口から放り出された。
「いてッ!」
強かに打ちつけた腰を涙目で擦る。遅れてぽいと投げられた金袋は二つとも腹に直撃した。だが今は痛みに屈している場合ではない。
「ま、待ってくださいラザラス様! 俺ほんとにこんな額じゃ……ッ!」
無情にも扉は目の前で閉ざされた。門番役の用心棒に「いらねえなら貰ってやろうか?」と報酬に手を伸ばされ、咄嗟に金を抱え込む。
「ふざけんじゃねえ! こいつは俺のもんだ!」
「なら持ち主不明の落とし物になる前にカーリス人居留区を出てくこったな。お前さんには不足でも、それだけありゃあ身を立て直せる乞食商人はわんさかいるんだ。ったく、金物職人ごときがどうすりゃ街一つ買えちまうほどの借金拵えられるんだよ?」
「金物職人じゃねえ! 金細工職人だ!」
「どっちでもいいっての。ほら、ぐずぐずしてっと囲まれちまうぞ?」
愉快げに顎で通りを示されて、パーキンは背後を振り向いた。もう既に何人もの悪党どもが商館裏手に集まり始めている。リマニの裁判官が口を挟めない自治区内で乱暴を済ませてやる腹なのだ。
「ッ……!」
ゲッと思う間もなくパーキンは駆け出した。だが重い銀貨を二袋分も担いでいるので思うように走れない。厚顔無恥な泥棒たちは「ちょ、待てよ!」「その金で一緒に楽しもうぜ!」などと身勝手なことを叫びながら全速力でこちらに迫った。
「アホか! 多重債務者に奢らせようとしてんじゃねえ!」
「やかましい! そんだけ借金してりゃ二、三十万ウェルスくらい誤差の範疇だろ!」
「そうだそうだ! 有効に使ってやるから俺らにその金よこしやがれ!」
なんという滅茶苦茶な理屈だ。だが盗人どもの主張にも一理あった。確かに膨れ上がったこれまでの負債と比べたら銀貨一袋分程度どうということもないはした金である。
「よっしゃ、そんじゃ丁寧に拾いな!」
右脇に抱えた金袋を豪快にぶちまけると身軽になったパーキンは鳥のように居留区の角を曲がった。狙った通り追ってくる足音はしなくなり、悠々と危険区域を脱出する。
(しかし弱ったな。一体これからどうすりゃいいんだ?)
パーキンは裏町風情漂うカーリス人居留区を仰いで長いもみあげを掻いた。完璧な返済計画だと思ったのに、これでは借金のカタに持っていかれたアレを取り返せないではないか。
(当てが外れたぜ。ラザラスの下まつげ野郎がアレの価値をわかってねえから……)
いや、わかっていたら今度はあの下まつげ馬鹿に奪われていただけか。ああ、本当にこの先どうすればいいのだろう。アレが手元に戻らなければ俺の人生はおしまいだ。
(諦めるな! 考えろ! まだ挽回のチャンスはあるはずだ!)
うんうんと唸りながらパーキンは港通りを南に上った。とにかく今後は迂闊にカーリス人居留区に近づけまい。彼らに協力してやったのは事実だが、もう小金をせしめたよそ者としか見てはもらえないだろう。切り札があるとすれば連中と共謀してさらった子供だけなのだが。
(てめえのガキと引き換えになら、どんな非情な金貸しだって借金の額なんざ忘れてくれるに決まってる。どうにかしてラザラスを出し抜いて、可愛い坊やをこっちの手に入れるんだ)
「――ん?」
と、パーキンは異様な人だかりに気づいて足を止めた。埠頭からは遠く離れ、中央広場の辺りに来ているはずなのだが、わあわあきゃあきゃあ歓声を上げる人々が邪魔で進めない。
(なんだあ? 祭りでもやってんのか?)
背伸びして前方を見やれば目鼻立ちの整った青髪の青年が鮮やかに筋骨隆々の巨漢を昏倒させたところだった。そのすぐ隣の土俵では金髪で長身の若者がカーリス人と思しき男をぶちのめしている。集まった観衆の声に耳を澄ませるに、どうやら棒術大会とかいうイベントが佳境を迎えているらしい。今しがた十位入賞の確定した二人はリマニに来たばかりの旅人コンビだそうだった。
(ふうん、なかなかやるねえ。ありゃ軍人経験があると見たぜ)
なんとなく目を惹かれ、剣のように棒を操る青いほうの兵を見つめる。だが隙のない動きを見せていた彼は、なぜか次の試合で早々と敗北してしまった。
(ありゃ? なんでいきなり手ェ抜いたんだ?)
不思議に思って視線で彼の行方を追えば、賞金を貰った青年は何やら武骨な集団に受け取ったばかりの金を渡してしまう。二言三言の短いやりとりの後、真新しい金袋は大量の財布が積まれた卓の一番上にドスンと置き直された。
(ああ、なるほどね。あそこが胴元の席なのか)
こんな競技に賭け事は欠かせない。彼は賞金を元手にもっと荒稼ぎしてやるつもりなのだろう。自分も彼に倣ってみるかと考えたが、昔からギャンブルで勝てたためしがないのを思い出して踏みとどまった。そうこうする間に試合は進み、槍のごとく長い棒を構えた金髪の若者が次々と対戦相手をのしていく。
「…………」
決勝戦が始まるまでに「強そうだな」という予感は確信に変わった。少なくともそこら辺のカーリス人よりはよっぽどの猛者に見える。何よりもパトロン探しに尋常ならざる嗅覚を発揮する己の鼻が「あいつらだ!」と告げていた。あの旅人コンビはこの苦境を打開する何かに利用できる、と。
「優勝はレイモンド・オルブライトだーッ!」
拳を突き上げた男にリマニの民衆は惜しみない拍手を送った。ほとんど同時に三時の鐘が鳴り響き、健全に観戦を楽しんでいた者たちはぞろぞろと家路に着き始める。金銭の受け渡しがまだの者たちはそこここに集まってポケットに手を突っ込んだ。
先程の青髪の若者は一点張りで大儲けしたようだ。「優勝したのとおんなじ額になってんじゃねえか!」と誰かの悔しがる声が響く。「時々ああいう利口なのがいるから面白いんだろ」と別の誰かが答えるのを耳にしてパーキンはバッと駆け出した。
(どうする!? なんて声かける!? ――よう、強いじゃないかお二人さん。しかも抜け目もないようだ。あんたらの腕を見込んで一つ頼みがあるんだが、どうだ、話を聞いちゃくれねえか? よし、これだ!)
「ああッ! お待ちください、そこのお二方! どうかボクを、ボクを助けてもらえませんかッ……!?」
涙混じりの情けない声で呼びかける。振り返った二人は鼻水を啜ってすがりついてくる未知の男にぎょっとしたようだった。
「お願いします、事は一刻を争うんです……! こ、子供を、子供を誘拐してしまったんです……!」
必死の形相で訴える。プライドなんてものは初めからなかった。パーキンは広場をうろつくカーリス人に見咎められぬよう注意深く、救世主たちを影深い路地裏へと引き込んだ。
「お願いです、どうか話を聞いてください」
突然現れた四十絡みのもみあげ男にそう乞われ、ルディアは露骨に眉をひそめた。なんだこいつは? 何者だ? 何か今、誘拐とかなんとか不穏な言葉を耳にした気がするが。
無言で隣の槍兵を見上げる。レイモンドも困惑気味に「いや、俺も知らない人だ」と首を振った。
「あ、怪しい者ではありません。ボクはパーキン・ゴールドワーカーという者で、金細工職人をやっております。実は、その、お恥ずかしい話なんですが、甘言に乗せられて悪党に手を貸してしまいまして……、ううっ、ボクのせいでいたいけな少年が……っ」
「は、はあ? 悪いけどよそ当たってくんねーか? 犯罪に関わるのはごめんなんで」
今さっき受け取ったばかりの賞金を庇って槍兵はしっしと男を拒む。こんなタイミングで接触されれば大金狙いの詐欺師と考えるのが当然だ。しかしこのパーキンとかいう自称金細工職人は「お礼ならできます! たんまり弾みますから!」とルディアたちに銀貨の詰まった皮袋を開いてみせた。
「!?」
「うわっ! おっさん俺らより持ってんじゃねーの?」
男の手持ちはざっと見て十万ウェルスは下らない。これなら金に困っているということはなさそうだ。
だが出所不明の大金によって胡散臭さは否応なしに膨れ上がる。ルディアはいつでも逃げられるように周囲に気を配りつつ不可解な闖入者を睨みつけた。
「事情は知らんが反省しているなら自首したらどうだ? ちょうど今、そこで自警団の連中が撤収作業中だぞ」
「それで解決できるならとっくにそうしてますってば! さらってきた子供はカーリス人居留区で監禁されているんです。助けるためにはあなた方のようなお強い騎士様のお力がどうしても必要なんです……!」
後生ですからと土下座され、ルディアは槍兵と目を見合わせた。互いに顔をしかめているのは男の哀願に戸惑ったせいではない。突如飛び出した居留区の名のせいだ。
(この男、人さらいの海賊どもと繋がりがあるのか?)
ひれ伏したままの金細工師を上から下まで一瞥する。縦縞以外飾り気のない服装といい、訛りの強いパトリア語といい、彼自身はカーリス人には見えないが、一体どういうことだろう。
「ちょ、ちょっと待てよ。つまりなんだ? 誘拐の主犯はカーリスの連中で、あんたはその手先かなんかだったわけ?」
「は、はい、そうなんです。でも今になって後悔して……」
「えーと、じゃあ悪い奴らとは手を切ってきたってこと?」
「はい。良心の呵責に耐え切れなくなり、飛び出してきてしまいました」
「ま、まじか……?」
レイモンドがひそひそと「上手くやりゃおやっさんの家族を見つけられるんじゃね?」と耳打ちしてくる。ルディアのほうは彼ほど楽観視できなかった。
売り飛ばした奴隷のことなどいちいち覚えている賊はいない。非道な手段で儲けを狙う一団が一つきりとも限らなかった。であればタイラーの妻や息子は近海一帯に顔のきくオリヤンに探してもらうほうが賢明だ。それよりルディアが気になったのは今まさに囚われているという少年のことだった。
(今なら新たな被害者を出さずに済むのではないか?)
連中を野放しにしたくない。カーリス人に一矢報いてやりたいという気持ちがあった。
踏みにじられた故郷を思い、王を思い、強く拳を握りしめる。先刻の試合で戦っていたときよりもっと苛烈に暗い炎が燃え上がった。
「……子供の人数は? 拉致の目的は人身売買か?」
「ひ、一人です。売るためにさらったんじゃなくて、身代金を要求するんだと」
「なるほど、海賊のよく使う手だ。アクアレイアも随分煮え湯を飲まされた」
パーキンは魔が差してとんでもない罪を犯したと嗚咽を零す。大量の銀貨は子供を家に帰すための資金として盗んできたらしい。手伝ってくれるなら全部差し上げて構わないと胸に金袋を押しつけられる。
「ブルーノさん、レイモンド、大丈夫!? 何かあった!?」
と、そこにマヤの張りつめた声が響いた。広場に姿が見当たらないので探し回ってくれていたようだ。続いてタイラーとオリヤンも路地裏に駆けてきた。
「なんだァ!? 絡まれてんのかァ!? やんなら加勢すっぞ!?」
「わー! おやっさん、違うから! そういうのじゃねーから!」
腕を振り上げたタイラーを槍兵が慌てて止めた。怯えるパーキンを背に庇い、ルディアはオリヤンを振り返る。
「屋敷に彼を連れ帰っても?」
豪商はさっぱり状況を掴めていない様子だったがレイモンドにも「いいか?」と頼まれ、「あ、ああ」と了承した。
金細工師の重い懺悔に彼らが顔色を変えるのはこのすぐ後のことである。




