第3章 その6
あんまり毎日お天気だから、泣こうとしても涙が出ないのではないか。
そんなことを考えながらレイモンドは民家の壁にもたれる王女にこっそりと目をやった。今日も今日とて無愛想な彼女とは対照的にリマニの空は晴れやかだ。こんな建物の陰にいると尚更爽やかな青が際立つ。
「おやっさんたち遅いなー」
呟きは独白と見なされたか、返事はおろか相槌の類もなかった。相変わらずルディアは深く沈黙し、伏し目がちに石畳を見つめている。
「はあ……」
オリヤン邸に着いた翌日、レイモンドたちはタイラー親子に連れられて市街へと繰り出していた。組合で用を済ませたらリマニを案内してやると、珍しく親方が大はりきりだったのだ。
だがしばらくの後、マリオネットの看板がぶら下がる地下劇場から出てきたタイラーはすっかり意気消沈していた。力なく肩を落とし、眉間に深いしわを寄せ、オリヤンの歓待にはしゃいでいた昨日の彼とは別人のようである。
「ど、どうしたんだよ?」
レイモンドは思わず親方に駆け寄った。いつも元気なマヤまでしょげ返っており、さっぱりわけがわからない。同業者に挨拶をしてきただけではなかったのか。
「……家族のことで何か言われたのか?」
神妙な声で尋ねたのはいつの間にやら隣に来ていたルディアだった。父娘は小さく頷くと悔しげに語り始める。
「半月以内に新しい徒弟をつけてやるから家内もせがれも諦めろとさ」
「探してくれって頼んだら神殿に行けって言われたよ。願いが届けば人さらいのところから脱走してくるかもしれないぞって。……やっぱりそれくらいしかできないんだねえ」
こんなに暗い二人を見るのは初めてで、レイモンドは少し戸惑う。というか彼らに身内の話をされるのも初めてだった。海賊に連れ去られたのはルディアに聞いて知っていたが、改めて事実なのだと実感する。
「ああ、悪い。レイモンドには言ってなかったよな。俺らの一座がなんで人数足りてなかったか」
「いや、えっと、一応軽く小耳には」
つらい経験を何度も話させるのは気の毒だ。身振りでタイラーを制止すると親方は「そうか」と重々しく黙り込んだ。
「……まあな、大親方の言ってることが正しいんだ。運良く二人が見つかったところで買い戻す金なんかねえし、俺たちにはどうしようもない。それよりもこの先ちゃんと暮らしていくのにマヤと生計立て直さねえとって……」
弱気な父を物言いたげな眼差しでマヤが見上げる。だが少女は結局何も口にしなかった。
彼女にもわかっているのだ。不可能なものは不可能だと。本音では諦めたら本当に終わりだと叱咤したくとも。
「…………」
何か力になれないかなとレイモンドは考えを巡らせる。記憶の底を掻き回し、そうだと一つ思いついて「ちょっと広場まで戻ろうぜ」と提案した。
「え? 広場?」
きょとんと親子は目を丸くする。よく似た顔には広場に一体何があるのだと書かれていた。
「さっき通りがかったとき、気になる張り紙があったんだよ。参加資格不問、優勝者には豪華賞金、みたいなトーナメント? なんかそんなやつ」
「ああ、あの不定期でやってる棒術大会ね。それがどうかしたの?」
「まさか俺に出場しろってんじゃないよな? 言っとくが俺にたいした心得はねえぞ」
「そうだよ! 大体あれはリマニの自警団が『訓練にも遊び心とボーナスを!』って始めたことで、登録は誰でもできるけど勝ち抜こうと思ったら……」
「違う違う! 出るのはおやっさんじゃなくて俺! 最初にマヤと約束した金まだ払ってなかったろ? 十位以内に潜り込めば結構貰えたはずだからさ」
踵を返し、レイモンドは足早に来た道を戻り始める。慌てて追いかけてきた親子は「そんなお金もういいってば! 一座の手伝いあんなにしてもらったんだから!」「そうだぞ! オリヤンさんのところにもしばらく世話になるんだしな!」と言ってきたが、レイモンドに引く気はなかった。
「契約は契約だ、借金残したままにするのは俺が嫌なんだよ。それに二人ともこれからのほうが絶対大変じゃねーか。もしどっかで家族が見つかったとき、まとまった金持ってりゃ交渉もできるしさ。その足しにしてくれよ」
「レ、レイモンドお前……っ!」
親方が男泣きに涙ぐむ。マヤも大きな黒い瞳を潤ませて「ありがとうね」と繰り返した。だがそれよりも嬉しかったのはルディアの口から出た言葉だ。
「どうせやるなら儲けは倍にしなくてはな。その棒術トーナメント、私も出場しよう」
マルゴー行きが確定したことで心にゆとりができたのだろうか。告げられたのは彼女らしく頼もしい台詞だった。短い期間ではあるが親しく接してくれた二人にルディアも何かしてやりたいと感じたらしい。長らく握っていない武器を手に取る気力が湧いたようだ。
「お、おお!?」
「ブルーノさん! ブルーノさんもありがとう……! ああ、ホントなら昨日あのままお屋敷の前でさよならしててもおかしくないのに、世の中捨てたもんじゃないねえ」
「ああ、ああ、拾った俺らのほうがよっぽど助けられてらあ!」
笑顔を取り戻した親子にレイモンドも釣られて頬を綻ばせた。そのまま広場へ引き返すとさっそく件の張り紙を探す。
噴水きらめく中央広場は大勢の人々で賑わっていた。家畜に水をやる主婦や威勢のいい洗濯娘、客を求めて声を張り上げる荷物持ち、その活気はどんな都にも勝るとも劣らない。ちょうど商港に大きな船団が入ったらしく、いかつい風体の船乗りたちもうろうろしていた。彼らのほうから「邪魔だ、どけッ!」と殺気立った声が響き、レイモンドはぎょっとして振り向いた。
「やだ、何あれ? 感じわるーい」
嫌なものを見たとばかりにマヤが舌打ちする。いちゃもんをつけられたのは大荷物の通行人だったようだ。気の毒に、うろたえた男は何度もぺこぺこ頭を下げて詫びている。
「……カーリスの連中だな」
と、眉をひそめてルディアがぼそりと呟いた。よくよく見れば確かに船乗りたちに紛れて肩やら胸やら膨らませた複数の商人がいる。感情を抑えるような低い声でルディアは父娘に「見覚えのある奴はいないか?」と尋ねた。
見覚えのある――つまり家族をさらった賊ということだ。タイラーもマヤも目を皿にして一団をくまなく凝視した。しかし簡単に手がかりを得られるほど世の中は甘くないらしい。しばらくすると二人は残念そうに首を振った。
「そうか、すまなかったな。気を取り直して大会の登録へ行こう」
淡々と詫びた声は硬い。煮えたぎるものを堪えているのは彼女も同じようである。カーリスの豪商ローガン・ショックリーがヘウンバオスと結託してさえいなければアクアレイアに逃げ道は残されていたし、王の死も避けられたはずなのだ。あの共和都市の人間というだけで憎悪が芽生えても仕方ない。
関わり合いにならないようにレイモンドたちは遠回りで掲示板に近づいた。張り紙に目を通し、街の住民でなくても賞金の七割は手に入る旨を確認すると受付係と思しき青年に声をかける。
「はーい、出場予定は二人だね。頑張ってくれよ! 部外者が賞金ゲットしたときは俺ら下っ端もおこぼれにあずかれることになってんだ!」
なるほどそれはいい仕組みだなと感心した。内輪だけのお祭りにしないのは毎回決まった人間が優勝してやっかまれるのを阻止するためでもあるのだろう。上位争いに加われずとも全員楽しみはあるわけだ。上手いことできている。
「部外者って結構いるのか?」
レイモンドが尋ねると若者は名簿をパラパラめくりながら「うーん、そうだね。カーリスの船乗りが多いかな」と答えた。
「ま、でもそれはいつものことさ! なんたってリマニにはカーリス人居留区があるし、あいつら普段から『ここは俺らの街だぜ』みたいなデカいツラして歩いてやがるから!」
「そ、そうなのか。大変だな」
「ああ、本当に大変だぜ! ま、平和を乱す馬鹿どものおかげで自警団は街の英雄だけどな! あっはっは!」
たっぷり皮肉の込められた明るい笑い声が響く。さっきの一団に絡まれるのではとヒヤヒヤしたが、幸い聞き咎められなかったようだ。
「すまない。ついでに聞きたいことがあるんだが」
話を逸らすようにしてルディアが二、三の質問をする。受付係はそのすべてににこやかに応対した。
「試合開始は明日の正午! 集合場所はこの広場! 見物客でいっぱいになるから楽しみにしといてくれよな!」
快活な青年に礼を告げるとレイモンドたちは広場を後にした。青年の言った通り、親方たちと見て回ったリマニの街の至るところで憎らしいカーリス人は大手を振って闊歩していた。
******
「ああ、そうだな。確かに最近はタチの悪いのが急に増えた。あの共和都市でひと騒動あったのは知っているかい?」
夕食の肉料理を切り分けながらオリヤンが言う。トリナクリアでは主人自ら給仕を務めるのが最大級のもてなしだそうだ。
だが大盤振る舞いの食卓を前にしても街で見かけたカーリス人や一座を襲撃した連中を思い出すのかタイラー親子は塞ぎがちだった。オリヤンの声に耳は傾けているものの、味気なさそうに皿のパンをかじっている。
「ひと騒動って、えーっと、ショックリー商会と仲の悪いなんとかって一派が街を追放されたとかどうとか……?」
レイモンドは前に聞いたルディアの推測を思い出して答えた。どうやら彼女の予想通りの事態が起きていたらしく、オリヤンが「そうだ」と頷く。
「追い出されたのは商売敵で政敵でもあるラザラス一派さ。彼らが荒れるのはわかるがね、今回は本当に酷いよ。トリナクリアの王妃がラザラスの従妹なのをいいことに、人身売買に手は出すし、街でも無茶苦茶ばかりする。現行犯で捕まえられればいいんだが、いつも治外法権の居留区に逃げられて地元住民が泣きを見るのさ。ローガンが失脚するまでこんな状態が続くと思うとうんざりだね」
そう聞くと昼間の青年のあの態度も納得できた。もしかすると自警団が棒術大会を開催したのは
「この街は俺たちが見張ってるんだぞ!」とカーリス人を牽制する意図があるのかもしれない。
「レイモンド! ブルーノ! もし戦いの相手がカーリスの下衆野郎だったら思いきり叩きのめしてくれよ!」
「頼んだからね! あいつらきっと母ちゃんや兄ちゃんを連れてった奴らとも繋がってるに決まってんだ!」
食事中だというのにタイラー親子はテーブルに手をついて立ち上がる。二人の顔は怒りで真っ赤だ。
「おう! 任せとけ!」
そうレイモンドも拳を固めた。勇ましく決めた返事はオリヤンがロースト肉を切り損ね、ナイフで皿を削った音に相殺されてしまったが。
「えっ……? ま、まさかご家族がそういった災難に……?」
ハッと我に返った父娘が「はい、実は……」と畏まるとオリヤンは突然声を荒らげる。
「どうして昨日のうちに言わなかったんです!」
怒鳴られたタイラーとマヤは驚いてその場に固まった。オリヤンはすぐさま使用人を呼びつけて紙とペンを持ってこさせる。その紙に「名前は?」「年齢は?」「背格好は?」「被害に遭った時期は?」と質問事項の答えを書き込むとまた使用人に何事か命じて屋敷の外へ送り出した。
「あ、あのー……」
「二ヶ月経っていないならまだ遠くへは売られていないと思います。私なりに手を尽くしてみるのであなた方はあなた方の精霊によくお祈りしてください。とにかく見つかりさえすれば金銭で解決できる事例がほとんどですから」
オリヤンは真摯な態度で二人に告げた。曰く、南パトリアの辺境には人買いや人さらいが集めてきた奴隷を一時的に収容する施設があるという。買い手がついてしまったら取り戻すのは困難だが、まだそこに留まってさえいれば必ず買い戻すと彼は明言した。
「えっ、えええ!?」
「あたしら昨日まで赤の他人だったんですよ!? な、なのになんで……」
狼狽するタイラー親子にオリヤンはかぶりを振る。
「そんな話を聞いたら放っておけないではないですか。料理も喉を通りませんよ」
豪商のあまりの聖人ぶりに親方はひれ伏し、五芒星を切ったマヤは手を擦り合わせて拝み始める。二人ともすっかり頭が上がらない様子だ。
事の成り行きを見守りつつ、レイモンドは「やはりいざというとき物を言うのは財力だな」と頷いた。オリヤンとて人柄がいいから人助けできるわけではない。金という余力があるから他人に手を貸せるのだ。
「本当になんて礼を言やいいのか……! ありがとうございます……!」
「お気になさらず。私が勝手に決めたことです。それに適切な使い方をしないなら、いくら稼いだって全然意味がないでしょう」
「で、でもオリヤンさん、あたしらタカるつもりでここにいるんじゃ……」
「マヤさん、私には子供や親戚がいないんだ。死後は国に返すことになる財産を出し惜しみするほうがどうかしてると思わないかい?」
人として完璧な受け答えに唸らされる。もはや星座になれるレベルだ。一体どんな人生を歩んだらこんな男が出来上がるのだろう。
「まあ二人はレイモンド君の恩人だから、特別扱いはしているけどね」
軽く笑ってオリヤンは続けた。急に自分の名を出され、レイモンドはぶっと吹き出す。
「いや、俺だってオリヤンさんと深い仲ではないと思うけど!?」
なんだろうこれは。昨日は若い頃を思い出すと言われたし、そういう向きのアピールではなかろうな。貞操を売る気はないし、迫られても本気で困るぞ。
「ああ、ちょいとわかりますよ。レイモンドはどこかしら息子みたいに感じるところがありますからねえ」
「確かにオリヤンさんとレイモンド、親子っぽく見えなくもないね」
タイラーたちが当たり障りない着地点を示してくれてほっとしたが、それはそれで複雑な気分になる。もしオリヤンが父親ならこの年になるまで我が子を放っておかなかっただろう。外見的に似ている部分があるだけに尚更息子扱いなどしてほしくなかった。ひとまずそれは余計な心配だったようだが。
「いやいや、親子だなんてそんな。前途有望な若者に夢を見るのは老人の悪癖ですが、私にとってはその相手が彼というだけの話です」
にこやかな笑みを見る限り、本当に邪念はなさそうだ。ぽんぽん財布を開くほど入れ込む価値が自分にあるのか疑問は大いに残るけれど。
「明日の大会は私も応援に行くよ。頑張っておくれ」
ウインクされてハハハと乾いた笑みを浮かべた。やはり借りっぱなしは精神衛生上良くない。明日はなんとしても賞金を勝ち取って懐を温めよう。この先オリヤンが無茶を要求してこないとは言いきれないのだから。
夕食後、ルディアと少し手合わせしてからレイモンドは床に就いた。
眠りに落ちるまで試合中どう立ち回ろうか考える。
だが本当の事件が待っていたのは棒術大会が終わった後のことだった。




