第3章 その5
馬車が最後の峠を越えると眼下には緑豊かな田園風景が広がった。見渡せば北方には紺碧の海が霞み、深い入江には帆を張った幾多の船が集まっている。城壁にぐるりと三方を固められた長方形の湾港都市。そこはレイモンドたちが目指すトリナクリア王国の首都リマニだった。
「やったー! 着いた着いたー!」
御者台のマヤが軽快に右腕を振り上げる。少女の包帯は一週間ほど前に取れ、今では馬の手綱も難なくさばいていた。
「まーだ見えただけだろうが! 街に入るまで気ィ抜くなよ、海だって近いんだからな!」
そんな娘をたしなめてタイラーが凄む。海辺で人さらいの襲撃を受けた彼にとっては潮風も波も心地良く感じられない様子だった。
だが親方の心配はあっさりと拭われた。ここまで平穏そのものだった道中と同じく、首都近郊の農村部を抜けた一行は無事にリマニの東門をくぐることができたのだった。
「おおーっ!」
広々と見渡しの良いメインストリートにレイモンドは歓声を上げる。リマニは区画整理の徹底した街らしく、東門から西門へ至る大通りと南門から商港へ至る港通りが中央広場で交差するのがよく見えた。
上に伸びるしかない建物と曲がりくねった運河に視界を遮られ、迷宮じみたアクアレイアとは正反対だ。行き交う人々の表情も四月半ばの空と似て明るく溌溂としている。
「今日は三時の鐘鳴っちゃったし、組合には明日挨拶に行こうか」
「だな。レイモンド、ブルーノ、そっちはこれからどうするんだ? というかそもそもリマニになんの用だったんだよ?」
タイラーは道端に馬車を寄せつつ尋ねてきた。「知り合い探しにきたんだ」と言えば親切な親子は「なんだ手伝ってやろうか」と知人の名前を尋ねてくる。
「オリヤンって六十ちょい前くらいの商人なんだけど、知ってる?」
問い返したレイモンドに二人は顔を見合わせた。「そりゃ両目に道化みてえな縦傷のある?」「でも眼差しは優しげな金髪のおじさま?」とまさしくな特徴を挙げられて「おお、それそれ」と大きく頷く。
「もしかして有名人? だったらすぐに見つけられっかな?」
「いや、まあ、有名人っちゃ有名人だが」
「別に探しにいくまでもないっていうか……」
ちらちらと背後を気にする親子にレイモンドは小首を傾げた。ルディアにも二人の態度がわからないようで「どうかしたか?」と訝しげに問いかける。
「あのねえ、オリヤンの家ってここなのよ」
「へっ?」
マヤが親指で示したのは今入ってきた東門のすぐ横に聳える大豪邸だった。四つ角に塔を備えた砦のごとき佇まいで、お国の建物に違いないと思っていたレイモンドは目を瞠る。
「こ、これが?」
年季は入っているけれど、ちょっとした宮殿並みの大きさだ。門には落とし格子までついており、とても一般人の屋敷に見えない。
「冗談はよせ。どう見ても小さめの城だぞ」
疑わしげなルディアにタイラーが神妙に首を振る。
「いや、だから、使わなくなった大昔の城を買い取ったのがオリヤンなんだ。王様は王様でもっとでっかい最新式の居城をお持ちだし、港も要塞化されてるし、余ってたんだよ」
「余ってたからって買うか普通!?」
と、レイモンドの叫びに被せるように通りの向こうから一台の立派な馬車がやって来る。馬車はオリヤン邸の前で停車するや黒塗りの扉をガチャガチャとけたたましく揺らし始めた。
「……ねえ、もしかして乗ってんじゃない?」
「声かけてみたらどうだ?」
親子にそっと背中を押される。しかしこちらが呼び止めるまでもなく異国の知人は満面の笑みで転がり出てきた。
「レイモンド君!」
短く柔らかな金髪も、なかなか日焼けしない皮膚も、どういう経緯でついたのか不思議すぎる両目の傷も、全部記憶にあるままだ。オリヤンは温厚そうな顔をしわくちゃにして「ああ良かった!」と胸を押さえた。
「ずっと心配していたんだよ、アクアレイアに迎えを出そうか悩むくらい! 元気そうで何よりだ。背が伸びたね? いやまったく、すっかり逞しくなって」
「オリヤンさん、久しぶり。覚えててくれて嬉しいぜ!」
互いに両手で握手をし、再会を喜び合う。オリヤンは少々白髪が増えたようだが健康的な身体つきで、質素な身なりも変わっていなかった。どこか眩しげにこちらを見るのも、毒のない朗らかな笑顔も初めて会ったときと同じだ。
「しかしリマニで君に会うとは驚いたなあ。いつから滞在しているんだね? この街へはどうやって?」
「今さっき着いたばっかりだよ。話せば長くなるんだけど、仲間と二人で旅の一座に送ってもらったんだ」
ルディアたち三人を紹介するとオリヤンは丁寧に頭を下げた。「そうでしたか、レイモンド君がお世話になって」と大真面目に礼を述べられ、「ほえっ!?」とタイラーが固まる。古城住まいの豪商から感謝されるなど思いもよらなかったらしく、恐縮しきった親方は目配せでレイモンドに助けを求めた。
「あのさ、実は俺、オリヤンさんに頼みがあって」
門前でもたつくのもなんなので、さっさと話を切り出しにかかる。オリヤンは「おや、それじゃあ私に会いにリマニまで足を延ばしてくれたのかい?」とにこにこしながら馭者に格子を上げさせた。
「うん、一度同じ食卓でメシ食っただけの相手に厚かましいとは思うんだけど……」
「はは。困り事があればなんでも相談してくれと言ったのは私だよ。こうして実際頼ってもらえて嬉しいし、ほら門が開いたぞ、続きは中で聞くとしよう。お連れの皆さんも、さあどうぞどうぞ、遠慮は無用です!」
歌でも歌いだしそうなほど上機嫌にオリヤンが手招きする。「ヒエッ! お、俺らは外で待ってますんで!」と完全に腰の引けているタイラーを引きずってレイモンドたちは敷居を跨いだ。来いと言うのに行かないほうが失礼だ。ここまで来てわざわざ不興を買いたくない。
「う、うわあ。やっぱり広ーい」
「あわわ……、あわわわ……」
一歩踏み込んで驚いたのは存外な庭の面積だった。どうやら住居に使用している主館以外は厩舎も兵舎も潰して更地にしたらしい。ほどよく刈り込まれた芝と仕切りの垣根、数種類の果樹のほかには植えられた草木もなく、代わりに大きな臼と水瓶の列が整然と庭を埋めていた。
それらの隙間を縫うように忙しなく働く人々は一人残らず褐色肌だ。やけに訛ったノウァパトリア語で話す彼らは年齢も性別もばらばらだったが何人かは親族と判別できる顔立ちをしていた。
(トリナクリアの職人じゃなさそうだな? なんの工場だろ?)
通りすがりに作業を眺めつつ「染物かな?」と推測する。それにしては染色につきものの悪臭がしなかったが。
(姫様に聞きゃ一発でわかるんだろうけど……)
肩越しにルディアをちらりと振り返る。
鬱陶しい目で見るなと毒を吐かれて以来、王女様には話しかけにくくなっていた。普通に返事もしてくれるし、やり取りに不都合はないのだが、視線だけどうしても噛み合わなくて。
そのうち元に戻るだろうか。時間が解決してくれるだろうか。
一緒にいると気詰まりで仕方ない。姿が見えないと今度はしきりに気を揉む羽目になるけれど。
「こっちだこっち。待っててくれ、美味しいお茶を用意させよう」
若獅子の彫り込まれた美しい扉を開き、オリヤンは客を邸内に通す。外観のインパクトとは裏腹に中は普通に今風の屋敷だった。一階は商談の場でもあるらしく細緻な模様の絨毯が敷かれ、これ見よがしに剣や甲冑が飾られている。
「お、お客様ですか!?」
すっ飛んできた使用人がレイモンドたちを広間の奥のテーブルに案内した。腰かけた椅子はふかふかで、タイラー親子には座り心地が悪そうだ。ルディアはと言うと豪華な内装にも動じず、一人落ち着き払っていた。
「さて、改めて自己紹介をしておきましょう。私はオリヤン・マーチャント、海を越えての交易に精を出す商売人の一人です。レイモンド君とは何年か前にイオナーヴァ島で親しくなりましてね、そのうち遊びにおいでと話していたんですよ。皆さんもそう固くならず、我が家と思ってお寛ぎください。所詮私は成金ですから、礼儀作法などわかりませんので」
初老の男は愛想良く笑う。「で、頼みというのはなんだね?」と話を戻され、レイモンドはさっそく本題に移った。
「俺たちマルゴー公国に行かなきゃならねーんだ。ただアクアレイアは通らずに、できればパトリア古王国も避けられるルートだとありがたいんだけどさ、オリヤンさんいい道知らねーかな?」
遠い山国の名にオリヤンは目をぱちくりさせる。「ここからマルゴー公国へ? しかも古王国やアクアレイアを通らずに?」とやや引き気味に念を押された。
西パトリアの地理を知っているなら当たり前の反応だ。マルゴーへ続く道は一つではないが、その二国を迂回するとなるとあまりに遠くなりすぎる。
「確かに今はどちらも政情不安定だし、古王国なんかはアクアレイア人を目の敵にしているからねえ……」
オリヤンの視線が一瞬ルディアの青い髪に向けられた。レイモンドだけならともかく連れがこれでは心配だ、と無言のうちに語られる。たとえ一人旅でも年中内紛に明け暮れている聖王の膝元になど足を踏み入れたくなかったが。
「サールで仲間が待ってんだよ。今あんまり手持ちもなくてさ、オリヤンさんに旅費とかも借りたくて。とりあえずサールまで行けりゃ金を返す当てはあるから」
「……ふむ。それではこういうのはどうだろう? 例年私は商用で北パトリアに出向くのだが、君たちも同じ船に乗らないかい? そうすればマルゴーから流れてくる大河を遡ってサールへ行ける。私にも商売があるし、多少回り道をしてもらうことにはなるが」
「へっ、北パトリア?」
あまり馴染みのない地名にレイモンドは瞬きする。テーブルに地図を広げてオリヤンは詳しいルートを説明した。
「リマニを出たらパトリア海を西進し、海峡を越えて外海に出る。そこで今度は北に舵を切り、北辺民の統治するパトリア圏外まで仕入れに向かう。その後はマルゴー産の岩塩を買いにサールリヴィス河の河口にある商業都市に出向くから、そこで降りればいいと思うな」
「えっ、いいの? 迷惑じゃね?」
「いや、私もレイモンド君と船旅ができるなんて願ったり叶ったりだ。費用も喜んで二人分持たせてもらおう。安心して任せなさい」
なんて太っ腹な男だ。さすがに無償でお願いするのはどうかと思っていたのにありがたい。感激しつつ「だってさ、どうする?」と隣のルディアに窺うと彼女も異論なく頷いた。
「助かります。思ったより早く仲間に会えそうで……」
久々にほっとした様子のルディアを見やってレイモンドも胸を撫で下ろす。オリヤンのところへ来て良かったと己の判断にこっそり拍手した。
「出航予定は五月だから、半月はリマニでのんびり過ごすといいよ。こっちにほかの知り合いは?」
「いや、トリナクリアじゃオリヤンさんしか知らねーな。おやっさんたちとは随分仲良くなったけど」
「そうか、だったらブルーノ君だけでなくタイラーさんとマヤさんにも部屋を用意しよう。もし、急ぎの興行がなければしばし留まっていただけませんか? そのほうが彼も退屈しないで済むでしょうから」
「ええっ!?」
突然の申し出に親子は揃って慌てふためく。先に口を開いたのはマヤのほうで、彼女はいかにも少女らしく「こんな素敵なお城に泊めてもらっちゃってもいいんですか!?」と頬を赤らめた。
「はは、寝泊まりするだけじゃないよ。皆で一緒に夕食を取ってもらったり、たまにはゲームに付き合ってもらったりするかもしれない」
「ええっ!? た、大変だ、父ちゃんあたしらお客様扱いだよ!?」
「ヒエッ!? に、人形芝居を披露する代わりに庭の隅っこに馬車を置かせてもらうだけで十分なんですけども!?」
卑屈な二人にオリヤンはいやいやと首を振る。
「私も昔は物乞いと変わらない身の上でした。自分の腕で食べていらっしゃる方々を下に置くなどできません。どうぞおもてなしさせてください」
滲み出る徳の高さにタイラーたちは圧倒され気味に頷いた。とりあえずこれでサールに向かう目途は立ったようだ。レイモンドは改めて「ほんと助かる、ありがとう!」と気前の良い知人に礼をした。
「気にしないでおくれ。君を見ていると若い頃を思い出して楽しいんだ」
おそらく他意はなかったのだろう。だがその言葉はレイモンドの胸にある種の引っかかりを覚えさせた。
なんとなしに顔を上げ、オリヤンのいつもすぼめられている双眸を見やる。そして「ああ、そういうことか」と納得した。
黒目がちなパトリア人とは明らかに異なる薄い碧眼。だからオリヤンは最初から親切だったのだ。
(たまには役に立つんだな、この外国人くさい見た目も)
皮肉なものだ。レイモンドは顔には出さず苦笑した。
パトリア圏より更に北に交易拠点があるということは、おそらくオリヤンはそこの出身なのだろう。イーグレットはレイモンドに北の人間と仲良くなれると言っていた。図らずも王の予言が実証されたわけである。
(まあいいや。今はとにかく姫様をマルゴーに連れてかなきゃなんねーし)
同胞の代役にされてアクアレイア人であることを無視された、なんて嘆いたところで仕方ない。逆パターンよりよほどましだ。大金を出してくれるというのだから、くさくさせずにいなければ。
「長旅で疲れただろう。すぐに食事の支度をしよう」
オリヤンは朗らかに皆をねぎらう。晴れない気分を胸の底に押し込めながらレイモンドは作り笑いを貼りつけた。




