第3章 その2
いい日和だ。空は青々と澄み渡り、柔らかな風と新緑の香りが快い。冠雪のアルタルーペを背負う白漆喰の街並みは厳めしい城壁をぐるりと囲む河の流れに調和して麗しいし、公女一行の護衛という栄えある任務に就く仲間たちも皆歌い出しそうにご機嫌である。
こんな日に若い女を三人も殺さなければならないとは運命の女神も残酷だ。せめて薄雲が空を覆ってくれていれば太陽が明るすぎるなど思わなくて済んだのに。
(あーあ、ついにこの日が来ちまったか)
ルースは長い石橋を埋める大名行列の最後尾で眉をしかめた。表向きは体調の芳しくない公女のための転地療養、裏では王女ルディアの極秘輸送となっている。が、しかし真実は哀れな姫とお供たちの葬送だ。味方のふりして背中をひと突き。いかにもあの女らしいやり方ではないか。
世の中の大抵の娘に寛容な自分でもティルダだけは受けつけなかった。一度駒だと見なされれば二度と同じ人間とは思ってくれない。ボロ雑巾同然に擦り切れるまで使い潰される。そうやって見せかけの平穏を保つのが賢明な為政者だとあの女は信じているのだ。
(ごめんなモモ、コーネリア。最初は本気で守ってやるつもりだったんだよ)
傍らの、要人を乗せた黒塗り馬車を見やってルースは目を伏せた。逃げるとでも思われているのか馭者台のマーロンがちらちらと振り返るのが鬱陶しい。
先日も公女直属騎士には辟易させられたばかりだった。チャド王子のご息女を連れていると伝えたら、「ちょうど良かった、サールの街に入る前に殺せ」と汚れ仕事を押しつけられて。
嫌だった。けれど引き受けるしかなかった。断ればティルダに「なら今後は直接グレッグと話をつけるわ」と言われるだけだったし、あのお人好しが裏の要請などさばけるはずもないのだから。
――千人も団員を抱えていたら大変ね。公爵家直々の依頼が少し減っただけで、もう冬を越せなくなるのではない?
知ったことかと笑い飛ばせなかった若かりし自分が恨めしい。もっとも彼女には初めから見抜かれていたのだろう。「グレッグのためにならない」と脅せば簡単にマリオネットにできること。
(マルゴー人である以上、あの女からは逃げられねえ。無茶振りされたことは俺がやるんだ。旦那にはでかい借りがあるんだからな)
ルースがグレッグに会ったのは、あちこちの傭兵団から逸材を引き抜いては将来有望な若手団長として得意になっていた二十歳の春だった。たまたま同じ依頼主に雇われた、最初はそれだけの縁だった。
ルースは当初、うだつの上がらぬグレッグを見くびって彼の団からも何人か見どころのある若者をひっさらってやろうとしていた。だが結局、泡を食ったのはルースのほうだったのである。さあ戦闘に出るぞという朝、ルースの部隊はルース一人だけを残して全員どこかに消えていたのだ。
後で知った話だが、離反の首謀者はルースが特に目をかけていた副団長で、彼は「俺のほうがあいつよりずっと上手くやる」と持ちかけて傭兵団を丸ごと乗っ取ったらしい。
当時は本当に馬鹿だった。自分はよそから人も金も奪ったのに、自分が同じ手を食らうとは予想もしていなかったのだから。
呆然と立ち尽くすルースにグレッグは事もなげに「混ざるか?」と聞いた。依頼主に要求された払い戻しも文句を言いつつ肩代わりしてくれた。前日まで彼には散々生意気な口を叩いていたにも関わらず、だ。そのときやっとルースにも、どうしてグレッグの団からは待遇のいい別の団へ移ろうとする者が誰もいなかったのか、身をもって悟れたのだった。
(あそこに旦那がいてくれなきゃ、俺は人買いにでも売られてた)
殺意を鈍らせないために記憶を胸に刻み直す。
グレッグには今のままでいてほしい。表沙汰にできない暗殺になど関わってほしくない。
(公爵家の駒にされるのは俺だけで十分だ)
跳ね橋が下りたのか街を出る行列がのろのろと進み始める。ルースは懇意な部下たちとルディアの馬車をぐるりと囲んでしんがりを歩き出した。
罪のない女たちだ。せめて絶望する前に殺してやらなければ。煙たがられて死んでいくのだと理解してしまう前に。
(得意だろ。不幸な事故に仕立て上げるのは)
アウローラも上手く殺した。嵐で冷えきった身体を温めてくれないかと深夜にコーネリアを不意打ちし、他愛無いお喋りに花を咲かせつつ、何食わぬ顔でうつ伏せに寝かせて。まだ首も据わっていなかった赤ん坊は泣き声も漏らさず死んでいった。朝になって息を吹き返したのは驚いたが。
だがコナーのおかげで死んだことにはできたのだ。あんな風に公女たちの目を欺ければ何よりだが、さすがに今度は難しいだろう。だからできるだけ穏便に済ませられればそれでいい。せめて利用したコーネリアがこちらの裏切りに気づかなければ。
(大丈夫、ちょいと切ないお別れになるだけさ)
車輪のついた大きな棺はカラカラとレクイエムを歌い、砂埃を舞わせて進む。長い行列の先頭は早くも緑豊かな山道に差しかかっていた。
坂を上ってどんどん行けば透き通った碧の山岳湖を湛えるグロリアスの里がある。里の古い山城にはなんとかという騎士物語の姫が住んでいたそうだ。
海の国の王女たちは、そんな景色を見ることもなく死んでいく運命だけれど。
******
ああもう痛い。一体なんなのだこのボロ馬車は! 卑しい身分の下女として荷物と一緒に運ばせるとは聞いていたが、ここまで揺れるとは聞いていない。仮にも王子の最愛の人を乗せるのだからもうちょっとましな移送手段を考えてくれてもいいのに。
「ふえーん! 何か敷くものー! モモのお尻が四つに割れちゃうよー!」
小さく悲鳴を上げながらモモは適当なブランケットを硬すぎる座面に広げた。申し訳程度に備えられた長椅子は車輪が小石を踏むたびに身体が浮くほど強い衝撃を伝えてくる。馬車には小窓の一つもなく、板と板の隙間から差し込む光だけが目を慰めてくれるものだった。
「ひっどい三等席!」
憤りを深めるモモを「まあまあ」とブルーノがなだめる。気弱な彼は公国が自分たちを匿ってくれるだけで十分だ、と言いたげだ。迷惑をかけているのはこちらなのはモモとて百も承知である。しかし殊勝にしていようと横柄にしていようと乗り心地が最悪なのは変わらないのだ。せめて馬車の中でくらい素直な気持ちを吐き出したかった。
「一日ずっとこの中なんでしょ? もうカツラ脱いでいいよね?」
アクアレイア人ですと主張してやまぬピンクの地毛を隠すための被りものを脇に放る。ブルーノは「外さないほうがいいんじゃない?」と眉をしかめたが車内の蒸れに耐えかねて間もなく彼もモモに倣った。
長かった王女の髪は肩につくかつかないかの短さにまで切られている。正体がばれないようにするためとはいえやるせなかった。真珠の粒がよく映える、見事な青髪だったのに。
(うーん、でもこれだけばっさり切っちゃっても、まだどっかブルーノってば女の子女の子してるんだよねえ)
正直言って不思議だった。着ているものこそ小間使い用のお仕着せだが一応彼は腰元にチャドに持たされたレイピアを差している。もう少し元の彼らしく見えても良さそうなものだけれど。
(やっぱり経産婦だからかなあ。自分の身体に戻れても、これじゃ慣れるまで大変そう……)
心の中で頑張れと声援を送る。もしかしたらブルーノは戻りたくないと言うかもだが、それもやはり頑張れだった。
彼が乙女の表情を見せるようになったのはどう考えても夫のチャドの影響である。両想いか片想いかはさておいて、身体を返せばつらい別れが待っているのは間違いない。二度目の結婚を考えるほどあの貴公子は妻を愛してしまったし、ブルーノはチャドの熱情にほだされているのだから。
「身分や出身を誤魔化すためにあれこれ用意してくださって……、グロリアスに到着したら改めてティルダ様にお礼を言わなきゃね」
かつらを撫でつつ真面目な声でブルーノが呟く。暗闇にティルダの瓜実顔が浮かび、モモはふうと溜め息をついた。
最初に義妹をマルゴー貴族の養女に迎えては、と提案したのは彼女である。そのままティルダが中心となり、今日まで入念に支度を整えてくれたわけなのだが、いまいちモモには公女が信用しきれなかった。
理由は一つ、あの鼻持ちならない使者マーロンがティルダの直属騎士として四六時中べったりくっついているからだ。今日の馬車も彼が手綱を握っているようだし、背中がぞわぞわして仕方ない。
(モモの気にしすぎならいいけど……)
実務に長けた、有能な政治家だから親切すぎると感じるのだろうか。チャドの姉なら慈悲深くて当然という気もするが、無論それだけで公爵補佐が務まるはずがない。ルディアとて政治的配慮から獄中のユリシーズを助命しようとはしなかったのだ。単なる不憫な弟嫁にティルダがどこまで同情してくれているのか、やはり測りかねるものがあった。
(どうもチャド王子の澄んだ糸目とは趣を異にする糸目なんだよねえ)
糸目評論家ではないので確信は持てないが、兵としての己の勘が警戒せよ、警戒せよ、と鐘を鳴らし続けている。無事にグロリアスの里に降り立つまでは気持ちが落ち着かなさそうだ。
「えっと……コーネリアさん、でしたか? あなたは馬車の揺れは大丈夫ですか?」
と、ブルーノが左隣の女に呼びかけた。姫君の気遣いを受けてコーネリアは「は、はい」と畏まる。そう言えばこの乳母も乗っていたのだったなとモモはぞんざいに暗がりを一瞥した。
「これから先の予定についてはお聞きになっておられますか?」
「あ、はい。私はグロリアスの里からアクアレイアまで、親衛隊の方々が送り届けてくださるそうで」
コーネリアを見ていると心のどこかが急速に冷めていく。別にアウローラの一件で文句を言いたいわけではない。男も女も配偶者を亡くした者は一年喪に服すべしという法律を思い出し、彼女の浅薄さに軽蔑を覚えるのだ。
恋愛は自由だし、ちょっと火遊びする程度なら服喪を破ったとは言えないのかもしれない。だがモモは、子供の頃からけじめをつけられない人間が大嫌いだった。それが下の話となれば尚更だ。
「そうですか、気をつけて帰ってくださいね。ニコラス・ファーマーやお兄様にもよろしくお伝えください」
恐縮気味にコーネリアが頷く。話が済むや元乳母は顔を横に向け、板の隙間から少しでも外を覗こうと張りついた。
この馬車のすぐ外にはコーネリアのナイトがいるのだ。目を凝らしたところでほとんど何も見えないのにご苦労なことである。
(最初はもっとクールで理知的な人だって思ったのになあ)
残念ながら見かけ倒しだったらしい。己もまだまだ人を見る目がないようだ。
(まあいっか。とりあえずコーネリアさんが乗ってればルースも頑張って護衛してくれそうだし。あの使者がイヤな奴だってことはルースが一番よく知ってくれてるもんね)
溜め息を押し殺し、モモは乳母の見つめるほうとは逆向きに顎を逸らした。登り坂に入ったのか不快な揺れと騒音はますます勢いを増していく。あまりにガタガタうるさいので早くも最初の休憩が待ち遠しくてならなかった。
******
ちらちらと背後の景色を気にしながら無様に跳ねる心臓を押さえる。大丈夫、大丈夫だとマーロンは己に言い聞かせた。
特別任務を果たす日はいつもこうだ。片が付くまで落ち着かなく、イライラしたり不安になったり、とても平常心でいられない。
自分ではまだ手を汚した経験がないからいつまでも不慣れなのだろうか? 何度となく隣で手際を見せつけてくれた傭兵は初めから淡々とすべてこなしていたように思うが。
「えっ、じゃあお前ついに告白したのか!?」
「でへへ、そうなんすよ。まあ俺は継ぐ家もないんでそのうち捨てられちまうかなと思うんすけどね。今は幸せだからそんなことまあいいやって」
「馬っ鹿お前、そこまで持っていけたんなら所帯持つのも夢じゃねえって! 金貯めて二人で都会に出るとか色々考えてみりゃいいじゃねえか!」
ルースは行列のしんがりで若い仲間と話に花を咲かせている。きゃっきゃといかにも楽しげな彼らの様子は到底これから起きる「事故」を想起させるものではなかった。
「そりゃそうできたらいいっすけど、俺には学も才もないですし……」
「だから今からそこを鍛えるんだろ!? 読み書き計算くらいなら俺やドブにだって教えてやれるんだからさあ」
「おお、そうだぜお前、ルースさんの言う通りだ!」
「惚れた女のためにも頑張ってみてやれよ!」
くだらない会話に耳を澄ませつつ眉をしかめる。ルースはティルダに「この程度の仕事は自分一人で十分」と話していたそうだが、どうやって場を整えるつもりなのだろう。よもやこの行楽気分の傭兵たちが王女暗殺に加担するとも思えないが。
(殺しの方法も崖から馬車を転落させるだけと聞いたしな……)
マーロンは再びちらりと傭兵団の副団長を振り返る。しかしルースは目配せに応じず、仲間とのお喋りを続けていた。
「そうそう、惚れた女のためにと言えば俺も一つ考えてることがあるんだ」
「お、なんすかなんすか?」
「その女ってもしかして、こいつに乗ってる黒髪美人のことですかい?」
「ったくお前ら、話が早くて助かるぜ。そうなんだよ、このままグロリアスの里に着いたらコーネリアとはお別れだろ? けどその前にもう一度二人で話がしたくてさ」
「ははーん! さては昨夜、結婚したいの別れたくないので大喧嘩になったんでしょ?」
「ルースさんのことだから相手を本気にさせすぎたんすね」
「もー、いっつも去り際モメるんすからー」
部下たちにからかわれ、ルースは「いやいや! そんな毎回のことでもないだろ!?」と渋面を作る。だが説得力などあるはずもなく、弁解は紙より軽く流された。
「ともかくさ、ちょっとだけ慰めてやる時間が欲しいんだ。じきに分かれ道に差しかかるだろ? そこでこの馬車だけ別の道を走らせるのにお前ら協力してくれないか?」
なるほどとマーロンは合点する。傭兵団の人間でルディアの護送任務を知るのはごく一部の者だけだ。ほかの兵士は「送り届けるのはコーネリアと数人の下女」だと思っている。この状況ならルースの台詞はいつもの女遊びの延長としか見られないし、後々言い訳も立ちそうだった。
「ええっ! そんなことして大丈夫です? 確かに渋滞がちですし、ぱぱっと行って戻ってくりゃあ問題にはならんでしょうけど」
「平気平気、前もこの手で半時間ほど隊列を抜けたが誰にも気づかれなかったし。馭者様にはとっくにご快諾いただいてるしな!」
どうだ流れはわかったかという視線にふんと鼻を鳴らす。「おお! 親衛隊の騎士様も色恋にはお情けを!?」と傭兵たちに見上げられ、マーロンは表情を険しくした。
「……ふん! マルゴー公国もコナー殿には色々世話になっている。その妹君のためであれば多少の融通はきかせてやろうというだけだ。言っておくがこの馭者台まで譲る気はないぞ? 貴様のような遊び人を野放しにできんからな。邪魔はしないが見張りはきっちりさせてもらう。私が先導を務めてやることを光栄に思うがいい!」
「おお……」と下賤の兵どもは一気に白け顔になる。ルースだけは「へへへ、恩に切ります。二人っきりにしていただけて!」とわざとらしく媚びてみせたが。
「そんじゃスムーズな離脱のために、今からちょっとずつ遅れ気味に行きやすか」
「ルースさん、首尾はどうだったか後で聞かせてくださいよォ!」
疑いもせず傭兵たちは「事故」の前準備に取りかかった。これでマーロンとルースはごく自然にルディアたちをティルダ一行から引き離せる。誰かが異変に気づいてもしばらくは残った兵が「乳母さんたちはお手洗いで」とか言い訳してくれることだろう。
(まったく悪知恵の働く男だ)
のろのろと馬に坂道を登らせながらマーロンは遠ざかる風景を振り返った。遥か眼下には額縁に収まりそうに小さくなったサールの街とチャドが見送りに篭っている石橋の望楼がおぼろげに霞んでいる。
(ここまで来れば王子にも何もわかるまい)
ほくそ笑み、今度は前方に目をやった。行列は左右に枝分かれする峠道の、なだらかなつづら折りを選んで左へ曲がっていく。反対側、断崖に沿う急勾配の古道には誰の姿も見られなかった。
(あとは適当な高さからこの馬車を突き落とし、山賊に襲われたと証言すればいいだけか。実に簡単なことではないか)
まだ脈は速いものの、胸を打つ鼓動は少しずつ平常通りに戻ってきている。運命の分かれ道はもう目と鼻の先だった。
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「――なあ、ルースさんどっか行ってねえ?」
ちょいちょいとドブに袖を引かれ、グレッグは「へっ?」と瞠目する。そのまま後方を振り向けば、確かにしんがりを進んでいるべき黒塗りの馬車は影も形もなくなっていた。
「あ、あれ!? なんで!?」
我知らず声が引っ繰り返る。狼狽するグレッグにほかの仲間が「どうした?」と尋ねてきたが「い、いや、なんでもねえ!」と誤魔化した。
ティルダやコーネリアだけでなく、王女ルディアの護衛も頼まれていることは傭兵団幹部だけの秘密なのだ。公爵にも絶対喋るなと口止めされているし、おいそれと明かすわけにはいかない。
「一番後ろの馬車って確かコーネリアさんが乗ってたんだよな?」
声を低くしたドブの問いにこくこくと頷き返す。少年は呆れた様子で「あの色ボケ男、もしかしてわざとはぐれたんじゃね?」と耳打ちしてきた。
「はあ!? わ、わざとって、そんなまさか」
「前もこんなことあったんだよ。慌てて探しにいったら女とイチャイチャしてやがってさ。何も見なかったことにしてスルーしたけど」
「そ、それマジか!? 初めて聞いたぞ!?」
「さっき道が分かれてたじゃん? 悪路だけど近道できるし、後からしれっと合流するつもりなんじゃねえ? っつーか絶対そう」
確信に満ちたドブの言葉にグレッグはますます青ざめた。えらく張り切って自分が要人警護を受け持つと言うので任せたが、もしかして初めからそういう魂胆だったのだろうか。いやしかし、いくらルースでも王女様が一緒と知っていてまさか――。
「ほんっと病気じみてるよな」
少年はルースの自制心のなさをエサ箱の前の豚に喩えた。それさえなければいい副団長なのにという神妙な嘆きがぐさぐさハートに突き刺さる。
「……すまん。ちょっと俺、あいつ連れ戻してくるわ……」
「おおっ!? ついにルースさんのこと教育し直す気になったのか!?」
「俺もここまで酷いとは思ってなかった。今まで好きにやらせすぎたみてえだ……」
反省もそこそこにグレッグは移動中の指揮を小隊長の一人に任せてダッシュする。ティルダにばれる前になんとしても馬車を元の道に戻さねばならない。もしルディアに万一のことがあれば、怒らせたままのチャドとの和解も二度と叶わぬに違いないのだから。
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牛車並の鈍足だった一頭馬車がガクンと激しく後傾し、山を登る勢いを増したのは突然の出来事だった。
「キャアッ!」
「うわわわっ!」
両端の二人が崩れた積荷に埋もれたのをなんとか助け出して引っ張り起こす。
「だ、大丈夫? 二人とも」
ブルーノが問うとモモとコーネリアは目を回しながら頷いた。「なんなのもうー!」と荒い運転に少女は怒り心頭だ。
闇に慣れた目で見回すが閉ざされた馬車の中では今一つ状況がわからない。急に角度がついたのは坂を上りだしたせいだと思うが速度まで急に上がるなどちょっとおかしくなかろうか。さっきまであんなにノロノロしていたのだし、登り坂ではスピードダウンするのが普通なのだから。
「……なんか変じゃない?」
モモも同じ違和感を覚えたらしく、怪訝に細い眉を寄せた。痛そうに後頭部を擦るコーネリアは「そうですか?」と首を傾げる。
突き上げるような振動がガタンガタンと車体を揺らした。まるで前方に誰も歩いていないかのように馬は一段と駆け足になる。訝しむ間にも身体は山上へ運ばれていた。
「もしかして馭者が暴走してるとか?」
モモの疑念に息を飲む。鞭を取るマーロンは彼女が「なんか怪しい」と認定した公女直属騎士だった。アウローラが災難に見舞われたのも使者と対面した直後だったと聞いているし、なおのこと嫌な感じがする。
「心配なさることはないと思いますが。その、外を守っているのはルースさんですし」
上擦った声の乳母を無視してモモは一番大きな隙間から外の様子を窺った。だが斧兵に見えたのは切り立つ灰色の崖だけで、ほかには人影もなかったようだ。更にしばらくすると今度は極端にスピードが落ち、脈絡もなく馬がぴたりと足を止めた。
「……」
「……」
休憩にしては早すぎる。ブルーノはモモと目と目を見合わせてどうするべきか逡巡した。
自分たちから顔を出し、何かあったか尋ねられれば簡単だが、緊急事態でもなさそうなのでためらわれる。山賊に襲われている雰囲気であれば武器を手に取り戦うのだが。
「――あのさあ、モモの直感信じてくれる?」
と、鳥肌の立った二の腕が掌に押しつけられた。冬でもないのにモモが青くなっているなんて、バジルがうっかりスープに毒キノコを入れてしまったとき以来だ。
あのときは彼女が「やだ! なんかこれ食べちゃダメな見た目がする!」と突っぱねたおかげで皆助かったのだった。就寝時でも地震の前には目が覚めるタイプだし、動物じみた生存本能に頼もしさは感じてもその逆は有り得ない。
ブルーノが頷くとモモはすっくと立ち上がった。何をするのかと思ったら、彼女は長椅子を乗り越えて鍵のかかった背扉に向かう。そしてそのまま双頭斧を振りかぶった。
「!? ちょ、ちょっと!?」
慌てて止めたが間に合うわけもなく、瞬発力と度胸で生きている少女は既に全力で重い刃を打ち込んだ後だった。
「……ッ!」
眩い光に目を焼かれる。痛みに瞑った瞼を開いたとき、ブルーノが見た光景は護送されているなら有り得ないものだった。
馬車は高い崖のギリギリに停められ、少し押せば谷底まで一気に転落しそうだった。繋がれていたはずの馬はなぜか車から外されており、マーロンが焦り顔でこちらを見ている。馭者のほかにはルースしか兵が見当たらず、急傾斜の古道は奇妙に静まり返っていた。
「何やってんの!?」
叫び声にハッとした。見れば荷物を押しのけてモモが外へと飛び出していく。想定外の状況になっているのは間違いない。ブルーノも剣を掴んで馬車を降り、注意深く二人の男に対峙した。
「これは一体なんの真似? 返答次第じゃモモもただじゃ置かないけど?」
問われたマーロンは強張った顔ですぐ横のルースを見やる。傭兵団の副団長はぽりぽりと後ろ頭を掻きながら「仕方ねえな」と嘆息した。
「あー、まずは確実にお姫様だ。そっちは斧持った嬢ちゃんを足止めしといてもらえますか」
「う、乳母はどうする?」
「戦力じゃないし、最後でいい」
不穏すぎる打ち合わせにぞっとする。ルースの初動は早かった。一切の迷いなく抜いた長剣で彼はブルーノに切りつけた。
「ッ!」
間一髪、膝を折って下方に逃れる。目標を逸れた切っ先は馬車を引っ掻いて静止した。
「おっと、今のを避けられるとは。一撃で死んでくれればお互い楽に終われたのにな」
悪あがきしないでくださいよ、と冷めた声に告げられる。転がりながら追撃の撫で斬りをかわし、なんとか敵と間合いを取った。起き上がりつつちらりとモモに目をやるが、彼女は彼女でマーロンと睨み合っていて加勢など頼めそうもない。ブルーノは意を決し、レイピアを構えて腰を落とした。
「誰に頼まれてこんなことを?」
「聞いてどうするんですか? どうせ死ぬんなら何も知らないほうが幸せじゃないですかね?」
「……アウローラもあなたたちが?」
「だから聞いてどうするんですってば」
答える気はないらしい。ルースはじわじわ距離を詰めてくる。
動きやすい下女の服を着せられていてまだ良かったかもしれない。さすがに歴戦の傭兵相手にかさばるドレスでは厳しかったろう。
「ルースさん、悪い冗談はやめてください! 今すぐ剣を下ろしてください!」
と、そこに馬車から出てきた真っ青なコーネリアの叫びが響く。彼女と男女の関係だったという副団長は多少動じた素振りで乳母を振り返った。
「俺もさあ、冗談だよって言ってやれたら良かったんだけど。……ごめんな」
詫びるが早く剣士は攻撃に転じてくる。振り下ろされた長剣を、身をひねりながら横跳びにかわすとブルーノは勢いをつけてルースの背後に回り込んだ。がら空きの背中めがけて突きを放つ。だが敵もさるもの、レイピアの細い刀身は厚い革のグローブに難なく振り払われてしまった。
「ふうん。箱入りの王女様かと思ったら案外まともに戦えるんですね」
興味深そうにルースが笑う。「こりゃ手抜きできないな」との囁きに酷い寒気がした。
「…………」
透けて見える余裕が小憎らしい。体力でも腕力でも敵わないのは明らかだ。だからと言って好きにやらせるわけにいかないが。
(姫様の大事な身体を守らなきゃ……!)
少しでも優位に立つべく足を狙う。しかしキルトアーマーを着込むルースは敏捷で、動きはまったく捉えがたかった。そればかりか彼はブルーノの武器を叩き折ろうと迫ってくる。
「くっ……!」
まともに切り結べば耐久性の劣るレイピアではもたない。懸命に離れようとするが、激化する攻撃が逃げの一手を許さなかった。じりじり押され、坂の上へと後退していく。
(クソっ……!)
悔しくて堪らない。もっと早く稽古を再開していればとか、もっと宮廷人を警戒していればとか、そういう悔しさだけでなく、ルースの殺意を感じるたびに心は千々に乱された。
なぜよりによって彼なのか。せめて刺客がマーロンだけならこんなに悲しくならないで済んだのに。
「どうしてグレッグ傭兵団のあなたが王子を裏切るような真似を……!」
傷つくチャドの顔が浮かんでブルーノは思わず叫ぶ。一瞬ルースがすくんだ隙を突き、跳び下がって間合いを取り直した。
長剣は追ってこない。ただ剣士の暗い双眸がこちらを睨むだけである。
気圧されて息を飲んだ。ルースは静かに吐き捨てた。
「……うちの旦那も、傭兵団も、この件とは一切無関係だ」
青ざめた彼の唇から先程の笑みは消えている。一瞬の踏み込みの後、眼前で刃が閃いて、ブルーノは咄嗟に上体を反らした。
だがそうやって避けることはルースも予測済みだったらしい。浮き上がった右手を剣の腹で強かに打たれ、レイピアを取り落としてしまう。すぐに拾おうと手を伸ばしたが、斬撃を避けながらではバランスを取れず、転倒し、執拗な攻めに逃げ惑い、気づいたときには崖っ縁まで追い詰められていた。
(もう後がない)
眼下に映る岩場や林や草むらとの高低差に眩暈がする。足を踏み外せば命はあるまい。
だが前方にも活路はなかった。とどめとばかりにルースは最後の一閃を放つ。
「あ……ッ!」
鋭い刃が迫ってくる。避けようとして体勢を崩し、ブルーノは真っ逆さまに緑の谷へと墜落した。




