第3章 その1
愛されて、優しくされて、初めてわかることがある。これまで自分がどんな寂しさに耐えてきたか。そうしてそれを仕方ないことと諦めてきたか。
「意外に頭良くないね」と嘲った男がいた。人々は好奇の目で「あなたは何ができるの?」と値踏みしてくる。そして己が十人並みの人間でしかないと知ると、宝石と間違えた石ころを放り捨てて去っていくのだ。
いつもそう。「ファーマー家の娘が才女でないはずない」「あの天才の妹なのだから」と勝手に価値を求められ、勝手に失望されてしまう。家の人間も出来の良い兄姉は持てはやしたが、愚鈍な末っ子に関心は薄く、いつしか奥の間に押し込められた。それでも己も家族の一員、栄誉ある兄や父に恥をかかせてはならないと口数少なく慎ましく振る舞うことだけは覚えたのに――。
「どうしたんだ、ぼんやりして。ちょっと疲れさせちまったか?」
耳元で響いた問いにコーネリアはハッと目を上げた。甘く掠れたルースの声がまだ熱い肌をくすぐる。情熱的に、それでいて優しく見つめられ、どきどき心臓が高鳴った。薄い色の瞳には行きずりの恋に戸惑う女の赤面が映り込んでいる。
「喉は乾いてない? 何か持ってくる?」
義務的でない気遣いが嬉しい。くしゃくしゃに乱れたシーツの上で首を振ると「それじゃもっとこっちにおいで」と誘う男に捕らわれた。
彼の腕に抱かれているとほっとする。自分も愛されるに足る女だったのだ、認められるだけの努力はできていたのだと涙が滲んだ。
二十五年の人生でコーネリアに一度たりともけちをつけなかった男はルースが初めてだ。家の名前も持ち出さず、神域の兄と比べもせず、ただ生身の己を健気で可愛いと言ってくれた。峠越えの足を引っ張っても、大切な赤子の世話さえままならずとも。
――君は頑張り屋さんだよ。
ルースが褒めてくれたとき、最初は何を言っているのだろうとちっとも理解できなかった。優秀すぎる家族には誉められたためしなどなかったし、嫁ぎ先の夫や姑はもっと歯に衣着せなかったから。この愚図めと罵られるのが普通の毎日。やっと授かった子供に先立たれたときは自分の生まれた意味や価値まで疑った。それからすぐに夫が戦死し、突き返された実家でも居場所など見つけられなくて、ただただ情けないばかりで。
乳母探しを始めた当初、堅実な父はコーネリアを避けていた。王家の小姫に付き添わせるには不出来な娘と見ていたのだろう。何しろコーネリアには知恵も経験も何もない。すぐにぼんやりしてしまうし、要領も悪く不器用だ。結局ほかに母乳の出る女が見つからず、妥協で「行ってくれないか?」と頼まれたが。
大任を果たせば自分もファーマー家の娘らしくなれるだろうかと期待した。一家の輪に自分も入れてほしかった。
だがもういい。分不相応な望みに苦しむのはやめにする。無理に背伸びなどしなくていいと思えるようになったから。
「あーあ、また黙り込んで。駄目だぜ、俺以外のこと考えちゃ」
拗ねたふりをするルースにコーネリアはくすりと笑う。「違います、あなたのことを考えていたんです」と明かせば奔放な剣士は瞳を輝かせた。
「なになに? ルースさんって男らしくてとっても素敵だわって?」
「もう、いつも自信満々なんですから! そうではなくて、あなたのおかげで随分気持ちが軽くなったなと。家族の愚痴なんてアクアレイアでは誰にも話せませんでしたし……。本当に感謝しているんです」
率直に告げたコーネリアをルースは茶化すことなく抱きしめてくれる。「役に立てたなら嬉しいよ」と真心のこもった返事を聞いて、こちらまでこそばゆくなった。ああ、尊重されていると。
モモは遊び慣れた男なんてろくでもないと言っていたが、彼は紳士そのものだった。コーネリアを馬鹿にしたり、わざと困らせたりしないし、盾になって守ってもくれる。ルースが一切得をしない場面でもだ。
アウローラの乳母役を降ろされたとき、彼が励ましてくれなかったらきっと立ち直れなかった。今でも「私はなんて駄目な人間なの」と自分を責めていたに違いない。もちろん彼としても王女の危機を見過ごした責任の一端は感じていたのだろうけれど。
(……モモさんには内緒のままでいいかしら。結果的にアウローラ姫には何事もなかったのだし)
アルタルーペの峠村で過ごした嵐の一夜。あの日の不始末を思い出すと少々気が咎める。寝ている間に誰か訪ねてこなかったか問いただされ、コーネリアは咄嗟に嘘をついてしまった。本当は明け方近くまでルースが一緒だったのにあらぬ誤解を受けるのを恐れて。
(お喋りしただけで何もなかったなんて誰も信じてくれないもの。あのときはまだ私、ファーマー家の末娘としてふしだらな女には思われたくなかったから……)
言い訳なのはわかっている。しかし今更わざわざ自分の非を報告する気にはなれなかった。
それに隠し事なら兄のほうがずっと酷い隠し事をしていたのだ。もし死んだのが王女ではなくコーネリアの子供だったら、コナーは秘薬があると言わずに見殺しにしようとしていたのだから。
(モモさんは何も言わなかったけど、ルースさんは許せないって怒ってくれた。たとえ遊ばれているのだとしても構わない。そんな風に味方になってくれた人がいることを心の支えに生きていきたいわ)
いくら世間知らずの自分でも、約束も何もない関係が永遠に続くなど信じていない。それでも彼に会えて良かったと思う。抱いてもらえて幸せだったと。
だから、そう、最後まで泣かずにいたかった。別れの時は近くとも。
「明日にはサールを出発か。二人でこうしていられるのも今夜限りだな。愚痴でもわがままでも今のうちにたっぷり言っときなよ? 可愛い女のためにならなんだって聞いてやるからさ」
暗い宿にひっそり響く温かな声に胸が痛む。
時々でいいから私を思い出して。
そう祈る以外、よそ者のコーネリアにできることは何もなかった。
******
「あーっもう!! この忙しいのにルースさんはまーた女のところかよ!? あんの色狂い、休暇は今日でおしまいだってわかってんだろうな!?」
溜めに溜め込んで頂点に達した苛立ちを金切声でドブはぶちまけた。夜更けの傭兵用宿舎には荷造りに追われる男たちの怒号が飛び交っている。「くそ! なんで矢の数が合わねえんだ!?」だの「未登録の新入りはどこ行った!?」だの、千人仲良く雑魚寝できる広々とした大部屋に反響する声は荒っぽい。
マルゴー公国の第一公女ティルダ・ドムス・ドゥクス・マルゴーが傭兵団に護衛を依頼してきたのは今朝の話だった。なんでも侍女たちを連れて保養地に小旅行する予定なのだが、前日になって急に道中が不安になってきたらしい。実戦経験に乏しい親衛隊だけでは警備が心許ないので付き添ってくれないかと言うのである。
楽できるうえに報酬も高く、傭兵団としては願ってもない仕事だった。ただ甘い汁を吸うためには大急ぎで都を発つ準備をせねばならなかったが。
「ドブ、やべえ! 金獅子亭の親父だ! 十日前の飲み代をここまで取り立てに来やがった!」
「おおい、ドブ! こっちもいいか!? 出すもん出さなきゃ俺のあの子にゃもう会わせねえって脅してきやがる!」
「ドブ、そん次は俺の給料から差し引き頼むー!」
「俺も、俺にも未払いの請求書が!」
「だーッ! うるせえ! 一列に並べええええええ!」
先刻からドブのもとには本来ルースが行うべき経理関係の処理案件が息つく間もなく流れてきていた。
清算、清算、また清算、またまた清算、また清算だ。勘定はややこしいし、額は誤魔化されそうになるし、ほとほと嫌気が差してくる。剣の研ぎ代や薬代はまだしも、なんだってうちの馬鹿どもは飲んで盛っての夜遊び代までツケにして帰ってくるのだ。給金を使いきるのは勝手だが店の主人にどやされるのはこっちなんだぞ。
「すまねえなドブ、この中じゃお前が一番計算得意だからよお」
見回りに来たグレッグにねぎらわれ、ドブはいっそう唇を尖らせた。悪いのは役目を放棄してコーネリアといちゃいちゃしているルースである。とはいえ副団長を御しきれていない団長にも問題を感じないではなかったが。
「グレッグのおっさん、悪いこた言わねえ。ルースさんはいっぺん教育し直すほうがいい。女が絡むとほかのこと全部ほったらかしだもん」
「ハハハ、まああいつのは半分病気だからな」
「そうやって流してるから変わらねえんだろ!? あんたと別行動してる間、あの人がどれだけやりたい放題だったか……! 規則破って女は連れ込むし、おかげで風紀は乱れまくるし」
「いやいや、お前はそこらへんの事情知ってんじゃなかったっけ? ……例の赤ん坊とその乳母を保護するつもりだったって聞いたぞ? けど力になりきれなくてすまないって、あいつわざわざ俺に詫び入れにきたんだから」
「えっ」
声を潜めたグレッグにドブは目を丸くする。完全にスケベ心だと思っていたから驚いた。あの女狂いにも公爵家や傭兵団に貢献しようなんてまともな頭があったのか。
「……いや、でもさ、今あの人がコーネリアさんとただれた生活送ってんのはいつものスケベ心からだよな?」
冷静になって突っ込むとグレッグもハッと真顔になる。
「あれっ? い、言われてみればそうだな……」
考え込む団長にドブは「やっぱ再教育が必要じゃねえ?」と助言した。その前にグレッグの抜けっぷりもどうにかしたいところだったが。
「うーん、再教育ねえ。あいつがずっとうちでやってくつもりなら考えなくもねえんだけどなあ」
「えっ!? まさかルースさんって独立考えてたりする?」
またも団長の発言に狼狽させられる。いくらルースがだらしなくてもいなくなるのは嫌だなと思いながら尋ねると、グレッグは「違う、違う」と首を横に振って続けた。
「あいつ元々別の傭兵団の団長だったんだよ。百人くらいの、駆け出しに毛が生えた程度の規模だったけど。だからそのうちまた自分の団を持ちたくなるんじゃねえかなって」
「ええっ!? ル、ルースさんて団長やってたことあるんだ!?」
「おう。あいつと一緒になった頃はうちもやっと二百人になったかならないかでよ。思えばほんの六、七年で随分でっかくなったもんだぜ」
千人隊まで成長したのは人集めの上手いルースのおかげだとグレッグは笑う。だがドブは、スリや物乞いでなんとかその日暮らしをしていた己が眼前の男に拾われた二年前を思い出し、離れさせずにいるのもそれはそれで才能ではないかなとひとりごちた。
(そうだったんだ……。でもルースさんが出ていくとしたら確実に百人単位で団員取られると思うけど、そこを気にした様子がないのはさすがだな……)
ドブはちらりと団長を見上げる。馬鹿な男だからきっとまだ気づいていないに違いない。気づいたとしてもこのお人好しは「餞別だ」とか言って見送ってしまうのだろう。そんな未来図は簡単に想像できた。
(いや、まあ、ルースさんがグレッグのおっさんから離れてくわけねえと思うけど……)
あの無類の女好きが常の居場所としてはむさ苦しい男の隣を選んでいるのだ。ちょっとやそっとで団を変えるとは思えない。
「ドブー! 来てくれーッ! 今度は銀竜亭の親父があ!」
「うわっ、まだ払い残しがあったのか!」
支払いを迫られている団員に泣きつかれ、ドブは臨時会計の仕事に戻った。
徹夜する羽目になっても明日からしばらくはチョロそうな任務で助かったなと息をつく。
徒歩で一日の距離にある山岳湖畔の別荘地――グロリアスの里にティルダを送り、現地でのんびり保養しつつ護衛するだけ。こんなもの休暇の続きも同然である。
ドブは近づく惨劇について何も予感していなかった。一団には秘かに隣国の王女が加わると知っていたグレッグも同様だ。
傭兵団の男たちが陽気に笑っていられたのは、この日この夜までだった。
******
ああやれやれ、いくらティルダ様の弟とはいえチャド王子には困ったものだ。明日は朝早いとわかっているのにこんな時間まで居座って。誰かの持ち込んだ災いの種が実をつけぬよう忙殺されている姉君に少しは感謝すればいいのに。
胸中でそうぼやきつつマーロン・アップルガースは糸目の姉弟に目をやった。ほかの臣下はとっくに全員退出した深夜の公務室、重厚なマルゴー杉の用務机を差し挟んで二人は意見を戦わせている。
「ですから姉上、私は妻の側を離れたくないのです! 護衛の人数を増やしたから安心しろと言われても、はいそうですかと簡単に送り出せるものではありません! 同じ静養に私も加わる、それだけのことではないですか!? なぜ私だけサールで待たねばならないのです!?」
「何度も言っているでしょう! あなたが彼女と一緒にいるところを見られて『王子はもしやアクアレイアの王女を連れて帰ってきているのでは?』なんて噂になりでもしたら、私たちあなたのことも庇いきれなくなってしまうのよ。一生会えなくなるのではないじゃない? あの子がマルゴー貴族の侍女となり、ゆくゆくは養女として引き取られ、アクアレイア人だった過去を消し去るまでは万難を排すべきだと言っているの!」
「ですが姉上、私の娘は、可愛いアウローラは二度とこの手に抱けないままで死んだのです! 離れ離れになっている間に彼女までそうなったらと考えると……!」
「チャド、少し冷静におなりなさい。あなたにとってもあの子にとっても大切なのは未来のはずよ。理性を損なったまま行動したのでは最善を選択できないわ。今のあなたがなすべきことは何? 私に文句を垂れている暇があるのなら少しでも世間の目が愛しい妻に向くことのないように取り計らうべきなのではなくて?」
「仰ることは重々承知しております。私は私で彼女のために、来たる新生活の基盤を整えておくべきだ。しかし気持ちがついていかないのです。どうしてもルディアの側でなければ私は――」
しつこく食い下がる弟に美しき女主人は嘆息した。恋は盲目と言うけれど、チャドのように身分ある若者が取り乱すさまは痛々しい。脇目も振らず一人の女性に己を捧げんとするのは結構だが、現状では少なからず場違いだ。
「確かに最初、あなたには城に残ってもらうと言わなかったのは悪かったわ」
かぶりを振ってティルダは詫びた。しかしすぐ「でもそれはこうしてあなたが身勝手な主張を始めるとわかっていたからよ」と強い語調でぴしゃりとやる。
「大臣たちは妻にべったり付きっきりのあなたの態度に不信感を持っています。第二王子はマルゴーよりもアクアレイアが大事なのかとね。こう言えばあの子との別行動を勧める理由がわかるかしら?」
「……!」
暗に公国の和を乱すなと叱責され、チャドは顔色を失った。よもや己の行動が味方の中に敵を作っているとは思わなかったのだろう。黙り込んだきり彼は何も言えなくなる。こうなればティルダが弟を言い負かすのはあっという間のことだった。
「いいでしょう、最後の安全地帯まで失いたいなら好きになさい。私には心配のしすぎに思えて仕方がないけど」
冷然とした物言いにチャドは拳を震わせる。姉の反対を押し切って、無理に妻に同伴すればどんな不利益が待っているか、想像できない愚物ではないから王子はしばし苦悶した。眉間のしわはいっそう濃くなり、噛みしめられた唇が悔しげな声を吐き出す。
「……わかりました。私も公爵家の男だ。堪えろと仰せなら一年でも二年でも堪えてみせましょう」
やれやれ、やっと折れてくれたか。態度には出さずマーロンは息をついた。これで誰の妨害も案ぜず計画を実行に移せる。
「大丈夫、そう長く待たせはしないわ」
数時間がかりの説得を終え、ティルダも穏やかな微笑を浮かべた。その表情はマルゴー公爵補佐官から弟想いの優しい姉に戻っている。
「ありがとう、わかってくれて。昔も今もあなたはいい子ね」
「いえ、姉上がいつも私を正しく導いてくださるのです。……しかしどうか、明日見送りに立つことだけはご容赦くださいませ。なるべく目立たないように心がけますので」
「ええ、その程度なら問題なしよ。さあ、今夜はもう伴侶の待つ部屋へ帰ってさしあげて。遠く離れて過ごす間、互いの慰めになる思い出は今しか作れないのだから」
頭を下げ、項垂れ気味にチャドは辞去した。続きの間の、そのまた続きの間に消えていく後ろ姿を見送って、マーロンは公務室の扉を閉じる。
振り返れば疲れきった様子でティルダが椅子に身を沈めていた。伏せられた瞼の強張りにぎゅっと胸が痛くなる。
「……こういう嘘はまだ苦手ね」
「ティルダ様」
「可哀想に。あの子は私の言葉通り、愛しい姫との再会を信じるのだわ」
室内に重い嘆息が零れた。苦しげにうつむく彼女を見ていられず、マーロンはつい浅薄な問いを投げかけてしまう。
「はっきり申し上げてはいけないのですか? 奥方には死んでもらわねば困るのだと。我が国の現状を知れば、何もあなたが泥を被らずとも王子自ら伴侶と縁を断ってくださるのでは……」
「無駄よ。あの子の軽率なまでの誠実さは生来のものだもの。それにできれば弟には汚れた舞台裏なんて見せたくない。チャドを綺麗な世界で生きさせると決めたのは私だもの。今度のことでは傷つけてしまうけど、私だって公爵家の女です。黙ったまま一生堪えてみせるわ」
公女としての強い意志に心打たれ、マーロンは全身を震わせた。なんと潔く勇ましいのだろう。今更ながらティルダに仕える喜びが溢れる。やはりこの方は美しい。どんな地獄を選んで立っていようとも。
「馬鹿をぬかしてしまいました。どうか今の発言はお忘れください。私はただあなたの忠実な剣としてあなたに災禍が降りかからぬように務めます。たとえ我が身を返り血に染めても、私だってあなたをお守りしたいのです……!」
感極まって彼女に近づき、白い手袋に口づける。このまま椅子に被さりたい衝動に駆られたが、主人の目がそっと天井画に向けられたので跪いたまま同じ絵を見上げた。
描かれているのはパトリア神話の英雄だ。悪を嫌う師に代わり、聖王の密命をこなして汚れる悲劇の魔法使い。最後には敬愛する師に破門を言い渡されてしまった――。
「……私たち、皆似た者同士なのかもしれないわね。ルースだって恩人のために私の命令を拒めずにいるんだもの」
不意に出てきた男の名前にマーロンの陶酔は呆気なく踏み散らされる。己が一番主人の役に立っているという矜持。それを一瞬で粉々にするのは決まってあの下賤の青年剣士だった。
「あのような不埒な輩と我々が似ているはずありません!」
ルースの女性遍歴と卑猥な素行の数々が脳裏をよぎり、思わず声を荒らげてしまう。眉を吊り上げたマーロンにティルダは苦く微笑んだ。
「ええ、もちろん彼にあなたみたいな品位はないわ。だけどその分汚れ慣れている。やるとなれば彼は思いきりがいいでしょう? 明日はルースの段取りに合わせてあなたは補佐に回ってちょうだい」
とどめのように命じられ、マーロンは更に動転する。
「ほ、補佐ですか? 私にあの男の指示に従えと……?」
しどろもどろに尋ね返した。第一の腹心の地位を揺るがされるのだけは我慢ならない。あの男に彼女の騎士として一段上に立たれるのは。
「違うわ、マーロン。あなたはあくまで彼の監視役、必要がなければ手を下す側に回らなくていいという意味よ。あなたに覚悟があることは私も知っているけれど、やはり大切な人にはなるべく潔白を貫いてほしいもの。それに悪事というのは悪事に適した人間にやらせるのが賢いわ。私があなたに頼んでおいたアウローラ殺しをあなたが彼に任せたようにね」
「お、おお、そういうことでしたか」
詳細を受けてマーロンは合点する。ホッと息をつき、改めてティルダに頭を垂れた。
どうもルースの話題になるといけない。張り合おうとして却って醜態を晒す羽目になる。
「あなたの出番は不測の事態に陥ったときだけでいいの。明日はきっと上手くやってくれると信じているわ」
細い指がマーロンの髪を優しく梳く。甘い熱に浮かされながら「はい、必ず」と返事した。
必ず使命を果たしてみせる。彼女の期待に応えてみせる。そうすれば彼女の柔らかな肢体に口づける日も近づくはずだ。
夜明けは近づきつつあった。剣の柄を握る手に力は自然とこもっていた。




