第2章 その5
アルフレッドがアイリーンの不在に気がついたのはアクアレイアに一時帰還した翌日のことだった。さあ一緒にジェレムを訪ねようと研究室のある洞窟を覗いたら書き置き一つだけ残して彼女は姿を消していたのだ。
「『やっぱり事の発端が私だったのだと思うと姫様や皆に申し訳なくて、カロを止める自信もなくて、勝手だけどアルフレッド君に同行しても邪魔になるだけと判断しました。私はこのままハイランバオス様を探しにいこうと思います。あの人を捕まえることが私にできる唯一の償いだと思うので……。
相談もせずごめんなさい。ディラン・ストーンは実家と縁の深い北パトリアの医大に旅立ったと聞きました。私もひとまずそこを目指します。アイリーン・ブルータス』……」
ところどころインクの滲んだ置き手紙を読み上げてモリスと顔を見合わせる。参っているのは知っていたが、まさか一人でいなくなるとは。
「どうするね? まだそう遠くへは行っておらんと思うが」
心配そうにモリスが窓の外に目をやる。少し悩んでアルフレッドは「いや」と首を振った。
「アイリーンはそっとしておこう。死んでお詫びをと言っているわけでもないし、こっちも探し回ってやる余裕がない。それに多分、カロと俺たちの板挟みになるのが怖いんだろう。無理に連れていくのは気の毒だ」
ガラス工はううむと唸る。気がかりでも一応納得はしたらしい。畳んだ便箋を懐に押し込むとモリスは気持ちを落ち着けるように囁いた。
「さすらうのには慣れた子じゃ。きっと波の乙女の加護があるじゃろう……」
さすがに声は頼りない。一人息子まで囚われの身では仕方あるまいが。
「モリスさん、予定通り親父さんに会わせてもらえるか?」
抱えた焦りを堪えて問う。解決すべき難題は山と積まれているけれど、今はとにかくカロを思い留まらせるのが先決だ。時間を惜しむアルフレッドの心を汲んでガラス工は頷いた。二人並んで工房島の桟橋に歩き出す。
「この時期なら大体クルージャの丘近辺をうろうろしとる。ジェレムとカロは仲がこじれておるからのう、くれぐれも言葉は気をつけて選ぶんじゃぞ」
実感のこもった助言に気圧されつつ了承した。若かりしカロがロマの一団を追い出され、東に流れた話は聞いた覚えがあるが、今でも根深い確執があるのだろうか。
ゴンドラに乗り込むとアルフレッドは櫂を握った。舟は浅いアクアレイア湾を南へ南へと進む。
クルージャの丘はドナ・ヴラシィとの戦いで最激戦区になった地だ。最後は砦を逆包囲して奪い返した。あの岬に向かうのは二ヶ月少々ぶりになる。
三時間ほど漕ぎ続け、砂浜にゴンドラを引き上げたときには太陽はすっかり高くなっていた。柔らかに吹く春らしい風にアルフレッドは息をつく。
見渡せば付近にはまだ折れた矢の残骸が置き去りにされていた。砕けた鎧や砲弾のかけらも目に入る。
ここにいると戦場の生々しさが甦る。勝っても負けても王国の運命に変わりなかったと知っていたら誰も殺し合わなかっただろうか。
砂を踏み、草を掻き分けてアルフレッドは坂を上った。丘はもっと惨憺たる有り様だろうと思ったのに、さんざめく平原に血まみれの剣や風雪に晒された白骨は見当たらなかった。その代わり、萌え出た緑に無数の墓標が十字の影を投げている。
「…………」
誰かが死者を弔ったらしい。どれもこれも枝を組んだだけの簡素なものだが墓には花も供えられていた。遺品から察するに、埋まっているのは皆ドナ人とヴラシィ人のようである。
なんとなしにアレイア海を振り返る。すると航海に出る船の帆影が波の間にちらついた。何があってもこの海で生き抜こうとする人々の姿が。
(アクアレイアは死んでいない)
ルディアさえ戻ってくればと強く思う。彼女さえ折れていなければ、と。
「おお、思った通りじゃ。近くにおるようじゃわい」
と、両耳に手を添えたモリスが嬉しそうに言った。耳を澄ませと急かされてアルフレッドもガラス工を真似る。
――ライライライ、ライライライ……。
風に乗って誰かの歌声が聴こえた。否、これは幾度も落命の瞬間を繰り返すという哀れな死霊の断末魔か。
金切り音は痛ましく震え、哀切を増幅し、にわかに怯んだ鼓膜の奥へと侵入する。ぞっと背中を駆けた悪寒にアルフレッドは立ちすくんだ。
なんなのだろう、この悲鳴じみた歌は。否応なしに膨れた恐怖が早くここを離れるべきだと急き立てる。
だがうろたえたのは一瞬だった。耳から入った異な音が心臓に達した瞬間、世界は歌に覆い尽くされ、未知の感覚に一新された。
――ライライライ、ライライライ……。
声が血肉に染みるにつれ、途方もない懐かしさ、慕わしさ、二度と戻れないどこかを想う悲しみが胸の底からせり上がる。剣をくれた伯父の姿が、幼い日の帰り道が、たくさんの船で賑わう商港が眼前に広がった。
この歌がどんな歌なのか、誰に聞かずともすぐ知れた。亡び去った、あるいは決して帰れない故郷への想いを乗せた歌だ。死の床にある旅人が、それでも最後に口ずさむ。
圧倒され、アルフレッドは立ち尽くした。歌が流れてくる間、指一本動かせなかった。
ロマのことなら知っている、なんて愚かな考えは今ここで捨ててしまおう。それらはきっとうわべだけの知識に過ぎない。
(……これがロマの本領か。そこいらの流行歌とは全然違うな)
アルフレッドは瞼を閉じ、より深く歌の響きを味わおうとした。けれど無情にも激しい空咳が望郷の夢を霧散させ、どこからも追い払ってしまう。
「……ああ。ジェレムはもう年でな、病気なんじゃよ」
残念そうにガラス工が呟いた。モリスが四十路を越えているから父親は七十近いだろう。放浪生活では療養もままならないだろうし、死霊の断末魔という第一印象は当たらずとも遠からずだったかもしれない。
「行こう」
促され、アルフレッドは歩を踏み出した。鼓動を乱す緊張が新たにもう一種加わる。なんて歌うたいだと。
「あっちじゃな」
墓標の群れを通り過ぎると半壊状態で放置されたクルージャ砦が近づいた。砲弾を受けた大穴の下には大小様々な瓦礫が積み重なっている。誰も来ないのをいいことにロマの一団はここを仮住まいにしているらしい。辺りには彼らが持ち込んだと思しき楽器や衣類が散らばっていた。
だが肝心のロマは表に出てきていないようだ。アルフレッドは崩れかかった壁の向こうを覗いてみる。二度目の驚愕はその直後に訪れた。
「――こいつはなんだ、モリス」
切れ味鋭いナイフに似た男の声が間近で響く。首筋には本物の刃が無遠慮に押し当てられていた。思わず顎を仰け反らせ、アルフレッドは半ば崩れた姿勢のまま後ずさりする。
「ジェレム! その若者はわしの連れじゃ!」
慌ててモリスが間に割り込んだ。しかし壁に張りついて息を潜めていたロマはまるで警戒を解いてくれない。
ガラス工の頭越しに睥睨され、アルフレッドはまさかこの痩せぎすの老人がさっきの歌声の主なのかと驚いた。灰色の髪と朽ちかけた体躯に不相応なほど荒々しい眼をしたロマは、到底あんな物悲しい節を歌う男に見えなかったからだ。
「なんだって俺のところにアクアレイア人なんか連れてくる? 気分が悪い。今すぐ帰れ」
まだ少し咳き込みながらジェレムは怒りを露わにした。彼が陣取る小砦の奥では中年女性と三つ編みの少女が互いを庇い合っている。ジェレムが二人からアルフレッドを遠ざけようとしているのは明らかだった。
「い、いや、実は折り入って頼みがあってな。彼に道案内をしてやってほしいんじゃよ」
「はあ? 道案内だと?」
ちらとこちらに向けられたしわ深い顔が胡散臭げに歪められる。見慣れない、しかも胸甲を着込んだアクアレイア人に対する不信感を彼は隠しもしなかった。
「ああ、アルフレッド君はカロを探しておるんじゃ」
ぴくりとジェレムのかさついた下瞼が動く。「戻っておるのは知っておったんじゃろう?」と問われ、年老いたロマは不快げに目尻を吊り上げた。
「だからなんだってんだ? あいつのことも、そのアクアレイア人のことも、俺には一切関係ない」
忌々しげに吐き捨てられる。カロとはこじれているという話も、筋金入りのアクアレイア人嫌いだという話もどうやら誇張ではないらしい。
「関係なくなどない。アルフレッド君はわしの友人じゃし、わしだってカロを見つけたいんじゃから」
「知らねえな。用があるなら自力で探せよクソガキ」
「できないから頭を下げにきたんじゃろう。別にあんたにまでカロに会えとは言っとらん。アルフレッド君を近くに連れていってもらえればいいんじゃ」
「お断りだっつってんだろう。なんで俺が、アクアレイア人なんかのために、わざわざあんな奴を探さなきゃいけないんだ? 息子だからってなんでもしてもらえると思ってんじゃねえぞ」
「そんな風には考えておらん! 本当に不測の事態なんじゃよ!」
「ふん、どうだか。お前はロマとは根本的に考え方が違うからな」
雰囲気は険悪になる一方だった。偏屈とは聞いていたが、事前予測を上回る刺々しさで息が詰まる。よもや親交深いモリスまでこんな悪しざまに貶されるとは。
だがなんと拒まれても引き返すわけにいかなかった。ここでジェレムの仲間に加えてもらえねばカロを追う手段は潰えてしまうのだ。
「……俺の部隊の人間がカロに命を狙われている。しかしそれは誤解というか、彼にも悪い思い込みがあるんだ。事が起こる前になんとか説得したい。どうかカロのいそうな場所に連れていってもらえないか?」
アルフレッドは正直に己の事情を打ち明けた。ほかに協力を乞う方法は思い浮かばなかった。
ジェレムは一瞬怪訝そうに眉をしかめたが、すぐに皮肉な笑みを浮かべる。
「ああなるほど、そいつがイーグレットを殺ったのか」
ロマというのはどこまで噂を把握しているものなのだろう。王都の人間でも下手人が誰か知っているのはごく一部なのに、事実をぴたりと言い当てられてアルフレッドは息を飲んだ。だが誤魔化しても仕方がない。「そうだ」と返して拳を握る。
「カロとはずっと一緒にやってきた。俺たちはいい仲間だった。だけど今は、怒りに駆られて彼は自分を見失っている。カロのためにも、陛下のためにも、誰かが止めなくちゃいけないんだ」
モリスがこらこらという顔をしたが時既に遅かった。縁を切った息子や入国禁止を命じたイーグレットに良い感情を持たないジェレムは「彼らのために」と耳にするや、それを鼻先で笑い飛ばした。
「だからお前やあいつの揉め事が俺たちロマにどう関係あるってんだ?」
冷たい声に嘲られる。老いたロマはカロを同胞に数えていないらしい。息子じゃないのかと訴えても力を貸してくれそうになかった。世の中にはそういう父親が少なからず存在すると知っているので特に驚きはしないが。
「もちろん礼はさせてもらう。前払いは少額しかできないが、そちらの言い値で――」
交渉の台詞を終えないうちに唾を吐かれた。「お前らのそういうところが信用できねえんだ」と舌打ちまで追加される。
対価の話をしただけでどうして顔を歪められるのだろう。状況が理解できずにアルフレッドはたじろいだ。
「すまない。何か気分を害しただろうか」
ロマの間でも金銭のやり取りは日常的に行われているはずだ。現にジェレムは首から貨幣の首飾りを提げている。報酬の半額分前払いすると言わなかったのがまずかったのだろうか。
「お前らは金さえ出せばなんでも言うこと聞かせられると思ってやがる。格下だって馬鹿にしてる相手には特にな。お前らみたいな連中が、俺たちの自由や、俺たちの命に、勝手な値段をつけてきたんだよ!」
しかし彼が「信用できない」と言ったのはそういう意味ではなかったようだ。ぶつけられた怒りがあまりに想定外で、アルフレッドは思わず「アクアレイアは人身売買を禁じている」と反論してしまう。だがジェレムは「パトリア人もマルゴー人もアクアレイア人も皆同じだ」と切って捨てた。
「独立戦争が終わった後、俺たちを邪魔者扱いしたのは誰だった? 利用するだけ利用して国からロマを追い出したのは? アクアレイアを出たロマがどこで人狩りに遭ったかなんて頭があればわかるだろう。カロの居所を突き止めるくらいわけないが、お前らの手助けをしてやる気はまったくないね!」
石礫を投げつけられ、「帰れ」と冷たく繰り返される。暗く黒い双眸には深いところで凝り固まった憎悪が色濃く滲んでいた。褐色肌の女たちも似たような目つきでアルフレッドを睨みつける。
(そんな、アクアレイア人全員がロマを蔑視しているわけじゃないのに)
ひとまとめの恨みつらみが歯痒かった。ジェレムならカロを見つけ出せそうなのに頷いてもらえないなんて。
「……そう言われても帰れない。カロに会って、ちゃんと話をするまでは」
頑固に首を横に振る。老ロマは聞き分けのないアルフレッドに今度は拳大の硬い瓦礫を投げつけた。
「ジェレム! なんてことをするんじゃ!」
乱暴な父を咎めるモリスの声が響く。額に滲んだ血を拭い、アルフレッドは「どうすればいい?」とロマに尋ねた。
「教えてくれ、どうすればカロのところへ連れていってくれるのか。そちらの出した条件に従う」
頼むと深く頭を下げる。これで聞き入れてもらえなければ後は座り込みしかなかった。だが時は一刻を争うのだ。ぐずぐずしているうちにカロがルディアを探し当ててしまうかもしれない。それだけは駄目だった。この人だと決めた主君を喪うなんて。まだほんの少しの武功しか立てていないのに。
「へえ、なんでもするのか?」
返された質問に風向きが変わったのを感じた。アルフレッドはがばりと顔を上げる。
冷ややかな眼差しがどこか愉快そうにこちらを見ていた。ジェレムはどうせできやしないと見下した態度で代償を告げる。
「指一本切り落とすなら叶えてやる」
老ロマは底意地悪く目を細めた。「痛いだろうが死にはしないぞ」と薄笑いが雄弁に語る。
無茶苦茶な要求にモリスは頭を掻きむしり、「こりゃ駄目じゃ。一度出直そう」とアルフレッドに耳打ちした。
冷静に考えればこれも「帰れ」とか「諦めろ」という意味だったのだろう。だがアルフレッドにはジェレムの突きつけてきた条件が唯一の希望に思えた。
「指一本でいいんだな?」
まっすぐ尋ね返した声にモリスとジェレムが瞠目する。
「な、何言っとるんじゃ! あんな戯れ言を本気に……」
ガラス工の制止を振りきってアルフレッドは立ち上がった。グローブを放り、老ロマの傍らに近づき、晒した両手を崩れた壁の上に置く。
「好きなのを持っていけ」
アルフレッドがそう言った後、砦にはしばし沈黙が訪れた。
ジェレムは疑わしげにじろじろこちらを観察する。やがて彼の目が腰の剣を見つけると、澱んだ眼差しは酷薄な色を取り戻した。
「そうかそうか、それじゃ右の親指を貰おう」
「!」
少しだけ心が波立つ。剣を握れなくなるのでは、と悪い想像が頭をよぎった。しかし今は些細な問題だ。主君を救う手がかりを得ることに比べれば。
「こ、これ、やめんかジェレム!」
止めさせようとした息子をロマは軽々と突き飛ばした。衰えた細腕のどこにそんな力があるのか不思議だが、これなら半端に痛い思いはせずに済みそうだ。
覚悟を決めて右手をぐっと押し開いた。ルディアにはどやされるだろうなと苦笑する。
騎士のくせに、彼女の側を離れた罰かもしれない。そう考えればこの程度の試練は当たり前のものに思えた。
「……何がおかしい?」
訝る男に問いかけられる。アルフレッドは「別に」と小さくかぶりを振った。
「皆はもっとつらかったのに、俺は何をやっていたのかと思っただけだ」
ジェレムはそれ以上何も聞かない。薄汚れたコートのポケットから柄の長いナイフを取り出すと、彼は鋭利な切っ先を親指の付け根に軽く滑らせた。
瞼は閉じない。掲げられた刃の先をじっと見据える。修行不足で無心になることはできなかったが。
(姫様――)
夢を追えと言ってくれたルディアの顔を思い出す。命を捧げる価値ある人だ。たとえ何があろうとも彼女を守り通さなければ。それが騎士として己の目指す生き方でもあるのだから。
ヒュッとナイフが垂直に持ち上がった。ジェレムは狙った指の根元に正確に、勢い良く拳ごと得物を叩きつけた。
「……ッ!」
振動が手の甲に響く。衝撃に一瞬混乱しかけたが、左手で右腕の痙攣を抑え込む。
大丈夫。大丈夫だ。動じている場合ではない。早く出血を止めてしまおう。
(きっと綺麗に落ちたんだな。思ったより痛みが軽い)
アルフレッドは残った力を奮い立たせて右腕を引き抜いた。――が。
「ど、どういうことだ?」
何事もなかったようにくっついてきた親指に声が引っ繰り返る。確かに刃で貫かれたと思ったのだが血は一滴も出ていなかった。
ジェレムを見ればつまらなさげに眉をしかめている。「よけたら笑ってやろうと思ったのに」と彼はナイフをモリスに放った。
「な、なんじゃ、見せ物用の小道具じゃったか」
どうやら力が加わると柄の空洞に刃が収納される仕組みになっていたらしい。力の抜けたガラス工はへなへなとその場に座り込んだ。彼を支え起こしながらアルフレッドは踵を返した男に問う。
「待て、どこへ行く? 俺はまだ指を渡してないぞ?」
「食えもしないお前の指なんて誰がいるか。からかわれたのもわからないとは見上げた阿呆だな。目障りなんだよ、帰れと言ったらとっとと帰れ」
ジェレムは顎で女たちに場所替えを命じた。どこまでも応じるつもりはないようだ。
この対応にプチンと切れたのはモリスだった。ガラス工は怒りで耳まで赤く染め、傍若無人な己の父を怒鳴りつけた。
「ジェレム、それでは話が違う! 指を落とせば頼みを聞いてやると言ったのはあんたじゃないか! アルフレッド君は差し出した! なのにあんたがわざと切らなかったんじゃろう!? だったら約束は約束として、きちんと果たすべきじゃないのか!?」
怒声にロマは「は?」と冷笑を浮かべる。
「アクアレイア人と約束? 俺がか? 面白い冗談だな」
「自分の口から出た言葉じゃぞ! あんたいつからそんなしょうもないロマになったんだね!?」
モリスの非難にジェレムの薄笑いが引っ込んだ。どうも矜持を傷つける言葉だったらしく、たちまち一触即発の雰囲気になる。
まずいんじゃないかとアルフレッドは身構えた。剣には手を伸ばさなかったものの、いつでもモリスを庇えるように間合いを取る。
「お前にロマの何がわかる? アクアレイアの女に育てられたくせに」
「それでも自分の親のことくらいわかるさ。あんたは決して虚言を口にする人じゃなかった。義理のために私情を殺すことも知っていた。しかし今は……!」
今はとガラス工は嘆いた。ジェレムは少しもたじろぐことなく「俺があの国の人間を嫌ってるのは昔からだ」と吐き捨てたが。
「条件は満たしたじゃろう!? 後生だからアルフレッド君をカロに会わせてやってくれ! 足りないのならわしの指もくれてやる!」
長い時間二人は睨み合っていた。互い以外には目も逸らさず、ひと言も口をきかず。
「…………」
根負けしたのは優しい気性のモリスのほうだ。折れる気配をついぞ見せない父親にガラス工は肩を落とし、アルフレッドに「すまんのう」と詫びた。
モリスは短く息をつき、緑の丘をとぼとぼと引き返し始める。アルフレッドも後ろ髪を引かれつつその後を追いかけた。
しわがれたロマの声が響いたのはそのときだ。
「……そこまで言うなら連れてってやるよ」
がば、と振り向く。ジェレムの目は依然変わらず悪意にまみれていたけれど、聞き間違いではなさそうだった。彼の連れである女二人が面食らっていたからだ。
「ただしあいつに会わせたら、指は本当に切り落とす」
げほごほと咳き込みながら老ロマはそこらの荷物をまとめ始めた。どうやらすぐに出発するつもりらしい。
「あ、ありがとう!」
アルフレッドは礼を述べて駆け出した。懐ではピアスとともに、王の遺した二通の手紙が揺れていた。




