第2章 その4
「だからさあ、ユリシーズだけじゃ駄目なんだって! 確かに派手だし受けはいいけど、村の人だって何回も同じ芝居見させられたんじゃ飽きちゃうよ! おひねりの額も最後は振るわなかったしさあ」
「いや、けどなあ。今は俺とレイモンドしか人形を操れる奴がいないんだぜ? 無理して別の話をやったって舞台がめちゃくちゃになるだけじゃねえか」
「それでもお客さんに『今の台詞ちょっと違ってたぞ!』なんて突っ込まれるよりマシだって! 子供らには『ユリシーズが巨人にやっつけられるパターンはないの?』とか聞かれる始末だし!」
「んなこと言われても俺は可愛い人形たちにみっともねえ動きはさせたくねえんだ! 話に飽きた、つまらねえってんなら観なきゃいいだけのことだろう! そこまで客に尻尾振ってやるつもりはないね!」
深い山道にタイラー親子の口論が飛び交う。次第に白熱していくそれを馬車の陰から眺めつつレイモンドはそろそろ止めたほうがいいかなと逡巡した。
二人の意見が食い違うのは珍しくないものの、親方が頑として折れないのは珍しい。気の強い娘に押し切られるのが一座の常と思っていたから意外だった。
まあ確かに、いくら味付けに飽きたと言われても食堂がまずい飯を出すわけにいかない。それでは却って店の評判を落としてしまうというものだ。マヤの主張もわからないではないけれど、醜態を晒すより面目を保ったほうが一座のためにはなる気がする。
「それじゃあ父ちゃん、次の村でもずっとユリシーズだけやるつもりなの? その次の村でも? せっかくブルーノさんのおかげで主婦の財布がガバガバになるってのに……」
「うっ! そ、そりゃ俺だって掻き入れどきを逃したくはねえけどよう」
今朝も出発間際まで「また来てね」「絶対よ!」と色男が熱烈なアプローチを受けていたのを思い出したかタイラーがややたじろいだ。ルディア自身は馬の手綱を引きながら物も言わずに親子のやり取りを眺めている。
「演目増やすのはすぐじゃなくていい、けどいずれは必要になることじゃない。レイモンドやブルーノさんがいてくれるのはリマニまでなんだから。あたしは父ちゃんが心配なんだよ。前と同じにはどう頑張っても戻れないんだし、今のうちに芝居の幅を広げとかなきゃ」
懸命に訴えるマヤに向けられたルディアの視線にはっきりした温度はない。どんな気持ちで父と娘を見つめているのか、胸の内を覗くことはできなかった。
――お前と話すとあの人少し楽になるみたいだ。
ありがとうと、そう告げられた日の情景がふと眼前の親子に重なる。照れてそっぽを向いたルディアとイーグレットの穏やかな微笑み。他人の自分でさえ思い出すと苦しくなるのに、彼女はどうやってやり過ごしているのだろう。
「うーん、確かになあ。二人でできる新ネタは何か取り入れなきゃだよなあ」
将来を案じる娘の言葉に揺さぶられ、タイラーがぼそりと呟いた。この機会をマヤが見逃すはずがなく「ほら父ちゃんもそう思うでしょ!?」とゴリ押しに入る。
「ねえねえレイモンド、登場人物少なめで面白い話知らない!? 恋物語でも神話でも怪談でもいいからさあ!」
突然飛んできた質問にレイモンドは「へっ!?」と瞬きした。
「と、登場人物少なめで面白い話?」
オウム返しに繰り返せばマヤは「そう! あちこち旅してるアクアレイア人ならそんな話の一つや二つ知ってるでしょ!」と地味にプレッシャーを高めてくる。
「いきなり聞かれても都合良くひらめかねーって! ちょ、ちょっと待ってろよ?」
腕を組み、ううんと頭を悩ませるが芝居向きの話は一つも浮かんでこない。出てくるのは「金曜日に進水した船は難破する」とか「アーモンドの枝を舳先にくくりつけておくと嵐に遭わない」とか船乗りの好きな迷信ばかりだった。歌やまじないならゴンドラ漕ぎの手伝いをしていた時期に色々と覚えたのだが。
「お、面白い話……? 面白い話……?」
疑問符を浮かべて考え込むレイモンドに「こりゃ駄目か」とマヤが嘆息する。少女は続いてルディアを見上げ、同じ問いを投げかけた。
「ブルーノさんはどう? うちの人形使ってできそうな話知らないかなあ?」
期待のこもった目で見つめられ、ルディアはふむと息をつく。彼女のほうは何か思いついたらしく、「舞台上の人物が二、三人に収まればいいのだな?」と座長に確認した。
「だったら『パトリア騎士物語』の『王様の新しい服』という一篇が使えると思う」
「王様の新しい服?」
なんだそれはという顔でタイラー親子が口を揃える。レイモンドは騎士物語と耳にして「その手があったか!」と拳を打った。
『パトリア騎士物語』はアルフレッドの愛読書である新米騎士と破天荒な王女の旅行記だ。あれなら上手く改変すれば今ある人形で間に合わせられるに違いない。
「何番目に行く国のやつだっけ。えーっと、確か衣装持ちの王様がペテン師に騙されて……」
「そうだ。しかしそのまま話すと芝居に使いにくいだろう。適当に省いてキリのいいところまで教えるから、どう料理するかはそっちで相談してくれ」
「おお、すまねえなブルーノ!」
「どんな話かわくわくしちゃう!」
父と娘は瓜二つのドワーフ顔を輝かせた。ルディアはしばらく出だしの一文をどう取るか悩んでいたが、やがて馬車の車輪がカラカラと回る音に合わせて静かな声で語り始める。隣でそれを聞くレイモンドの胸中はまったく穏やかなものでなくなったけれど。
「――ある国にとてもおしゃれ好きな王様がいたんだ。宝石を散りばめた外套だの、孔雀の羽根で飾った帽子だの、とにかく山ほど服を持っていた。そして珍しい布やボタンがあると聞くとそれを使った新しい衣装が欲しくて堪らなくなるという、まあ傍迷惑な類の君主だったわけだ。
で、あるときこの王様の宮殿に詐欺師がやって来た。彼は世にも風変わりな絹と糸を持っていて『実の子供にしか見えない服を作れます!』と豪語する。王様は世継ぎである娘を実子ではないかもと疑っていたから二つ返事で詐欺師に仕立てを頼んだのさ」
耳に入った言葉にぎくりとする。レイモンドは思わずルディアに目をやったが、斜め後ろからの視線に気づく様子もなく彼女は物語を紡ぎ続けた。
「詐欺師はさっそく街中に作業場を借りて機織りのふりを始めた。本当は絹も糸も存在していないのに朝から晩まで一日中こもりきりだ。今日は上着が完成しただの、袖をつけるのに苦労しただの、報告も怠らなかった。
しかしふと王様にも詐欺師を疑う心が芽生えたのだな。自分に仕える家来のうち、最も信用の置ける大臣に詐欺師の作業場を訪ねさせ、どういった衣装ができつつあるか報告させることにしたのだ。
さて、この大臣が命令通りに詐欺師の作業場にやって来ると、非常に困った事態になった。『もうほとんど完成です。どうぞお手に取ってご覧ください』と差し出された服がちっとも見えなかったのだ。この国では地位や仕事や財産は親から継ぐことになっているから大臣には『はて、その服とやらはどこにあるのだ?』なんて聞けなかった。
詐欺師はニコニコしながら言う。『いかがです。星空と見まがうほどの美しさでしょう。この絹は蜘蛛の巣よりも軽いので服を着ていると感じないほどなのですよ』と。大臣は悩んだ末にこう答えた。『これほど見事な衣装は今まで見たことがない。きっと王様もお喜びになるだろう』と。
正直に見えないと言えば身分を取り上げられ、城や家から追い出されるかもしれないのだ。大臣には嘘をつくしかできなかった」
淡々としたルディアの声が変に不安を掻き立てる。実の子供にしか見えない服の話など、今の彼女にさせていいのか心配になった。
だって傷ついたんじゃないのか。お前など本当の娘ではないと責められて。
レイモンドは止めようかどうしようか迷って一歩踏み出す。ルディアに手を伸ばしたが、彼女はそれを避けるように一歩前へ離れていった。
「戻ってきた大臣が『実に素晴らしいご衣装でした』と褒めちぎるので王様はすっかり安心だ。もし王女に新しい服が見えなければ国外に追放してやろう、いやいや奴隷の身に落とすのもいいなと考えてはほくそ笑んだ。宮廷ばかりか城下の街もこの話題一色で、不可思議な召し物は三日後の朝の布告でお披露目されることに決まった。
さあ罪なき王女は大弱りさ。何しろ彼女は既に詐欺師の作業場を調べ上げ、自分にも腹心の騎士にもそんな服は見えないと確認済みだったのだから。そこに意外な救世主が現れる。王女の親友プリンセス・グローリアだ」
「ふんふん、それは一体何者なの!?」
ルディアはマヤにグローリアと騎士ユスティティアの説明をする。大筋には関わらないので二人が旅に出た理由とプリンセスの豪胆な性格についてくらいだったが。
「『お父様は騙されていらっしゃるのです。旅人のあなたなら詐欺師の嘘を暴くことにためらいなどないでしょう。どうか三日後、王様は裸だと広場で叫んでいただけませんか?』そう王女は親友に頼んだ。グローリアは答える。『駄目、それじゃ意地になってありもしない服をあると言い張るかもしれないわ。私に名案があるから任せてちょうだい』と。
そして三日後の朝が来た。驚いたのは王様だ。何度目を擦っても彼には献上された服が見えないのに、周りの者は口々に新しい服を褒めそやすのだから。詐欺師も堂々と王様に服を着せるふりをするし、涙が出そうになってくる。
『まさか自分が前王の嘘の息子だったなんて。もしこれが民や臣下にばれたらどうしたらいい?』
胸の不安を隠して裸の王様はバルコニーに立った。そのときだ、グローリアによって広場に集められていた奴隷たちが大騒ぎを始めたのは。
『やった、王様の服が見えないぞ!』
『俺もだ! 俺にも見えない!』
『奴隷の血を引いていないなら俺たちは自由の民だ!』
彼らは先を競うように市門の外へと駆けていく。すかさずグローリアがこう言った。
『こんなに多くの人間が実の子供ではなかったというの? ちょっとおかしいんじゃないかしら? ちなみに私にも陛下が裸でいらっしゃるように見えるのですけれど……』
奴隷を解放したくない貴族たちも『王様は裸だ』と言い出したので詐欺師は逃げ出そうとした。こうなれば王様も堂々追及できるというものさ。最後には詐欺師以外この服が見えると主張する者はいなくなり、罪人は口を縫われたということだ」
語り終えたルディアにタイラー親子が「おおー」と拍手を送った。二人には興味深い話だったらしく、早くも各場面に必要な小道具や削れそうな登場人物はいないか活発な議論が始まる。
明るい彼らとは対照的にレイモンドの気は重かった。あの長い騎士物語から選ぶならほかにもっと穏やかな章があっただろうに。めでたしめでたしで幕を閉じた空想話に対して神経質になりすぎかという気もしたが。
「結構いい感じじゃない? 王様と詐欺師の場面も王様と大臣の場面も大臣と詐欺師の場面も人形二体でいけるしさ、グローリアのお供の騎士も出さなくて問題ないでしょ」
「けどラストの奴隷たちはどうすんだ? 人数的に三体くらいは欲しいだろ」
「長い棒に糸をかけて一気に三体操れるようにするのはどう? 複雑な動きはいらないわけだし、なんだったら四体にも五体にも増やせるよ」
「おお!? マヤ、賢いな!? ちょいと試したくなってきたぞ!」
ルディアを案じるレイモンドの胸中など知りもせず、タイラー親子は大盛り上がりだ。二人は熱が冷めないうちに考えをまとめようと言って馬車を道の端に止めた。
「あたしら舞台を組み立ててみるから、馬に水やっといてくんない?」
少女の指示にルディアが「わかった」と頷く。荷台に繋がるベルトを解くと彼女は痩せた灰色の馬を連れ、林の奥の渓流に下っていった。
「あっ、お、俺も行っていいか?」
水筒が空になったと嘘をつき、レイモンドもルディアを追いかける。今なら二人でカロの話ができると考えたわけではなく、一人にさせたくなかったのだ。なんとなく、彼女が助けを求めているような気がして。
黒土を抱いた木の根が緩やかな階段状になった坂を大股で駆け下りる。前を行くルディアは砂利の目立つ岸辺に馬を離したところだった。
「なんだ、お前も来たのか」
そう言って彼女が振り返る。目が合ってレイモンドはあれっとなった。
睨まれているのかと勘違いするほど眼光は鋭い。少なくとも弱りきった女のそれではなかった。
「ちょうどいい。言っておきたいことがあったんだ」
余計な口を挟ませない語調に息を飲む。漂う空気がピリピリしていた。何か怒らせただろうかと首を傾げるが覚えはない。
「言っておきたいこと? 俺に?」
知らず知らず構えていたのは子供の頃からの癖だった。機嫌の悪い人間にはできるだけ近寄らないようにという。アクアレイア人には取るに足らない災難でも外国人には穴埋めできない深刻な災難は多いのだ。
しかし今向かい合っているのはルディアである。背中で逃げ道を探す必要はないはずだ。レイモンドは乾いた砂利を踏みしめた。逸らしかけていた視線を彼女に戻しながら。
「ああ、いい加減その鬱陶しい目をやめてもらえないかと思ってな」
「えっ?」
吐き出された苛立ちに全身が凍りつく。何を言われたか咄嗟に理解できず、間抜けな声を上げてしまう。
「え、えーと」
頬に浮かんだ半笑いもやはり長年に渡り染みついた自己防御の反応だった。へらへらかわしてほかの話題に移ってもらおうとしたわけじゃないのに。
「あからさまに気遣わしげに見ないでくれと言っている。確かに数日自失状態ではあったが、今は普通に食事も睡眠も取れているだろう?」
「い、いや、けどさ」
「けどさではない。物語を聞かせる程度でオロオロされては何もできん」
「お、俺はただあんたが無理してんじゃないかって」
「だからそれが余計なお節介だと言うのだ。私がお前に慰めてもらわなければ立ち上がることもできない無能だと思っているのか?」
突き刺すような視線にたじろぐ。こんなにまっすぐ不快の念をぶつけられるのは初めてで。
胃の辺りが急激に冷えた。彼女が何を考えているのかわからない。どうして鬱陶しいなどと容赦ない言葉で非難してくるのか。それは確かに、ずっと監視されているような気分にはさせたかもしれないが。
「俺だって大丈夫だって思えりゃ心配なんかしねーよ。だけどあんな――」
あんなことがあった後に放っておけるわけないだろ。
どうしても言葉を繋ぐことができずにレイモンドは押し黙る。
思い出させたくなかった。悲劇の渦中に彼女を引きずり戻したくは。
「…………」
沈黙をどう受け取ったのか、ルディアは眉間に濃いしわを寄せる。迷惑そうに溜め息を零した後で、グローリアよりうんと強情な王女はやっと少し表情を和らげた。
「……コリフォ島から連れ出してくれたことは感謝している。だが精神的援助までは結構だ。レーギア宮にいた頃はなんでも一人で考えたし、なんでも一人で実行してきた。今更誰かを当てにする気も一切ない。お前はお前の先行きを考えろ。私のことは私が考えるだけで十分だ」
水を飲み終えた馬が満足してルディアの側に帰ってくる。手綱を引いて坂を上っていく彼女を引き留めようとしたけれど、言葉は声にならなかった。
もう一度聞きたかった「ありがとう」はこんなのじゃない。情けなさに唇を噛む。
(その鬱陶しい目をやめてくれないか、か)
こんな風にはっきり壁を作られるとレイモンドにはもう踏み込めなかった。重い話題、暗い話題は徹底的に避けてきて、喜劇にしか顔を出してこなかった人間だ。
自分にはほかに息のできる場所がなかった。だから今、どうすればいいのか見当もつかない。手を取って支えたくても、我慢するなと言いたくても、他人の苦悩に本気で寄り添った経験がないから。
(……馬鹿だな俺)
本当に馬鹿だ。傷に触れずに明るく振る舞うやり方しか知らないくせに何ができるつもりでいたのだろう。アルフレッドみたいに迷いなく手を差し出せるわけでもないのに。
(お前ならどうするんだ、アル)
遠い国にいる幼馴染に呼びかける。
返事は聞こえるはずもなかった。




