第2章 その3
大変なことになったねえ、と張りつめた声が言う。脂ぎった額にとめどなく吹き出す汗を拭いつつ、古狸はいつも以上にぎょろつく目玉で旧知の同胞らを見回した。
人払いした天幕には余程の行事がない限り集うことのない面々が顔を揃えている。広大なジーアン帝国の所領を守る将軍たち、通称ジーアン十将だ。その一角を担うウァーリもまた絨毯の上で膝を抱え、暗澹たる心地でいた。
自慢の爪や長髪をいじる気も、崩れた化粧を整える気も起きない。我が目でアクアレイアを見てきたラオタオに、王国湾には線虫らしき蟲しかいなかったと聞かされた直後では。
「あそこがレンムレン湖とは違うってのはホントだと思う。ハイちゃんのふりしてた脳蟲もなんかウゾウゾ毛が生えててキモかったし」
車座の中央で狐は細い眉をしかめた。普段の人を食った態度はどこへやら、しゅんと肩をすぼめて申し訳なさそうにしている。
「俺さ、見慣れない蟲が出てくると思うけど気にするなって言われてたんだ。皆を驚かせたいから報告もしなくていいって。ハイちゃんが落ち着き払ってるもんだから、俺も今回はこういう演出なんだなってすっかり思い込んじまって……」
ごめんと手をついて詫びられて一同は顔を見合わせた。舌打ちの音は響けど彼をねぎらう者はいない。この状況では当たり前だが。
ヘウンバオスが呼び集めた蟲たちに余命幾許もない旨を告げたのは十日前のことだった。てっきり皆で祝杯を挙げ、新しいレンムレン湖へ繰り出すのだと思っていたから面食らったどころではなかった。
あれからバオゾはずっと葬式状態で、荒んだ空気が漂っている。散々な真相に失望した仲間の中には「もうジーアンのために働けない」と言い出す者まで出る始末だ。悲嘆と憤りの声は特に第九、第十世代――蟲たちの約四分の三を占める若い世代に波紋を広げつつあった。それ以上に問題なのは、事態を打開するべき男が何もかも放り出したまま新妻のもとに引きこもっていることなのだが。
「それではお前はハイランバオスの造反に関与していないと誓えるのだな?」
重い声が幕屋に響く。問いかけたのはヘウンバオスに仕えて八百年の重鎮だ。皆から「熊さん」と慕われる百戦錬磨の豪傑も今日ばかりは毛深い日焼け顔に陰鬱と憂慮が見て取れた。
「うん。天帝陛下にも言ったけど、ハイちゃ……いや、ハイランバオスとグルだったならとっくに一緒に逃げてるよ。つっても疑われても仕方ない立場なのはわかってるし、降格だろうと禁固だろうと皆の決めた通りにする。俺も身の潔白は証明したいもん」
ラオタオは両手を上げて無抵抗の意を示す。つい三十年前にハイランバオスから分裂したばかりの彼が信頼を勝ち取るのは難しいだろうなと思えた。蟲は普通、記憶の大部分を共有する直近の「親」に強い愛着を持つからだ。思った通りラオタオに向けられた眼差しは厳しかった。
「ふーん、新種の蟲と遭遇したのを故意に隠したのは事実なんだ?」
「共謀したという証拠はないが、共謀していないという証拠もないな。いや、そのアンバーとかいう蟲をハイランバオスに引き渡してしまったあたり、限りなく疑わしいと言える」
この十日、鬱憤を溜め込んでいた猫と蛇が冷たい声を浴びせかける。若狐と仲の良い虎は「だからこいつは疑いを晴らすためならどんな命令でも従うって言ってんだろ!?」と庇ったが、二人は聞く耳持たなかった。
「よくぞのこのこ顔を出せたよね。アクアレイアに気を逸らされてなきゃよそにもっと領土を広げて探索地域を増やせてたのにさ」
「ああ、準備期間も含めて五年は無駄になった。今の我々には長く貴重な時間だよ。あの国の対岸にいた貴様が違和感の一つでも覚えていれば、こんなことにはなっていなかっただろうに」
「だからホントに悪かったってば。俺だってあの人相手じゃなかったら全面的に信じるなんてしなかったし、隙だらけだったのは認めるよ。けどさ、お前らだってそうなんじゃないの? あの人が俺たちを捨てるだなんてこれっぽっちも想像してなかっただろ?」
「うるさい! 話を誤魔化すな!」
「そうだ! 今は我々が貴様を尋問しているのだ!」
口喧嘩が掴み合いに変わるまで大した時間はかからなかった。誉れ高き十将とは到底思えぬ見苦しさにウァーリは「ああもう!」と立ち上がる。
「あんたたち、仲間同士でやめなさいよ! 今は言い争いしてる場合じゃないでしょ!?」
そう声を張り上げたら殺気立った猫と蛇に「色ボケ爺はすっこんでろ!」と怒鳴り返された。あまりの無礼に思考が一瞬停止する。次いでおしろい塗りの頬がぴくぴく引きつった。
「……ちょっと、それどういう意味か『お姉さん』に教えてくれる?」
常々美白を心がけている手で若造たちの喉を掴む。二人は焦って抵抗したが問答無用で締め上げた。輪を乱し、礼節まで忘れた阿呆にかけてやる慈悲などない。
「やっちまえ、サソリの姐さん!」
若虎からの声援を受け、ウァーリは二人を絨毯に叩きつけた。「ぎゃーっ!」と痛そうな悲鳴が重なる。
「やれやれ、まったくお前たちは……」
程度の低い争いに嘆息したのは老練な龍と猿だった。ウァーリより百年ほど長生きの本物の爺たちは冷めた目でこちらを見やると心底どうでも良さそうに呟く。
「狐っ子が黒か白かなどこの際大した問題ではないわい」
「ああ、アクアレイアが我々の求めていた故郷とは別物だったということもな」
老賢人らの発言に「そうだのう」とまとめ役の大熊も頷く。
「あの方もそんなことでは今更足を止めるまい」
項垂れたまま皆の前を去ったヘウンバオスを思い出し、ウァーリはぎゅっと胸を押さえた。
おそらく今、皆を鬱々させているのは「ジーアンの蟲には先がない」という預言者からの宣告だろう。永遠に尽きぬ命と信じていたから自分たちはこんな遠くへ来られたのだ。あるかないかもわからない幻を追いかけて。
「…………」
長老たちが口を閉ざすと若者たちも黙りこくって拳を下ろす。さっきの騒ぎが嘘のように幕屋はしんと静まり返った。
嫌な沈黙だ。誰も彼も耐えて飲み込むしかできない。いつまでこんな時間が続くのだろう。いつか皆で約束の地に辿り着けると夢見ていたのに。
そのときだった。一匹狼のダレエンが思いがけない台詞を吐いたのは。
「なんにせよ厄介なのはヘウンバオスの無気力ぶりだな。あの男、ジーアンはもうおしまいだとぴいぴい喚いている連中を処罰する気がないどころか、何かやりたいことがあるなら残った人生は好きに使えとほざいていたぞ」
皆が目をぱちくりさせる。なぜそんなことを知っている、いつ天帝と話したのだと。
ウァーリはさっと青ざめた。まさか、いやいや、いくらこの男でも最低限の常識くらいわきまえているはずだと引きつりつつ、帝国一のマイペース馬鹿を振り返る。
「あ、あんた女帝の寝所ぶち破ったとか言わないわよね?」
ダレエンはいつもの淡々とした口ぶりで「呼んでもあいつが出てこないから強行突破したが」とのたまった。どうやらノウァパトリア宮のどこかに大穴が開いたのは間違いなさそうだ。
「も、もおお! 何やってんのお!?」
「このまま待っていたところでヘウンバオスの勅令は下るまい。ラオタオの話も聞いたし、俺はそろそろハイランバオスとコナーを探しにジーアンを出るぞ。寿命の話は本当なのか、アークとやらはなんなのか、吐かせたいことは山ほどあるからな。お前たちも動く気があるならさっさと動いたらどうだ? 時間というのは何もしなくても過ぎるんだぞ?」
「ばッ、馬鹿ァ! 無視すんじゃないわよ! 勝手に出て行こうとしないで!」
立ち上がった男の足を咄嗟に掴んで引き留める。ウァーリを引きずったまま出口に向かうダレエンを「ちょっとちょっと!」と古狸がたしなめた。
「わかった、わかったから早まらないでおくれ! 確かにダレエンの言う通りだ。こうしてじっとしてたって始まらない。でもどうせなら皆でちゃんと方策を練ろう? そのほうがきっと実のある行動を取れるよ。ねえ、熊さんもそう思うよね?」
「うむ。あの方のお心が定まるまでは、我ら十将が力を合わせて乗りきらねばなるまい。ともかく最優先は現状を悪化させないことだ。ダレエン、今しばし留まってくれるな?」
「ああ、話が先に進むなら」
問いかけに狼男は快諾を示す。絨毯に落ち着き直した同僚を見てウァーリはほっと息を吐いた。危なかった。ダレエンを野放しにしたら向こう十年は連絡が取れなくなるところだった。
「皆で方策を練ろうって、それもしかしてラオタオも?」
と、しかめ面で猫が噛みつく。「信用できるものなのかね」と蛇も疑念を露わにした。
天幕内にはまたピリピリと険悪な雰囲気が満ちてくる。大熊は肩をすくめてきかん坊たちに向き直ると、将というより父親の声で言い聞かせた。
「お前たち、一旦ラオタオへの怒りは収めろ。今のところラオタオがあの男の真意を知っていたか否か判断できる材料はないのだ。天帝の許可なしには将軍職を降ろすこともできん。感情的になるのも致し方ないが、少々堪えてくれんかの? お前たちならできるだろう?」
猫と蛇は不服げに唇をひん曲げる。だが駄々っ子に思われたくはないらしく「熊さんがそう言うなら……」と渋々反発を引っ込めた。その代わり、二人は同世代の蟲たちに訴えられたという軟弱な要望について苦言する。
「だけど方策を練ったところで本当に実行できるわけ? 『先行きは短いし、故郷は見つかりそうにないし、自分のために余生を送ってもいいんじゃないか』なんてほざいてる連中は十人や二十人じゃないんだよ? あいつら与えられた職務を放棄して、国から賜る退職年金で快楽を貪る生活がしたいんだそうだ」
「今まさに天帝陛下が浸っているのと同じ救いが求められているのさ。確かに現状維持は大切だ。しかしどうやって彼らの心を繋ぎ止めるのかね?」
問われて大熊はううんと唸る。
目指す地も、導き主も沈黙し、蟲たちの絆は解けつつあった。ウァーリにも我欲に走ろうとする同胞を止められる気がまったくしない。誰だって積年の夢が破れれば代わりの何かで空虚を満たしたくなるものだ。
「ウァーリ、お前さんはどう思う?」
「えっ!? あたし!?」
藪から棒に話を振られ、ウァーリは声をどもらせた。己もまだ平常心に欠け、たいした意見を表明できそうにないのだが。
だがわざわざ名指しで尋ねたからには何か意図があるのだろう。逡巡ののちウァーリは赤い唇を開いた。
「そうね、あたしは休みたい子は休ませてあげたほうがいいと思うわ。そりゃ蟲の間にも上下関係はあるわよ? だけど押さえつけて無理矢理従わせるためにそうなってるんじゃないでしょう? 今は説得したって反感を買うだけじゃないかしら。皆それだけショックを受けてるんだもの」
「ふむ、ダレエンはどうだ?」
「俺もウァーリと同意見だ。やる気のない奴と一緒にはやれん。だがお優しいお前のことだ、どうせ抜けたがっている連中のことも手放したくないんだろう。ならいっそ一箇所に集めて面倒を見てやったらどうだ? 少なくともこっちの目の届く場所には囲っておけるぞ」
「おお、その手があったか」
狼男の提案には複数の将が頷いた。一時的に組織の力が落ちることになるが、無用の摩擦は避けられる。それに兵が思い直してくれたときも現場に復帰させやすい。
「しかしそうなると費用がかさみそうじゃな」
「確かに。それにバオゾや旧都のような主要都市では堂々と遊ばせられん」
「よし、ではこうしよう。離脱希望者はラオタオに預ける」
「へっ!? ええっ!?」
指名された狐が驚いて飛び上がる。「お前のところは西の端だし、美女も美酒も揃っておるだろう。諸々の処分の代わりだ」と鮮やかに厄介を押しつけられ、ラオタオはみるみる意気消沈した。
「いいよ、いいよ。俺は一人ででかいガキどものお守りをしてればいいんだろ。そんで皆はどうすんの? コナーたちを追っかける? それともレンムレン湖を探しによそへ行ってみる?」
「うむ、そうだな。我々は三手に分かれるか。第一の者は帝国を守る。第二の者は帝国内でレンムレン湖の存在を見落としておらんか洗い直す。第三の者はハイランバオスとコナーを捕らえる。これで異論ないな?」
重鎮の指示に否を唱える声はない。ウァーリにはダレエンと同じ第三の任務が与えられた。大熊曰く、上司の長期不在には二人の部下が一番慣れているということである。
「俺は普段から副将に任せきりだからな」
「あんたねえ、そう得意げに言うことじゃないでしょ」
「お前はあれだろう。男の尻を追いかけ回して季節が変わるまで戻ってこないとか聞いたぞ」
「失恋とヤケ酒と傷心旅行までワンセットなのよ! ほっといてよ!」
ウァーリは長い爪を立てて失礼千万な狼男を引っ掻いた。だが頬に赤い筋が残ってもダレエンはどこ吹く風だ。
「捜索部隊と、西パトリアをうろつくための器が必要じゃな。用意はこちらでしておこう。お前さんたちはいつでも出発できるようにしておけ」
龍爺の声に「わかったわ」と頷いた。動くと決まれば多少気分も落ち着いてくる。冗談だと思いたいことばかりだが、しばらくは忘れていられそうだった。
「なんだ、結局まだ待たないといけないのか」
「あんたそのジーアン人丸出しのなりで西パトリアに入るつもりだったの? 思いつきだけで行動するのやめなさいよね」
ダレエンはウァーリの忠告など耳にも入れず「なるべく早く頼むぞ」などと古龍に注文をつけている。まったくこれだから獣脳は。
「あのー、ところで俺どうしたらいいっすか? そろそろ誰かと入れ替わってほしいんすけど」
と、天幕の片隅で控えめに手と声が上がった。柱にもたれ、崩れきった姿勢で待ち疲れていたのは使い走りのウェイシャンだ。「すんませんねえ、もう顔面作るのも限界で」と青年はだらしなく聖預言者の麗しい尊顔を歪める。
「俺一応、ハイランバオス様が戻るまでの繋ぎ役だって聞いてたんすよ。でもなんか流れ的にあの人戻ってこない感じじゃないすか? もう信者の相手すんのもダルいし、俺のキャラと合ってないし、さっさと身体移してもらいたいんすよね。忙しいとこホント申し訳ないんすけど、とりあえず先お願いしていいっすか?」
ウェイシャンはへこへこと頭を下げた。道化じみた仕草に聖人の威厳は猫の毛ほども感じられない。バオス教が深刻な悪評を買う前に彼を出してやるほうが良さそうだ。が、大熊はウェイシャンのたっての頼みに首を振った。
「すまんがしばらく動かせそうにない。これから何人兵が抜けるか予測できんのだ。場合によってはそのままハイランバオスの役を続けてもらうやもしれん」
「ええッ!? けど俺どっちかっつうと離脱希望者なんすけど!? 悲しみも苦しみも忘れて最後の時間を楽しみたいんすけど!?」
「代役が見つかるまでの辛抱だ。聞き分けてくれ」
「それ絶対見つからないやつじゃないですかー! やだやだーッ! もうこの身体やだー!」
騒ぐウェイシャンを押しつけられたのもラオタオだった。「できる範囲で満足させてやれ」との命令に狐は「だよねー」と乾いた声で笑う。畳みかけるように猫と蛇も怒声を飛ばした。
「この程度で済んだんだからありがたく思いなよ!」
「言っておくが疑いが晴れるまで貴様の一挙一動は私の部下に監視させるからな!」
若将たちはハイランバオスの裏切りを見抜けなかったラオタオをどこまでも許しがたいらしい。ウァーリはやれやれと息をついた。
普段より責任の所在に敏感なのは焦りの裏返しだろうか。忍び寄る死の影に対する。
「ラオタオ、もう隠していることはないか?」
最後の念押しに大熊が問うた。睨みを利かされた狐は「ないない!」と否定したが「あ、いや、一つだけ新しい報告が」と慌てて付け加える。
「コリフォ島でローガンにルディア姫を献上されたんだった。とりあえず天帝陛下がアクアレイアをどうしたいって言い出すかわかんないし、王都も姫君も変に苛めすぎたり持ち上げすぎたりしないように気をつけてるけど、当面そういう感じでいいよな?」
ラオタオの統治方針を耳にして長老たちは是を示した。別種とはいえ王国湾には蟲がいる。対応には細心の注意が必要だ。
「どうやら話はまとまった。皆、これよりしばらくは十将がジーアンの頭だ。あの方がまだレンムレン湖を探し求めるのか、あるいはここで旅を終えるのかはわからんが、我々は我々の務めを果たして待つとしよう。際限のない嘆きに溺れているよりはいくらか建設的だろう」
ウァーリたちは互いの目を見て頷き合った。
狐を怪しむ者はいても、狐がさらりとついた嘘に気づいた者はいなかった。
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数百名の人員がぎゅうぎゅう詰めで漕ぎ台に並ぶガレー船と比べ、風力のみで動く帆船は広々としている。船倉には荷物をどっさり積み込めるし、大型船でも乗り込む水夫は二十名で事足りた。よそ者さえ降りてしまえば船内は静かなものだ。コンコンと客室の扉を叩き、ユリシーズは中の女に呼びかけた。
「『姫様』、お食事をお持ちしました」
取りつけられた錠を外す。薄暗い部屋の奥では青い髪に青いドレスの別人が憔悴しきって椅子に身体を沈めていた。朝食のパンはそのままで、手をつけた様子はない。
痩せ細って醜くなれば捨ててもらえると考えているのだろうか。だとしたら考えの浅い女だとユリシーズは嘆息した。
「……無駄な抵抗だ。一日二日食べなかったところでなんになる? あの男が戻ってくれば無理矢理口に突っ込まされて終わりだぞ」
こじんまりした丸テーブルに運んできた盆を置く。ジャクリーンはこちらが王女向きの態度を引っ込めたことに気づいて顔を上げた。
「今の状況をわかっているのか?」
鋭い目で元ルディア付きの侍女を睨む。自分から代役を買って出たくせに、何をやっているのかと。
「わかっています」
ジャクリーンの渋い顔にも、到底そうとは信じられない返事にも苛立った。彼女がぐずぐずしているせいで危機はいつまでも去らないのに。
「お前の素性が明らかになれば本物の王女に追手がかかる。十人委員会は追及を免れないだろう。そうでなくても『ルディア姫』が敵兵の慰み者にされたと不名誉な噂が立てば……」
「わかっています! ですがローガンのもとでは身動きもできませんでしたし、ここではラオタオに見張られています。私にどうしろと仰いますの?」
「今なら兵も将も出払っているではないか」
ユリシーズは腰に帯びた幅広の剣に手をかけた。びくりと椅子ごと後ずさり、ジャクリーンは華奢な肩を強張らせる。
「いけません」
青い顔で制してくるので「なぜ?」と問うた。命乞いをするような馬鹿なら切って捨てたほうがましかと頭の隅で計算する。
「あなたが私を殺めれば海軍全体、ひいてはアクアレイア全体の責任が問われます。名目上はもう私はあの将軍の持ち物です。ジーアンに反抗の意思ありと見なされてはイーグレット陛下のご忍従が水の泡ですわ」
「…………」
どうやら分別を損なってはいないようだ。ユリシーズは抜きかけた刃を鞘に戻した。
「わかっているなら話は早い。連中が船に戻ってくる前にさっさと片をつけろ。そうすれば『ルディア姫』として手厚く葬ってやる」
自害を促す声は我ながら冷ややかだった。オーウェン家の娘は「ですから!」と悔しげに歯噛みする。
「餓死か病死か、今の私に選べるのはせいぜいその二つくらいでしょう。喉を突くフォークも与えてもらえないんですもの」
ふんとユリシーズは鼻で笑った。なるほど、それでパンを食べずにいたわけか。衰弱死を狙うなどまた気の長い話だが。
「腰紐一本あれば死ねるさ。結び方を知らないなら教えてやろうか?」
手を差し伸べたユリシーズを見上げ、ジャクリーンは固まった。酷い男だと罵倒されるかと思ったが、意外に素直に頷かれる。
「……お願いします。それであの方がつつがなく暮らしていけるなら」
拍子抜けする呆気なさで誘導は完了した。さすがは軍人の娘と言うべきか、ルディアの侍女と言うべきか。
ユリシーズは細い腰帯を受け取ると大きな輪っかと解けない結び目を拵えた。黄泉に至る道の始まりを見つめる彼女の表情は硬い。
「何も天井にぶら下がる必要はない。縄さえたわまねば床に尻をついたままで首は吊れる。例えばその寝台の脇でもな」
「寝台の……、これで良いのですか?」
立ち上がったジャクリーンは助言に従って腰帯を透かし彫りの頭板にくくりつけた。すべての準備が整ったのを見届けてユリシーズは踵を返す。いくら己でも若い女が息絶える一部始終など拝みたくない。
「遺言は?」
扉の前で振り返り、旅立たんとする身代わりに問いかけた。娘の最後の言葉くらいはトレヴァー・オーウェンに伝えてやろうと思ったのだ。しかし彼女は小さく首を振っただけで、親不孝を許してほしいとさえ言わなかった。
「……あなたが私を追い立てるのは国のためですか? それともルディア姫のためですか?」
代わりに尋ねられたのはそんなひと言。不意に胸の穴を突かれ、ユリシーズは言葉を失くした。まだ愛しているのかと、何度も何度も繰り返してきた自問が頭をぐるぐる駆け巡る。
――お前には関係ない。突っぱねかけて口をつぐんだ。
別に意地になる話ではない。ましてこれから口もきけなくなる女相手に。
「あの方に、これ以上災難が降りかからないようにとは願っている。だが王家の名前が傷つく前に終わらせようとしているのはアクアレイアの未来のためだ」
ジャクリーンは細い指でドレスをぎゅっと握り込んだ。遠目にも彼女の震えが見て取れる。問いかけは最後の一歩を進むためにしたのだろう。殉じるものは崇高なものだと、無駄な犠牲では決してないと、そう確信を強めたくて。
「お前の肩に十万の民の命がかかっている。彼女の守ろうとしたすべての者の運命が」
それだけ呟くとユリシーズは部屋を出た。誰も入れないように鍵をかけ、何も耳にしないように客室を離れる。あとはジャクリーンに任せれば良かった。
嘘ではない。政敵でなくなったルディアに怒りも憎しみも失せたこと。故郷のためにと言ったこと。ただもう一つあった意図は隠したけれど。
ユリシーズにはどうしてもわからないことがあった。アクアレイアに対するジーアンの消極的な態度である。あれだけ巧妙かつ入念に降伏まで持ち込んだくせに、連中はほとんど都に手をつけていないのだ。解体されると思っていた海軍も、評議会や元老院も、お飾り程度にラオタオがトップの名を冠しただけで実際は今もアクアレイア人が切り盛りしている。ほかの国では連れ去られたという知識人や職人たちもそのままだ。
変化がなかったわけではない。東パトリアとの交易では三割を超える関税と法外な年貢金を納めねばならなくなったし、長い不況と戦争でどん底に落ちた経済状況が回復する見込みはなかった。
しかしそれだけなのである。ジーアンがアクアレイアから何を奪いたかったのか、またはアクアレイアをどう使いたかったのか、目的がまったく読めない。商業拠点として盛り立てようとも、西パトリア攻めの要塞基地に作り変えようともしないのはなぜなのか。何度も熟考してみたが、ユリシーズにはジーアンが手に入れた街を持て余しているとしか思えなかった。
それで「ルディア王女」を使って確かめることにしたのだ。アクアレイアが連中からどの程度に見られているのか。
(王族の追放を要求しておいて、今更王女を客人扱いなどおかしい。もし天帝にアクアレイアの自治を認めるつもりがあるならば……)
カーリス共和都市をやり込めるチャンスはまだ残されているかもしれない。海に生きる商人として、アクアレイア人が栄光を取り戻す道は。
「あー、つっかれたあ」
明朝まで戻らないはずだったラオタオが港に姿を現したのは一時間後のことだった。甲板に上がってきた男はげんなりとやつれており、多忙な将軍というよりは安全圏に退避してきた負傷兵然としている。
おそらく天帝宮に居場所がなかったのだろう。何があったのかは知らないが、十将軍議に出たくないあまり「難破したい。南の島まで流されたい……」などと口走っていたほどなのだから。
「お姫様の様子はどう? 元気してる? 食事拒否ったりしてないよな?」
問われてユリシーズは「いえ、それが」と言葉を濁した。軟弱者め、帰ってくるのが早すぎるぞと舌打ちしたい気分は伏せて。
「朝から何も召し上がらないのです。心配いらない、一人にしてくれと仰って」
「えっ、熱でもあるの?」
「ご病気というわけではなさそうでしたが」
「そんじゃちゃんと食べさせてくんないと困るよー。この船のことはぜーんぶゆりぴーに任せてんだからさー」
馴れ馴れしいうえに珍奇な呼称に眉をしかめる。だが一歩前を行くラオタオはこちらの苛立ちなど気にも留めていなかった。ひょいひょいと梯子を下り、狐男は船室の並ぶ甲板下通路に着地する。
「ゆりぴー鍵持ってる?」
顎でジャクリーンの客室を示され、ユリシーズは懐の鍵束を取り出した。
「ルディア王女」にあてがわれた一室はこの船で三番目に上等だ。コリフォ島から彼女が乗船してきたときラオタオは自分の部屋を移すなどしなかったし、副将もそうだった。ジャクリーンにはたまたま空いていた場所が提供されたにすぎない。しかし倉庫に雑魚寝の一般兵と比べれば相当破格の待遇ではある。もしこの船にローガンが乗っていたら、やはり同じ部屋に通されたのではないかと思う。
「どうぞ」
錠を外し、少しだけ扉を開いてラオタオを室内に促した。最初に響いたのは「あれっ?」という彼の声。いるはずの王女がいないので狐はきょろきょろと部屋を見回した。
「……!」
ラオタオが顔色を変えたのは直後である。ベッドの向こうに倒れている女の足に気がついて将軍は急ぎ駆け寄った。その一挙一動をユリシーズはつぶさに観察する。
「おい、しっかりしろ! 狸寝入りしてんじゃないぞ!」
まだ決断しきれていないかと案じていたジャクリーンはきちんと首を括った状態で横たわっていた。ラオタオは大焦りで彼女の鼻に手を添えると「息してなくない!?」と更に焦る。自ら膝をついて王女の身体を抱え起こし、心臓に耳を押し当てる慌てぶりはあたかも要人の一大事だった。
「何ボサッとしてんだよ! 早く医者連れてこいって!」
「あ、は、はい!」
怒鳴り声に初めて緊急事態を悟ったふりをしてユリシーズは客室を飛び出す。高笑いを我慢するのには苦労した。
(やはり私の考えた通りだ! ジーアンはアクアレイアを軽んじてなどいない。やりようによっては帝国に付け入る隙を見つけられるかもしれないぞ!)
船医を呼びに走る足にも自然力がこもる。野心はめらめらと燃え上がった。
こんなところで終わるアクアレイアではない。必ず目に物見せてやる。
「『ルディア王女』が自害なさった! 衛生兵はただちに医務室の支度をしろ! そこの医員、私についてこい!」
兵士たちの待機室に飛び込むなりユリシーズは大声で命じた。先日退役したディランに代わって部隊をまとめる軍医補が「ひいっ! わ、私ですか?」と身震いする。皆どこかで嘘がばれないうちにそうなってほしいと期待していたせいか、広がった動揺は大きかった。
(なんだ、肝の細い連中だな。あの詩人なら『なんて劇的な展開でしょう!』と詩作の一つでも始めていたところだぞ)
薔薇色の頬の友人を思い浮かべ、ユリシーズは衛生兵の一団に小者しか残らなかったことを嘆く。ろくな男ではなかったけれど、いないとなると味気ないものだ。家の名誉より愛息の安全を取った彼の父を責められはしないが。
(トレヴァー・オーウェンは私を恨むだろうな)
ジャクリーンのもとへ駆け足で戻りつつユリシーズは顔を歪めた。
誰も我が子の死など望まない。あの厳格なシーシュフォスさえそうだった。大佐もまた、無理と承知で政府に娘の救出を嘆願していたのだ。
(だがそれも、余計なことを知らせなければ生じぬ恨みだ)
狭い通路に足音が冷たく響く。こんな温度に慣れてきた自分がユリシーズは少しおかしかった。




