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第2章 その2

 潮風が頬に吹きつける。甲板から見下ろす青はどこまでも澄んで、王都へと近づくにつれ緑がかった色を帯びた。波を掻く櫂の音。意気揚々とした船乗りの声。すべてが耳に心地良い。

 海原に影を落とし、幾羽もの水鳥が翼を広げる。葦の茂る潟湖へ帰るところなのだろう。ルディアの故郷も彼らの目指す地にある。もっともあそこを地と呼ぶべきかは疑問だが。何しろアクアレイアでは道路の代わりに水路が走り、馬車の代わりにゴンドラが行き交っているのだから。

 王国を訪れた旅人は「世界で最も美しく、最も風変わりな都」と驚嘆する。網の目状に巡らされた運河も、海から直接生えたような家屋も、よそでは類を見ないものばかりだ。元々は海賊の根城であった不毛の沼沢地を類稀な手腕で海運国に発展させたのは初代国王夫妻である。以来六十年、アクアレイアは水とともに生きてきたのだ。


「入港だー! ロープを渡せー!」


 防衛隊を乗せたガレー船はアレイア海から王国湾に入り、ゆったりと外運河を横切ると大鐘楼と向かい合う税関岬に着岸した。港では積荷の点検や乗員・乗客の確認が行われる。ほとんど手ぶらのルディアたちはさっさと身分証明を済ませ、埠頭の小広場に降り立った。

 今が帰省のラッシュらしい。アクアレイアの表玄関――街を二分して流れる大運河の河口付近は多くの船でごった返している。その間隙を縫って運行する辻ゴンドラを一艘捕まえ、ルディアたちはまずブルーノの実家を目指すことにした。


「おー、やっぱ久々に帰ってきた感あるなー!」


 馴染みの風景を見渡してレイモンドがはしゃぐ。普段ならうるさいぞと睨むところだが、今日はルディアも胸高鳴らせて街を見つめた。

 相変わらずの眩しさだ。水面は土の道とは違い、空や建物、人々の衣装まで映して輝く。ニンフィにはなかった都会の匂いも感じられた。運河沿いに軒を連ねる豪商の屋敷、その玄関を飾る壮麗なファサード、東方風のすらりとした列柱と古い神話の精霊像が混在するのも交易都市ならではだ。


「本当にホッとします。商用で離れるときはもっと帰れていなかったはずなのに、変ですねえ」

「それはある程度自分で帰国のタイミングを決められたからでしょ?」


 バジルやモモの表情も明るい。変化がないのは「休暇中も俺たちが防衛隊の一員だということを忘れるなよ」とくどいアルフレッドくらいだ。


「商用で忙しいなら願ったりだぜ。ジーアン帝国がアレイア海に出てきてから商売上がったりだもんな。あーっ、早く定期商船に荷を積みてー! 防衛隊がなくなって収入が途絶えちまう前に!」

「こら、妙な話をするな! あいつらもう解散なのかと誤解されるだろう!」

「うひっ」


 隊長のお叱りを受けて肩をすくめるレイモンドの横顔を見上げ、ルディアは小さく嘆息した。帰郷に高まっていた思いが瞬時に下降する。理由は簡単だ。槍兵の愚痴に祖国の窮状を再認識させられたからである。


(……しばらく離れている間にまた景気が悪くなったようだな)


 目を向けた岸辺は次第に直視しがたくなった。一瞥で現状の苦しさが知れるのがつらいところだ。

 祭りの最中だというのに今年は着飾った者が少ない。祝祭には欠かせぬ仮面も宝石ばかりか色使いまで控えめだ。素性を隠し、身分を忘れ、貴賤の別なく楽しむのが精霊祭の醍醐味なのに、これでは本当に貴族と平民を区別できそうにない。

 質素な晴れ着と同調して露店や商店の品薄も目立った。悩ましいのは値段の高騰ぶりである。特定の輸入品だけでなく、引きずられる形で日用品、食料品まで値上がりしている。これらは皆、ジーアン帝国との間に通商安全保障条約が結ばれていないために起きている現象だった。


(くそ、ジーアンめ。戦争以外にも国を弱らせる方法はあるとよく知っているではないか)


 耕地面積ゼロのアクアレイアは商人の国である。男は十二、十三にもなればガレー船で海へ出る。平民だろうと貴族だろうと誰もが一度は国を離れ、商売と航海術を学ぶのだ。出資額に差はあっても「主たる取引相手と売買できない」状況のまずさがわからぬ馬鹿はいない。女もそうだ。船に乗る者こそ少ないが、己の編んだレースの相場には敏感だ。

 東方とだけ交易しているわけではないし、国庫にも万一の備えはある。だが経済不振は少なからず国民の不安と不満を高めていた。一刻も早く国営商船団を再開せねば王家の威信は揺らぐ一方に違いない。


(この国で船乗り経験のない男はお父様だけだしな)


 税関の斜め向かい、大鐘楼の陰に消えゆくレーギア宮を見やってルディアは肩を落とした。

 国王はアクアレイアを治める資質に欠けている。そう非難される最大の理由である。パトリア古王国に繋がる尊い血筋を絶やさぬこと。それが王国の自治独立を周辺諸国に認めさせる唯一の手段なのだから、父が海に出られなくとも仕方がないと思うのだが、あいにくと民はそこまで慮ってくれないらしい。


(ああ、なんだって私はこんなときに防衛隊なんてやっているんだ?)


 同盟を強化したはずのマルゴーは非友好的だし、条約締結に向けて懐柔するべき聖預言者はアクアレイア王を災いと決めつけて憚らないし、問題だらけだ。不信が過ぎて分家に玉座を奪われる、なんて事態にはならないと思いたいが。


「よし、着いたな。皆行くぞ」


 そうこうする間に辻ゴンドラは軒先の迫る狭い水路を通り抜け、簡素な桟橋に到着した。アルフレッドが船頭に五人分の渡し賃を払う。ルディアは辺りを警戒しつつ看板の出た床屋へと近づいていった。







「いらっしゃーい! ただいま四時間待ちですよー!」


 静かに押し開いたドアの奥から威勢の良い声が飛んでくる。ブルーノの父、コンラッドだ。ルディアはまだ幼い頃、この仕事熱心な男に命を救われたことがある。

 卓越したハサミの使い手は時に優秀な外科医を兼ねる。壊死した四肢や脳の病巣を切除する資格を持つのは理容師だけだ。才能豊かなコンラッドは医療面でも美容面でも頼りにされている様子である。

 それにしても四時間待ちとは何事だろうか。戸惑いながら中を覗けば店内は髪結い希望の女性客で溢れていた。女たちは少しでも安く、しかしできるだけ華やかに装おうと、ドレスや仮面より髪型に趣向を凝らすことにしたらしい。

 結構な名案だがそのせいで店主に近づけないのは困りものだった。こちらはアイリーン・ブルータスの所在を確かめるためだけに帰宅したのだから。


「おーい、一旦手を止めてこっちへ来てくれ!」

「はいィ!? なんですって!?」

「手を止めてこちらへ来てくれと言っているんだ!」

「ああン!? お客さん、順番守ってもらえないならお引き取り下さいよ!」

「違う違う! よく見ろ、お前の息子だ! 聞きたいことがあるだけだ!」

「あ、いえいえ、申し訳ありませんお客様、もう仕上げに入りますので、ええ、ええ」

「おい! 話を聞いているのか!?」

「あのねえ今忙しいんですよ! 見てわかりませんかねえ!? 順番が回ってくるまではお相手いたし兼ねますから、ちゃんと四時間そこでお待ちくださいね!」


 腰を屈めて乙女の毛束と戦うコンラッドにはルディアの姿が見えないらしい。助手の母親も同じくだった。忙殺されすぎて数秒耳を貸す気にもならないのか、大声で叫んでも二人からの反応はない。ぎゅうぎゅう詰めの中お喋りに興じる女たちも間を通してくれる気はなさそうだった。


(くそっ、こいつら……!)


 忌々しい。防衛隊の評判が王女の評判に直結しているのでなければ一人ずつぶん投げてくれるのに。


「親父さん、これじゃ娘が帰ってきても気がつかなかったんじゃないのか?」

「モモもそう思ーう」


 ハートフィールド兄妹の言に歯軋りする。それでも手がかりがあるとすればここだけなのだ。ルディアはもう一度店の奥へ突入しようとした。だがその足を物思わしげなバジルの声が引き留める。


「日が暮れれば客足は途絶えるでしょうし、また後で来ませんか? 頑張って突っ込んでもこのパターンだと店を手伝わされて終わりですよ」

「それはそうだが……」

「大体アイリーンさんって親子の縁を切られてるんでしょう? なら親元より友達のところへ顔を出す可能性のほうが高くないです? とりあえず今は二階、三階、四階を確認するだけにして、落ち着いた場所でアイリーンさんの向かいそうな場所をピックアップするのがいいと思うんですけど……」


 遠回りだがもっともな意見に押し黙る。そこですかさずレイモンドが「ならうちの食堂で昼飯にしようぜ! 安くしとくからさ!」と提案したため流れはそちらに傾いた。


「確かに小腹が空いてきたな。よし皆、ひとまず屋内の点検と腹ごしらえだ。それから伯父さんにアイリーン・ブルータスの情報を届けに行こう」


 隊長の指示にモモが「はーい」と手を上げる。


「アル兄、その後はどうするの?」

「俺たちも自分の足で街を回るぞ。可能ならアイリーンを捕縛する」

「えーっ、タダ働きかよーっ!?」

「嫌ならレイモンドは来なきゃいいでしょ。モモはアンバーの頭を取り返してあげたいもん」

「僕も手伝いますよ、モモ!」

「一度は追い詰めておきながら取り逃がしたのは俺たちだ。騎士としての名誉がかかっている」

「ううっ……わかったよ! 俺も行くって、行きますって!」


 どうやらここは彼らの方針に従ったほうが良さそうだ。ルディアも大人しく槍兵に倣うことにする。

 外階段から住宅部へ上がるとどの部屋も無人であるのが確認された。バジルの推測した通り、アイリーンには実家以外の拠りどころがあるのかもしれない。早々に捜索を打ち切ると防衛隊はブルータス整髪店を後にした。







 さて、続いて乗船したゴンドラは貸切ではなく乗合だった。乗り心地なんて最初から期待などしていなかったが、それでもこれは想定を上回る大外れだと言わざるを得なかった。


「うわっ!」


 乗り込むとほぼ同時、船体以上に粗野な漕ぎ手が岸を蹴る。そのタイミングが早すぎてルディアは危うく落水するところだった。


「おいおいブルーノ、大丈夫か?」


 にやにやと差し出された手を「結構だ」とはねつける。槍兵は怒るどころか却って喜び、「あれー? ブルーノ君は立ち乗りしねーのかな?」とからかってきた。


「疲れているんだ。放っておいてくれ」

「けどさー、ちょっとの距離で立ったり座ったりするほうが余計に疲れちまうんじゃねーのー?」


 この大きな子供はルディアが進む舟の上で立っていられないのをやたら馬鹿にする。地元の者は生まれたときから船上移動が当たり前で、いちいち横木に腰を下ろしたり、ゴンドラの縁にしがみついたりしないからだ。


(王族用のゴンドラは船室付きだし、私は一度も泳いだことがないのだぞ? 座り乗りくらい構わんだろう!)


 そう言い返せればいいのだが、ルディアを彼らの幼馴染だと信じきっているレイモンドには意味不明もいいところだろう。

 まあいい、好きに言わせておこう。どうせ下がるのはブルーノの評価だ。


「アクアレイアの男ならどんな大荷物だって微動だにせずいるもんだぜ?」


 槍兵は大威張りで胸を叩く。「そのへんにしておけよ」と諌めるアルフレッドの声も阿呆の陶酔を覚ますには至らなかった。立って乗ろうと座って乗ろうと運賃は変わらないのに何がそんなに誇らしいのだか。

 げんなりしつつルディアは船上を見回す。同乗者は防衛隊以外にも一人いたが、やはり直立不動であった。しかもこの客は祝祭用のフルマスクを着用してだ。狭い視界でよく恐ろしくないと感心した。


「ほらほらブルーノ君、俺をお手本に立ち上がる練習したっていいんだぜ?」

「面白い冗談だな。調子に乗りすぎて頭をぶつけるなよ?」

「うわっはっは! だーれがそんなよそ者みたいな……ッンオォ!」


 狙いすましたように船は低い橋の下を通過した。悲鳴と同時に響いたゴンという音が衝撃の大きさを物語る。

 見通しの悪いカーブを過ぎた直後だったため、船頭の注意よりレイモンドが橋桁に頭を強打するほうが早かったようだ。凶悪犯罪は少ないアクアレイアであるが、こういった危険は時折顔を覗かせる。

 橋はまだ新しかった。おそらく防衛隊がニンフィに転勤してから建設されたものだろう。せめて前方を向いていれば回避可能だったろうに、まったく愚かの極みである。


「あ、あう、あうあっ……」


 そのうえレイモンドは被害を自分だけに留めておけない愚鈍だった。無駄に大きな図体でどすんと船尾に倒れ込まれ、ゴンドラが揺れに揺れる。すわ転覆かと焦ったが、多少の水が入っただけでなんとか難は過ぎ去った。


「レイモンドの馬鹿! モモの服びちゃびちゃじゃん!」

「すみませんすみません! 僕たちの連れが!」

「しっかりしろ! 意識はあるか!?」


 起き上がれずにいるレイモンドにアルフレッドが呼びかける。バジルは船頭に平謝りし、モモは湿ったスカートをぱたぱたと乾かした。


「ふっ、だから言ってやったのに」


 後ろ頭を押さえて痛がるレイモンドを見やってルディアは勝ち誇る。足元に転がっていた白い仮面を拾い上げると満面の笑みで持ち主を振り返った。


「今の衝撃で外れてしまいましたね。うちの間抜けがとんだご迷惑を――」


 と、助け起こそうとした乗客が不自然に顔を逸らす。直感は即座に「怪しい」と告げた。


「あ、アイリーンだ」


 反対側に倒れていたレイモンドがうつむく女の顔を指差す。瞬間、ルディアとモモは首泥棒に飛びかかっていた。


「キャアー! イヤアー!」

「騒ぐな! おい、何か口を塞ぐものをよこせ!」

「モモの荷紐でいい?」

「よし、両手両足も縛るぞ!」

「あっ、大丈夫です! 僕たち王都防衛隊です! 手配犯を捕まえただけですので!」

「んご、もご、もごごごッ」

「――ふう!」


 突然の捕り物帖は数分と経たず完了する。いやまさか、こんな形で遭遇するとは思ってもいなかった。清々しい気分でルディアは額の汗を拭った。


「んんーっ! んんっんんーっ!」


 このゴンドラだらけのアクアレイアで偶然防衛隊と乗り合わせるとは不運な女だ。もしやこの盗人も実家の様子を見にきた帰りだったのだろうか。


「うわっはっは! 痛い目に遭った甲斐があったぜ!」


 ふんぞり返るレイモンドを「よくやったぞ」と誉めてつかわす。強運もまた才能だ。モモとバジルの次くらいには使える奴だと認識を改めてやろう。


「例の革袋は持っていないみたいだな。どうする? このまま海軍に引き渡すか?」


 アルフレッドの問いにルディアは首を振った。


「いや、その前に尋問すべきことがある。邪魔の入らない場所に行きたい」

「だったら僕の家はどうです? 孤島のガラス工房ですし、誰も来ませんよ」

「ええーっ!? め、飯は!?」

「そんなもの後だ、後!」


 行く先が決まれば話は早い。防衛隊の名でゴンドラを徴発するとルディアは適当な岸でゴンドラ漕ぎたちを下船させた。船頭は不服そうだったが、迷惑料として四千ウェルスほど手渡すと途端に態度を一変させる。彼らは非常に愛想良く、ニコニコ顔でお別れしてくれた。


「い、一週間分もお給料あげちゃって良かったの?」

「変に騒がれても困るからな。それに我々の気前が悪いと王女の気前まで悪いと思われる」

「ひええ、愛は偉大ですねえ」

「み、見上げた忠誠心だ。俺も努力しなければ」

「だったら俺にこそボーナスくれよー!」


 まだ痛そうに患部を擦りながらレイモンドは櫂を握った。橋の下を通るたびにびくびくと肩をすぼめるのが面白い。

 ゴンドラは間もなく小運河から浅い海へ出た。アレイア海とは砂洲によって隔てられた、アクアレイア湾とも王国湾とも呼ばれる潟湖だ。賑わう街の主要部を離れ、数多ある小島の一つを目指して進む。

 舟底に転がしたアイリーンは半泣きで震えていた。彼女からはルディアの喜々とした――もっと正確に言えば、怨念に染まった邪悪な笑みがよく見えていたのだろう。





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