第2章 その2
ぶんと風切り音を立て、模造斧の平らな刃が横一線に空を裂く。仰け反って攻撃をかわし、同時に木刀を振り抜く。すると身軽な妹は宙返りでこれを避け、すぐに体勢を立て直した。
「あっアル兄! 貰ったピアス落としてるよ!」
「えっ!?」
出し抜けに背後の床を指され、思わず振り返ってしまう。「隙あり!」と声が響いたのは直後だった。向かいくる少女に視線を戻したときには木斧が腹部に迫っており、アルフレッドは痛烈な一打を食らってしまう。手合わせの結果はモモの勝利であった。
「おっ、お前な……っ、なんて卑怯な……っ」
よろめきうずくまる兄に妹は憐みをこめた目を向ける。
「こんな古い手に引っかかるアル兄のほうがどうかしてるよ。さすがにモモも心配だなあ。大丈夫? 強く乱世を生きていける?」
失礼な物言いに「おい!」と声を荒らげた。まったくこいつは兄をなんだと思っているのだ。
「物が物でなきゃ俺だってそう焦りはしない。完全な球形をしたパトリア石がどれほど貴重か知らないのか? しかもこれは、東パトリアのアクアレイアに対する好意の証とも言えるんだぞ?」
「知ってるけどさー、モモならそもそも落としそうなところに入れておかないもーん」
「俺だって!」
「でも『落としたかも』って不安になったじゃん? アル兄のざーこ!」
「くそっ、もう一戦だ!」
模造武器を掴んで立ち上がる。しかしモモとの再戦は叶わなかった。衛兵室にコンコンとノックの音が響いたからだ。
「あ、はい。チャド王子でしょうか?」
襟を正し、控えの間の扉を開ける。「ルディア王女」の客室へ続くこの部屋を通る人間は彼か公女ティルダくらいだった。予想に違わず入ってきたのは糸目の貴公子で、アルフレッドとモモはさっと敬礼する。
「邪魔をしてすまない。ちょっといいかい? 街門に待機させているグレッグからの報告で、アクアレイア人が二人訪ねてきているそうなのだ。アイリーン・ブルータスとモリス・グリーンウッドの名に覚えはあるかね?」
思いがけない名前を聞いてアルフレッドらは目を丸くする。
「アイリーン!? それって青い髪に青い顔したガリガリの!?」
「その二人ならうちの隊員の家族です。二人がサールに来ているんですか?」
驚きのまま尋ね返すと行動の早い王子は「実はもう宮殿内に通してある」と言った。
「アクアレイアがどうなっているか、なんとか調べなくてはと考えていた矢先だったからね。君たちの身内なら信用も置けるな。すぐ呼んでくるとしよう」
言うが早くチャドはその場を後にした。そして十分と経たぬ間に客人を連れ、防衛隊の待つ客室に戻ってくる。
「モリスさん!」
こそこそと入室してきた白髭のガラス工にアルフレッドは駆け寄った。老人の丸い背中にくっついて姿を見せた女にはブルーノが瞳を潤ませる。
「よ、良かった……! 連絡も取れないし、ずっと心配していて……!」
ブルーノはほとんど素に戻って姉の無事を喜んだ。相変わらずの血色だったがアイリーンは五体満足で、皆ほっと胸を撫で下ろす。
だがなぜかアイリーンはいつまでも顔を上げようとしなかった。弟の声にも反応を示さず、真冬の雪原に立っているかのごとくガタガタと震えている。
「?」
アルフレッドはモモと顔を見合わせた。なんだか良くない感じがする。彼女がこういう黙り方をしているときは、大抵いつも良くない事実を口に出せずにいるときなのだ。
「……何かあったのか?」
静かな問いが客室に響いた。返答を待つ間、アルフレッドは思考を巡らせて諸々の可能性を考慮した。ここにアンバーがいないのは彼女に何かあったからかとか、モリスまで王都を出たのはアクアレイアが住めないくらい悲惨な状態だからかとか。憶測はどれも外れたけれど。
「……悪い知らせじゃ」
うつむいて黙りこくったままのアイリーンに代わり、口を開いたのはモリスだった。「いずれ政府から正式な使者が来ると思うが」と前置きし、ガラス工は暗い表情で語り始める。
「コリフォ島はカーリス人に奪われたらしい。トレヴァー・オーウェン大佐は要塞を追われ、泣く泣く部下と都に引き返してきたそうじゃ。住民も、本国に家族のいる者は大半が島を出たと聞く」
にわかに室内がざわめいた。この二人からコリフォ島の情報がもたらされるとは想定外で、チャドもブルーノも顔色を変える。
「コ、コリフォ島が奪われた? 陛下やジャクリーンはどうなったのだ?」
王子の問いにアイリーンはますます身を強張らせた。
不安は見る間に伝染し、漂う空気を塗り替える。アルフレッドも息を詰めてモリスの次の言を待った。
「……イーグレット陛下はお亡くなりになられた。代役も囚われの身じゃ」
愕然と目を瞠る。ふらりと立ち眩んだブルーノをチャドが咄嗟に支え抱いた。モモも信じられないという顔で声を失っている。
一番起きてほしくなかったことが起こったのだ。アルフレッドはくそ、と拳を握り込んだ。要求通りアクアレイアを明け渡したのに、王家にはなんの権限もなくなったのに、ジーアンは――否、ローガン・ショックリーはそっとしておいてくれなかった。
「……陛下はカーリス人にやられたのか?」
震える声で問いかける。だがガラス工は頷かない。「それじゃジーアン兵に?」というモモの問いにも沈黙を貫いた。
瞬間、ぞわりと悪寒が走る。どくん、どくんと心臓が波立ち、冷たい汗が脇を伝った。
まさか、いやでもと確信と否定を繰り返す。だが考えれば考えるほどそうだとしか思えなくなった。
イーグレットに手をかけたのが、カーリス人でもジーアン兵でもないということは――。
「公爵に、マルゴー公に、早く伝えに行ってください」
血の気の引いた真っ白な顔でブルーノがチャドを促す。幼馴染にもあの島で何があったか想像がついたらしい。とても聞かせられないと部屋からチャドを追い立てる。
「いや、しかしルディア」
だが彼はこんなときに愛する妻と離れられないと言いたげだった。目尻に涙を溜めたブルーノの手をぎゅっと握り締めている。
「いいから行ってください! そして公爵やティルダ様が私をどのように扱うべきだと仰ったか嘘偽りなく教えてください!」
「……!」
元々危うかった妻の立場が今またどんな危険なものに変わったか、ひと言で察してチャドは息を飲み込んだ。客室を飛び出した足音が遠く聞こえなくなると、アルフレッドは再度モリスに向き直る。
吐き出そうとした息が重かった。言葉はもっと、鉛のようで。
けれど聞かなくてはならない。本当のことを確かめなければ。
「……陛下は、姫様が……?」
堰を切り、わっと溢れたアイリーンの慟哭が答えだった。
全容はまだ少しも掴めない。何がどうなってそんな終わりを迎えたのか。
それでもルディアが、あの決然とした人がどれほど残酷な選択を迫られたかはアルフレッドにも読み取れた。
「……囚われればなぶり殺しにされるのは目に見えておった。せめて王として死なせるために、あの子は剣を抜いたのじゃろう」
「カロは何をしていたんだ!? 同じ船でコリフォ島へ行ったんだろう!?」
勝手に荒くなる語気にアイリーンがびくりと肩をすくませる。旧知のロマを庇って彼女は首を振った。
「違うの。私のせいで乗れなかったの。コリフォ島に着いたらレイモンド君が王様を助けてくれって……。でも私たちが駆けつけたときにはもう……!」
膝から崩れ、アイリーンは床に泣き伏せる。「ごめんなさい」と詫びられてもアルフレッドには意味がわからなかった。一体なんの謝罪なのか。
「カロがすごく怒ってるの。ひ、姫様のこと見つけ出して絶対に殺すって……。ロマの男は友人を殺されて黙ったままではいないって……」
激昂は一気に冷めた。これ以上、なお悪い話が出てくるとは思いもよらず。
「ちょっと待て……。カロが姫様をなんだって……?」
不穏な言葉に頬が引きつる。頭が話についていかない。
それではルディアは、ただでさえ大きな存在を喪ったのに、あのロマの恨みまで買ったのか。
「私、私、止めなくちゃって、何度もカロに、でも」
「ちょっと待ってくれ、話が全然わからない。大体お前はいつからカロと一緒にいたんだ?」
要領を得ないアイリーンについ大声を出してしまう。すると妹も苛立った声を響かせた。
「ああもう、泣いてないで順を追って説明してくれない!? アイリーンたちはヴラシィに行った後どうしてたの!? アンバーはちゃんと生きてるんだよね!?」
モモの手に揺さぶられ、アイリーンはぐっと涙を飲み込んだ。眉根を寄せ、乱れきった呼吸を整え、苦しげに胸の辺りを押さえながらぽつりぽつりと話し始める。
「アンバーさんはヴラシィで……、ラオタオ様に脳蟲だって見破られて……、生きてはいるけど帰ってこられる状況じゃ……」
「は、はあ!?」
「ジーアン帝国の上層部、ハイランバオス様やヘウンバオス様は、脳蟲とよく似た別種の蟲だったみたいなの……。わ、私はとにかくハイランバオス様に話を聞かなくちゃって、それであの方がディラン・ストーンになりすましていたアクアレイアに――」
「はああ!?」
聞けば聞くほど混乱するのは語り手が混乱しているせいだけではないだろう。次から次によくぞこれだけ理解しがたい話が出てくる。
ジーアン上層部にも蟲がいた? ハイランバオスがディランになりすましていた? 冗談にしてはきつすぎる。
「ごめんなさい、私、あ、アクアレイアに、謝っても許されないようなことを……! 私がジーアンをアクアレイアに引き寄せて……!」
またアイリーンが泣きじゃくりだしたため、続きはモリスが詳しく説明してくれた。天帝がアクアレイアに欲を出した理由はわかっても、ハイランバオスが何を企んでいるかはわからずじまいだったが。
「とりあえず今はカロのほうがやばいんじゃない?」
顔を歪めたモモの言葉にブルーノが頷く。
「そ、そうだよね……。姫様の命を狙ってるってことだもんね……」
わずかの差で間に合わなかったカロの心境を思えば怒りの矛先がルディアに向くのも道理であった。彼女がもう少しだけ迷っていれば、切っ先が急所から外れていれば、希望は繋がったかもしれないのだ。
ふらつく身体の支えを求めてブルーノは部屋の隅の書き物机に手をついた。卓上にはイーグレットが荷に忍ばせた二通の手紙が置かれている。
毅然たる字で綴られた文面を思い出したかブルーノは頬に涙を伝わらせた。整った王女の顔が見る間にぐしゃぐしゃになっていく。
「なんでなの……? どうして姫様がイーグレット陛下を……?」
ルディアの姿で泣かれると心が痛い。アルフレッドは唇を噛み、無念と怒りを堪えて言った。
「陛下がお望みになられたからに決まっているだろう! ただ苦痛と屈辱から救うだけならあの人はきっともっと違う方法を取った! 王族に相応しい死を願ったのは陛下だ……!」
そうだ。イーグレットは手紙の中できっぱり宣言していたではないか。最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きると。この先ルディアが平穏を望むにせよ、激動に身を投じるにせよ、己の存在が足枷にならぬように努めると。
(覚悟を決めておられるのはわかっていたんだ)
アクアレイアを発つ前からイーグレットが死地に赴く心構えでいたことは。幽閉が何年続くかとルディアは言っていたけれど、おそらくは彼女もまた。
(どうして俺はコリフォ島に行かなかったんだ?)
後悔に胃が焼けた。握りすぎた拳は爪が食い込んで、視界はぐらぐら揺れて歪む。大事なことほどルディアは黙って一人で決行するのだと、自分は知っていたはずなのに。
「レイモンドが一緒でまだ良かったね。姫様連れてどこに逃げたかわかんないけど」
神妙な面持ちでモモが言う。サールへも来ておらず、アクアレイアでも姿のなかった二人の現在地はアルフレッドにも明確な見当がつけられなかった。
「使ったとすれば帆船だろう。風向きはどっちだったんだ?」
「あ、あの日は確か東から西に……」
アイリーンの返答にまたモモが眉をしかめる。
「西かあ。カロもそっちを探す気なのかな?」
室内に再び沈黙が訪れた。なんとかしなくてはと思うのに、どうするべきかわからない。このままじっとサール宮で連絡を待つしかないのだろうか。
「……カロの足取りならなんとか掴めるやもしれん」
と、腕組みして考え込んでいたモリスが呟いた。思いがけない言葉にがばりと顔を上げる。
「ど、どうやって?」
「うーむ、あまりお勧めの方法ではないんじゃよ。わしにはちと荷が重すぎるし、お前さんらでは凄まじく不愉快な目に遭うじゃろうし……」
「なんでもいい! カロがあの人に何かする前に止められるなら!」
言い渋るモリスに掴みかからん勢いで迫る。ガラス工は「本当にお勧めできないぞ」と忠告を重ねたうえで提案した。
「ロマのことはロマが一番よく知っておる。わしは彼らのするような旅に耐えられる身体ではないからのう、お前さんらが良ければの話じゃが、わしの親父に――わしとカロの父親に会ってみるかね? ロマの一団に加えてもらえれば『はぐれロマ』の噂も聞こえてきやすいはずじゃ」
「……!」
アルフレッドはくるりとモモを振り返る。わかってるよという顔で妹は肩をすくめてみせた。
「そっちに行きたいって言うんでしょ? いいよ、ブルーノは頑張ってモモが守るから」
しっしと追い払う仕草に「すまん」と詫びる。
「皆で追いかけられたら一番いいんだろうけど、そういうわけにいかないもんね」
今は人手が足りていない。本来はここも手薄にしてはならない場所だ。それはわかっていたけれど、主君の危機を放置することはアルフレッドにはもっとできなかった。
「せっかく会えたのにまたバラバラかあ」
溜め息をつくモモは少々寂しげだ。「あーあ、手合わせの相手がいないと身体なまっちゃう」と続いた台詞には思わず足を滑らせたが。
「僕がモモちゃんの相手になるよ。僕も『お姫様』のままじゃ駄目だ」
妹にそう告げたのは涙を拭ったブルーノだった。しっかりしなきゃと幼馴染は鼻を啜る。
「決まりじゃな。一度アクアレイアに戻って、それから親父のところへ行こう。筋金入りのアクアレイア人嫌いじゃから心しておくんじゃぞ? マルゴー人のやっかみなんぞジェレムに比べれば可愛いもんじゃよ」
父親の偏屈さを説くモリスの言に多少不安は煽られたが、悶々と待っているより行動できたほうがありがたい。それが直接ルディアのためになるなら尚更だ。
「アイリーン、お前も一緒に来るだろう?」
部屋の隅で塞ぎ込んでいる彼女に問うと「ええ……」と歯切れの悪い返事があった。自分のせいで何もかも駄目になったとまだ気に病んでいるらしい。
「そうね、カロを追いかけなくちゃ……。でもあの人、私の言葉なんて少しも聞いてくれなかったわ。もし彼に追いついて、説得して、それでも思い直してくれなかったら――そのときは私たちどうするの?」
考えたくない可能性にアルフレッドは息を止める。彼女の疑問に答えられる人間はいなかった。書き物机の手紙を握り締めたブルーノ以外には。
「これ見せてみたらどうかな?」
示された封筒にモリスとアイリーンが「それは?」と声を揃える。
「陛下から姫様へと、陛下からカロさんへの手紙。こっちは暗号で書かれてて僕らには読めなかったんだけど、カロさんなら読めると思う。こっちは普通のアレイア語だよ」
アレイア語で書かれたほうの手紙を開き、モリスが「ふうむ」と小さく頷く。誰が読んでもイーグレットの断固たる決意を感じられる内容だ。どこまでカロが納得してくれるかわからないが、試してみる価値はあるだろう。
「悪い想像ばかりしていても仕方がない。とにかく急ごう。もっと取り返しのつかない事態になる前に……!」
アルフレッドは控えの間に走り、少ない荷物を手早くまとめた。大事なものは伯父に貰ったバスタードソードとアニークに貰ったピアスだけだ。この二つとイーグレットの手紙さえ失くさなければそれでいい。
(命令違反だと叱られても知るもんか。守るべきときに守るべき人を守れずに何が騎士だ)
やはりあのとき彼女の側を離れるべきではなかった。たとえ未来のルディアに必要なものがマルゴーにあったのだとしても、優先すべきは今の彼女だったのだ。
大きな悔いは大きな原動力になった。その夜のうちにアルフレッドはサールの都を後にした。
******
――運べ、運べ、サールは白い金の街。
――運べ、運べ、サールは塩の集う街。
水夫の陽気な歌声にティルダはにこりと糸目を細めた。都の周縁を流れる河は今日も荷を満載した船でいっぱいだ。二十年ほど前、岩塩の採掘技術に劇的な躍進があって以来、製塩は公国を支える主要産業の一つとなった。「白い金」はこのサールリヴィス河を伝って遠く北パトリアまで運ばれ、辺境に暮らす人々にも冬の塩漬け肉という恩恵を行き渡らせている。
橋の上から馴染みの光景を見下ろすのがティルダは好きだった。マルゴー公は貧乏すぎて民の血と肉――傭兵を輸出するしか道がないと、嘲笑うパトリア貴族に心の余裕を持てるから。
我々とていつまでも貧しいままではない。アルタルーペの山々には多くの宝が眠っている。街を潤す岩塩を見ているとそんな自信が湧いてくる。今はまだ辛抱のとき、困難は続くとも必ず未来は拓けるはずだと。
「昨夜は随分遅くまで公爵と話し込んでいらしたようですね。アクアレイア人が来ていたと耳にしましたが、本当でしょうか?」
と、背後で響いた騎士の声に振り返り、ティルダは「ええ」と頷いた。
せっかく少し晴れていた心が曇る。山と海とで堅固な協力体制を敷き、今後も支え合えるはずだった隣国の名を耳にして。
昨日受けた報告は、予測されていたことではあったがやはり衝撃的だった。
「マーロン、こちらへいらっしゃい」
赤茶けた長い髪の直属騎士を手招きする。向かった先は石橋の端、入市税を徴収するための監視塔だ。昔から内緒話をするときはこの頂でと決めていた。弟がアクアレイアの王女を匿っていること、通行人に聞き咎められるわけにはいかない。
「おお、これはティルダ様」
「また城から下りてこられたのですか? 相変わらずのご健脚でございますね」
「だってここから眺めるサールが一番美しいのだもの。少し上がらせてもらうわよ」
「どうぞどうぞ、ごゆるりと!」
気の知れた番兵のたむろする一階以外、石塔の屋内に人影はない。いつもの散歩コースと偽って四階分の階段を上がり、強い風の吹く頂上へと歩み出る。マーロンは行儀良く口を閉ざして一歩後ろをついてきていた。
「お亡くなりになられたのはイーグレット陛下だけだったそうよ」
静かな声でティルダが告げると騎士はごくりと息を飲んだ。
「だけ、ですか。それでは王女の代役は……」
「カーリス兵に生け捕りにされたと聞いたわ。ジーアンの若い将に献上されることになりそうだと」
「…………」
残念ね、と溜め息をつく。弟夫婦やマルゴーには最悪な形になってしまった。もし王女が偽者だと露見すれば本物の居所も間を置かず知られてしまうだろう。そうなればジーアン軍が国境に踏み込んでくる可能性も出てくる。ティルダも父も公式には「ルディア姫が来たという事実はない」で押し通すつもりだが。
「どうなさるのです?」
部下の問いにティルダはきっぱりと答える。
「どうもこうもないでしょう。ルディア姫にはなるべく早くマルゴー人の養女になっていただくわ。出自にこだわっている場合ではないと、ようやく彼女もわかってくれたみたい。つまり当初の予定通りよ」
王女としての人生を諦め、別人として生きるなら援助の用意はできるということ。それは彼女がサール宮に逃げてきた翌日には伝えてあった。ルディアを保護しても公国には百害あって一利なしだと大臣たちは反発したが、可愛い弟の愛する妻を無下にはできない。行くあてもない女性を宮殿から叩き出すなどもってのほかだ。
「彼女にはお付きの者たちと一旦よその街へ移ってもらおうと思うの。そこでマルゴー人としての経歴を作り、一年後にどこかの貴族に拾わせるわ。チャドもこの案に乗り気でいるから十日もあれば準備は整うでしょう」
「な、なるほど。では私は、その護送に立ち会えばいいわけで?」
どことなく自信なさげなマーロンの念押しにティルダはにこりと微笑んだ。「あなたも賢くなってきたわね」と褒めてやれば男は頬を薄赤く染める。
「私としても悲しいのよ? 祖国に危機を招くと承知で守ろうとした姫君が、賊に襲われて死んでしまうなんて」
ここまで言えばこの鈍い男でも求められている役回りを確信できるだろう。今回誰がその賊に扮するのか。
アクアレイアと、何より己の身内であるチャドを刺激しないために、宮殿内でルディアを始末することはできなかった。あくまでも防げなかった不運な死に見せかける必要がある。こちらとしても最善は尽くしたのだと穏便に遺体に帰国してもらうために。
(今マルゴーはとても大切な時期だもの。ジーアンとの休戦協定はどんな犠牲を払ってでも維持しなくてはならないわ)
既に周辺国に知られた岩塩窟はともかくとして、銀山を隠し持っているのに勘付かれてはおしまいだ。天帝は間違いなくアルタルーペを攻略しようとするだろう。仮にかの地を奪われれば、公国の悲願、パトリア古王国からの独立は彼方へと遠のいてしまう。
(ごめんなさい。恨むなら死にきれなかった自分の身代わりを恨んでね)
胸中でティルダは可憐な義妹に詫びた。代役がアクアレイアの姫として立派に死んでさえいれば、このままルディアの面倒を見てやろうと考えていたのは本当だ。運命がそれを許してくれず、残念で仕方ない。
「マーロン、わかってくれてはいるでしょうけれど、こんなことを頼めるのはあなただけよ。きっと上手くやってちょうだい」
「は、はい。もちろんです」
外からは見えない胸壁の陰で直属騎士の手を取った。あなただけとの言葉に舞い上がったのか、マーロンはぎゅっと掌に力をこめてくる。
もっと何かとねだるような視線は無視して半歩退いた。さりげなく腕を離し、夢とうつつの区別もつかない男と一歩距離を置く。
「こういうことは確実に行わなくてはいけないわ。あなたを信じているけれど、手慣れた人間を側につけるのを嫌がらないでくれるかしら?」
「……!」
プライドを傷つけられ、従順な犬はたちまち表情を険しくした。それを見てティルダはすぐさま取り繕う。
「マーロン、聞いて。本来あなたはこんな汚れ仕事に関わってはならない人間でしょう? 私にはそれがとても心苦しいの。あなたが手出しせずに済むならほっとするくらいよ。あなたに備わった実力はほかの誰より私が一番わかっているわ」
鳶色の双眸をじっと見つめ、「本当よ」と必死に聞かせる。マーロンは悔しげに「ですがあなたはそうやって、いつもいつもあいつに手柄を立てさせるではありませんか」と吐き捨てた。
「……ああ、マーロン、ごめんなさいね。あなたがそんなにも思い詰めていたなんて。何もかもあなたのために取り計らったのに余計なお世話だったのね? 私あなたに嫌われてしまった?」
適当な言葉を紡ぎ、話を別の方向に捻じ曲げる。ティルダが本気で悲しんでいると勘違いしてマーロンは酷くうろたえた。
「そ、そんなことは有りません! 馬鹿なことを言って、私のほうこそ申し訳ありませんでした。私は一切のご命令をあなたの望むままにいたします!」
恭しく男は足元に跪く。手の甲に口づけを受け、ティルダは「ありがとう」と微笑した。
「懸念事項が取り払われた暁には、私の部屋で一緒に絵画でも楽しみましょう。新しく手に入れたものの中にコナーの描いた風景画もあるのよ」
「えっ!? ティルダ様のお部屋に……!?」
あまりに簡単に食いついてくるので愉快な反面不安になる。もう少し切れるタイプならもっと重宝するのだが。まあきっと、この程度の男だから手の上で転がせているのだろう。噛みつかれるよりよっぽどましだ。
気づかれないように嘆息し、ティルダはサールの白い街並みと城塞の背負う青い山並みを見つめた。鋭く波打つアルタルーペの高峰は西に東にどこまでも雄々しい腕を広げている。
(手元にもっといい犬がいればね)
大それたことは望まずに、余計な口も叩かない、賢く強く忠実な。マルゴーの役に立ってくれるならよそ者だってロマだって構いはしないものを。
だがあるものだけで凌がねばならないのはどこの国とて同じ話だ。可哀想な隣国と同じ轍を踏まぬよう、己も心を鬼にして茨の道を歩んでいこう。
――運べ、運べ、サールは白い金の街。
――運べ、運べ、サールは塩の集う街。
平和な川面の風景をもう一度目に焼きつけてティルダは塔の頂上を去った。
******
激流うねり深く切れ落ちた峻厳な渓谷。その灰色の断崖に架けられた石橋を見上げ、カロは薄く瞼を伏せた。
子供の頃ここを通ったとき、橋はまだ建設中だった。峠を越えるには歩いて川を渡るしかなく、冷たい水に凍えたのを思い出す。旅の商人から年寄り馬を買ったことも、その馬を売り損なって危うく捕まりかけたことも、まるで昨日の出来事のようだ。
カロは真新しい橋のたもとに目をやった。こういう便利なものの側には大抵どこかの兵がいて、通行料をせしめようとしてくる。ご多分に漏れずそこには偉そうなパトリア兵がいた。
いくら安全でも歩くだけで金を取られるなど馬鹿らしいことこのうえない。しかもこちらはたいした荷物も背負っていないのに。天高い橋には向かわず、膝まくりしてカロは急流に足を浸した。
春の初め、雪解けで増した水嵩、あの日と何も変わらない。違うのはたった一人でここにいるということだけだ。
まだ身体のできていなかった自分はなかなか前に進めなかった。疲れ果て、最後はイーグレットが引き上げてくれて。
太腿までぐっしょり濡らした記憶があるのに今は飛沫もせいぜい膝までしか跳ねない。難なく川の中ほどまでやって来て、己の成長を実感する。
皮肉なものだ。無力だった子供時代よりできることは増えたのに、子供の頃よりもっと強烈に救いの手を望んでいる。いなくなってしまった彼の手を。
(また一人に戻っただけだろう? それにあいつとは離れていた時間のほうが長かったじゃないか)
轟々と鳴る水音は独白を掻き消した。村人に捕まったって今度は自分で切り抜けられる。そもそも手品の種を見抜かれるようなへまなどしない。強がれば強がるほど過去の幻影が鮮明に胸に迫ってくる。
なぜこの峠を越えようと思ったのだろう。今また昔と同じ道を辿ろうとしているのだろう。イェンスのもとへ行き、イーグレットの死を伝え、ルディアを探す手伝いをしてほしいと頼むのに別のルートはいくらだってあったのに。
(期待しているのか? どこかにあいつの一部でも残っていやしないかと)
愚かしい考えだ。人間は死んでしまえばそれでおしまいだ。ロマも、そしてアクアレイア人も。
(イーグレット……)
痛いほど冷たい水に浸って立ち尽くす。
無意識に口ずさんでいたのは望郷の歌だった。うんと昔、ジェレムが歌うのを盗み聞きした。
定住地を持たないロマにとって、この歌は墓の代わりなのだという。天空に放たれたロマの魂は、同胞の歌声が響く間だけ地上に戻ってくるのだと。
そう話したら少年時代のイーグレットは「アクアレイア人やパトリア人の魂は地底深くにあるという冥府へ向かうそうだよ」と教えてくれた。「けれど私はこんななりだし、月の女神に拾われて夜の国にでも行くのだろうね」と。
歌っても届いていないかもしれない。届いていても最後までは歌えないからなんの慰めにもならないだろう。けれどほかにできることもない。
イェンスに会えば一緒に悲しんでくれるだろうか。そうしたら胸を焼くこの激しい怒りも少しは和らぐのだろうか。
何度考えてもカロにはイーグレットが死ぬべきだったと思えなかった。王国のために彼を殺めたルディアが許せなかった。
血溜まりに伏した友人を見たとき、自分の半分も一緒に死んだのだと思う。残された虚ろな闇に燃える炎があの女を焼き殺せと言っていた。痛みを鎮める方法があるとすればそれだけだと。
途中までしか知らない歌をやめ、カロはポケットに手を入れた。モリスの家でくすねてきた瓶の感触を確かめる。
入っているのは海水に漂う脳蟲のサンプルだった。これさえあればルディアに復讐を果たした後もブルーノを生かしておける。
(次に会ったら必ず殺す)
父親よりも名誉なんかを選んだ女だ。あれを仲間と信じた己が馬鹿だった。最初から一人でイーグレットを宮殿から連れだしていれば、きっと今でも彼は隣で笑っていたのに。
(結局俺は最後まであいつに何も返せなかった)
悔恨に唇を噛む。すまないと詫びるべき相手はもういない。
「――」
と、そのとき、何者かの視線を感じてカロはハッと顔を上げた。誰だろうと訝りながらきょろきょろ周囲を確認する。だがほかに渡河する旅人の姿はない。橋の上に鎧の兵士がいるだけだ。
「……?」
気のせいか、とまた前方に目を戻す。そしてすぐ眼前にいるはずのない男を見つけて息を飲んだ。
「……っ」
イーグレット。
わななく声が喉をつく。
岸辺の大きな岩の上から身を乗り出すのは在りし日の友人に違いなかった。「凄まないでくれるかな」とためらいがちに助力してくれた、あのときと同じ格好で、若かりしイーグレットが手を差し伸べてくれている。
あまりはっきりした幻影にカロがうろたえ固まっていると、暗い色のフードを被った少年はスッと後ろに引っ込んだ。たちまち姿が見えなくなり、カロは焦って張り出した巨岩をよじ登る。
「イーグレット!」
名を呼べば友人は道の先で振り返った。こちらを見つめて笑っている。薄い唇が音もなく「行こう」と囁きかけてくる。
後を追うのに理由が必要だっただろうか。
白昼夢でも見ているのか、頭がおかしくなったのか、あるいは本物の魂なのか。
答えを探ることもできぬままカロは峠道を駆けていった。




