第1章 その5
吹く風に流されるまま沖をさすらうこと数日、コリフォ島を脱した船は椰子の茂るトリナクリアの静かな岬に引っかかった。
思ったよりいい場所に着いたなとレイモンドは幸運に感謝する。旅券もないし、下手に港入りして役人に見咎められたらどうしようと危ぶんでいたのだ。この人工物が何もない砂浜でならひとまず尋問の心配はあるまい。
船を降り、レイモンドは改めて周囲の光景を見渡した。どこまでも続く白いビーチ、青く美しい空と海。振り返れば森の彼方には黒々とごつい岩肌を見せつける大火山がそびえていて、頂から細い煙を吐き出している。海岸沿いには太い街道が通っていた。だが付近に人家は見当たらず、集落と集落の間であるのが推測できる。アクアレイアならまだ凍える日もある三月なのに、浜辺には南国らしい陽気が満ちており、潮風ももう暖かかった。
(うーん、東の岸のどっかってくらいしかわかんねーなあ)
まあいいか、とレイモンドは現在地の特定を断念する。トリナクリアはごく単純な逆三角形の島である。適当に歩いていても迷うことはないだろう。
「これからどこへ向かうんだ?」
問われて後ろを振り向くとルディアも浜辺に立っていた。血の落ちなかったマントは捨て、拾えなかったレイピアも鞘が揺れるだけになっている。動揺を押し隠しつつレイモンドはひとまずの目的地を答えた。
「北西にあるリマニって港町。引っ越してなきゃそこに知り合いが住んでると思うんだ」
そうかと頷くルディアは至って冷静だ。しかし「お前の人脈は本当にどこにでも伸びているな」との呟きにいつもの彼女の覇気はなかった。
「二年前にイオナーヴァ島で仲良くなったおっさんでさ。ええと、グレッグが詐欺に引っかかって大変だったとき、商業区仕切ってるヤクザみてーな爺さんが出てきたろ? 俺、前にあの人が暴漢に襲われてるのを助けたことがあって。んでそんとき『お礼がしたいから是非うちで食事でも』って誘われて」
「ああ、なるほど。そこで別の招待客とも懇意になったわけか」
「うん。オリヤンってちょっと変わった名前してるんだ。なんでかわかんねーけど俺のことめちゃくちゃ気にかけてくれてっし、力貸してくれると思う」
オリヤンは背が高く、両瞼に道化師の化粧に似たふざけた傷痕があったから会えばすぐにわかるだろう。問題は彼の暮らす街までどうやって辿り着くかである。陸路での旅支度はほとんどしてきていないのだ。
「リマニで態勢を整えたら次はどうにかサール宮へ行く方法を考えねばな」
ルディアはいずれアルフレッドたちマルゴー組と合流するつもりであるのを告げた。
先を見据えた発言にレイモンドは秘かにほっとする。ここまで一度も自棄を起こしていないのもそれはそれで気がかりだったが。
「父ちゃん、見てよ! 難破船だよー!」
と、出し抜けに子供のパトリア語が響いた。振り返ればすぐ側の街道に馬車を引いた親子連れが立っている。父も娘もずんぐりして、骨ばった四角い顔と太い眉毛がそっくりだ。娘は十二、三くらいだろうか。女にしては逞しい腕を包帯で吊っている。勝気そうな少女と違い、父親のほうはこちらの背負う槍に気づいてヒッと後ずさりした。
「あ、すんませーん。ちょっとお尋ねしたいんすけど、ここってトリナクリアのどの辺りなんすかねー?」
ちょうどいいやと声をかける。とにかくこれで現在地くらいはハッキリするはずだ。
「お、おたくらは遭難者か? ……その髪色、ひょっとして国から逃げてきたアクアレイア人とかか?」
じろじろとルディアの青髪に目をやりながら男が問うた。当たり前のように「あんたは逃げる手助けをした異国人だな」と断定され、レイモンドはハハと苦笑いする。
こういうとき自分は出身地を当ててもらえたためしがない。アクアレイア人の集団にいても部外者だと誤解される。慣れたと言えばもう慣れたが、やはり少々切ないものだ。
(けど今はアクアレイア人だって思われないほうがいいよなあ。あからさまに身一つで飛び出してきましたって感じだし、気をつけねーと足元見られるぞ)
警戒心はおくびにも出さず「うん、俺たちリマニまで行きたくて。ここってまだかなり南東だよな?」と話を戻す。男はすぐに逃げられる距離を保ちつつ一番近い街の名前を教えてくれた。
「うーん、やっぱりか。こりゃ着くまで苦労しそうだぜ」
「そんなに遠いのか?」
「ああ、聞いた話じゃ東の端から西の端まで回るのに徒歩だと半月かかるって。内陸を突っ切るにしろ山道だしなあ」
レイモンドはふうと息を吐く。気候はともかく心配なのは金と食料だった。パンはまだ船にいくらか残っているが何日ももつ量ではない。いざとなったら物乞いのフリをして日々の糧を得ねばならないかもしれない。どうしたものかと悩むレイモンドに意外なお呼びがかかったのはそのときだった。
「へえー、奇遇だね! あたしらもリマニへ向かってるところなんだよ。ねえ、良かったらあんたたち一緒に来ない? 怪我しちゃってから人形芝居が上手くできなくて困ってたんだ」
折れているらしい腕を指差してにっこりと娘が誘う。隣の父親は「ば、馬鹿! 何言ってんだ!」と叫んでいたが、少女は気骨のある口ぶりで「いいじゃない。若くて体力ありそうだし、アクアレイア人は契約さえきちんと交わせば律儀に守り通すって聞くよ?」と一蹴した。
「け、けどよマヤ、こんな素性も知れねえ人間を」
「ああやだやだ、これだから肝っ玉の小さい男は! じゃあ父ちゃん、あんたあたしの怪我が治るまで一人で一座を切り盛りしていくつもりなの!?」
「いや、それは……」
マヤとかいう娘の弁に圧倒され、男はもごもご口ごもる。「リマニなら向こうに着く頃ちょうどあたしも全快するじゃない! そこまで無収入でどうやって暮らしていくわけ!?」との説得には反論もできない有り様だった。
急展開にレイモンドはルディアと顔を見合わせる。するとマヤはぺらぺらと親子の事情を話し始めた。
「あたしら家族で見せ物しながら島を回って暮らしてるんだ。でも色々あって二人きりになっちまってさ。手伝ってくれるなら特別価格で仲間にしてあげるよ! どうせ旅券持ってないんだろ? 街に入れなきゃ困るんじゃない?」
「か、金取るのかよ!」
こっちは着の身着のままなんだぞと頬が引きつる。だがそれを差し引いても美味い話には違いなかった。遠い港町までは顔見知りの一人もいないのだから。
「ど、どうする?」
ルディアに問うと「いいんじゃないか」と返ってくる。彼女のほうは平然としたものだ。
「こちらには選択の余地もない。とりあえず先払いできる分として船の積荷を渡してやったらどうだ? それが目当てで近づいてきたのだろうしな」
下心を言い当てられて娘はへへっと舌を出した。無作法に気分を害した風もなくルディアは親子に右手を差し出す。
「しばらく世話になる。私はブルーノ、こっちはレイモンドだ。よろしく頼む」
「お、おうよ。俺はタイラー、この生意気娘はマヤってんだ」
握手を交わす彼女の横でレイモンドも「よろしく」と頭を下げた。ちらりとルディアの横顔を盗み見てみるが、やはり取り乱した様子はない。
(大丈夫……、じゃねーよなあ)
あんなことがあったあとに大丈夫なわけがなかった。平静に振る舞うために彼女がどれほど深い悲嘆に耐えているか考えるとつらくなる。泣いてくれたら、喚いてくれたら、巡り合わせが悪かったのはあんたのせいじゃないよと言ってやれるのに。
「わあ! 父ちゃん、葡萄酒があるよ! パンもカチカチで長持ちしそうだ!」
さっそく漁船を物色し始めたマヤのはしゃぎ声が響く。よりにもよって父と娘の二人旅に遭遇しなくてもなと嘆息した。
――もう二度と、俺はお前をあいつの娘とは認めない……!
血を吐くようなロマの叫びを思い出す。決別の言葉はまだ耳にこびりついていた。
カロはルディアを殺すと言った。会えばきっと戦いになる。できるなら刃は収めてほしいけれど。
(サールに着くまで俺がしっかり守らねーと……)
遠い島国で、幼馴染たちは誰一人いないのだ。今のルディアには自分しか。
背中の槍の重みを感じ、レイモンドは口元を引き締めた。
******
「――というわけでね。アウローラ姫はコナー先生と一緒なの」
思いもよらぬ顛末を耳にしてブルーノはぽかんと目を丸くした。先日使者に聞かされた悲報と内容が違いすぎて。小さな王女は山越えに身体がもたず死亡したのではなかったのか。
「えっ、えっ、ででで、でも、一度死んだのは確かなんだよね……?」
「うん。先生が看るまではピクリとも動かなかったよ」
「死後数時間は経過していたということか?」
「冷えきってたし、そうだと思う」
傭兵団は後発組もサール宮に到着し、ブルーノはアルフレッドとともにモモからの報告を受けていた。腹を痛めて生んだ子供が生きていてくれて嬉しいが、困惑は更に大きい。コナーがアウローラに処置したという謎の液体。どうしてもそれが引っかかって。
(脳蟲じゃないって言われても、死体が息を吹き返すなんてどう考えても脳蟲じゃないか)
額にじわりと汗が滲む。コナーは別物と明言していたそうだけれど、経過が酷似していてにわかには信じがたかった。娘まで自分と同じ生き物になったと知ったらルディアはどう思うだろうか。
「とにかく」
きっぱりと声を響かせたのはアルフレッドだ。趣味の良い調度品に囲まれた客室の片隅で、薬屋の長男らしく彼は言う。
「どういう理屈でアウローラ姫が再び生気を取り戻したのか、悩んだところで俺たちにはわからないんだ。憶測だけで悪く考えるのはやめておこう」
「う、うん」
現実的な助言に頷く。確かにこの件に関してはブルーノがいくら気を揉んだところで仕方なかった。知りたいことを知っているのはコナーだけなのだ。
「そうだね、モモもそう思う。でももう一つ憶測で悪いんだけど、どうしてもモヤモヤするから言っていい?」
と、モモが別の懸案事項を話し始める。アルタルーペの山中で、彼女は彼女なりに不自然だったアウローラの死について考えたようだった。
「赤ちゃんが寝てる間にうつ伏せになるなんてあの日が初めてだったんだよね。それに使者の態度も不遜すぎたし。大きな声じゃ言えないけど、モモはあいつが何かしたんじゃないかって疑ってる。少なくともあの一晩は、モモとルースとコーネリアさん以外にもアクアレイアの王女がいるって知ってる人間がいたんだもん」
懐疑的な少女の発言にブルーノは目を剥いた。そんなはずないと思わず首を横に振る。
「で、でもマーロンはティルダ様の出した使者だよ? お義姉さんは率先して僕らを受け入れてくれたんだ。裏でそんな命令してるなんてとても……」
「公女の直属騎士って言っても大臣たちと繋がってないとは限らないでしょ。ブルーノもさ、身辺には注意してよね」
逆に指摘し返されて息を飲んだ。確かにそうだ。受け入れに反対した重臣の中になら刺客を送り込んだ者がいてもおかしくはない。宮殿入りする前に事が起きたのも、公爵家の目がある宮中では何もできないと先手を打ったゆえかもしれなかった。
「チャド王子には悪いが、アウローラ姫のことは黙っておいたほうがいいな」
「うん。変な人に漏れて、うっかり狙われる羽目になると困るしね」
ハートフィールド兄妹が頷き合う。ルディアやアウローラのためとはいえ、チャドにさえ話せないのかと気が滅入った。危険を承知で連れて逃げてくれた男なのに。
そのとき不意にコンコンとノックの音が響いた。公爵に呼ばれて席を外していたチャドが寝所に戻ってきたらしい。
「コーネリア・ファーマーの対応が決まったよ。帰国の準備が整うまでルースに預かってもらうことにした。本人の希望でもあるし、別に構わないね?」
決めてきたのは乳母をどうするかだったようだ。アウローラがいなくなり、彼女に任せる仕事はなくなってしまった。「ルディア姫」の侍女などさせるのは危ないし、このまま部外者になってもらうのが良かろうと頷く。
「うっわ、手が早い。あの二人もう同じねぐらに帰る仲になってるの?」
「モモ! 下品だぞ!」
真面目な兄に諌められ、モモはえへへと頬を掻く。いつもならそんな防衛隊のやりとりを微笑ましげに眺めているのに今日のチャドはほとんど反応を見せなかった。穏やかな糸目も濃い隈で縁取られていて元気がない。
「あの、お疲れなのでは」
案じて問うとチャドは「大丈夫だ」と笑う。
「しかしできれば今夜は早く休みたいかな。すまないが諸君、積もる話はまた明日にでもしておくれ」
憔悴しきった声に乞われ、アルフレッドとモモの両名は「ハッ!」と敬礼のポーズを取った。二人はただちに衛兵の控室である続きの間に退出する。扉が閉まると寝所には静寂が訪れた。
「…………」
チャドは重たい息を吐き、無言で上着を椅子に投げる。本当に疲れているのだろう。テーブルの蝋燭を吹き消すと早々にベッドに潜ってしまった。
ブルーノも一番上に羽織ったショールだけ脱いで身軽になる。揺らさぬように遠慮しながら夫の隣に身を横たえた。
弓使いの逞しい腕が伸びてきたのはすぐのことだ。捕らわれた胸の中で瞼を伏せて唇を噛む。
ここ数日、チャドは眠るときいつもブルーノを抱きしめた。我が子を喪った悲しみを少しでも癒そうとするように。
慰めの言葉は浮かばずに、いつもされるに任せていた。今夜は特にどうするべきかわからない。アウローラは生きていると、少なくとも身体だけは無事だと彼は知らされるべきなのに。
「……震えているね」
囁かれ、「怖いのかい?」と尋ねられた。首を振って否定してもチャドは納得してくれない。ブルーノが怯えていると勘違いしたまま喋り続ける。
「あなたは私が命をかけて守り抜くよ」
迷いなく告げられた言葉が胸に痛かった。本来の肉体に戻ったら二度と聞けなくなる台詞だろう。チャドは分別ある男だからただの平民にも分け隔てなく接してくれるとは思うけれど。
(ああ、胸が苦しいなあ)
罪悪感は日ごとに膨らむ一方だった。これほど頼りにしておきながら秘密を増やして裏切っている。
せめて何か明かせればいいのに。ほんの少しでも愛情深い献身に報いることができたなら。
(サール宮は安全じゃないかもしれないんだ。モモちゃんの言う通り、本当に何が起きるかわからない。万が一に備えるなら対応の仕方くらい共有したって……)
ごくりと唾を飲み込んだ。「誰にも聞かずに出過ぎた真似を」と冷静な自分が責める。でももう口が止まらなかった。どうしても彼に言いたかった。
「もし私が死に至るようなことがあれば――」
「縁起でもない話はやめてくれ!」
突然のもしも話にチャドが声を荒らげる。考えたくない未来を嫌い、続きを言わせまいとする彼にブルーノはもっと大きく怒鳴り返した。
「大切な話なんです! お願いですから聞いてください! もし私が死に至るようなことがあれば、そのときは死体の耳から出てきた蟲をすぐ塩水に浸して保管してほしいんです。そして防衛隊の誰かに渡してほしいんです……!」
鬼気迫る、そのうえまったくわけのわからない頼みにチャドは面食らった。きょとんとした表情で「どういうことだい?」と尋ねられるが口にできるのはここまでだ。ブルーノは聞かないでくれと首を振る。
「ごめんなさい。意味を話したらあなたの側にいられなくなってしまう」
そう詫びた途端ぽろりと涙が零れ落ちた。自分でも何を泣く必要があるのだと思うのに涙は後から後から溢れてくる。滅多に開かぬ糸目を瞠り、貴公子はおろおろと妻の濡れた頬を拭った。
「な、なんの頼みか少しもわからないが、あなたが泣くほどのことなのだね? わかったよ。今の話はしっかり頭に刻みつけておこう」
お人好しの王子はそれきりもう本当に一切の疑問を封じ、愛する女を信じて強く抱きしめた。
温かな腕に包まれていると哀切と後悔で胸が潰れそうになる。
夫婦の真似事などするものではない。何をどう積み重ねても添い遂げられやしないのに。いつか失い、失わせるものなのに。
******
知人でも客人でもない軍人に突然自宅を追われるという酷い目に遭ってから三週間余りが過ぎた。「ここでひと騒動起こしますので、半月ほど姿を眩ませてもらえます?」とにこやかに笑った青年もさすがにそろそろいなくなっているだろう。
いや、いなくなっていなければ困る。今日までは縁のあるロマのもとに身を置いていたけれど、ギリギリの生活を送る彼らにこれ以上負担はかけられない。ただでさえ自分は野外での暮らしに慣れず、彼らのペースを乱すばかりだったのだから。
「ふう、ふう……」
ガラス工房の主人、モリス・グリーンウッドはおっかなびっくりゴンドラを漕ぎ、霧の煙るアクアレイアに帰還した。
棚の商品は無事だろうか、炉は破壊されていないだろうかと気が気でない。一体あの青年は何者だったのだろう。立派な甲冑を着ていたし、海軍関係者であるのは間違いなさそうだが。
(可愛い顔に似合わず物騒じゃったのう)
思い出すだにぞっとする。危険を報せに来たくせに、こちらの安否には心底興味なさそうだった。
実際彼の関心はモリスに向いていなかった。「あなたが脳蟲の研究に無関係な一般市民ならサクッと殺しても良かったんですけどねー」などとのたまわれたくらいなのだ。運が悪ければ本当に殺されていたかもしれない。
(誰なのかわからんままじゃが、できれば二度と会いたくないのう)
怖い怖いと震えつつモリスはこそこそ大運河に入る。ここまで来れば家までは何事もなく帰れそうだった。
普通の都市は出入りするのに住民証明や旅券が必要だが、海に囲まれて城壁の存在しないアクアレイアでは番兵の目も盗みたい放題である。しかも支配者は海に不慣れな騎馬民族に代わったばかり。街に戻るのは簡単だった。
(それにしてもジーアン兵だらけじゃな。舟の上まで馬の臭いがしてくるわい)
岸辺のあちこちをうろついている騎馬兵を眺めてモリスは肩を落とす。遊び半分で舟漕ぎに興じる異国の男たちを見ていると、ああこの国は本当に「王国」ではなくなったのだなと切に感じた。
(ううむ、皆どうやって暮らしておるのか……)
メインストリートである大運河の沿岸に略奪や破壊の形跡はなく、ひとまず胸を撫で下ろす。人々は平常通りにゴンドラで行き来しており、支配層による乱暴狼藉は行われていない様子だった。むしろジーアン兵はジーアン兵のみで固まり、アクアレイア人と関わるのを極力避けているように見える。
(ふうむ? もっと偉そうにふんぞり返られるかと思っていたがのう?)
意外に感じつつ大運河を下っていくと更に意外なことが起きていた。なんと税関岬に船が戻ってきていたのだ。荷揚げしているのは二十隻前後で賑わっているとまでは言いがたかったが、久しくまともに機能していなかった港に水夫の声が響いているだけで景色はきらきら輝いて映った。
「お、おお!」
モリスは思わず歓声を上げる。もしかしたらジーアン帝国に吸収されたことで却って商船はドナやヴラシィに寄港しやすくなったのかもしれない。交易の目途が立ったとあれば即動くのが商人だ。重い関税をかけられることになったから儲けはガクンと落ち込むだろうが、それでも船がまた航行を始めた事実に心は躍り、勇気が湧いた。
(おお、荷運び人が精を出して働いとるわい。わしもまだまだ頑張らねば!)
右斜め後方に過ぎていく商港を見送りながら櫂を握る手に力をこめる。そのとき対岸の国民広場から「モリスさん!」と呼ぶ声がした。
「モリスさん、良かった。無事だったのね!」
「おや!? アイリーン、アイリーンではないか!」
大運河に身を乗り出して手を振るのは連絡の途絶えていた若い友人だった。無事の再会を喜ぼうといそいそ岸に小舟を着け、モリスはぎょっと目を瞠る。彼女の隣に立つ異母弟が、あの海軍の若者以上に恐ろしい眼光をぎらつかせていたからだ。
「ルディアとレイモンドを見なかったか?」
何があったか問う前にカロはモリスにそう尋ねた。聞けば床屋にも食堂にもガラス工房にも姿がなく、街中探しているという。
「お前さんたち工房島へ行ってきたのかね? い、家には誰もおらなんだか?」
「いなかったから聞いているんだ」
半分安堵し、モリスは苛立つカロに詫びた。
「すまん。わしもしばらく留守にしとってのう。つい今戻ったばかりなんじゃ」
こちらが何も知らないと知るや、異母弟はさっと踵を返す。その背中は息が詰まりそうなほど激しく殺気立っていた。
「これだけ探していないとなると、街には帰っていないのかもしれないな」
「ね、ねえ。もう追いかけるのはやめましょうよ。もっと冷静になったほうがいいわ。こんなの、こんなの私……」
「お前の弟に何かする気はないと言っているだろう。用があるのは中身だけだ」
底冷えした声が響く。不穏な空気に耐えかねてモリスは「なんじゃ、本当にどうしたんじゃ?」と問いかけた。だがロマの返答はにべもない。
「そいつに聞け」
「あっ! ま、待ってカロ! どこへ行くの!?」
引き留めようとしたアイリーンを突き飛ばし、あっという間にカロは雑踏に消え去った。異様な雰囲気にモリスが何も言えずにいるまま。
「……ど、どうしたんじゃね? お前さんたち?」
仕方なく残された彼女に事情を問えば、アイリーンは声もなく泣き崩れる。小さなことでも大きなことでもしょっちゅう泣いている女ではあるが、こんな痛ましい表情を見るのは初めてだった。
まったくわけがわからない。カロはコリフォ島へ行っていたはずだけれど、一体何があったのだろう?
******
島を去る者があれば新たに訪れる者もある。時同じく、コリフォ島では基地をぶんどったローガンがジーアンの青年将軍ラオタオを迎えていた。
「いやあ、お元気そうで何よりです! またお会いできて光栄です!」
ニコニコと手を揉みながらローガンは歓迎の意を述べる。すると狐顔の将は斜めに腰かけた長椅子の上でどんより重い息を吐いた。
「あんた生き生きしてるねえ。こっちはこれから二度目の虎の巣だってのに」
若い盛りの男のくせにラオタオは悪い風邪でも引いたみたいに生気がない。肘かけに身を預け、「あー怖い。今度こそ死んじまうかも……。ほんとバオゾに戻るのやだー」と震えている。
ヘウンバオスにひと足遅れて彼も帝都に帰るらしい。同じ船に乗らなかったのはまだ雷の落ちる可能性が残っていたせいだろう。どうにか刃を引っ込めてもらえたから良かったものの、ラオタオはもう少しで裏切り者との誤認を受け、切って捨てられるところだったのだ。
「まあまあ、あのときは天帝陛下も我を失くしておいでだっただけでしょう。今度はきっと大丈夫ですよ」
怯える将軍を朗らかになだめてやる。アレイア海東岸を統括するラオタオはローガンにとってヘウンバオスの次に媚びておくべき重要人物だった。何しろ彼の裁量一つでアクアレイアの生死が決まるのだ。海にも交易にも疎いこの男が支配地の経済を再生させる道に進むとは思えないが、なるべくカーリス商人のほうを引き立ててもらうためにできるだけゴマを擦っておかねばならない。
「どうしても不安が消えないのでしたら柔肌に埋もれて悩みを遠ざけられてはいかがです? 実はあなた様に差し上げようと考えていた青いコマドリがいるのですよ」
こそりとローガンはラオタオに耳打ちした。指を鳴らし、通路の部下に合図して例の娘を司令官室に連れてこさせる。後ろ手に縛られたドレスの女を一瞥して狐は青い顔を上げた。
「アクアレイアのルディア王女でございます。残念ながらイーグレットは死体しか見つかりませんでしたが、美貌の姫はほらこの通り!」
自信たっぷりに猿ぐつわを外させる。隙あらば噛みついて体当たりしようとする反抗的な献上品を無理矢理跪かせると、ローガンはどうだと若将の反応を窺った。
「へえー、ルディア王女ねえ」
が、狐の関心はさして得られなかったようである。当てが外れてあれっと目を丸くする。女好き、それも人妻や他人の婚約者ばかり好む下衆ならばすぐに飛びつくと思ったのに。
「お、おや? お気に召しませんでしたかな?」
「いや、俺も今さ、女って気分じゃないんだわ。色々ショックなこと続いててさあ」
「は……はあ……?」
「まあくれるっつーもんは貰っとくけど、丁重に船にお迎えするだけだぜ?」
深々と溜め息をついて立ち上がり、ラオタオは王女に手を差し伸べた。意外な礼儀正しさにローガンはえっ、えっ、と狼狽する。将軍に対して点数を稼ぎつつアクアレイア王家を貶める一石二鳥の作戦のはずだったのに、そんな態度をされてはまったく無意味ではないか。
「ん、何その顔? まさか『ルディア姫がジーアンの男に汚された!』なんて噂ばら撒く予定だったとか言わないよな?」
「ンハッ! ははは、いやー、はっはっは」
「今アクアレイアは取り扱い要注意案件だから妙な工作しないほうが身のためだぜ。こっちもあんまりあんたの好き勝手させるつもりじゃないしさ」
「は、ははっ……、いやいや、はははは」
明らかに何かに釘を刺しにこられているが、笑って誤魔化すに徹する。
くそ、想定よりも冷静だ。簡単には操作されてくれそうにない。
「そんじゃゆりぴー、こちらのお姫様を一番上等な船室に案内しといて」
そこだけ流暢なアレイア語でラオタオは控えさせていた金髪の騎士に命じた。ジーアン語でのやりとりは詳しく把握されていないと思うが、ローガンが駒の置き方を間違えたことはこの男にも雰囲気で嗅ぎ取られているだろう。王国人の見ている前で失態を演じてしまうとは忌々しい。
「かしこまりました」
父親の目を潰されたくせに、リリエンソール家の長男は眉一つ動かさないで命令を拝受した。取り澄ました横顔にローガンは陰で舌打ちする。
アクアレイアからコリフォ島へ来るのにラオタオはカーリス共和都市の船を使わず、王国海軍にガレー船団を編成させて自らの足としていた。真意は測りかねるものの、先程の会話を踏まえるとローガンに対する牽制である可能性は否めない。「好き勝手させるつもりじゃない」という言葉もおそらく「海上勢力をカーリス一強にしておく気はない」という意味だろう。
(ちっ、物知らずはこちらを油断させるための演技だったか。ようやくこの海からアクアレイア船を一掃できると思ったのに)
将の送迎にかこつけてあの国の商人どもが交易しまくるのは明らかだった。過去の栄華と比べれば痛々しい没落ぶりだが首の皮一枚でも繋がっているのは事実である。このまま連中が息を吹き返すような事態になれば一大事だった。抑え込んでいるラザラス一派を――地元カーリスでの仇敵を活気づかせることになる。
(もっと深くだ。もっと深くジーアン幹部に取り入らなければ……!)
本物かどうかも知れない王女をエスコートしてユリシーズは司令官室を後にした。ラオタオも急ぐ旅だからと早々に引き上げてしまう。今までの貢献度を考えればもっと相手になってくれてもいいはずなのに。
(立ち回りを考え直そう。我々とていつジーアンの捨て駒にされるかわからんのだから)
ローガンは静かに己に言い聞かせた。生き残れるのは運と実力を兼ね備えた本物の商人だけだと。
(ラオタオへの袖の下攻勢は今後も続けていくとして、帝国内部にもっと篭絡の簡単そうな別の人間を探しておくべきかもしれないな)
どんな手を使っても、たとえ呪われ罵倒されようとも、小賢しく身内贔屓のアクアレイア人を東方交易の市場から追い出すのだ。そうすれば息子の代には労少なくして実り多き日々が訪れることだろう。
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こんな状況ではヒエエと言うのが精いっぱいだ。やっと暗い船倉から出してもらえたと思ったら、前後左右を屈強なジーアン兵に固められ、降りろ、進めと小突かれて、どうしようもなくバオゾの街を歩いている。
バジルは眩暈にくらくらしつつ砂塵吹く異国の夕暮れを仰ぎ見た。一体どうやって逃げればいいのだろう。アクアレイアまでどうやって帰れば。考えても考えても名案は浮かばない。
見覚えのあるドーム屋根の天帝宮は目と鼻の先に迫っていた。ぐずぐずしている間に二重城門をくぐらされ、緑豊かな奥庭の更に奥、見覚えのない内殿に通される。
「今日からここがお前の部屋だ」
肩を押されてぶち込まれたのはキャンバスの並ぶアトリエだった。どうやら先客がいるらしく、並べられた作品はすべて描きかけである。
書見台には大判の草稿が開きっ放しで置かれていた。『アクアレイア王国史』という仮タイトルが目に入り、バジルはここがコナーの住処であるのを知る。
(えっ、あれ? ということは先生もまだ天帝宮に……!?)
期待を込めて見渡すが薄暗い部屋に人の気配はしなかった。ジーアン兵たちも役目は果たしたとばかりに去っていき、己の境遇を誰に尋ねればいいのかもわからなくなってしまう。
「ひっ、ヒエエーン!」
あまりの心細さに泣けてきた。バジルはぐすぐす鼻を啜り、ともかくも壁の燭台に火を灯す。
どうして自分だけこんな遠くに閉じ込められているのだろう。モモは元気でいるのだろうか。一人で暴れていないだろうか。心配で心配で堪らない。
(うう、でも今はまず自分のことをなんとかしないと……)
年単位で皆と合流できないかもしれないとバジルは一人途方に暮れた。採光用の高い窓の向こうからは慰めのように小夜啼鳥の美しい歌声が響く。
(波の乙女アンディーンよ、どうかモモと僕と皆をお守りください……)
異境からの祈りは果たして届くのか。五芒星を切り終えるとバジルは寂しく室内の物色を始めた。
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愛すべき分身、愛すべき蟲たちの帝王がついに凱旋したという。その一報にアニークは大いに胸を躍らせた。
もう二ヶ月以上ヘウンバオスには会っていない。顔を拝めるだけで嬉しいが、今夜はきっとまたとない素晴らしい話を聞かせてもらえるだろう。そう思うと期待せずにはいられなかった。
侍女伝いに寝所で待てと命じられ、薔薇水をたっぷりかけて身支度を整える。天蓋付きのベッドに腰かけ、今か今かと伴侶を待った。
頬は熱くなる一方で、胸ははちきれんばかりだった。がちゃりとドアが開くまでは。
「……ヘウンバオス様?」
異変はただちに感じ取れた。いつも堂々たる振舞いで他者を圧倒する男が、今は力の片鱗もなく崩れそうに立ち尽くしている。
「どうなさったの? ヘウンバオス様?」
アニークは血相を変えて駆け寄った。支えるように身を抱くとヘウンバオスはがっくり項垂れ、弱々しく肩に顎を埋めてくる。こんな天帝は初めてだ。
「ど、どこか具合でも……」
「――詫びねばならない」
案じて尋ねたアニークにヘウンバオスは震えて告げる。「え?」と問い返せばもう一度同じ台詞が繰り返された。
「詫びねばならない。まだ半年も生きていないお前に一番……」
なんの話をされているのかまったく読めず、いたずらに戸惑う。身を離して見つめた双眸はどこまでも暗く、アニークを更にうろたえさせた。
「どうしてそんな泣きそうにしてらっしゃるの? アクアレイアからお戻りになられたのでしょう? 私たちの美しい故郷をその目に映してこられたのでは……」
なんとか普段の彼に戻ってほしくて問いかける。だが天帝の反応は虚ろで、聞きたくないと訴えるように強く抱きしめ直されただけだった。
「明日の朝一番に重臣を集めて話し合う。だから今夜は、……今夜だけは何も考えずにいさせてくれ……」
良くないことがあったのだ。アニークにわかったのはそれだけだった。別人にしか思えぬ彼が酷く恐ろしく感じられ、慰めなければと思うのに舌が上手く回らない。
ジーアン帝国の蟲たちに激震が走るのはこの翌日のことであった。




