第1章 その4
理解も打開もしがたい状況に直面すると人間は呼吸の仕方を忘れるらしい。小さく冷たい赤子の手首を掴んだまま、モモは呆然とコーネリアの悲痛な声を聞いていた。
乳母の話では昨夜のアウローラは非常に大人しく、熱があったとか咳が出ていたとか死を思わせる予兆はまったく見られなかったそうだ。身体のどこにも外傷はなく、口に含ませたものも普段通り母乳だけだったと。
「本当にわからないんです。どうして、どうしてこんなことに……」
長持の蓋は取り外されて部屋の片隅に置かれていた。ただの一度も箱には蓋をしなかったそうなので、簡易ベッドが原因の窒息ではないだろう。
せめてもう数時間早く気がついていれば。取り戻せない体温にモモはぐっと唇を噛んだ。
「先生、ルースさん、こっちだ! 早く!」
と、そのときドブの声がして階下がにわかに騒がしくなった。どうやら気のきく少年がコナーとルースを呼びに走ってくれたらしい。三人は即座に二階へ上がってきた。そしてモモと同じように、事切れた赤ん坊を目の前にして息を飲んだ。
「…………」
最初に膝をついたのはコナーだ。医学にも長けた天才画家は反応のない瞳孔と頸動脈を確かめて静かに首を横に振った。望みが断たれたことを悟り、端整なルースの顔が苦く歪む。
「……ドブ、悪いがもうひとっ走りしてくれるか? 下の集落に来てる使者のマーロンって奴をここに案内してきてほしい」
副団長の命令に少年は戸惑いつつも頷いた。駆け去る足音が遠く聞こえなくなると室内には重い沈黙が訪れる。
あまりにも唐突で、あまりにも受け入れがたい死であった。昨日まで順調に事が運んでいただけに。
「元気をお出し。乳飲み子にはたった一年生き延びるのも難しいものだ」
へたり込んだままの妹の肩に手をやってコナーが慰めを口にする。「そんな」とコーネリアは泣き崩れた。
少しの不注意や不運な事故、あるいは病で命を落とす子供は多い。めでたく七つの誕生日を迎えられるのは全体の半分だ。そんなことはモモだって知っている。だが知っていても納得はできなかった。
――だってルディアに頼まれたのだ。自分から進んで引き受けた護衛なのだ。それなのに。
「ねえ先生、なんとかならないの? 世の中にはお墓の中から甦った人もいるんでしょ?」
藁にもすがる思いで問う。ぐいぐい袖を引っ張るモモにコナーは「いやいや」とかぶりを振った。
「私からもお願いします、お兄様。後生ですからどうか知恵をお授けください」
反対側ではコーネリアがひれ伏した。赤子を救おうと必死な妹を画家は冷静にたしなめる。
「コーネリア、顔を上げなさい。お前に土下座されたところで打てる手はないよ」
「ですがお兄様!」
「愛する夫の忘れ形見に先立たれてつらいのはわかる。しかしね……」
「違うんです! 亡くなられたのはアクアレイア王家の、ルディア姫のご息女なのです! ファーマー家が、私が乳母を任されたのに……っ」
姪だと説明されていた乳児の正体にコナーはえっと瞠目した。「本当かい?」と振り返って尋ねられ、モモは神妙な面持ちで頷く。
こんなことになるのならさっさと話しておくべきだった。事情さえ把握していればコナーももっと注意深く見ていてくれたかもしれないのに。
「先生、本当にどうにもならない? アウローラ姫はもう駄目なの?」
泣きつくしかできない自分が情けなかった。ほかのことなら潔く諦めて気分を切り替えようと思えるが、己の背中できゃっきゃと喜んでいたアウローラ、それにルディアやチャド夫妻のことを考えると。
「……そうか。私がバオゾにいる間にご出産されていたのだね」
コナーはうーんと人差し指を唇に引っかけて考え込む。王女と聞いてもっとよく見るつもりになったのか、画家は再び長持の前に片膝をつき、高貴な骸を検める。
「おそらく寝返りを打ってうつ伏せになり、呼吸ができなくなったんだろう。死因は乳母の監督不足だよ、コーネリア」
厳しい言葉にコーネリアが顔色を失くす。そんな彼女を擁護したのはルースだった。
「けど先生、ここまで来るのに彼女は疲れきってたんだぜ? そんな責任全部押しつけるようなこと言わなくてもさ」
遺体に注がれたコナーの眼差しは副団長や妹を一顧だにしない。長い嘆息を吐き出して画家は大仰に呟いた。「つくづくこの王家とは他人になりきれないな」と。
「本来こういうことは私の主義に反しているのだがね、一度だけ手を貸そう。どうやら我がファーマー家の失態らしいし、アクアレイア史の完成前に王家に途絶えられても困る。幸いただの窒息死のようだから、私の秘薬が効くだろう」
そう言うや否やコナーは旅装の懐から小さなガラス瓶を取り出した。容器に満ちたその透明な液体に、モモは驚いて息を飲む。
「ま、待って!」
思わず画家の腕を制した。
「それってアクアレイア湾の海水じゃないの?」
危惧するモモにコナーは「おや」と意外そうに笑う。
「やめて、その方法じゃアウローラ姫が別人になっちゃう」
「君はあの蟲についてよく知っているようだね。でもこれは王国湾に棲む彼らとは似て非なる別物だ。精神を塗り替えるものでもないよ」
「えっ?」
戸惑う間に画家は瓶のコルクを外した。白い手袋の指先が得体の知れぬ赤い丸薬をぽとりと落とす。すると丸薬は泡を出し、たちまち溶けてなくなった。
(あ、あれ!? 脳蟲じゃないの?)
モモは面食らってコナーを見上げる。だが画家は、蟲とは別だと言いながらまるで蟲入りの海水を扱うように王女の耳にその薬液を流し込んだ。
「…………」
変化はしばらく現れなかった。五分過ぎたか、十分過ぎたか、あまりに何も起こらないので失敗したかと落胆するほど。
それでも辛抱強く待つ。もはや凡人にはそれ以外できなかった。
「お、お兄様……」
両目を涙でいっぱいにしてコーネリアがコナーを窺う。乳飲み子の胸に手を押し当てていた画家が事もなげに「動いたね」と告げたのはそのすぐ後だ。
「ええっ!?」
「動いたって心臓が!?」
傍らのモモを突き飛ばす勢いで乳母と副団長は長持の中を覗き込む。二人の隙間から固唾を飲んで見守っていると、徐々にアウローラの頬に赤みが差してくるのがわかった。
「す、すげえ。一体何がどうなってやがる!?」
「お兄様! お兄様! ありがとうございます!」
目を剥いてルースは驚き、コーネリアは何度もペコペコ頭を下げる。稀代の天才は称賛や感謝になど一片の興味も示すことなく背後のモモを振り返った。
「アウローラ姫とやらはサール宮で匿ってもらう予定だったのかね?」
「う、うん。王都やコリフォ島よりはいくらか安全だろうから」
「だがいくらマルゴー公爵の孫娘でも鼻つまみ者扱いされるのは避けられまい。私がこのまま王女を預かろう。薬の補充にも行きたいし、傭兵団からはここで離れさせてもらうよ」
突然の申し出にモモはえっと狼狽した。王女を預かると言われてもサールでチャドとブルーノが待っているのだが。
「公国内に偽名でいくつか家を持っている。安全性という意味でならそちらのほうが君たちにとっても上策なのでは?」
「…………」
コナーの発言には一理あった。確かにマルゴー公国の大多数の人間にとってアクアレイア王家は招かれざる客人でしかない。なら同郷人のコナーに任せてしまったほうがいい。
逡巡ののち、モモは「わかった」と頷いた。予定外の行動になってしまうが大切なのは手段ではなく目的だ。今はアウローラをより良い環境で守ることを考えなければ。命令に忠実なだけでは優れた兵士とは言えない。
「アウローラ姫に会いたいときはどこへ行けばいいの?」
「それは秘密にさせてもらおうかな。落ち着いたら私からアクアレイア政府に連絡するよ」
コナーはすうすうと寝息を立て始めた赤ん坊を抱き上げた。すぐにも去っていきそうな兄の背にコーネリアが慌てて飛びつく。
「あの、お兄様、私も乳母として一緒に」
「結構だ。お前の助けは必要ない。この先は防衛隊や傭兵団の邪魔にならないように努めなさい」
血の繋がった兄妹にしてはコナーの態度は冷淡だった。本人の中では淡白の範疇なのかもしれないが、拒絶されて立ち尽くすコーネリアを見ていると少々不憫を催してくる。
「モモ君、一つだけ頼まれてくれるかね?」
「えっ? あ、うん! 何?」
「本当は自分で渡すつもりだったんだが、これを」
コナーがモモに託してきたのは片方だけのパトリア石のピアスだった。「?」と首を傾げていると画家は「アニーク皇女からの預かり物なんだ」と説明してくれる。
「赤色の花を添えて君の兄上に差し上げてくれるかい? 世話になったお礼だそうだから、物は煮るなり焼くなり隊長殿のご自由にと」
「うん、わかった。アニーク皇女からだね。モモも先生にこれお願いしていい?」
ピアスを引き受ける代わりにモモはポケットから大きな指輪を取り出した。ウォード家の――母の実家の鷹紋が彫り込まれた由緒正しい家宝である。
「ちゃんとまた会えるように、会ったときアウローラ姫だってわかるように、なくさないでね」
「なるほど。肌身離さずお持ちいただこう」
コナーの腕に抱かれた王女に手を伸ばす。恐ろしいほどの冷たさは消え失せ、今は生き物らしい温もりが触れた指先から伝わった。規則正しく脈打つ鼓動、健やかな息遣いに胸を撫で下ろす。
モモはじっと目を凝らし、ルディアとよく似た海色の髪、海色の瞳を記憶に焼きつけた。もしコナーに何かあっても必ず自分が王女を迎えにいけるように。ルディアの命令を守れるように。
「では失礼!」
漆黒の外套に赤子を隠し、コナーは颯爽と階段を下りていく。
画家が民家を後にして間もなくのことだった。ドブが例の尊大な使者を連れ、慎ましい民家に戻ってきたのは。
「アウローラ姫が亡くなられたと聞いたのだが? ご遺体はどちらだね?」
無思慮にもほどがある問いにモモは思わず「は?」と男を睨みかけた。口を開くなり勝手に王女の名前を出されて腹が立ったのもあるけれど、それ以上にマーロンがにやつきながら尋ねてきたのが理解不能だったから。
(何こいつ。何がそんなに嬉しいの?)
「一応使者として姫の死亡を確認せねばならんからな。ほら、隠していないで早く見せろ」
いちいち癇に障る物言いで男は偉そうに要求する。急かされたコーネリアが「あ、あの、アウローラ様は」と先刻の治療について話そうとすると、横からルースが割って入った。
「姫君ならついさっき内密に埋葬しました。完全に冷たくなっちまってたし、夜のうちに息を引き取られたんだと思います。俺たちの力不足で……王子には本当に申し訳ありません」
副団長はしれっと嘘を報告する。宮殿に連れていけないなら死亡したと通すほうがいい。そう判断し、モモも詳細は伏せておくことにする。目配せし合うルースとモモにまったく気づかずマーロンは「ふふん」とほくそ笑んだ。
「残念だったな。しかしこれでティルダ様を悩ませる厄介事は一つ減ったわけだ。いやあ、良かった良かった」
不幸を喜ぶ人間性にまた血管が切れそうになった。怒りのあまり「こいつがアウローラ姫に何かしたんじゃないの!?」と疑う気持ちまで芽生え、モモはハッと息を飲む。
そうだ。考えてみればそういう可能性もゼロではないのだ。
「訃報は殿下たちにお伝えしておくよ。ま、急ぐ必要もなくなっただろうし、お前たちはゆっくりサールを目指すがいい。では次は宮殿でお会いしよう」
使者は形だけの挨拶をして悠然と踵を返した。去り際に嘲りをこめた冷笑を浮かべるのも忘れずに。
「……ほんっと鬱陶しい男だぜ……」
憎々しげにルースが唾を吐き捨てる。マーロンの馬が表から走り去るとモモはすぐコーネリアに問いかけた。
「コーネリアさん、昨夜この家に誰か来なかった? モモとドブ以外の誰か」
例えばさっきのあの男とか、と補足したくなるのを堪えて返答を待つ。乳母は死体じみた血の気のなさで「わかりません……」と身を震わせた。
「昨夜は完全に寝入ってしまって……。本当に申し訳ありませんでした。私のせいでアウローラ様を危険な目に……!」
心底気落ちした様子で詫びるコーネリアにモモは「ううん」と首を横に振る。怠慢だったのはむしろ己だ。野宿より安全だからと気を抜いてしまった。彼女だけが気に病むことではない。
(そうだよね。雨の音もすごかったし、足音がしたって気づかなかったよね。玄関にはモモがいて、階段にはドブがいて……。誰か入ってきたんだとしたら二階のこの窓からだろうけど、それはさすがにコーネリアさんが気配で起きただろうしなあ)
考えすぎかと嘆息する。それでも使者への不信感はぬぐいきれなかったが。
「あ、あのさ、あの赤ん坊ってマジでアクアレイアのお姫様だったの?」
と、真っ青なドブが尋ねてくる。「うん、実は……」と頷くと少年はますます青ざめた。
「そ、それってまずくねえ? 俺たちチャド王子にお手打ちにされるんじゃ」
「お前は知らなかったんだから気にすんなよ。今聞いたこともさっさと忘れな。多分あの画家先生のおかげでどうにかなったから」
ルースがぼかしつつドブに言い聞かせる。コナーの名前を耳にして、モモの頭に「蟲とは似て非なる別物だ」という先刻の言葉が甦った。
精神を塗り替えるものではない。そう言っていたがあれはどういう意味なのだろう。怪しげな丸薬のほかには脳蟲との相違も判別できなかった。
(もし生き返ったのがアウローラ姫の身体だけだったら……)
自分の想像にぞっとする。そのときは本当に、ルディアに詫びる言葉もない。
今更ながらモモは肝心なことを聞き逃したと後悔した。冷静でなかったとはいえ、明らかにしておかなければならなかったのだ。アウローラが以前と同じアウローラであり続けるのか否か。
(コーネリアさんは先生の秘薬のこと知ってそうな感じしないしなあ)
挽回の機会さえ失って、落胆した乳母は固く唇を結んだままでいる。よもや一人でアクアレイアに帰すわけにもいかないし、仕事はなくともサール宮まで同行はしてもらわねばなるまい。
「……とりあえず当初の予定通り、二、三日休養を取って出発にするよ。彼女には俺がついてるから、お嬢ちゃんもゆっくり休みな」
コーネリアの肩を支えながらルースが言う。自他ともに遊び人と認める男に乳母を任せるのは心配だが、コーネリアのほうは剣士の優しさに胸を打たれたようだった。
護衛の対象でなくなった相手にモモもああしろこうしろとは言えない。彼女が嫌でないならと口は挟まないことにする。安易に男に慰められるのもどうかとは思ったが。
首都サールの土を踏んだのはそれから一週間後、三月八日の昼下がりだった。アルタルーペの裾野に位置する白塗りの街は堅牢な門を開き、帰還した同胞と異邦人とを迎え入れる。
一刻も早く兄とブルーノにアウローラがどうなったかを伝えねばならない。モモは急ぎ小山の頂に立つ宮殿に向かった。
同じ頃、ルディアとレイモンドを乗せた漁船がトリナクリア島に流れ着いたことはまだ知る由もないままに。




