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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第1章 それぞれの現在地
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第1章 その2

 浴槽に浮かぶ赤いアネモネをひと摘まみして鼻に乗せる。退屈をやり過ごすにはこうして花の香りでも楽しむ以外術はない。見目麗しく華やかに保つのが女帝の義務だというのだから、存外支配者も不自由なものだ。

 褐色の肌を大理石の湯船に沈め、長い黒髪までも浸し、アニークはうんざりしつつ高いドーム天井を見上げた。この後もまだ香油責めや痩身マッサージが待っていると思うと自然溜め息が溢れてくる。


「そんなに湯浴みがお嫌いですか? アニーク様」


 頭を洗う女官に問われ、アニークは「当たり前でしょ」と唇を尖らせた。


「まだ物語を読んでいる途中だったのよ。続きが気になって仕方ないのにいつ書庫へ戻れるかわからないんだもの。ああ、せめて浴室の壁にパトリア騎士とプリンセスの絵でも描いてもらえないかしら。それなら少しは楽しく長風呂に耐えられるのに」


 広い浴場を飾るのは青と緑の美しいタイル。初めこそ細緻な蔓草模様に感動したが、今ではすっかり見飽きてしまった。

 嘆く主人に女官はくすりと頬を緩める。「アニーク様は本の『蟲』ですこと」と茶化され、ムッと眉を吊り上げた。


「あなたはセドクティオ様の勇姿を知らないからそんな風に笑えるのよ!」

「あらあら。そんなにパトリア騎士物語がお気に入りでしたらヘウンバオス様に頼めば画家を手配してくださるかもしれませんよ」

「えっ! 本当!?」


 がばりと湯の中で身を起こす。盛大に跳ねた飛沫を避けて中年女官は「もう! お勤めをしっかり果たされていればの話ですからね!」と付け加えた。


「女帝として威厳を持って、毎日きちんと政務に励むわ! 十人、いえ、五人くらいはお願いしても大丈夫かしら? サー・セドクティオと、プリンセス・オプリガーティオと、ええとそれから……」

「んまあ、なんてお気の早い」

「だって挿絵を眺めるだけじゃ物足りないと思っていたところなのよ! 本はなかなか広げっぱなしにできないし、持ち運ぶには大きすぎるし、その画家がついでにカメオでも彫ってくれたら最高じゃない!」


 興奮気味に捲くし立てると高帽子の女官はやれやれと苦笑した。話を振ってきたのはそちらだろうとアニークは構わず騎士物語の魅力を喋り続ける。


「セドクティオ様も素敵だけど、彼の仕えるプリンセス・オプリガーティオも素晴らしい姫君なの。身体が弱いのに知的で芯が強くて決断力があって……。私もいつかオプリガーティオのような女性になりたいわ」

「お手本になりそうな姫君ですのね。それはいいことです」

「そうでしょう!? お手本にするならもっと目に触れるところに置かなきゃでしょう!?」


 浴室の模様替えに正当性を見出してアニークはにっこり微笑んだ。

『パトリア騎士物語』はいわゆる西パトリア文化の中で唯一アニークの琴線に触れた騎士道小説である。駆け出し騎士のユスティティアが大胆不敵で強引なプリンセス・グローリアに引きずられて各地を旅する話なのだが、これが夜も眠れないほど面白い。笑いあり、涙あり、冒険あり、悲恋ありで一向に飽きがこないし、やることなすこと乙女心をときめかせるサー・セドクティオを初めとして老獪な宰相や勇猛な英雄、可憐な美姫など味のある登場人物たちが物語に花を添えている。

 アニークが特に好きなのは一見冷徹なサー・トレランティアだった。寡黙で表情に乏しいために誤解されがちな男だが、実は誰より高い忠誠心の持ち主で、根っからの真面目人間なのだ。彼が敵国の王子と恋に落ちた主君を案じ、指輪を壁に埋めてしまう場面は泣けて泣けて仕方なかった。


(だけどなぜかサー・トレランティアが一番だって人に言うのは恥ずかしいのよね……)


 西パトリアについて学ぶべく『パトリア騎士物語』を読破したという仲間は多い。だが誰ともあの騎士について語り合ったことはなかった。どこがいいのと聞かれたら、なんだか返答に詰まりそうで。


(きっと堅物すぎるのがいけないんだわ。主君と恋人の仲を引き裂くなんて、誰にでも理解できる行動じゃないもの)


 うんうんと自分なりに結論づける。空想世界に浸ったままのアニークの髪をすすぎ終わり、女官は次に首回りをごしごしと磨き始めた。


「読書も結構ですけれど、書庫にはあまり長居なさらないでくださいね。新妻が埃っぽくてはヘウンバオス様がお気の毒ですから」


 真剣な声で「あのお方にとってあなたは中も外も特別な存在なのですよ」と諭される。普段は女官の小言など話半分のアニークもこれには素直に頷いた。


「ええ、もちろん物語なんかよりヘウンバオス様のほうがずっと大切よ! 私、あの方から直接分裂した『蟲』なんでしょう? 妻の身分をいただいたことも誇らしいけど、私が一番あの方に近い記憶を持っていることが何より嬉しくてならないわ!」


 感情の昂ぶりに頬が上気する。オリジナルに近い存在であればあるほど蟲の世界では自慢になるのだ。そういう意味でアニークは生まれたときから完璧な祝福を授かっていた。

 百年ごとの分裂期がやって来たのは三十年前。ハイランバオスから分かれたラオタオやその他の蟲たちがさっさと肉体を与えられ、ジーアンを世界帝国にする兵力にされたのと違い、アニークは――正確に言えばその本体は――海水入りの小瓶に丁重に封じられていた。

 ヘウンバオスの「分身」はその時代その時代の最も重要な地位に任じられる。アニークが入れられたのは、蟲たちが再びレンムレン湖に至るために不可欠な東パトリア帝国皇女の肉体だった。

 女帝として、天帝の花嫁として、誠心誠意務め上げねばならない。それが蟲としてこの世に生まれた己の無上の喜びだ。


「ヘウンバオス様はいつ私たちをアクアレイアに呼んでくださるのかしら? それとも一度バオゾにお戻りになられると思う?」

「我々の領土になったと言ってもあそこは西パトリアの街ですからねえ。危険はないと判断されるまで来いとは仰らないでしょう」

「そうね、それもそうだわ。ああ、アクアレイアを目にする日が待ち遠しい! ヘウンバオス様にも早くお会いしたいわ!」

「ふふ、私もですよアニーク様。アニーク様はいつヘウンバオス様がお出でになってもいいように、毎晩綺麗にしていましょうね」


 にこにこ笑顔の女官に頷く。耳の裏側を洗おうとした彼女が顔をしかめたのはその直後だった。


「あら嫌だ。またその片方だけのピアスをなさっているんです?」


 否定的な物言いにムッと眉を吊り上げる。「気に入ってるんだもの、いいじゃない」とすかさずアニークは反論した。

 左の耳たぶで光るのは瑕ひとつないパトリア石。深く美しい青緑の、最上級の色の珠だ。

 右のピアスは最初からなかった。少なくともアニークがこの器の新しい宿主として目覚めたときには。


「これは本当に特別なの! そのうちどこかで片方見つかるかもしれないし、勝手に捨てたら怒るわよ!」

「おお、恐ろしや恐ろしや。そんな言いつけなさらなくたって触りやしませんよ」


 女官は大仰に怯えてみせる。ふん、とこちらも憤慨しきりだ。


「ねえ、あとどれくらい浸かってなきゃならないの?」

「そうですねえ、たっぷり二時間は入っていただきます」

「そ、そんなに!? ああもう、今日の読書は諦めるべきかしら」

「おほほ! なんなら浴室に本を持ってこさせますか?」

「だ、駄目よ! 書見台から本が落ちたらどうするの? そうでなくても湯気で紙が傷むじゃない! ……わかった、こうするわ。入浴が終わるまで今まで読んだお話をあなたに聞かせて復習するの。それならあなたも物語を楽しめるでしょう?」

「あら、なんと嬉しいお計らい! 実は私もサー・セドクティオとやらが気になっていたのです」


 生まれて百三十年になるという女官の瞳はきらきらと若かった。何度も肉体を取り替えていると外見の年齢など気にならなくなるらしい。蟲とはやはり、老いて死ぬという自然の摂理とは縁遠い生き物なのだ。


「それじゃあ最初から話すわね。騎士見習いのユスティティアが指導を受けていたサー・トレランティアのもとを離れて新しいお城に向かうところよ。彼が仕えることになったお姫様は大変な山奥に住んでいるの。よく知らないけど、アルタルーペと呼ばれる大山脈と同じくらい高い山なんですって」


 アニークは騎士物語の冒頭を紡ぎ始める。ユスティティアの名前を口にした瞬間から意識は早くも別世界に飛んでいた。

 目を閉じれば見知らぬ山並みが浮かんでくる。鬱蒼とした森を抜け、岩城を目指す若者の姿も。


「ユスティティアは狼の群れに追われたり、熊の巣穴に迷い込んだりしながら峠を越えていくの。ところが何日歩いても山は険しくなるばっかりで……」


 脳裏に描いた騎士はこちらを振り向かない。どんな顔をしているのか、少しだけでも見せてほしいのに。

 アニークは幻影の背を追いかけるように夢中になって話し続ける。隣の女官は面白そうにユスティティアの奮闘ぶりに耳を傾けていた。




 ******




 マルゴー公国の山は深い。特に高峰の南側では緩やかな稜線など存在しないに等しかった。朝夕には濃い霧も出るし、風も天気もすぐ変わる。岩だらけの悪路もあれば沼のごときぬかるみもあった。

 それでも傭兵たちにとっては慕わしい故郷である。森の空気を肺いっぱいに吸い込んで、きゃっきゃとお喋りしながらサールに向かう一団はまるで大きな子供たちだ。

 気が緩むのは良しとしよう。公国内では街の住人に白い目で見られることも憤然と睨み返すこともない。張りつめた心をほぐせる場所は必要だ。


(けどいくらなんだってこれはないよな?)


 ドブはすうっと息を溜め、板張りの山小屋に頬をくっつけた数名の兵士らに近づいた。そうして彼らの背後から怒りの一喝を轟かせる。


「赤ん坊にお乳あげてるとこ覗くなっつってんだろ、いい加減にしろーッ!」


 ウワッと蜘蛛の子散らすように不届き者たちは逃げ去った。まったくもう、とドブは腕を組み直す。

 休憩のたびに飽きもせず群がってきやがって。何が悲しくて最年少の自分が浮かれまくったオッサンどもの監視役などしなくてはならないのだ。


「ありがとね、ドブー。もうちょっとだけ見回りお願いー」


 大ぶりの双頭斧をスイングさせ、小屋の入口を固める少女が礼を告げてくる。彼女が守るコーネリアは泣き喚く赤ん坊にまだ悪戦苦闘しているらしい。


「あの先生はどこ行ったんだ? 妹さんなんだろ? よくこんな野獣の群れにほったらかしにしておけるよ」

「うーん、多分また岩石採集に行ったんじゃないかな。自立した大人なんだし面倒見なくてもいいでしょって感じみたい。こんな環境じゃなかったらモモも同意見なんだけど……」


 少女は呆れ返った素振りで嘆息した。そう冷めた口調で言われると「しつけのなってない連中ですまない」と申し訳なくなってくる。


「はーあ、バジルがいればドブもモモももう少し休憩取れたのになあ。ごめんね、手伝ってもらって」


 詫びるモモにドブは首を横に振った。


「いいって、いいって。気にすんなよ。うちの副団長がああいう連中シメても説得力なさすぎるのが悪いんだから」


 山小屋から少し離れた丸太置き場で若い衆と駄弁っているルースを見やり、肩をすくめる。視線に気づくとルースは材木のベンチから立ち上がり、陽気にこちらに手を振ってきた。


「おーいドブ! お前やっと骨折治ってきたところだろ? 見張り番代わってやろうか?」

「下心ありありで何ほざいてんだ! いいからあんたはそっちにいてくれ!」


 当てにならない色情魔に怒鳴り返す。ここ最近こんなやりとりが日常化しているような気がする。

 旅立ちから約一週間、暦は三月に変わっていた。怪我人と女性への気遣いで普段より進み方はのんびりしており、公国の首都サールまではようやく道半ばといったところだ。

 今日はこれから一番厳しい峠を越える。荒涼として樹木も生えない断崖絶壁ではあるが、そこさえ通り過ぎてしまえば大きなアップダウンはなくなり、先を急ぐのがうんと楽になるはずだった。

 グレッグはもう宮殿に着いただろうか。今まで団長の乗せられやすさばかり案じてきたが、ルースはルースで大問題児だ。できれば今後は二人一緒の部隊にいて互いの欠点を相殺してくれと頼んでおかねば。


「すみません。時間がかかってしまって」


 と、山小屋の戸口からコーネリアが顔を出した。その途端、群がっていた男どもが一斉に「ああ、今日も幻の峰は拝めなかった!」とくずおれる。


(ったくここの連中は本当に……!)


 額に手をやってドブはがっくり項垂れた。皆ルースに毒されすぎだ。


「ご苦労さん! 女の子たちのナイトやるのも立派だが、お前も休めるときに休んどけよー」


 当の副団長にはすれ違いざまポンと肩を叩かれた。本当に、誰のせいで余計な仕事が増えたと思っているのだろう。風紀は乱れまくりだし、気安く女など連れ回すものじゃない。


(ま、連れてけそうな女連れてかなかったらルースさんじゃねえか)


 ハハ、とドブは乾いた笑い声を漏らした。いずれにしても今更置き去りにはできない。だったら最後までしっかり責任を持とう。

 疲弊の色濃い弟分に気を回してくれたのか、昼食休憩は長かった。よく通るルースの美声が出発を告げたのは太陽が随分高くなってからだった。







 ああ、いいなあ。やはり女がいるといい! 辺りに漂う匂いからして違ってくる。

 上機嫌に口笛を吹き、ルースは峻厳な山岳に伸びた隊列を見回した。

 いつもならすぐに文句を垂れる荒くれどもが今度の帰還では何も言わない。見栄っ張りが多いから、コーネリアやモモの前で「疲れた」だの「今日はもう歩きたくない」だの口にしたくないのだろう。昂ぶりすぎて挙動がおかしいのも数人いるが、まあ許容範囲内だった。平時の割に士気は高いし、負傷兵たちも気を抜いていない。隠密の要人護送としては上々の旅路である。


「頑張れよ、お前らー! もうじき次の村が見えるぞー!」


 励ましの声に汗まみれの傭兵たちがおうと応える。つづら折りの隘路を歩む足取りは次第に鈍くなりつつあったが、気力はしばらくもちそうだった。

 勾配のきついアルタルーペに楽なルートなんてものはない。空気は薄く疲れやすいし、古くからある街道でも無理矢理通したような難所は多かった。特にこの峠は強敵だ。眩暈がするほど高く聳える岩壁を何度も何度も折り返し、延々と登り続けねばならないのだから。


(峠村があるのがまだ救いだな。具合の悪いのを我慢してる奴もいるだろうし、ここらで二、三日ゆっくりさせるか)


 己の預かった部隊から脱落者を出すわけにいかない。ルースは隊列の後方を見やり、遅れがちな者がいないか確かめた。

 自力歩行も困難な重傷者はニンフィの街に預けてきたので兵士は概ね大丈夫そうだ。客人も、軍人のモモや旅慣れたコナーは「疲れた」と漏らしながらもしっかりとついてきている。

 心配なのはルースのすぐ隣を歩くコーネリアだった。たびたび赤子がぐずるせいか体力を回復しきれずほとんど足が上がっていない。彼女の靴は頻繁に土を引っ掻いた。息切れするのも誰より早く、顔色は真っ青だ。移動時はモモがアウローラを背負い、できる限り自分も手を貸してきたけれど、本格的に限界なのではないかと思える。


「ちょいと失礼」


 断りを入れてからルースは乳母の背に腕を回した。だがすぐに「キャッ!」と叫んで逃げられる。まるで変質者に遭遇でもしたかのように。


「と、突然何をなさるのです!?」

「何って、つらそうだから支えてあげようとしたんだが」


 ほら、とルースは背後を指差した。示す先には仲間の肩を借りて歩く負傷兵の姿がある。


「あいつのは怪我が原因だが、山歩きは慣れてないと大の男でもへばっちまう。別に悪さしようってんじゃない。大人しくエスコートされてくれないか?」

「で、でしたらほかの方にお願いを」

「だーめ。お嬢ちゃんは赤ん坊を見なきゃだし、画家先生は石っころにすぐ気を逸らすだろ? それに俺以外の団員が君と仲良さげにすると話がややこしくなるんだよ」


 もう一度コーネリアの華奢な背中に腕を回して首を振った。二度目は拒まれなかったものの、顔に出た警戒心は露わである。

 やれやれとルースは内心溜め息をついた。彼女の耳に唇を近づけて「未亡人にがっつくほど飢えてないから安心しな」と声を潜める。


「あのさ、俺が君に構うのは半分以上ポーズなんだ。あのモモってお嬢ちゃんはガキんちょ体型で色気に欠けるからいいけどな、君のほうは男所帯の傭兵団で『副団長をふった』『もうお手つきかどうか気にする必要はねえ』ってなると危ないだろ? だからサール宮に着くまでは、君自身のためにちょっとは俺を受け入れるフリしてくれよな」


 そう囁くとコーネリアはハッとこちらを見つめ返した。覗き未遂程度の被害で済んでいる真の理由にようやく気づいてくれたらしく、神妙に「すみません」と詫びてくる。ポーズなのは半分以上でゼロとは言っていないのだが、そこは耳に入らなかったようだ。


「そんな深い考えがあったとは思いもよりませんでした。私ときたら、あなたに大変失礼な態度を」

「ははは、いいっていいって。誤解されるのは慣れてるし」


 にこやかに微笑み、ルースは白い歯を光らせた。腕の中の女が素直になって満足する。

 ついでにこのまま色っぽい関係に持ち込めればなおいいが、期待しすぎては欲深というものだろう。今回は最低限アクアレイアの小さなプリンセスを宮殿へ届けられればいい。我らの殿下が少しでも曲げたヘソを戻してくれれば。


(旦那が土下座してもまーだ許してくれねえんだもんなあ。ドナ・ヴラシィに負けて帰れりゃ王子だって万々歳だと思ったのに)


 元はと言えばチャドを怒らせた原因はルースの持ち込んだ鞍替え話にある。モモ一行を招き入れたのはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。己とて現状のままではまずいと考えているのだ。


(プリンセスだけじゃなく、あのコナー・ファーマーまで引き込んだんだぜ? 無事に連れてきゃ喜んでくれるはずだ。王子様にはとっとと旦那と仲直りしてもらわねえと)


 グレッグにいつまでもしょぼくれた顔はさせられない。あの男には恩がある。声高に主張する気はないけれど、団長のためにできることがあるなら全部してやるつもりだった。いや、そうしなければならないのだ。


「ま、てなわけだからもっと俺を信用してくれ。君が赤ん坊第一で頑張ってるのはわかってるし、こっちも全面的に協力するからさ」


 甘い声で囁くと乳母は戸惑いながらも頷く。「頑張っているだなんて……」と自信なさげに呟くのでルースはおやと瞬きした。


「私の働きなんて小さなものです。もっと世間の役に立てているならともかく」


 コーネリアの表情は暗い。称賛になど値しないと言いたげな態度が解せず、思わず「なんで?」と疑問を返した。


「亭主を亡くしたばっかりなのに、故郷を離れてこんな山奥まで来てさ、俺は偉いと思うけどな。君は頑張り屋さんだよ。星の数ほど女を知ってる俺が言うんだ。間違いない」


 いたわりを込めて肩を叩けばコーネリアは「そうでしょうか」とうつむいた。褒めてほしいのかと思ったが、本気で自信がないだけらしい。ふむ、とルースは思案した。

 もしや彼女はあまり人に認められてこなかったのだろうか。何せ百年に一人の天才と謳われる男が兄である。燦然たる光の作る陰となり、霞んできたのはいかにもありそうな話だった。


「……君には感謝してもしきれないって、そう思ってる人は絶対いるよ。ほら、例えばうちの王子様とか」


 できるだけ優しく言い聞かせてみる。少し元気が出てきたのか、顔を上げたコーネリアは「ありがとうございます」と微笑んだ。その眼差しは先程よりも柔らかい。

 岩峰に這うつづら折りはまだまだ先まで続いている。峠村に着くまでにもう一、二歩は彼女に近づけそうだった。





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