第3章 その10
――君主は親や伴侶にも油断してはいけない。
――もし私がお前の邪魔になったときは、迷わず切り捨てなさい。
耳に甦る遠い声。記憶の中の穏やかな眼差し。
誰より娘を思ってくれるこの人がどうして邪魔になるものか。子供の頃からずっとそう思っていた。たとえ王国に生きる者すべてが王を蔑み、疎んじたとしても、己だけはずっと父の味方だと。ジーアン帝国がノウァパトリアを陥落させたあの日までは。
「……一人のはずの『護衛役』が二人もいたからどちらかなと思っていたが、やはり君のほうだったか」
何もかも見通した声で王は言う。脳裏にはきっと娘の顔を思い浮かべて。
「あの子に頼まれているのだろう? いざというときは私の介錯を、と」
ルディアには頷けなかった。イーグレットの推測は正しくなかった。自分は誰にも頼み事などしていない。
「……いいえ、姫は決してそのようなことは。私には、ただあなたの意に沿うようにとだけ」
残酷な命令はなかったと強調する。よしんばそれが名誉を守るためであれ、父の死を望む薄情な娘はいなかったと、まるで身の潔白を訴えるように。
「姫は天帝があなたを捨て置いてくれることを願っておりました。カーリスの強欲どもがしゃしゃり出て来ないことを祈っておりました。二度と親子の再会が叶わぬとしても、あなたの余生がせめて平穏であるようにと! 姫は、姫は……!」
「落ち着いて。取り乱さずとも私はちゃんとわかっているよ。あの子は優しい娘だし、こんな父でも大切にしてくれた。わかっているから大丈夫だ」
真っ白な手が硬くなっていたルディアの拳に添えられる。ハッと顔を上げるとイーグレットの静かな双眸と目が合った。
「さっき話した通りだが、自分の都合に未来ある若者を巻き込むのは心苦しい。もし君が嫌なら無理に君主殺しになる必要はないのだからね。少々不格好ではあるが、そこの崖から身を投げるのでも十分目的は果たせる。どこの誰に私の骸が渡ろうと生きている間でなければ魂を穢せはしないのだから」
情け深い言葉に我を取り戻す。ルディアは首を横に振り、「いいえ」と腰の剣を掴んだ。
「王族には王族に相応しい死に方があります。自殺では神に祝福されまいなどと口さがない連中に誹らせるわけにまいりません」
決めたのは自分だ。王の意志を尊重すると。それがどんなに受け入れがたい悲しい願いであったとしても。
カーリスの船団は軍港に迫りつつあった。間もなく交易権を盾に武力行使を禁じられた海軍兵が捕らえられ、敵が雪崩れ込んでくるだろう。
王の命が、王の尊厳が、弄ばれて汚泥にまみれるその前に終わらせなくてはならなかった。死以上の屈辱をこの人に与えてはならなかった。
アクアレイアを出るときに誓った。幕を引くのは己であろうと。
「……悪かったね。片付けが無駄になってしまって」
綺麗になったばかりの廃屋を仰いでイーグレットが謝罪する。そんなことで詫びなくていいのに。
「これからアクアレイアには困難な時代が訪れるだろう。帆も櫂も失った船で君たちは海を迷わねばならない。だからせめて、私は皆に星を残したいのだ」
丘の麓で誰かの叫び声がした。襲われたわけではなく、パニック状態で逃げ出しただけのようだ。砂煙の上がる街では豆粒大の人々が一斉に漁港へ駆けていた。この有様ではレイモンドもすぐには戻ってこられまい。
「星ですか……?」
ルディアの問いにイーグレットは「そうだ」と答えた。除け者にされ続けた傍観者の口ぶりで。
「人間というのはいい加減なものでね、よほど親しい相手でもなければ故人が生前どんな人物だったかなどあっさり忘れてしまうのさ。私のような国王でも死に際さえ立派なら稀代の名君と呼んでもらえる。ちょうどレガッタを制したあの瞬間の盛り上がりに似て」
悪戯っぽい笑みに面食らう。逃げ惑う眼下の民を一望しつつ父は続けた。
「誰しも自分は崇高なものに守護されていると信じたいのだ。真っ暗な夜の海では特に。波の乙女が機嫌を直してくれないのなら夫の私が代わらなくては。『我々の王は屈従せず、誇り高く死んでいった』と励みになればそれでいい。少しでも皆が前を向く気になれば」
星とはそういうものだろうと王は囁く。ただ青いだけの空を見上げて。
「コナー・ファーマーがアクアレイア王国史を執筆中だ。できるだけ華々しく王家の最期を書き立ててくれと頼んでくれるかい? イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイアは決して無様に引きずられてはいかなかったと。その事実さえあれば、あとはあの国の政治家たちが喜んで祀り上げてくれる」
「…………」
ルディアは黙って頷いた。王の選択に異を唱えることはできなかった。
――そうか、それがあなたの選んだ最善か。あなたを軽んじてきた人々が、無責任に今度はあなたを神格化しても、あなたはそれを許すというのか。
「……怖くないかい?」
問われてルディアは「何がです?」と問い返した。
怖いことならいくらでもある。数分内に訪れる一つの結末。その先の未来。強大すぎるジーアンも、小賢しいカーリスも。
怖いことだらけだ。けれどその闇を越えていかなければ。たった一人でも、どんなに心細くても、この人の娘なら。
「初めはトレヴァーに始末を任せるつもりでいたのだが、断られてしまったのだよ。こんな白い肉体を斬るのは恐ろしくてかなわないと」
「私は大佐ほど信心深くありません。ためらいがあるとすれば、まったく別の理由からです」
「理由? なんだね?」
「……やはりお逃げになられませんか? レイモンドが船を用意しているのですが」
悪あがきだ。わかっている。道の終わりを決めた者が頷いてくれる言葉ではない。それでもルディアの中にまだ捨てきれぬ希望があった。父と二人で祖国を取り戻したいという希望。生き延びて見守ってほしいという希望。
だが案の定イーグレットにはかぶりを振られる。落ち着いた態度には少しの乱れも見られなかった。
「……少し喋りすぎたかな。そろそろ要塞にいないとバレたかもしれない」
「剣を振るうのは一瞬です。まだ敵が街に現れたわけでもありません。どうぞ心残りのないようになさってください」
「それでは歌でも聴いてくれたまえ」
そう言うやイーグレットは一節だけ、ゴンドラで歌ったあの歌を口ずさむ。
燃えよ、我が灯火よ 誰が汝の明日在ることを知らん
青春は尊し されど夢のごとくうつろう
愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを
歌声は天に響いた。遠い娘や友に届けと願う思いに応えるように。
それで満足したらしい。くるりとルディアに向き直り、父は上着のボタンを外して上半身をはだけさせた。
「ここが心臓だ。細いレイピアでいけるかね?」
指で示された胸の中心。鞘から抜いたレイピアを手にしてじっと見据える。
「……大丈夫です。剣は十年学びました」
敵だらけの宮廷で、いつ誰に襲われても生き延びることができるようにと、あなたが私に習わせたのだ。
心の中で呟いて、強く歯を食いしばった。
「苦しませはいたしません。一撃で終わらせます」
踏み込みのための距離を開く。突きの構えで静止する。
掌に汗が滲んだ。無心になろうとすればするほど。
「……君で良かったのかもしれない」
ぽつりとイーグレットが零す。
視線だけ上に向けると父は思わぬ言葉を続けた。
「どうしてか、君は時々娘と重なって見えるのだ。あの子の代わりに答えてはくれないか? 私のこの決断をルディアはどう思っているだろう。王として、父として、誇ってくれると思うかね?」
「……っ」
叫び出しそうになった心をなけなしの理性でねじ伏せる。
――私がルディアです! お父様、私があなたの娘です!
危うく剣を放り出すところだった。温かい肩にすがりつき、秘密を口にするところだった。
もう遅い。今更打ち明けられるはずがない。
震える手で剣の柄を握り直す。目頭が熱いことも、噛んだ唇に血の味がすることも、何もかも意識の外に追いやって答えた。
「はい、姫は……、あなたの娘に生まれて幸せだったと……、きっとそう仰います」
ありがとうと微笑してイーグレットは胸を反らした。
ルディアの視界の片端で鋭い刃が閃いた。
父の意に沿いたい。王としての死を望むなら、それを受け入れて尊重したい。決めた心に嘘はなかったはずである。
だが己は、少しも考えはしなかっただろうか。「ここで死んでくれたほうがアクアレイアのためになる」と。脳蟲の本性が、親愛を捻じ曲げはしなかっただろうか。
愚かだった。疑いのあまり、そんなはずないと一蹴して、強固に目を逸らし続けた。持ってはいけない類の不安にここまで見ないふりをした。
――本当に愚かだった。
******
馬を乗り捨て、舟で渡ってきた島は狂乱のさなかだった。
小さな漁港から次々と民間船が逃げ出してくる。二重の城壁に囲まれた街にどう忍び込むか悩んでいたのが馬鹿らしいほど誰もこちらに見向きしない。
咎める者がいないならとカロは堂々と桟橋に舟をつけた。普段ならよそ者、ましてロマなど容易に入れてはもらえないのだろうが、それは番人がいればの話だ。人々は生き延びるのに必死すぎ、闖入者に気づく者さえいなかった。
「あーッ! カロ! アイリーンまで!」
だからこちらを見つけたのは島民ではなく防衛隊の槍兵だった。レイモンドは「なんつう天の思し召し!」とこちらの腕を引っ掴み、猛スピードで漁港の裏手の坂を駆け上っていく。
「おい、イーグレットは? 敵兵が来ているのになぜ要塞へ向かわない?」
「陛下はあっちの丘にいるんだよ! 身柄を引き渡せとか言われてるみてーだけどまだ敵には見つかってない! 逃がすなら今のうちだ!」
街の景色をぐんぐん追い抜き、道はオリーブ林に入った。全力疾走しながらレイモンドは中型漁船を一隻確保できたと明かす。
「とにかく二人とも急いでくれ! 漁港に続いてる西の裏道押さえられたら助かるもんも助からねー!」
「よし、わかった。しっかりついてこいアイリーン!」
「ひええ! 頑張るわー!」
どうやらギリギリ間に合ったらしい。丘を登る途中で懐かしい歌が聴こえた。
ああ良かった、あいつの声だ。まったくこんなときまで歌なんて歌っているとは悠長な奴め。
アクアレイアがどうだとか、君主としての義務がとか、渋られても耳を貸すのは逃げ延びた後にしよう。命さえあれば何度でもやり直しはきくのだから。どれほど狩られ、虐げられてもロマがその血を今に伝えているように、大切なのは無様を恥じずに生き抜くことだ。
(そうだろう? イーグレット、希望を捨てるには早すぎる)
また一から出直そう。どうしてもアクアレイアにこだわるなら取り返すのを手伝ってやってもいい。
一人じゃない。二人でもない。きっとなんとかなるはずだ。
「――」
そのときだった。丘に吹き上げた強い風が崖にぶつかって戻ってきたのは。
濃い血の臭いが鼻をつく。緑深い木漏れ日の小路には不釣り合いな。
(え?)
違和感にぞっとした。何かあったらしいのに道の向こうが静かすぎて。
どうしてあの白夜の惨劇など思い出したのだろう。イェンスに拾われた日のことを。
同じ臭いを嗅いだからか。くずおれたカーモス族の屍から。
「イーグレット……?」
高台に辿り着き、最初に目に飛び込んだのは細い光。太陽を受けて反射するレイピアの刃。
次に見たのは仰向けの友人。血溜まりに身を浸し、ぴくりとも動かない。
――瞠目した。見間違いだと目を凝らした。
カロはふらふら歩き出す。イーグレットに近づいて、事切れた重い腕の脈を取る。
それからぺたり、赤い海に膝をついた。染みも汚れも厭わずに。
「イーグレット……」
返事はない。破れた心臓は空っぽだった。瞼は固く閉ざされて。白い髪にはべったりと血糊がついて。
何もかもが静止していた。触れた肌にはまだ温もりが残っているのに、もう何もかも。
「……お前がやったのか?」
すぐ側で、呆然とこちらを見ているルディアに問う。彼女の握るレイピアは真紅に染まり、ぽたぽたと赤い雫を落としていた。
「答えろ」
質問にどんな意味があったのか知らない。言葉で説明されずともすべて一目瞭然だったし、怒りを超越した何かが己を動かし始めていた。
頭の奥に死の一文字を浮かべるのにどれほど辛苦を要したか。
間に合ったとさっき確信したばかりなのに。
こんな裏切りさえなかったら、きっと彼を救えたのに。
「なぜイーグレットを殺した?」
怒気に促されるまま、ゆっくりと立ち上がる。睨み据えた女は硬直しきって瞬き一つしなかった。
掠れて消え入りそうな声が呟く。「王の望みで」と耳にして、カロは堪らず首を振った。
「こいつはもう王じゃなかった! ほかでもないお前たちアクアレイア人に捨てられて、そういられなくなったんだ!」
「だがそれでも……、この人は王家の名前を穢されまいと……アクアレイアのこれからのために……」
力ない言い訳に腹の底が煮えたぎる。戒めに右眼を掻いても自制できぬほど。
「名前がそんなに大切か? こいつが息をして笑うことより?」
カロは荒々しく問いかけた。話を続けるためには冷静さが必要だった。途方もない、持てるはずもない冷静さが。
「なぜこいつの馬鹿げた願いを聞き届けた!? 仮にこいつの頼みだとしてお前はそれを拒めたはずだぞ!? 娘なら、本当にこいつを父と慕っていたのなら、鞘から剣を抜くはずなかった!」
吼えながら掴みかかる。払い落とすまでもなくレイピアは地面に転がった。凶行を責められたルディアの動揺は激しく、なされるがまま揺さぶられる。
だが足りなかった。草の上に叩きつけても、馬乗りになって首を絞めても、まだ少しも。
「なぜイーグレットの命より、あんな国の取るに足らない未来なんかを取ったんだ!?」
自分で自分を止められない。喉を絞める手に力をこめる以外の何もできなくなる。目の前にいるこの女がたった一人の友を殺めたのだと思ったら。
イーグレットは、あの愚か者は、きっと最後まで冠を捨てられなかったのだ。彼にはほかにアクアレイア人であり続ける手段がなかったから。玉座以外には彼の席はなかったから。だがそれなら新天地を求めれば良かった話だ。人間の生きる場所は何もあの国だけではない。イーグレットだって、ルディアだって、それくらいわからないはずなかったのに。
「――カロ! カロ、やめて! 落ち着いて! ねえ、姫様からちゃんと話を聞きましょうよ!?」
右腕に飛びつかれ、力任せに引っ張られる。アイリーンの宥める声に「話を聞けだと?」と嘲笑を返すとカロは咳き込むルディアに問うた。
「だったらどうしてあいつを逃がさず殺したのか教えてくれるか? 王国や王家のためではなく、本当にあいつ自身のためだったと、名付け親のこの俺に誓ってくれるか?」
返されたのは瞠目と沈黙。常日頃迷いを見せない彼女が詰まったというそれだけで返事はもう十分だった。
あの国で、なんの見返りも求めずに友人を案じてくれるたった一人の人間と思っていたのに。結局アクアレイア人は誰もあいつを見ていなかったのだ。
「カロ! やめて! やめてったら!」
再び喉を締め上げにかかるとアイリーンがまた両腕を引き剥がそうとした。邪魔されて、かっとなって突き飛ばす。
息をしようとルディアがもがくのも我慢ならなかった。イーグレットに死の苦しみを与えておいてとますます頭に血が上った。
殺してやる。あいつと同じ目に遭わせてやる。お前が踏みにじったあいつと。
「――いや! いや! ブルーノが死んじゃう! ブルーノが死んじゃう!」
引っ掻き傷の痛みと絶叫に一瞬ハッと正気が戻る。力の緩んだその隙を突き、ルディアとの間に身を割り込ませたアイリーンは号泣しながら「弟なのよ! 殺さないで!」と哀願した。
そのひと言で手が出せなくなってしまう。魔法で石にでもされたかのようにカロはその場に固まった。
「…………」
身を起こし、胸を上下させて荒い呼吸を繰り返す。
脳蟲の抜け殻はただの死体だ。当人に返すとしても腐ってしまえば使い物にならない。
殺意はまったく空転していた。憎むべき仇を目の前にしながら。
わなわなと震えるこちらを見もせずに、ルディアはぶつぶつ言い訳の続きを呟いている。
「お父様は……、アクアレイア王としての死を望んで…………」
まだ言うか。
どうかなりそうな激情を飲み込み、カロは拳を握りしめた。
殴れない代わりに呪詛を吐く。奪われた友人の報復を誓う。
「忘れるな。どんな手を使ってもお前は必ず俺が殺す」
必ずだ、と睨み据えた。邪視邪眼と忌み嫌われた金の眼で。
「もう二度と、俺はお前をあいつの娘とは認めない……!」
ルディアの声が途切れた代わりに遠くで甲冑の足音が響き始める。丘の下に目をやれば列を成した兵士たちが砦の城門を出てくるところだった。
埋めてやる時間もないなとイーグレットの傍らに跪く。せめて静かな別れをと思ったのにアイリーンは騒々しかった。
「レイモンド君、行って! 早く姫様を連れて逃げて!」
そんなに急かさなくたってどうせなんにもできやしない。今はその女には。イーグレットにはこの先もずっと。
******
――なんだこれ。なんだよこれ。
眩暈を堪えてレイモンドは走り出す。名指しで指示を受けるまで思考は完全に停止していた。
座り込んだきり腑抜けたルディアの手を引いて無理矢理に立ち上がらせる。歩くことすら覚束ない彼女を抱え、駆けてきた道を引き返した。
とにかくここにいてはいけない。またいつカロが暴走するかわからないし、留まる理由もなくなった。
広がる血の海。変わり果てたイーグレットを思い出してぞっとする。
本当にこの人が殺したのか。あんなに好きだった父親を。
(なんで話しといてくれなかったんだよ)
土壇場で決めたことではあるまい。いつ何が起きてもおかしくないと言ったのは彼女だ。この展開とて予測の範疇だったはずである。敵軍がやって来て、王族を差し出せと言って、コリフォ島ごと占拠して――偶然同じタイミングでカロが駆けつけたこと以外は。
――いや、なんかそれ天帝が国王の首を差し出せって言ってきたときに陛下が従うって決めたら止めないっつってるように聞こえるんだけど……。
――端的に言うとそうなる。
――いやいやいやいや。
――あの人が王に相応しい死を望むなら……。
――暗い! 暗いって! 暗すぎる!
コリフォ島に到着した日の会話が耳に甦る。
あのときルディアはなんと言いかけていたのだろう。「そのときは私がこの手で」と続けるつもりだったのではないか。
(聞かなかったのは俺のほうだ)
後悔が心臓を押し潰す。きっと話してくれていたのに。ちゃんと聞いてさえいれば、きっとルディアを止められたのに。
(馬鹿かよ俺……!)
そもそも彼女がイーグレットを敵国に委ねるわけがなかったのだ。何をしてくるかわからない連中に、それこそ一番大切な人を。
どうしてそんな単純な矛盾に気づかないでいたのだろう。
どうして彼女に手を汚させてしまったのだろう。
せめて数分戻るのが早ければ。街の様子や住人の目など気にせず、初めからイーグレットを連れて逃げていれば。
「……には……」
腕の中で声が震えた。喧噪の去った漁港でレイモンドは「え?」と聞き返す。
生気のない頬。かじかむ指。苦しそうな浅い息。
知らないルディアに身が凍る。いつでもピンと背筋を伸ばし、自分で決めたことだからとまっすぐ前を向いているのに。
「……アクアレイアには帰りたくない……」
どうしてなんて聞けなかった。わかったと頷いてやるしか。
イーグレットと乗るはずだった漁船に乗り込み、レイモンドは矢よりも早くコリフォ島を後にした。
******
ああ、なんて綺麗なんだろう。
澄み切った紺碧の空に波打つエメラルド。薄膜に透ける星の瞬き。
広がったり縮んだりオーロラは忙しない。大気の冷たさもなんのその、優雅に天空のダンスを続ける。
イーグレットはほうっと感嘆の息をついた。こんなに美しい夜は初めてだ。雪に埋もれた白い世界を蒼い闇、淡い光が包み込んで。
イェンスには感謝しなければ。彼が船を出してくれなかったら今日の景色は見られなかった。
「ルディア――」
隣でこぼれた聞き慣れない音にイーグレットは視線を移す。同じように天を見上げていたカロが「ロマの言葉で『ルディア』と言うんだ」と光のカーテンを指差した。
「へえ、とても耳心地のいい響きだな。どこかの姫の名前みたいだ」
「どこかの姫か。だったらいつか娘が生まれたらそういう名前にすればいい」
「おや、いいね。それは素敵な提案だ。是非ともそうさせていただこう」
にこりと微笑み、イーグレットは極光の饗宴を焼きつける。だがなんとなくカロがそっぽを向いた気がしてまたすぐに隣を向いた。
どうしたのだろう。何か変なことを言ったかな。いつもそんな露骨に背中を向けられることはないのだが。
「……名付け親になるというのは、ロマの間では最大の友情の示し方だ」
「えっ!?」
照れ隠しでやや荒い語気にこちらの頬まで熱くなる。瞠目し、イーグレットは問いかけた。
「き、君が私の子供の名付け親になってくれるのかい?」
「……嫌ならいい。無理強いはしない」
「誰が嫌なものか! ありがとう、本当に嬉しいよ!」
勢い余って分厚い皮手袋の上から両手を握る。うろたえたカロに「男の子の名前も考えてほしい」と頼むと「そんな強欲になれるか!」と叱られた。
曰く、絶対なんてものはないから半々くらいの気持ちでいるのがいいそうだ。単に恥ずかしがっているだけのくせに。
「では正しく女児が生まれるようにアンディーンに祈らなくては」
イーグレットは大真面目に指で五芒星を描き、聖なる祝詞を唱え始めた。
天上には輝きを増した女神アウローラが麗しの御手を広げている。
イェンスによれば光の色は日によって様々に変わるらしい。エメラルドだけでなく、ルビーやサファイア、トパーズにピンクトパーズまで。
そんな名前の娘なら、ただ白いだけの自分と違って燦爛たる生を謳歌できるだろう。まだ見ぬ命に思い馳せ、友人も歌うように囁いた。
「きっと父親思いの娘になる。俺が名前を贈るんだからな」
ここまでお読みくださりありがとうございました。
「ルディアと王都防衛隊」はこのお話で第一部終了となります。
続きはまた第二部がサイトのほうで終わり次第投下しようと思います。
ちなみに予定では第四部で完結です。気長にお待ちいただければ幸いです。
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