第3章 その9
「やったー! 全部片付いた! やったやったー! もうゴミを掃き出して草取りしたり壁の穴を埋めたり屋根の補修をしたりしなくていいぞー!」
諸手を挙げて大喜びするレイモンドに「はしゃぎすぎだ!」と小言を投げる。数日の奮闘のおかげで普通レベルの空き家になった屋内を見上げ、ルディアもほっと息をついた。とりあえずこんなボロ家でも臨時の避難所程度にはなってくれるだろう。
「もう家具とか運んでこれるっすね! 俺、知り合いに余ってるテーブルとかベッドとかないか聞いてみますよ! なんなら大工仕事もやりますんで!」
「おお、それはありがたい。頼んでもいいかね?」
「もちろんです! 調理道具も揃えなきゃなー。あっ! 陛下は何色のお皿がいいですか?」
「何色の皿? ははは、私はなんでも構わないよ」
「えーでも好きな色ってあるじゃないすかー。俺はオレンジかー、深緑かー」
レイモンドと談笑する父は今日も楽しげだ。この状況下で悲壮にも深刻にもならないのはある意味すごいことかもしれない。お気楽も極めれば才能というわけか。
「寸胴鍋と食材が手に入ったら陛下にはオルブライト食堂の看板メニューをご賞味いただく予定なんで、やっぱイイ食器欲しいんすよねー。粉こねてー、細麺にしてー、湯がいた後に熱々の魚介スープぶっかけてーって、これがもう美味いのなんの!」
「ほう、レイモンド君は料理も嗜むのか。掃除も君が主戦力だったし、随分と器用なのだね」
「へっ? こんくらいの家事スキル全然普通っすよ。あ、まあ確かに個人差はありますけど……」
ちらりと向けられた視線にムッと目を吊り上げる。
大方の除草作業を終えた頃からルディアとレイモンドの立場は普段と完全に逆転していた。「根っこが残ってたらまた生えてくるじゃん」とか「隅っこまだ土溜まってるぞ」とか意外な丁寧さで指導され、ついには「すげー大雑把」の烙印まで押されたのだ。
「こうやるんだよ」と教わった後は改善されていたのだからいいではないか。及第点には達していただろうと睨み返す。不器用さは自覚しているのであまりつつかないでほしい。
「いや、本当に君がいてくれて助かったよ。ここも思ったより早く片付いたし、炊事のほうも是非ご教授願いたいな」
「いやいや! 大衆向けのレシピしか知らないんで、まず陛下のお口に合うかどうか確かめてからでないと! もし駄目だったらジャクリーンさんに一日弟子入りして貴族の味を学んでくるんで、陛下はご安心ください!」
ほかならぬ食のことだからかもしれないが、レイモンドは色々と先回りして考えてくれているらしい。材料の調達ルートなども知人のツテで既に押さえてあるようだ。
改めて「顔が広い」という彼の強みを見せつけられた思いだった。この男がいなければもっと苦心惨憺する羽目になったに違いない。いくらルディアでも自力ではどうしようもなかった部分に手を貸してくれた相手に偉そうな口をきけるはずがない。
(というかむしろ、頼りすぎないように気をつけなければ)
今はまだ防衛隊気分を引きずって側にいてくれるけれど、そのうち彼も収入がないのに嫌気が差して帰ると言い出すかもしれない。そうなればルディアに引き留める権利はなかった。いつレイモンドの気が変わってもいいように、今のうちに少しでもできることを増やさなくては。
(……そう言えばまだ金に関する文句を一度も耳にしていないな)
どんなに汗水流そうと全部ただ働きなのに、手を抜く気配も見受けられない。無収入は承知済みだし悔いはないと、そう言ったのは彼の本心だったのだろうか。期待を持つと苦しいから本気にしていなかったけれど。
(少し馬鹿馬鹿と言いすぎたかもしれん)
盗み見た横顔はいつも通り締まりない笑みを浮かべていた。いかなるときも真面目一徹のアルフレッドとは対照的だ。だが彼らの根底には通じ合う何かがある気がした。
「ところで今からどうしましょう? 日没までちょっと時間ありますし、街に調度品でも見にいきます?」
槍兵の誘いにイーグレットは首を振る。やや神妙な表情に戻って父は今後の方針を告げた。
「一度砦に戻ってトレヴァーと話し合いたいと思う。ジャクリーンのことなのだが、大佐がとても気にしていてね。私が要塞を出るタイミングで本国に帰す船を出そうかと思うのだ。帰りたがっている兵も多いようだし、いずれにせよコリフォ島基地をどうするか政府の指示を仰ぐべきだろう」
「あ、あー、そんじゃジャクリーンさんに家庭料理教わるのは無理っぽいっすかねー」
レイモンドは残念そうに頭を掻く。そんな彼に父は優しい眼差しで言った。
「君たちもその船に乗っていいのだよ。残ってくれれば私は大いに心強いが、それだけだ。蓄えもないし、君たちの将来に約束できることもない。ルディアとて無理を頼んだことはわかっているだろうから」
――またこの人は余計な気遣いを。
帰国を促すイーグレットにルディアは眉をしかめた。答えなど否に決まっている。
「陛下、私は最後まで……」
固辞するべく口を開いたところでぶふっと吹き出す大きな笑い声が響いた。その存外な勢いにルディアとイーグレットはほぼ同時に振り返る。
「す、すんません。なんか陛下と姫様おんなじこと言ってんなーって思ったらつい」
レイモンドは口元を抑え、おかしそうに笑いを堪えていた。「あの人も最初、俺たちに『防衛隊は解散だ。全員達者で暮らせ』っつったんすよ」と暴露され、ルディアは頬を赤くする。
「やっぱ親子なんすねー。だけどあんまり背負い込まないでくださいよ。俺、こいつを一人で行かせるのが忍びなくってここまでついてきましたけど、今はそれだけじゃないです。陛下のことも、もう放っとけないんです」
どさくさに肩を抱かれて頬をつねる。率直な好意に父はたじろぎ、少しして感謝を述べた。
「……ありがとう。そんな風に言ってもらえるとは嬉しいよ。ただ私も、若い君たちを巻き込むのはなんだか申し訳なくてね」
「あはは。俺、陛下のそういうとこ好きですよ。まだちょっとしか一緒にいてないですけど、姫様が陛下を慕うのすんげーわかります。なっ?」
同意を求める素振りでされたウインクは無視を決め込む。唇を尖らせたままルディアは馴れ馴れしい腕を振り払った。
やっぱり馬鹿はどこまでも馬鹿だ。本当にいらぬ真似ばかり。
「ルディアが私を? ふふ、なかなか甘えてこない子だから意外だな」
「えーっ! 姫様マジで陛下のこと大好きですけどねー」
「レイモンド、お喋りはいい加減にしろ! いつまで経っても要塞に戻れないだろうが!」
居た堪れなさにあばら家の玄関を開き、話を切り上げようとしたときだった。カーン、カーンと甲高い警鐘が鳴り響いたのは。
「――……」
押し黙り、互いに目を見合わせる。
三時や六時の報せとは違う。突かれているのは見張り台の鐘だった。
すぐさま外へ飛び出して、丘の茂みの間から眼下の街と海を見下ろす。
視界に入ったのはカーリス共和都市の船団、そして彼らと接触交信中らしい王国海軍のガレー船だった。
ごくりと三人で息を飲む。甲板の兵士が手旗で砦に合図を送るのが見える。その直後、カーン、カーンとまた鐘楼で鐘撞きが始まった。
「……王族の引き渡しを要求された場合に限り、鐘の鳴らし方を変えてくれと頼んである。最初に二度、間を空けて四度と」
イーグレットの呟きにたちまち空気が凍りつく。今度の鐘は四度で止まった。
「おっ、俺、例の船がいけるかどうか聞いてくる! 陛下は逃げる準備しててください!」
返事も待たず、レイモンドが漁港に向かって全力で坂を駆けていく。
重い残響。吹き抜ける風。枝葉をざわめかせるオリーブ。
――恐れていたときが来てしまった。
震える拳を握りしめ、ルディアは父を振り返った。
******
「いやッ! 私逃げません! ローガンはルディア姫を差し出せと要求しているのでしょう!? それなら今ここで王女として死なせてくださ――」
台詞の途中でがくんと崩れた娘の身体を抱き上げる。ジャクリーンが暴れること自体初めてだが、可愛い我が子に手を上げたのも初めてだ。
(傷が残らないといいが)
そう案じつつトレヴァーは指揮官室を出た。いつの間にか随分育った子供を背負い、石塔の螺旋階段を駆け下りる。敵に見つかる前にジャクリーンだけは安全なところへ隠さねばならなかった。
(とにかく外へ出なければ。この要塞に青髪の若い女がいたらルディア姫だと間違われてしまう)
悔しさに歯噛みする。アクアレイアへの船を出すまでもう一日、いや半日もあれば十分だったはずである。天帝ももう少し王都でゆっくりしてくればいいものを。
ああ、ジャクリーンに万一のことがあったら生きていけない。たった一人の娘なのに。大事に大事にしてきたのに。
「おや、わざわざ姫君をご同伴とは助かりますなあ!」
無情な声が響いたのは通路の突き当たりを折れたときだった。ショックリー商会の代表は底意地悪く小隊連れで待ち伏せしていたらしい。
逃げ道を塞がれたトレヴァーは咄嗟に後ろを振り返った。まだ引き返せるかと思ったが、奥のほうからもカーリス軍と見られる兵が湧いてくる。
「ご、誤解だ。この子はうちの娘のジャクリーンだ。断じてルディア王女ではない!」
必死に首を振るもローガンの反応は思わしくない。コットンで膨らんだ肩を大仰にすくめられ、「困った方だ」と嘆息される。
「嘘はいけません。天帝陛下に対する反抗と見なされますぞ?」
「嘘なものか! 頼む、見逃してくれ。金ならいくらでも払う! 娘は本当に無関係で……」
「わっはっは、ご安心を。我々とて一般人に乱暴する気はございませんのでね。島中を隈なく点検して、本物の姫君が見つかればすぐに解放いたしますよ」
「なっ……!」
パチンと男の指が鳴ると同時、狭い通路を固めていた兵士たちに一斉に飛びかかられた。成す術もなく娘と引き裂かれ、トレヴァーは床に突き倒される。ジャクリーンは意識のないまま丁重にローガンのもとへ運ばれた。
「ジャクリーン!」
踏みつけられ、足蹴にされてもなお我が子の名を叫ぶ。
カーリスの豪商なら王女の顔くらい知っているだろうに、ローガンは手中の「ルディア」が偽者でないか疑いもしなかった。まるで王族の名を辱められるなら代役で構わないと言わんばかりだ。
「待て! 待ってくれ! 私の娘をどこへやる気だ!」
蒼白になって問う。コリフォ島で本物の姫が見つかるなど有り得ないのだ。今ジャクリーンと離れ離れになってしまったら、きっと今生の別れになる。
屈強な兵士に担がれた娘を見上げてローガンはちょび髭を撫でつけた。勝ち誇った高慢な笑みが憎らしい。
「そうですなあ、私にも色々と媚を売りたい方面がございますからなあ」
ふむ、と男は姫の行く先を思案した。初めからどう答えるか決まっていたに違いないくせに。
「手垢のついた人妻でもあの方はお構いなしでしょうし、ここはラオタオ様に献上するのが良いですかね。うむうむ、きっとお喜びいただけるはずだ!」
豪商は愉快そうに高笑いした。対するトレヴァーはますます血の気が引いてしまう。
(ラ、ラオタオだと!? アレイア海東岸に悪名を響かせているジーアン軍の暴将じゃないか!)
噂によればあの男は砦に大量の美女を集めて酒池肉林を楽しんでいるとか。そんなところへ花も盛りのジャクリーンをやりたくない。
「お願いだからやめてくれ! うちの娘は結婚どころか恋愛だってまだろくに……! ジャクリーン! ジャクリーンーッ!」
泣き叫ぶもローガンの対応は冷たかった。トレヴァーは「ほかの捕虜どもとひとまとめにしておけ」と命令された兵たちに羽交い絞めにされて連行される。抵抗すればしたたかに殴りつけられ、最後には声も出せなくなった。
――なんて惨い話だろう。あと半日。たった半日で良かったのに。
アンディーンはもうアクアレイアを見放してしまったのだろうか。長く忠実な伴侶であった我々を。




