第2章 その1
実りもなく夜は明け、また同じ朝が始まる。味気ない黒パンをかじりながらルディアは小さな食堂の狭いテーブルを見回した。
モモはもういつもの通りだ。内心では己のミスが引き起こした悲劇を嘆いているだろうが、取り乱した様子はない。少女は黙々と兄の盛りつけたスープを胃に流し込んでいる。そんな彼女にはばかりつつ、事件のその後を報告したのはバジルだった。
「アンバーさん、ハイランバオスの提案で火葬にされたみたいですよ。頭部を盗まれる前から燃やす予定ではあったそうですけど」
不可解そうに首を傾げたのはアルフレッドだ。自席に朝食を運びながら隊長はもっともな疑問を口にした。
「賊が頭だけ持っていった理由はなんだろうな?」
「調べられるとまずいことでもあったんじゃないですか? 証拠隠滅に間違いありません!」
憶測で語るバジルにルディアは顔をしかめる。
「だが待っていればマルゴー軍が焼却処分してくれたわけだろう? わざわざ危険を冒して盗みに入る必要はなかったはずだ」
「そ、それもそうですね……」
少年はううんと頭を抱えた。その隣でもう一人、同じようにうーんうーんとレイモンドが呻き声を上げている。
「ああッ、思い出せねー! 気持ち悪ィ!」
首を振っては悶える男を「やかましいぞ! さっきからなんだ!」と怒鳴りつける。槍兵は今朝からずっとこの調子で「あいつか? いや違う……。それじゃああいつ……、いややっぱ違うな……」と独り言を繰り返しているのだ。鬱陶しいといったらなかった。
「いや、あのフードの奴がさあ、どうも知り合いみてーな気がして」
「えっ?」
思いがけない返答にルディアはガタッと椅子を揺らした。レイモンドは腕を組み、「寝つけなくて昨夜からずっと考えてんだけど、なかなか出てこねーんだよなー」とぼやく。
「本当か!? 十秒以内に思い出せ!」
ほとんど首を絞める勢いでルディアは槍兵に迫った。「ええーっ、十秒なんて無理ー」と軟弱な態度を示す男の襟を掴み、ガクンガクンと前後に揺さぶる。
「馬鹿者! すべてはお前にかかっているんだぞ!」
「んなこと言われたってよー」
「頑張れ! 掘り出せ! 記憶の底から!」
つい手加減を忘れてしまい「こらこら」とアルフレッドに止められる。
「ブルーノ、最近のお前は乱暴が過ぎるぞ」
たしなめてくる騎士を退け、ルディアは大きく声を張った。
「つべこべやかましい! これはこういう民間療法だ! 脳を刺激してやれば何か思い出すかもしれないだろう!?」
気勢に任せてルディアは槍兵のふんわり緩いオールバックを掻き乱す。するとレイモンドは突然垂れ目を見開いて、輝く笑顔で拳を打った。
「あーっ! 思い出した!」
まさか本当に効くとは思わず逆にこちらが驚かされる。続く槍兵の言葉には更に驚愕させられたが。
「アイリーンだよ! あれってお前の姉ちゃんじゃん、ブルーノ!」
すっきりしたぜとレイモンドはミートパイを頬張り始めた。待て待て待て、と筋張った手から皿を奪う。あの貧相な肉づきの逆賊は女だったのか――ではなくて。
「あ、姉っ……?」
「そうそう! 十年くらい前に勘当された根暗な姉ちゃんいたろ? 一度でも話したことある奴の顔は忘れねーからさ、俺。てかなんでお前が思い出さないわけ? 仲悪かったわけでもねーのに」
料理を取り返した槍兵は今度こそ誰にも邪魔されずに空腹を満たし始める。唖然とするルディアの横で「本当にお姉さんならアクアレイアへ行ったんじゃない?」とモモが呟いた。
「――!」
確かにその可能性は高い。少なくともルディアを誘拐するべく一度は都入りしているのだ。入れ替わったブルーノとも連絡を取り合っているに違いないし、隠れ家くらいあると考えるのが当然だった。
「い、今すぐアクアレイアへ戻らなくては……!」
足早に食堂を出ていこうとしたルディアをアルフレッドが「おい、こら」と引き留める。
「どこへ行くんだ? ニンフィでの任務を放棄するつもりか?」
それは至極真っ当な問いかけだったのに、ルディアはつい怒鳴り返しそうになってしまった。今は居留区の治安など気にしている場合ではない。先んじて動き、奴らの尻尾を掴まねばならぬときだろう。誰がこんなところに留まっていられるか、と。
「身内が関わっていると知ってショックなのはわかるが……」
「言っておくがあの女を庇い立てする気は更々ないぞ。私は手がかりが有効なうちに捜索を開始したいだけだ」
「本当か? だがそれでも俺たちの出る幕じゃない。急報だけ入れておいて、捕縛は海軍にでも任せるべきだ。防衛隊にはニンフィでの任期がまだ半年以上残っているんだぞ」
「……っ」
アルフレッドの言い分は正しかった。屁理屈では太刀打ちできない正論だ。
だがたとえ海軍がアイリーンを牢獄に繋いでくれたとしても、それだけでは駄目なのだ。それだけではルディアはルディアに戻れない。どうしてもこの手であの女を捕まえて、入れ替わりの方法を聞き出さなければ。
「ほんの一週間、いや、数日で構わない。私だけでも王都に戻らせてくれ」
頭を下げて頼み込む。だがアルフレッドは頑固だった。「隊長として単独行動は許可できない」とルディアの要望をきっぱり却下する。
頼みの綱のモモにも期待できなかった。職務に対する真面目さは彼女も兄と同列だ。いくらアンバーの首を取り戻したくとも越権行為には及ぶまい。
「そうだね。王子様の要請でもない限り、悔しいけどモモたちにできることはないだろうな」
「俺たちはニンフィで腕を磨こう。昨日と同じ失態を二度と演じないように。ブルーノ、それで納得できるな?」
頷けるわけもなくルディアは立ち尽くす。許可なく離反すれば脱走兵扱い。国外追放の対象だ。一人でこの街を発ったところで結局身動きが取れなくなる。なんとしてもここはこの四人に協力してもらわねばならない。
だが説得の方法は思い浮かばなかった。ルディアが項垂れている間に朝食が再開され、話は終わりになってしまう。
このまま指をくわえて見ているしかないのだろうか? ようやく手がかりを得られたと思ったのに。絶望しかけたそのときだった。精霊がルディアに光をもたらしたのは。
「あのー、帰れますよ?」
おずおずと手を上げたバジルに皆の視線が集中する。
「へっ? マジで? なんでなんで?」
「だって明日はアンディーン祭じゃないですか。明後日は建国記念日ですし、アクアレイア人は商人も軍人もどうせ皆帰国するでしょう? 僕らだけここに残っててもなあと思って休暇申請を出しておいたんです」
バジルは「ほら」と懐から申請許可証を取り出した。昨日ブラッドリーから渡されていたらしい。ちゃんと五人分、五日間の完全休暇が承認されている。それを目にして青ざめたのはアルフレッドだった。
「お、お前……、バジル、なんで黙って…………」
「ええっ!? そんなのモモを驚かせたかったからに決まってるじゃないですか!」
「そうじゃない! 隊長の俺に無断で申請を出すなと言っているんだ!」
「はあ……、バジルってたまーにそういうことするよねえ……」
「ええっ!? モモ、嬉しくなかったです!? 船の手配も全部終わってるんですけど!?」
「いや、嬉しいんだけどさあ。サプライズってちゃんと企画しないといい迷惑だからさあ……」
「えっ、ええーっ!?」
好感触を得られずに涙を浮かべる少年の肩をルディアは優しく包み込んだ。
誇れ、お前は素晴らしい仕事をしたのだぞ。バジル・グリーンウッド、今日ほどお前を部隊に入れて良かったと実感した日はない。このルディア・ドムス・レーギア・アクアレイア、心から感謝してやろう。
――各自の荷物は速やかにまとめられた。半日だけの短い船旅に難はなく、青空の晴れ渡る五月の最終日、王都防衛隊は約三ヶ月ぶりにアクアレイアへと帰還したのだった。