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第3章 その8

 約束の五年を過ぎ、帰還したイーグレットを待っていたのはダイオニシアスの死であった。後ろ盾を失った二代目に貴族たちは冷たく、ほとんど事務的にしか相手をしてくれない。まずは打ち解ける努力をというイーグレットの思いは完全に出鼻を挫かれた。


 後になって考えれば、彼らとて王家につくかグレディ家につくか決めかねていたのだろう。グレディ家の当主が叔父からその妻グレースに代わったと聞き、イーグレットは一連のお家騒動が決着したものと思っていたが、実際には問題は何も解決していなかったのだ。そして事情に通じた大半の貴族たちが固唾を飲んで奸婦の次なる動きを見守っていたのである。


 グレースは狡猾な女だった。最初は味方の顔をしてイーグレットに近づいた。しおらしく、いかにも申し訳なさそうに「グレディ家は今度こそ王家の支えになりたいのです」と媚びへつらって。

 宮廷内の召使いとさえまともな関係を築けておらず、イーグレットは焦っていた。もっと彼女を警戒すべきだったのに、熟考もせずグレースの誠意を真に受けてしまった。


 なんでもいいから取っかかりが欲しかったのだ。死の床で、イーグレットに「王国を頼む」と初めて期待をかけてくれた父に応えてみせたかった。

 だが人間は気負えば視野が狭くなる。更にその狭い視野は、思いもかけない恋によって一層狭められたのだった。


「まあ、本当に月光と同じ色! 私たちお揃いですわね。だってディアナって月の女神の名前ですのよ」


 友人を求めるイーグレットのもとに連れてこられたのはグレディ家の次女、ディアナ・グレディだった。よもや白さを喜ばれるとは思わず目を丸くする。


「ホホホ、この子は少々天然なのです」


 苦笑いのグレースが紹介した通り、彼女はいくらか物知らずの面があった。だがそのことが却って彼女の無垢で温和な性格を作り出していたように思う。少なくともディアナは凝り固まった偏見の持ち主ではなかったし、彼女が己に向けてくれる笑顔に偽りはなかった。

 カロとも違う、イェンスとも違う、正真正銘至って普通のアクアレイア人。そんな彼女がすんなり己と打ち解けてくれたのは青天の霹靂だった。


「えっ? 色が気にならないのかですって? なぜですか? アクアレイアには赤色の方も青色の方もいらっしゃるではありませんか。白は私の大好きなアンディーナリリーと同じ色ですもの。嫌な気分になったことなんてこれまで一度もございませんわ」


 いつも優しく可憐な彼女。ヒソヒソ声で陰口を叩かれてもまるで気づかないおっとり具合。側にいてくれるだけで拝みたいありがたさなのに「私、陛下がご一緒だとなんだか落ち着きます」と好意まで示してくれる。

 何度会っても朗らかさは変わらず、次第にイーグレットはディアナに夢中になっていた。苦しいときも、悲しいときも、彼女と過ごせば前向きになれた。外見に惑わされずに自分自身を見てくれるアクアレイア人がきっとほかにも現れる、もう少し頑張ってみよう、と。


 グレースは頻繁に娘を伴って訪れた。グレディ家が王との良縁を望んでいるのは明らかで、イーグレットのほうもその気になっていた。

「普通のアクアレイア人」と身を固めれば宮廷での評価が変わるかもしれない。相手が名家の娘なら尚更だ。それに何より当のイーグレットがディアナ以外の伴侶など考えられなくなっていた。

 間もなくイーグレットはディアナに求婚した。グレディ家も快諾してくれるものと信じて。


「まあ、あの子をお妃に? なんという光栄の極み! ――ですが陛下、一つだけよろしゅうございますか?」


 グレースはここぞとばかりにとある条件を突きつけた。それはイーグレットには到底頷けない、無慈悲に過ぎる要求だった。


「ロマの入国禁止法にご賛同くださいませ。亡き先代は決して承認しませんでしたが、あの連中の放埓ぶりには民もそろそろ我慢の限界です。王国が更なる躍進を遂げるためには害虫を追い払わねば!」


 ぎくりとする。アクアレイア人がロマをどう考えているか知らないわけではなかったが、改めて嫌悪の念を見せつけられて。

 折しもアレイア地方にはジェレム率いるあの一団が戻っていた。彼らの手口と逃げ足ぶりを思い出し、イーグレットは冷や汗を掻く。

 北の地で離れ離れになった後、結局一度も合流せず、放置について詫びさえしなかった男だ。さぞ近隣住民に迷惑をかけているに違いない。ロマを悪だと見なしてはいないが、確かにそろそろお互いのためにある種の住み分けはしたほうがいいのかもしれないと思えた。


 だが一つだけ問題があった。入国禁止法など制定すればカロまで王都に入れなくなる。結局イーグレットは首を縦に振れなかった。「ご納得いただけないならこの話はなかったことに」と冷たく告げられ、しばし苦悶の日々を過ごす羽目になった。


 この頃はまだ三人の兄を殺した犯人はグレースの夫と思い込んでいたからイーグレットはグレースが王家とロマの浅からぬ縁を断とうとしているのにまったく気づいていなかった。ディアナがロマの若者に乱暴されそうになったのだと作り話を吹き込まれ、娘を案じる母の演技にすっかり騙されてしまっていた。


 女狐は更に「ここで陛下が決断力を示せば皆も一目置くようになるはず」とイーグレットをそそのかす。彼女曰く、この法案に関しては貴族たちも新王に期待を寄せているそうだった。それは嘘ではなかったけれど、その他の件では一切当てにされていないという事実は伏せられたままだった。


 駄目押しは続く。グレースは大仰にかぶりを振り、わざとらしく嘆息した。


「破談でしたら年頃のディアナには気軽に会わせられなくなりますね。あの娘にも早く別の相手を探さなければ……」


 脅迫めいた台詞に縮み上がる。今更彼女を取り上げられるなど耐えられない。ディアナはもうイーグレットの中で何者にも代えがたい存在になっていた。

 大体彼女以外の女性が自分の妻になってくれるはずないではないか。彼女でなければ、どうしても彼女でなければならなかった。アクアレイアの王としても、イーグレット個人としても。



「――そんなに惚れた女なのか」



 ぽつりとこちらに尋ねてきたとき、カロは少し寂しそうにしていた気がする。それでも彼はイーグレットが結婚の条件にロマの国外追放を持ちかけられたと知ると真摯な態度で協力を申し出てくれた。


「だったら俺からジェレムに話してやる。別にお前にロマと敵対するつもりはないんだろう?」


 意外にもジェレムはこの辺りのロマの間で実力者と認識されているらしい。彼が声をかければ王都から仲間を引き揚げさせる程度わけはないということだった。


「ちゃんと事情を説明すればあいつだってわかってくれる。流血沙汰が起きる前にロマのほうから街を出れば済む話だ。お前は何も心配するな」


 提案にイーグレットは首を振った。ほかのロマが街を出ていってくれるのは願ったり叶ったりだがカロに会えなくなるのは絶対に嫌だった。


「隠し通路を知っていたって街に入ってこられないのでは意味がない。カロ、私は……!」


 必死に止めるイーグレットに彼が笑う。ついぞ見た覚えのない大人びた表情で。


「巡回の隙を突くくらい簡単だ。昔からあちこちでロマは叩き出されてきたし、皆しれっと同じ街に戻っている。だからそんな顔をするな。今まで通り、俺は俺の好きなときにお前に会いにくる」


 法があろうとなかろうと大切なことは変わらないと励まされ、まるでこちらが年下になった気分だった。

 カロは更に冗談か本気かわからない口ぶりで「大体ロマがお前たちの決め事なんて守ると思うか?」と尋ねる。これにはイーグレットも吹き出した。


「心配なのはジェレムだけだ。一度はロマの世話になったお前が掌を返したと思われるとまずいから、あいつとだけは話をつけておかないと。――大丈夫、こっちは任せろ。お前はきっとその女といい夫婦になるんだぞ」


 あのときどうしてあれほど安易にディアナとの結婚を決めたのだろう。

 何を案じてカロがジェレムを気にしたのか、もっとよく考えていればきっと踏み止まったのに。

 権力基盤を早く固めてしまいたいとか、初めて愛した女性を手離したくないとか、プレッシャーは様々にあった。ロマを庇えばますます立場が悪くなる、もっと普通のアクアレイア人に合わせて動かなければという打算も。

 だが何よりもイーグレットは臆病になっていたのだ。自分の白さに無頓着で暮らせた船から、不寛容な人々の群れに放り込まれて。


 イーグレットそのものを忌み嫌い、なんであろうと反対してくる元老院議員は少なくなかった。教養ある貴族でさえもそうなのだから民衆はもっと過敏で過激だ。

 絶えず不信の目に晒され、自分でも自分が疑わしくなりかけていた。適切な機会さえ得られれば実力を発揮できるはずなのにと焦って、焦って、焦って。――そうしてすべて失ったのだ。


「……悪い。ジェレムを止めるので精いっぱいだった。俺はここを去らなきゃいけない」


 青春時代の最後の日、カロはボロボロの姿で詫びた。仲間は誰も許してくれなかったと、アクアレイア人はやはりロマの友人ではなかったと言われたと、打ちひしがれてうつむいていた。

 カロはいきり立ったジェレムが「やられる前にこっちからやってやろうぜ」と呼びかけたのに異を唱えたらしい。多勢に無勢で殴り合い、押し問答の末に出た妥協案が父との絶縁だったという。

 つまり彼は、イーグレットを擁護したために、一団どころかアレイア地方にさえいられなくなったのだ。


「――」


 衝撃で口がきけなかった。己の考えなしのツケを全部友人に払わせてしまうなんて。

 どうしてこうなることを予見できなかったのだろう。少し頭を使えばわかる話だったのに。少数ゆえに逃げ回るのが常だったロマを見くびっていたのか。内心では所詮こそこそせこい事件を起こすしかできない連中だと。

 少なくとも頭から一つ抜け落ちていたのは確かである。その内側でどれほど孤立していようともイーグレットがアクアレイアに属する人間であるように、カロもまたロマの社会に属する人間だということを、自分はすっかり失念していた。

「恩知らず」が街からロマを締め出せばその「友人」が睨まれるのは当然だ。イーグレットは無自覚にカロの立場を失くす相談を持ちかけていたのだ。


「…………」


 謝罪の言葉も見つからず、恥じ入ってただ震えた。カロと目を合わせることができなかった。その眼差しに侮蔑も怒りも慈悲も諦めも見たくなくて。

 そうこうする間に彼は地下通路に降りてしまう。「どこにいてもお前の幸せを願っている」と優しい言葉だけを残して。


 なんて愚かな終わりだろう。楽しかった思い出が一瞬で暗い色に染まる。

 悔やんだところで手遅れだった。ジェレムを探して弁解することも、カロを追って城を出ることもできなかった。

 残されたイーグレットにできたのは、せめてディアナを大切にすることだけだった。友人も、自身への信頼感も損なって、本当に彼女しかいなくなった。愛はあっても温かな家庭はついに築けなかったが。








「ディアナ、またルディアをグレース殿のところにやっているのかね?」


 寝所を訪れるなり尋ねた夫に妻はおずおずと頷く。「いけなかったかしら?」と震えながら問い返す声には失敗を見咎められた子供のそれと酷似した響きがあった。

 溜め息をつき、イーグレットはできるだけ優しく言い聞かせる。ルディアは三歳半になったばかりで机の前に縛りつける年齢ではないこと。グレディ家の懲罰的な教育は娘に合っていないこと。あの屋敷から帰ってくると溌溂としたルディアが委縮してしまうのが心配なこと。一つ一つ挙げた実例にディアナは真面目に同意した。


「そうね、確かにお母様は厳しいお方だし、ルディアは子供すぎるかも。私もあの子にはもっとのびのび育ってほしいわ」

「うん。これからは君も同伴して様子を見ていてやってくれ。どうもルディアが上手くできないと気に入りの侍女が鞭で打たれるらしいのだ。国やあの子のためと言いながら酷なやり方をなさるよ」

「ええ、ええ、気をつけますわ」


 ディアナは納得した様子だったがイーグレットには不安が残った。こういう会話が何度目になるか、数えるのももう憂鬱なほどだった。

 少し叱ると妻はすぐ反省したと言う。初めこそ彼女を信用していたものの、あまりに同じことが続くので最近はめっきり疑り深くなっていた。

 別にディアナも悪気があってやっているわけではない。彼女は結婚する前と変わらず穏やかで温かだった。ただディアナは、ディアナを教育した恐ろしい母親にどうしても逆らえないのである。


 世継ぎの祖母となったグレース・グレディは今やアクアレイアの女王だった。貴族たちは本来の君主に見向きもせず、こぞって彼女のもとに群がる。政界はもはやグレディ家の独壇場に近かった。

 せめて我が子を奪われまいと奮闘するのはおかしな話ではないだろう。妻のほうは娘より我が身のほうが可愛かったようだけれど。


「ディアナ! あれほどルディアを一人で実家にやらないでほしいと頼んだではないか!」

「あなた、怒らないで。私ちゃんとついていったわ。言われた通りあの子から目を離さなかったわ」

「見ていた? それでは君は、ルディアが泣いて助けを求めても何もせずただ見ていたのか? あの子に『親も自分を助けてくれない』と思わせてしまったのか?」

「だって、だって、お母様が不機嫌になるのだもの。このままでは母としても娘としても私は失格になると怒るのだもの。私、私……っ」


 ルディアが四つになる頃が最も激しく衝突した時期だったと記憶している。イーグレットが抗議してものらりくらりかわすグレースに対抗するには妻の協力が不可欠で、恐怖を克服しようとする素振りも見せないディアナに無性に苛立っていた。


 娘が可愛いと言うくせにどうして守ろうとしないのだろう。

 夫が好きだと言うくせにどうして支えてくれないのだろう。


 わからなかった。ディアナのことが。

 そのうち彼女はグレースにイーグレットやルディアの言動を報告し始めた。密告が発覚したのは妻のほうから「お母様に頼まれて」と打ち明けてきたからだが、いくらやめてくれと訴えても彼女はグレースの操り人形のまま変わってくれることはなかった。

 優しくて温かいのにディアナは弱い。従順以外の生き方ができない。

 そんな種類の毒もあるのだとイーグレットは初めて知った。


「お母様が『よくやったわね』って褒めてくださったの……。だから私嬉しくって、もっとあなたに好かれよう、もっとあなたに愛されようって努力したわ。だけどルディアが生まれてからは、その方法では駄目になってしまったみたい。ああ……、嫌! お母様を怒らせたくない。お母様はとても怖いの。私、私、勝手にこんな病気になって、きっと鞭で打たれるわ! 悪い子だって叱られてしまう!」


 高熱に浮かされた伴侶のうわごとを耳にして、愛だと思い違ったものの正体を垣間見る。馬鹿な自分は最後の最後まで彼女のことを信じていた。板挟みにしてすまなかったと罪悪感さえ抱いていたほどだ。

 最初から何もかも仕組まれていたに違いない。そう考えるのが自然だった。グレディ家の権勢はもはや誰にも抑えられるものではなくなっていたし、誰が利口な勝利者かなど火を見るよりも明らかだった。

 どこまでグレースの掌の上だったのだろう。彼女がすべての黒幕だったなら騙されたのは自分だけでなく父もであったに違いない。骨の髄まで武人だったあの人は、非力な女に息子を三人も屠られたとは考えもしなかっただろうから。


 冬の終わり、衰弱しきってディアナは死んだ。悪い流行り病だった。

 減ったのは敵か味方か。気がついたらイーグレットはひとりぼっちになっていた。

 ルディアは既にグレースの手に落ち、こちらへ寄りつこうともしない。父を悲しませるよりも祖母を怒らせることのほうが娘には重大な過失らしかった。


 ――何もない。冠の意味も、大切な人も、守るべきものも。

 私は何をやっているのだろう?

 自問に傷つき、立ち尽くした。このまま足を止めたほうが楽になれると思うほど。

 本当にそうしていたかもしれない。奇跡が起きて、もう一度ルディアと親子に戻れないままであったなら。


「お父様、大丈夫です。誰がグレディ家と繋がっているか知れたものではありませんもの。ルディアは誰も信じませんわ。お祖母様にご退場いただくその日まで、二人で力を合わせてまいりましょう」


 頼もしい娘の台詞に頬が綻ぶ。何日も生死の境をさまよって、記憶を失ったルディアは快活な才女に生まれ変わっていた。

 まだ六つにもならないのに自分よりよほど君主らしい口をきく。鞭や罵倒で脅かされても彼女は二度とグレースに屈さなかった。


 一つだけ楽しみができた。娘に冠を授ける日のため、イーグレットは今よりましな国王を目指さねばならなくなった。

 いない友人が励ましてくれる。今どこにいるのかも、どこかでまた会えるのかも、何もわからなかったけれど。

 二人に恥じない男になろう。その思いがイーグレットのすべてになった。

 だから今も。王国を遠く離れてしまった今も――。




 ******




 ふと目を覚ますととっくに夜は明けていた。早朝にしては明るい光が室内に差し込んでいる。これは寝すぎたとイーグレットは飛び起きた。空き家の清掃にはまだ何日かかかりそうなのに。


「すまない。遅くなってしまった」


 詫びながら隣室の扉を開く。槍兵と剣士は既に準備万端で待ち構えていた。


「あ、良かったー。もう五分待って返事なかったら寝顔ドッキリしちゃうとこでしたよー」

「起こすにしてもお前に行かせるわけがなかろう、馬鹿者」

「あっ、ひでー! また馬鹿って言った! 馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだぞー!」


 朝から元気な若者たちだ。側にいるだけで自然と胸が軽くなる。苦しかった時期の夢を見ていたはずなのに、不思議と寝覚めも悪くなかった。

 自分の中で整理がつき始めているのだろうか。過ちも、後悔も、己の人生の一幕だったと。


(気がかりなのは本当に、ルディアとカロのことだけだな)


 同じ年頃のブルーノたちを見ているとどうしても娘を思い出す。

 我ながら酷い子育てをしてしまった。「誰も信じてはいけない」など、誰を信じていいか判断できなかっただけのくせに。

 もう祈ることしかできない。自分にカロがいてくれたように、あの子の側に誰かが寄り添ってくれるように。

 叶うならルディアが己を偽らずにいられる相手であればいい。王女だとか、どこの国の人間だとか関係なく、あの子を慕ってくれる相手であれば。


「っつーか腹減らないっすか? バスケットに適当に摘まめるモンぶち込んでもらってるんで丘の上で朝飯にしません?」

「は? お前いつの間にそんなもの」

「厨房の皿洗い手伝ったときに頼んどいたんだよ。仲良くなった兵士が今週の食事当番だっつーからさ」

「お前は本当にどこでもすぐ溶け込むな……」

「そんじゃ行きましょー!」


 背中を押されてイーグレットは通路に出る。「軽々しく陛下にボディタッチをするな!」と叱られているレイモンドを振り返り、案外ルディアもこういう気取らないタイプの青年としっくりいくのではないかなと思った。

 夫であるチャドと素顔で向かい合えるようになるのが一番だが、結婚生活のままならなさは身に染みて知っている。情勢もすっかり変わってしまったし、今後マルゴーでやっていくのは少し難しいかもしれない。


(王子があの子を見捨てずにいてくれればいいのだが……)


 伏せた瞼に浮かんだのは糸目の貴公子ではなくて元死刑囚の顔だった。

 世の中にはユリシーズのような油断ならない男もいる。ああいう騎士が好みだとしても、ルディアには今度こそ裏切らない本物の騎士を見つけてほしい。




 ******




 バルコニーから見上げた空は灰色で、胸のざわつきを鎮めてはくれなかった。

 マルゴーに吹く風は冷たい。三月に入ったというのにサール宮の暖炉はまだたっぷり薪がくべられている。

 コリフォ島には春めく陽気が満ちただろうか。皆が寒さに凍えていなければいいけれど。


「姫様たち、どうしてるかな……」


 アルフレッドのすぐ後ろで不安げな声が響く。ブルーノの細い手には荷物に紛れていたというイーグレットからの手紙が握られていた。


 ――最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きようと思う。


 そこに書かれた一文を思い返して眉をしかめる。それは疑いようもなく覚悟を決めた男の言葉だった。

 何も起きてほしくはないが、何が起きてもおかしくはない。やはりあのときルディアと一緒に行けば良かった。こんなに心配になるくらいなら。


「天帝が陛下の身柄を引き渡せって言ってきたらどうしよう? ヴラシィの貴族は死体を吊るされたままずっと弔われずにいたんだよね? 亡骸に酷くされるのも嫌だけど、もし、もし生きたままあの人が…………」


 真っ青になってブルーノは口元を押さえる。台詞の続きはアルフレッドにも言えなかった。想定よりも現実が手ぬるいことを祈るしかない。


(敵がジーアンだけならまだましだったんだがな)


 胸中に独白を零す。

 こうして無事にサール宮へ辿り着き、冷静になればなるほどカーリスが裏にいるという事実が脅威に感じられた。ジーアンはアクアレイア領を手に入れただけでひとまず満足してくれたと思うが、カーリスは海運商業都市として長年敵対しているのだ。万に一つの望みも残さぬように王国や王家の名を汚そうと働きかけてくる可能性は高い。イーグレットを重罪人同然に引っ立てて飢えた獣の待つ闘技場に放り込むくらいの非道はやりそうだった。

 パトリア聖王とて大嫌いなアクアレイアの元君主など救いはしないだろう。それどころか「祝福されしパトリア王家の血を失ったアクアレイアは波の乙女アンディーンを守護精霊に戴くに相応しくなくなった」とか言い出して女神をカーリス共和都市に娶らせてしまうかもしれない。

 いかにもありそうな展開に重い溜め息が零れた。交易を制限されたうえに、そんな嫌がらせまで受けたらアクアレイア人は何を頼って生きていけばいいのだろう?


(……そうしてまた王家が恨まれるのか)


 アルフレッドは震えの止まらぬブルーノのために、客室に戻ってバルコニーの大窓を閉める。

 用心深いヘウンバオスがカーリスを調子に乗らせはしないはずだが、報せを待つほか何もできない距離にいるのが悔やまれた。


(お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ、か)


 頭をよぎったルディアの言葉に唇を噛む。

 名声、信望。いつかそれが彼女の役に立つときが来るのだろうか。




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