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第3章 その7

 一夜明け、今朝もまた気晴らしの散歩に出るのかなとのんびり待機していたレイモンドたちに渡されたのは本格的な掃除用具一式だった。


「島を出るのは難しいが要塞は出られるかなと思ってね。大佐と相談して丘の空き家に移ることにしたのだ。すまないが片付けを手伝ってくれるかい?」


 そう乞われたときは冗談だろうと思ったが、どうやらイーグレットは本気で引っ越しを決行するつもりらしい。ルシオラの丘に着くなり箒を掴み、廃屋の隅を掃き始め、あまりのシチュエーションにしばし呆然としてしまった。

 いや、だって、君主自ら清掃だなんて。この草だらけの一軒家を新しい城にするだなんて。


「とりあえず我々は雑草を引っこ抜いていきますね。ゴミと一緒に掃き出していただけますか?」

「うむ。頼んだよ」


 ルディアのほうは昨日の時点でこうなる可能性を考えていたようだった。「お前も早くしないか」と叱られて、ハッと意識を取り戻す。

 戸惑いながらもレイモンドは天井付近の蜘蛛の巣剥がしや蔓草取りを開始した。今日は頭を打たないように気をつけて。


「ああ、焦らなくても大丈夫だ。何も一日で終わらせる必要はないから」


 かけられた優しい声に振り向けばイーグレットは鼻歌など口ずさんでいた。箒がまるで櫂のようで、王はご機嫌なゴンドラ漕ぎに見える。砦にいられなくなったことは特に問題視していないらしい。

 確かにここで暮らしたほうが息は詰まらずに済みそうだ。レイモンドも不憫に思うのはやめにして掃除に精を出そうと決めた。だんだん追いやられている感はどうしても否めなかったが。


(けどこんなあばら家に引っ込まなきゃならねーくらいだし、ジーアンももう『アクアレイア王にはなんの力もない』って見逃してくんねーかな)


 淡い期待を込めてブチブチ草を抜く。幕屋暮らしの騎馬民族には凋落ぶりが伝わらないかもしれないが、期待したっていいだろう。普通の君主ならきっととっくに挫けている。


「ルールー、ライライ、ルールー、ライライ……」


 興が乗ってきたらしく、響く歌声には熱がこもり始めていた。変わった抑揚のつけ方に「上手いっすね」と賛辞を送る。レイモンドには三年ほどゴンドラ漕ぎの仕事を手伝っていた時期があるが、名うての歌手が揃った彼らの間でもこういう曲が歌われているのは聴いたことがなかった。


「おや、褒めてもらえるとはありがたい。私などカロに比べれば全然だが」


 照れくさそうにイーグレットは謙遜する。昨日の思い出話のおかげか今日も王様はお喋りだ。ロマの中には「ロマの喉」と讃えられる天賦の才の持ち主が一世代に一人はいるのだと教えてくれる。そう呼ばれても差し支えない資質をカロは有していたのだとも。


「彼が代々ロマに伝わる望郷の歌を聴かせてくれたときは本当にすごかった。途中までしか知らないとかで滅多に歌ってくれなかったがね」

「へえー。確かにロマってほかは散々でも音楽だけは黄金だって言われてますもんね」

「ああ。しかし彼らが我々に歌ってくれる歌の大半はお遊びさ。『ロマの喉』でもないと歌いこなせない本物の歌は大切に隠されている。まあカロの場合、好みでアクアアレイアの抒情歌ばかり歌っていたんだが」

「あ、それ知ってますよ! レガッタで歌ってたやつでしょう?」


 来たれ我が軽舸に、とレイモンドは喉を震わせた。この歌なら大の得意だ。小さい頃、母がよく子守歌にしてくれた。

 君主の優勝にあやかって『酒神と烈女のゴンドラ』が大々的に流行したのは建国記念祭の後である。それまでほとんど知られていない歌だったから「二番を教えてくれ」「三番を教えてくれ」とよく頼まれた。まるで己のほうが生粋のアクアレイア人になったみたいに。


「愉しみたければ今すぐに、今日は再び巡らぬものを――」


 終わりまで歌い切るとレイモンドは薄く瞼を開く。送られた拍手に愛想良く笑い返した。

 そろそろ羽目を外しすぎだとルディアにどやされる頃だろうか。そう思って振り返るが彼女は黙って耳を傾けているだけだった。これならもう少し話に花を咲かせていても良さそうだ。壁の奥から伸びている太い根っこを引き千切りつつレイモンドはイーグレットに問いかけた。


「あのー、ところでカロって姫様の名付け親なんすよね? 『ルディア』ってオーロラって意味のロマ語だって聞きましたけど、やっぱスゲー綺麗だったんすか?」


 ニヤニヤしながらちらりと王女を一瞥する。予想に違わずそこにはルディアの険しくなった双眸があった。「余計なことを聞くな馬鹿」なんて顔をされるとますます悪戯心が盛り上がってしまう。

 まあいいではないか。肉親が誰かに自分の話をしているところなどなかなか見られるものではない。イーグレットならルディアを褒めるに決まっているし、せいぜい赤くなって聞いていればいいのだ。


「ああ、あれはとても美しかった。あの子もオーロラに名前負けしない女性に育ってくれたな」

「ですよねー! 姫様美人ですもんねー! しかも気前が良くて賢くて、肝も据わってて!」

「ふふ、そうなのだ。淑やかに見せているがあの子は並みの男よりよほど芯が強い。わかってくれる者がいて嬉しいよ」


 怒るに怒れず背中を向けて黙り込むルディアの耳が真っ赤なことに満足し、くくっとレイモンドは笑う。さすがに後が恐ろしいのでこれ以上突っつくのはやめにするが。


「オーロラってどんな感じなんです? 北のほうでないとちゃんと見れないんでしょう? 俺でっかい夜の虹みたいなのイメージしてるんすけど」


 さりげなく王女の話題を終えると王はいいやと首を振る。


「虹とは違うな。暗い空に突然光の筋が現れて、それが伸びたり縮んだり形を変えながら天の彼方で波打つのだ。色も様々で、七色以上のときもあれば一色だけのときもある。私が初めて見たオーロラは淡いエメラルドグリーンだった。青い闇に揺れる姿はアクアレイアの海を思い出させたよ」

「おお、姫様にぴったりじゃないすか!」

「現地ではあれが空に出るときは神々が争い合っているのだと言われていた。カロは魂の通り道だと話していたし、パトリア神話によれば女神アウローラの化身だそうだから、何が真実かは定かでないがね。伝説など軽々と超越した、幻想的な美しさだったのは確かだよ」

「へええ、俺も見にいってみたいっす!」


 興味を示すレイモンドにイーグレットは「そうするといい」と頷いた。


「今は君たちの手を借りているが、ゆくゆくは私も一人で暮らせるようになるつもりだ。そうしたら二人とも行きたいところへ行きなさい。レイモンド君は北の人間と風貌が似ているし、人懐っこいからきっとすぐ仲良くなれるよ」

「えっ!? いやいやいや、陛下を置いてコリフォ島を出る気はこれっぽっちもありませんけど!?」


 頭と右手をぶんぶん振ってレイモンドは「俺、護衛ですしね?」と強調する。

 海軍や街の人間から変な要望書を受け取って弱気になっているのだろうか。心配しなくても陰口を叩いたり邪険に扱ったりしないのに。大体そんな不敬を働けばルディアが激怒するどころではない。下手をしたら絶交ものだ。


「そうです。いきなり何を仰っているのですか。陛下をお一人になんてできるはずないでしょう? 我々はマルゴーに逃れた姫の代わりにと、こうして側にお仕えしているのですから」


 王女も草抜きの手を止めて苦言を呈する。本人がルディアの代わりになんて言うと妙に切ない。本当は父親のためにここまでついてきた孝行娘なのに。


「レイモンド君、ブルーノ君」

「……」


 別の名前で呼ばれてルディアは苦しげにうつむいた。そんな彼女を見かねてつい声を張り上げる。


「お、俺ってそんな北っぽい見た目なんすかねー!? 確かに父親外国人だし、ちょくちょくそう言われることはあるんすけど!」


 強引な話の逸らし方だがこの雰囲気さえどうにかできればそれで良かった。イーグレットも深刻になるのは避けたかったらしく、こちらに調子を合わせてくれる。


「あ、ああ。金髪にも様々あるが、君みたいな明るめのブロンドが多いんだ。背も高くて手足が長いし、瞳も独特の淡さがあって」


 一つ一つ類似点を挙げながら王はレイモンドを観察した。そのうち何か思いついたのか、顎に手をやってうーんと唸り始める。


「……レイモンド君、ときに君は顔に落書きをされると不愉快かね?」

「はっ?」

「植物の汁で模様を描いてみてもいいかい?」

「えっ? いや、まあ構いませんけど」


 意図を読めない頼み事にレイモンドは首を傾げた。ルディアに視線を送ってみるが、彼女にも王の真意は測りかねる様子である。

 イーグレットは外に出て早咲きの赤いポピーを取ってくると花弁を丸めて指で擦り潰した。その汁が大人しく屈むレイモンドの鼻の上になすりつけられる。頬には線を、額には何かよくわからない記号を描かれた。


「……えーっと。これってなんかのおまじないっすか?」

「いや、君に北の人間の特徴があるというよりも、単に知人に似ているのかなと思ってね」

「はあ。陛下のお知り合いに」

「うん、やはり似ているよ。失礼だがお父上のお名前は?」


 問われてレイモンドは首を振った。「や、それが知らないんすよね」と苦笑混じりにこめかみを掻く。


「今まで一度も会ったことなくて。母ちゃんとも一晩だけの間柄って言うか、行きずりに近かったみたいで」

「む、すまない。それは悪いことを聞いてしまったかな」


 イーグレットは申し訳なさそうに謝罪した。「いいんです、いいんです!」とレイモンドはまた首をぶんぶん横に振る。


「そうだ。だったらカロに誰かに似ていると言われたことはあるかね?」

「いやー、それもないっすねー」

「そうか……。まあそうだな、そもそも彼はロマ以外の人間の区別が雑だからな……」

「そんなに俺とそっくりな奴がいるんすか? あの、陛下には悪いんすけど、できたら俺、父親が誰かとか知りたくないんすよね。母ちゃんに俺のこと産むなって言ったみてーだし、養育費なんかもちろん置いてってくれなかったし、露ほどの感謝もないっつーか。大体そんなちゃらんぽらんが陛下のお知り合いなわけないっすよ!」


 こっちから話振っといてすみません、とレイモンドは頭を下げた。会いたい相手ではないと匂わせればイーグレットもそれ以上の詮索はしないでくれる。


「すまない。少々軽率だったようだ」

「あ、いえいえ! 全然大丈夫なんで、陛下はお気になさらず!」

「しかしレイモンド君」

「本当に大丈夫なんで! まったく気にしてないんで!」

「…………」


 話が終わったのは良かったが、またしても居た堪れない空気になってしまう。明るく楽しく過ごしたいだけなのに、どうして現実は逆向きに転がっていくのだろう。

 レイモンドは己の立ち回りの悪さを反省した。いつもなら確実に避ける話題なのだから素直に避けておくべきだった。本当に父親のことだけは毎回ろくな思いをしない――。


「……経済支援を得られなかったなら、あの街で生きていくのに大変な苦労を重ねたろう。アクアレイアの身内びいきは極端だからね」


 不意の言葉にレイモンドは目を瞠る。顔を上げればイーグレットが心痛深い面持ちでじっとこちらを見つめていた。


「…………」


 声が出なかったのは驚いたせいだ。立ち入ったことを尋ねた無作法に対してではなく、福祉の網から漏れた子供がいたことにそんな顔をしてもらえるとは夢にも思ってもいなかったから。ついこの間まで王国の一番高い場所に立っていた人間に。

「苦労したのだね」というよりは「苦労をかけたね」という響きで、知らぬ間に唇の端が持ち上がる。返答は静かな声で、ごく自然に紡がれた。


「……もう昔の話です。俺の場合は助けてくれる友達もいましたし」


 沈みかけていた薄灰色の眼差しに温かいものが戻ったのを見てほっとする。イーグレットは「そうか」と小さく微笑んだ。


「それなら良かった。友人は何よりの財産だ」


 ハンカチを差し出され、湧き水で顔を洗ってくるように言われる。「落書きなんかして悪かったね」と改めて王は詫びた。

 なんだか憎めない人だ。同胞重視の政策を進めていたのはほかでもない王家だったのに。


(そりゃそうだよな。あの人自身はなんの恩恵も受けてねーんだし。俺だってそんなの責めらんねーや)


 アクアレイア人がアクアレイア人だけで一致団結すればするほど「その他」に分類される己やイーグレットは輪に入りにくくなる。国としてはそのほうが強いのかもしれないが、不条理な話だ。

 清水にハンカチを浸して顔を拭うとレイモンドは空き家に引き返した。もういつもの自分に戻っていると思うけれど、念のためペチペチ頬を叩いておく。


「うおっ!」


 勝手に開いた玄関に跳び退ったのは直後だった。中から出てきたルディアが声に驚いて身をすくめる。彼女の腕には溜まった雑草が集められていた。


「な、なんだよもー。びっくりさせんなよー」


 何も同じタイミングでゴミ捨てになど行かなくていいではないか。おかげで心臓が止まるところだった。


「レイモンド」


 と、後ろ手に扉を閉じられてレイモンドは怪訝に眉根を寄せる。道を譲って待っていてもルディアは動かず、黙ってこちらを見上げるのみだった。


(な、なんだ?)


 常ならぬ空気に身構える。一体なんの用件だろう。そこをどいてくれないと中に入れないのだが。

 もしや今しがたの応対について説教されるのだろうか。君主に対してなんだあの態度はと。


「あの……、ありがとうな」


 一瞬幻聴かと思った。あまりにも予想外の台詞すぎて。

 レイモンドはぱちくり瞬きする。ルディアに礼を言われるなんていつぶりのことだろう。しかもこんな、脈絡もなく。


「はっ? えっ? きゅ、急に何言って」

「お前と話すとあの人少し楽になるみたいだ。あまり認めたくはないが、来てくれて良かったのかもしれない。私だけではこんな風にはいかなかっただろうから……その」


 小さな声で感謝を告げられ、足の裏やらこめかみやらがむず痒くなる。斜めに逸らされた視線と薄紅に染まった頬が幸福感を増幅させた。へへ、と思わず声に出してしまう。


「へへへへ、やっぱそうだろ? そうだったろー?」

「まったく、すぐ調子に乗る! そのニヤけ面はとても苦労人には見えないな!」


 半分本音だろう憎まれ口にレイモンドは胸中で当たり前だってのと答えた。苦労人に見えないから面白がって近づいてきてもらえるのだ。いつもピリピリ冗談の一つも口にせず、何度会っても顔や名前を覚えない陰気な混血児相手におこぼれを恵んでくれるアクアレイア人がどこにいる。


「誰も俺にシリアス求めてねーじゃんか。せめて愛嬌くらいなきゃ、よそ者にしか見えねーガキのことなんか誰も助けちゃくれねーし。あ、アルは別だけどな?」


 昔を思い出しながら「あいつ稀に見るお節介だから」と笑う。彼女は彼女で思い当たる節があったらしく、ルディアも「そうだな」と頷いた。


「アルフレッドには私も思いきり叱り飛ばされたよ。父以外で己の損得に関係なく諌めてくれた人間は初めてだった」


 軽やかな笑みに少しだけ胸がもやもやする。まっすぐすぎて不器用な友人を褒めてもらって嬉しいはずなのに。


(姫様ってアルのこと結構買ってるよな)


 自分はあまり素直に頼ってもらえないが、騎士にはそうでもない気がする。あちらは隊長だからというのも大きそうだが。


(ちえっ、俺も役に立ってるつもりなのに)


「陛下がこの家に住むんだったら、あんたも家事を覚えなきゃじゃね? それこそアルに習っときゃ良かったんじゃねーの?」


 つまらない対抗心を払うついでに姫君をからかった。「やはりそう思うか」と頭を抱えるルディアに「アニークは鶏を捌けるレベルまでいったらしいぞ」と囁けば眉間のしわが濃さを増す。


「……すまんが教えてくれるか?」


 殊勝な問いにレイモンドは目を丸くした。ついさっき自分はなかなか頼ってもらえないといじけたばかりなのに。


「おお、いいぜいいぜ! 任せとけ!」


 わははと笑って胸を叩く。炊事でも洗濯でもどんと来いだ。お望みのまま、手取り足取りなんだって面倒を見てやろうではないか。


(そしたら姫様、また『ありがとう』っつってくれるかな?)


 想像だけで勝手に頬が緩んでくる。悪くなさそうな報酬だ。

 その後の片付けは大いに捗った。さすがにたった一日では廃屋の半分も綺麗にならなかったので、作業は明日に持ち越すことになったけれど。

 とにかくよく働いた。今夜は砦の硬い椅子でもぐうぐう眠れそうだった。




 ******




 月光や篝火を反射する水辺の少ないコリフォ島では太陽が沈んだ途端深い闇がすべてを覆う。続き部屋の二人におやすみを告げ、イーグレットは寝床に入った。

 久々の労働らしい労働に投げ出した四肢が疲労を訴える。若者と同じ調子で少々頑張りすぎたかもしれない。

 いつの間にか年を取ったなと苦笑した。幼い頃はまさか自分が四十過ぎまで生き延びるとは考えもしなかったが。


(白皮は虚弱になりやすいと案じてくれたのはイェンスだったか。しかしよく大病もせず、ここまで長らえたものだ)


 閉じた瞼が聴覚を冴えさせる。耳を澄ませば隣室から楽しげな声が漏れた。詳しくは聞き取れないが、またレイモンドがからかい半分の冗談を言っているらしい。


(……会いたいと思うから彼に似て見えたのかな)


 それにしては似すぎという気がしなくもないが。均整の取れた肉体や、後ろに流した金髪の輝きは己の願望を差し引いてもイェンスとそっくりに思える。槍兵の家庭事情が複雑なので、もう話題にするつもりはないけれど。


(まあ考えてみれば、あの人が父親になるはずないか)


 気にしていない素振りで誰より迷信を気にしていたのだ。恋の相手も持とうとしなかったのに子供などできるわけがない。完全に自分の思い違いだ。


(しかし変わった船だった。ああいう部隊を王国海軍に編入するのは仮に私に求心力があったとしても不可能だったに違いないな)


 一時の客人だったのを一生の仲間だと言ってくれたはぐれ者たちの顔ぶれを思い浮かべる。近親相姦の末に生まれた子供だの、乱暴な兄の手から義姉を逃がすための肉親殺しだの、船員はものの見事に普通の社会でやっていけない者ばかりだった。

 中でもイェンスの生い立ちは極めつけの特殊さで、幼少期にトナカイ飼いのカーモス族に拉致された彼は十年近く邪教の聖地に軟禁されて育ったという。彼は邪神に捧げるための生贄であったのだ。結局儀式は失敗し、助け出されたイェンスは神の呪いを振り撒く不吉な存在に生まれ変わったわけなのだが。


 雇われ軍人として蛮族を蹴散らす特務に携わる一方でイェンスは毛皮商の顔も持っていた。イーグレットが彼の船に乗ったのは制圧完了が近づいていた頃だったから、意地悪い北パトリアの商人相手に苦労する彼のほうが印象深く焼きついている。

 表に出ることこそなかったが、あれこれ一緒に悩んで学んだ。彼らと過ごす毎日が本当に楽しかった。お互いに言葉を教え合って、自分の小舟を持たせてもらって。カロと「いつかレガッタに出よう」と約束したのもあの頃だ。


 なんだってできる気がした。広がった世界はまばゆい希望に満ちていた。

 だから錯覚してしまった。アクアレイアに帰った後も、ありのままの自分でいられると。カロやイェンスに受け入れてもらえたように、歩み寄る努力さえしていればきっとアクアレイアの皆にも受け入れてもらえると。


(色なんて些細なことだと笑えたのは、後にも先にもあの船の上だけだったな……)


 瞼の裏にもっと濃い闇が降りてくる。その奥で、姿だけは娘によく似た女がしくしく泣いている。苦い記憶の扉が開くのを感じながらイーグレットは深い眠りに落ちていった。





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