第3章 その6
――置いていかれた! また置いていかれた!
いつものことだと割りきるには状況はあまりに悪く、もぬけの殻の宿営地で愕然と立ち尽くす。バラバラに逃亡するのはそう珍しいことでなくてもほかの仲間には「逃げろ」とくらい伝えるくせに。
(やっぱりジェレムは俺を憎んでいるんだ)
父とも呼ばせてくれない男の仕打ちに足が震える。こんなことにはとっくに慣れたはずなのに。
「何をしているんだ! カロ、行くぞ!」
わななく腕を引いてくれたのはイーグレットだった。燃え盛る木々の間を、灰色の煙の中を、ふたりぼっちで逃げ惑う。不案内な北の地で、どこへ向かうのが安全なのかもわからないまま。
火の手はあちこちに上がっていた。恐ろしい断末魔も四方八方で轟いている。
峠村で味わった災難の比ではなかった。荒々しい戦士たちに見つかりそうになり、咄嗟に大樹のうろに隠れる。
だが身を潜めたら今度は出られなくなってしまった。子供の足でこの混乱を突っ切るより、危機が引き揚げるのを待ったほうが賢明に思えたのだ。
炎と賊が触れずに去ってくれるのを祈った。息を殺し、気配を殺し、カロとイーグレットは闇を待つ。太陽さえ沈んでしまえばという希望は白夜の季節を知らなかったから持てたものだった。
ロマの一団が森と湖の大地に辿り着いたのは夏の初め。ジェレムはこの地でトナカイと暮らす遊牧民族カーモスと懇意で、彼らの仕事を手伝いながら夏を過ごすつもりだったらしい。
カーモス族の長は赤ら顔を綻ばせ、カロには理解できない言語で友人を歓迎した。会話の内容はよく聞き取れなかったが「最近はトナカイを連れて動ける土地が狭まっている」「神の呪いを受けた男が襲撃を繰り返すのでこんな奥地で大人しくしていなければならない」とつらい近況が語られたようだった。
彼らは愚痴を零したわけではない。北に住むロマたちも巻き添えを食らい、捕虜同然に連れ去られていると警告してくれたのだ。
しかしロマが売り物にされやすいのはどこでも同じことだった。ジェレムは「普段通り気をつけるさ」と簡単に返しただけだった。
油断はしていたと思う。賊はいつも船で現れるとのことだったし、滞在地は海から遠く隔たっていた。森は本当に穏やかで、湖も――たくさんの川を経てもっとずっと西方で海と繋がる湖も――まだ水面の静けさを留めていたのだ。
戦火に包まれたのは夜。北の地特有の明るい夜だった。
地平線に半ばまで身を隠し、淡い黄色の太陽が惨劇の始まりを覗く。喫水の浅い櫂漕ぎ船で天然水路に忍び込んだ海賊たちは、奇襲に飛び起きて右往左往するカーモス族を次々と斧の餌食にしていった。
鮮やかな青地の衣装が朱に染まる。血溜まりにぱしゃりと軽い足音が跳ね、震え上がったトナカイたちが逃げ出した。
視界に入った犠牲者の中にジェレムやほかのロマはいない。それを良かったと言っていいかはわからなかったが。
狭い空洞に身を押し込めたカロとイーグレットにできたのは、眼前の光景に硬直することだけだった。握り合った手は冷たく、濃くなる一方の血の臭いにむせ返る。
そのわずかな音を気取られ、ついに荒くれ者の一人が振り向いた。青い目がうろを覗き込めばもはや子供に成す術はなかった。
「痛っ……!」
「大丈夫か、イーグレット!」
無造作に放られた甲板で身を起こす。海賊たちは戦闘を終え、男たちの大半が船に戻っているようだった。
運がない。もうほんの数分やり過ごせたらこんな事態にはならなかったのに。
拘束されてはいないものの、捕虜二人を囲む屈強な戦士たちを相手に下手な動きは見せられなかった。湖水に飛び込めないものか見回してみるが、望みを託せそうな隙もない。
金髪碧眼の賊どもは「戦利品」にちらちら視線を送りつつ何事か囁き合っていた。言葉はカーモス族と同じものに聞こえるが意味までは判別不能だ。
だが話を理解する必要はなかった。こうして生け捕りにされたということは殺されるのではなく売られるのだろう。でなければ一生彼らの船を漕ぐ奴隷にされるかだ。
(くそ! 早くなんとかしないと……)
焦るカロを脇にして、行動を起こしたのはイーグレットだった。おもむろに立ち上がった彼ははっきりした声で「我々をどうするつもりだ?」と尋ねた。
不思議だったのは彼の話す言葉の響きが普段とはどこか違ったことだ。後で聞いたがイーグレットが用いていたのはアレイア語でなくパトリア語だったらしい。いわゆるパトリア圏の言語は総じて古いパトリア語を基礎としている。だから船であちこち出向く者になら通じるだろうと踏んだのだそうだ。
「ちょうど今、それを相談してんだよ」
イーグレットの狙い通り、頭から灰色熊の毛皮を被った若い男が歩み出た。周りの賊どもが一斉に道を開けたので彼が集団の長とわかる。イーグレットの滑らかなパトリア語に対し、相手は随分崩れたパトリア語もどきを話した。
「なんせ白皮のパトリア人と異色目のロマだろう? 前代未聞の組み合わせだしな」
台詞にぞっと悪寒が走る。こんな連中にみっともない右眼を見られた自分が腹立たしくて仕方なかった。イーグレットのことだって、人目に触れぬように隠しておかねばならなかったのに。預かり役が聞いて呆れる。もしも彼にまで失望の眼差しを向けられたら自分は――。
「この子は助けてもらえないか?」
と、頭上で響いた声に耳を疑った。気がつけばイーグレットは小さな背中にカロを庇って立ち塞いでいた。
「こういう場合、捕虜は奴隷商に売られるのが常と聞く。彼を降ろしてそちらが損をした分は私が払おう。それではいけないか」
「何を言い出すんだ!」
慌てて腕に飛びつくが、イーグレットは無視して交渉を続行する。身代金を支払うという代替案に興味を示して熊頭が「ふーん?」と上体を屈めた。
「けどよ、こうするとお前の手持ちはなくなっちまうぜ?」
問いかけと同時、不躾な手がイーグレットの懐を探って銀貨の詰まった袋を奪う。だが卑劣なやり方は想定済みだったらしくイーグレットは眉をしかめもしなかった。
「当てはある。信じられないなら金を受け取るまでこの子を降ろさなくていい。ただし絶対に傷つけないと誓ってほしい」
「ほー、当てってのは?」
首領に対するイーグレットの態度は堂々としていた。しかしよく見れば腕は震え、恐れを誤魔化すようにして指先が握り込まれている。額には汗が滲み、ケープからはみ出た足は今にも崩れそうだった。
「……故郷に帰ればそれなりの身だ。人質は買い戻すのが通例だし、私の身柄を引き渡すときに彼の分も上乗せて請求してくれ」
その言葉に目を瞠ったのはカロである。
「イーグレット、そんなことをしたら裏切り者に見つかってしまうんじゃないのか?」
声を潜めて尋ねるが、曖昧に苦笑された。だがその笑みはすぐに力強いものに変わる。
「カロ、いいんだ。君は何も心配するな。そうなったらそうなったとき考える」
「でも……!」
「いいと言ったらいいんだ」
決死の横顔を見るのは二度目だ。一度目は彼にもカロを救う理由があった。そうしないとジェレムたちと合流できなかったから。だが今は。
(どうして……)
どうしてイーグレットは自分に優しくしてくれるのだろう。同じロマにさえ「心配するな」なんて言葉はかけてもらった覚えがない。いつも皆、どこかで野垂れ死んでくれと言わんばかりで。実の親だってそうなのに。
「どこぞの国の金持ちがなんでロマのガキなんか守ろうとする? 変わった色の右眼だし、売り飛ばす相手がもう決まってるとかか?」
「違う。この子が酷い目に遭うのは嫌だと言うだけだ」
「だからなんで? まさか友達だってわけ?」
問われてイーグレットは目を瞠った。そのまま彼はちらりとこちらを一瞥し、思いもよらない台詞を告げる。
「……ああ。彼がそう言ってくれるなら」
その瞬間、胸に受けた衝撃を表す言葉はまだ知らなかった。
驚いたのはカロだけでなく敵の首領もだ。熊頭を前後に揺らして男は大笑いした。
「うわっはっはっは! 友達、そうか、友達か! ……それってこいつが隻眼になっても変わらない友情?」
太い腕に首根っこを掴まれて甲板に引き倒されたのは直後だった。回転した世界にイーグレットの「やめろ!」と怒鳴る声が響く。
瞑った目を開いたら鋭い刃が迫るのが映った。首領の注意がこちらに向いていると気づいてカロは目いっぱい叫ぶ。
「湖に飛び込め! 今のうちに逃げろ、イーグレット!」
少しでも彼が逃げやすいように首領の長い金髪を引っ張る。さっさと行けばいいものを、イーグレットは愚かにもカロを見捨てなかった。結局揃って取り押さえられて最初の状態に逆戻りだ。
「俺の目を抉るのに何か意味があるならそうすればいい! 代わりにこいつは見逃してくれ!」
通じるかどうかわからないアレイア語で懇願する。こうなればもう拝み倒すしか方法はなかった。
「それは駄目だ。カロ、君のほうが船を降ろしてもらうんだ!」
イーグレットもかたくなに首を振る。彼はこちらに余計な口を挟ませぬためいくら払えば要望が通るか具体的な値段を聞き出そうとした。そうしたら熊頭が再度大きく破顔した。
「――くっくっく、なるほど、なるほど、よーくわかった! 確かにお前らは友達だわ!」
男は仲間に手招きすると北の言語で何やら愉快げに話し始める。先程カロが抵抗したことで高まっていた緊張が見る間に和らぐのがわかった。戦士たちは頬を緩ませ、にこにこ笑いかけてくる。
(な、なんだ?)
わけがわからずイーグレットと顔を見合わせた。急な展開に不安を募らせていると「お前らの処遇が決定したぞ!」と肩を叩かれる。
「ロマと一緒ってことは旅人だよな? どこを目指してる途中だったんだ? 近くまで俺らの船で送ってやるよ」
「!?」
「えっ!? な、なぜ……」
「いやー、元々保護目的で乗せたんだけどな。ビビらせて悪かったよ。俺らがこんなナリしてるもんだから、悪党だって誤解してるのが面白くてつい」
「なっ……!?」
「ほ、保護目的!?」
「あんなとこに隠れてるからトナカイ野郎がイカれた儀式に使う予定の生贄かと思ったぜ。実際どうだったんだ? あ、やっぱ違った?」
儀式だの生贄だの知る由もない言葉に二人揃って首を振る。呆然とするカロとイーグレットに首領はイェンスという名を名乗った。海賊稼業ではあっても彼らは国の依頼で動くそうである。熊の毛皮を脱いでみればイェンスは鼻上の大きな傷と顔面に刻まれた紋様以外、さっぱりした好青年だった。
「ええと、その、目的地は特にないんだ。我々はどこかの岸に戻してもらえれば……」
「けどカーモス族は追い払っちまったし、戻ったところで何もないぞ。二人旅か? こんな僻地にいるってことはどうせわけありなんだろ?」
「わけありはわけありだが二人旅では……。いや、これでもう二人旅になってしまったのかな……」
イーグレットはカロにジェレムの逃れた先がわかるか尋ねた。今までは単純に北へ北へと進んでいたから見当をつけられたが、地の果て近いここより更に北へ向かうとは考えにくい。本当に迷子になったのだと理解するのにたいした時間はかからなかった。
「ありゃ、もしかして俺らのせいで仲間とはぐれちまった感じか?」
イェンスはばつ悪そうに頭を掻く。襲撃は計画通りだったそうだが、無関係の人間を巻き込むつもりはなかったと詫びられた。
「うーん、そんじゃそのジェレムってのが見つかるまでウチにいればどうだ? このまま降ろしたんじゃ俺らも後味悪ィしな」
「えっ」
意外な誘いにカロとイーグレットは面食らう。遠慮は不要と言われても二つ返事で頷けることではなかった。まだイェンスが信用に足る人間かわからないし、ロマの自分やイーグレットがこういった集団に混じるのは――。
「おっ、見た目のせいで嫌がられるんじゃねえかって心配してる? だったら逆だぜ。むしろ親近感しかないね! 俺の船に乗ってんのは、全員忌み子だの邪神憑きだの爪弾き者ばっかだからな!」
わははとイェンスは腕を組んで笑った。首領の言葉に嘘や誇張はないらしく、パトリア語のできる船員が「降りるだなんてもったいない!」「俺らみたいな人間にこんないい船はないぞ!」と引き留めてくる。
「……」
カロはイーグレットと目を見合わせた。急いでジェレムを追いかけたところでまた置き去りにされるに決まっている。それなら彼らに同行したほうが安全に過ごせるかもしれない。もちろん簡単に気を許すわけにいかないが。
「じゃあ……」
思案ののち、イーグレットが申し出に頷くとイェンスは薄く青い目をぱっと輝かせた。満面の笑みで歓迎の意を述べられる。
「二人とも、さっきはいいもん見せてくれてありがとな! パトリア人もロマも勝手な連中だとばかり思ってたが、痺れる男もいるじゃねーか!」
こんなに大勢の他人に囲まれ、握手まで求められたのは二人ともこのときが初めてだった。イェンスたちの温かさより、カロには友達という言葉のほうが胸に深く刻み込まれて忘れられなかったけれど。
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休ませていた馬のいななきに目を覚まし、カロはハッと身を起こした。
昔の夢かと息をつく。まだこの右眼を忌むべきものと疎んじていた頃の。
イーグレットに出会わなければ、イェンスが居場所をくれなければ、今でも己はロマの仲間に認められたくて空回りを繰り返していたに違いない。お利口な「荷物」でいても報われないと気づかぬふりをしたままで。
(……ここ数日、古い記憶ばかり甦るな)
新しい馬の調子を見ながら嘆息した。思い出はどれもかけがえないものなのに、なぜか心を強張らせる。胸騒ぎは収まらなかった。いざというときあの男が自分の身を守ろうとしないことを知っているから。
「おい、出発するぞ」
太い樹の根元で丸まっていたアイリーンを揺り起こす。まだ眠たげな彼女と朝食を済ませ、さっさとあぶみに足を掛けた。
早くイーグレットのところへ行きたい。彼の無事を確かめてアクアレイア人の手の届かない遠くへやってしまいたい。
海沿いをもう二、三日南下すればコリフォ島が見えてくるはずだ。あの島は対岸とそこまで離れていないから、最悪泳いで渡ればいい。とにかく近くまで辿り着ければ。
(イーグレット、俺は今度こそお前の助けになってみせる)
肝心なときほど何もできないのが悔しかった。ほかの誰でもなく彼のためにもっと強くなりたいと願った。
イェンスの船で教わった戦いの方法。独力で磨き続けた腕を、今使わずしていつ使う? 役に立とうとしなくていいと、いてくれるだけで救われるんだとイーグレットは言うけれど、それでも自分は。
(二十年前の過ちは繰り返さない。ためらわずに言ってやる。お前は間違った道を歩もうとしていると)
十六のとき、それができなかったから長いこと離れ離れになってしまった。
だから迷わず、自分は自分の思った通り、救うべきものを救いにいく。




