第3章 その3
――光が眩しすぎて痛い。
空の青も、草の緑も、なんてはっきり自己主張するのだろう。こちらは暗い部屋を出たばかりなのだし、少しは手加減してくれたっていいのに。
フードを深く被り直してイーグレットは背中を丸めた。上を見るよりも下を見るほうが過ごしやすいのは城内でも城外でもあまり変わらないようだ。
クルージャ岬には冷たい風が吹きつけていた。父に言わせればもう柔らかい春の風ということだったが、イーグレットには微妙な季節の区別など難しい。まともに街に出たこともなければ、それより更に広い世界は本でしか知らないのだから。
おかしな気分だ。二本の足で丘に立ち、潮の匂いを嗅いでいる。
状況は他人事めいて感じられた。王宮を離れてロマの一団とさすらうなんてイーグレットの知る現実にはそぐわなかった。
「五年でどうにか片を付ける。五年経ったらお前は次のアクアレイア王としてこの国に戻ってこい」
初代国王ダイオニシアスがそう命じる。四人もいた彼の息子はイーグレットただ一人になっていた。
苦々しい胸中の滲む父の顔。その面前に立っていたら王位を継ぐのも宮殿を出るのも不安だなどと言えなくなる。泣きごとを喚いて居残ったところで今度はグレディ家の毒牙にかかるのを待つだけだったが。
拒否権なんて最初からなかった。生き延びたければ父の言う通りにする以外。どのみちもう、檻の中で安楽な悲哀を弄ぶ暮らしには戻れない。
「預かるだけだぞ。仲間とも客人とも思わない」
ぶっきらぼうな低い声にイーグレットはびくりと震える。父の肩越しに丘を仰げば中年と思しき一人のロマが冷ややかにこちらを見ていた。
嫌な雰囲気の男だ。うねった黒い髪の下で眼光だけがぎらついている。褐色の肌に纏うのは薄汚れたよれよれのコートとチュニック。俊敏そうだが身体は細く、その日暮らしが見て取れた。
「さあ、後はジェレムについていけ。生きて帰れよ、イーグレット」
肩を押されて小さく頷く。せめて我が身を引き受けるのがジェレムではなく彼の父なら良かったのに。
ロマがアクアレイア王ダイオニシアスの忠実な戦友だった時代は過ぎ去り、今では悪い噂しか耳に入らなくなっていた。盗む、騙す、殴る、逃げるは彼らの得意技だ。独立戦争をともに生き抜いた者でさえ「連中とはやっていけん」と匙を投げる。アクアレイアが貴族と海賊の婚姻によって築かれた特異な国であるのを思うとロマとの相容れなさは一層際立った。
ダイオニシアスを振り返りもせずジェレムは一行を出発させる。一頭だけの荷馬を引き、街道を行く後ろ姿に「王子を守ってやろう」なんて気概は微塵も感じられなかった。彼はただ王の片腕だった亡父に免じ、嫌々ながら面倒事を引き受けたに過ぎないのだ。
冷淡な態度に気は臆したが、これから面倒を見てもらう相手に礼を欠くのも気が咎める。「あの、ジェレム」とイーグレットは男に呼びかけた。だがその応対は散々だった。
仲間とも客人とも思わない。そう宣言した通り、ジェレムは頭から若い王子を相手にしなかった。十数人いたほかのロマも同じくだ。挨拶しようと近づくも無視、実際に挨拶しても無視。困り果てているこちらを見やってクスクスと笑う。あまりの無礼さにイーグレットは閉口した。
女たちは大人しかったが、一団の長たる男が冷たく当たる部外者に見向きもしない。この様子では身の安全どころか身の回りの世話すら考えてもらえそうになかった。
(ちょ、ちょっと待て。ロマとはここまで排他的なものなのか?)
イーグレットは出発早々青ざめた。父からは謝礼とて出ているだろうに足を止めたら置いていかれそうである。
そもそもイーグレットは彼らがどこを目指して歩いているかもまだ教えてもらっていなかった。どこで眠り、何を食べ、どんな風に生活するかも。ロマは街に定着せず、各地を回って見世物と季節労働で食い繋ぐとは聞いた覚えがあるけれど。
(こ、これは……)
歩き続ける一団の中でイーグレットは息を飲む。
旅の最初の試練は会話できそうな相手を見つけることだった。ぼんやりしていたらロマに囲まれたまま飢えるか凍えるかして死にそうだ。喉は既に緊張でカラカラに乾いている。
(と、とにかく言葉は通じるんだ。話しかけてきっかけを掴まなければ)
幸か不幸か目を合わせてもらえないのには慣れていた。その程度で折れる心ではない。ええいとイーグレットは小柄なロマの前へ歩み出た。
「あの、すまない。飲み物を分けてもらえないかな?」
「……!」
話しかけた相手は十歳前後の子供だった。あどけない顔の右半分を長い前髪で覆っている。少年は大きな黒い目を瞠り、イーグレットを見つめ返した。
瞬間、なぜか一団にどよめきが走る。イーグレットにはその意味がまったくわからなかった。ただ普通に声をかけただけのつもりだったから。
「あっはっは! こりゃいいや。――カロ、お前そいつの面倒見てやりな!」
冬明けの青い空にジェレムの笑い声がこだまする。手を叩いて面白がる男にカロと呼ばれた少年はこくりと頷いた。
「…………」
「あ、ええと、どうもありがとう」
礼を言い、スッと差し出された水筒を受け取る。わけのわからないままではあるが、ひとまず前進できたらしい。
(よ、良かった。ジェレムが付き人をくれる気になって。この先ずっとこんな調子だったらどうしようかと焦ったぞ)
イーグレットはほっと胸を撫で下ろす。子供とはいえ頼れる相手ができたのは嬉しかった。早く新しい生活に慣れたくて、さっそくカロに色々と尋ねようと試みる。――だが。
「私はイーグレットと言う。ええと、カロ? 君の年はいくつだい?」
「…………」
「……おや、聞こえなかったかな? ああ、私は先日十五になったばかりなのだが」
「…………」
「ええと……、それで君は何歳で……」
「…………」
質問に対し、じっと見上げてくるだけの相手にイーグレットは早くもくじけそうになった。カロは真っ黒な左眼にこちらの姿を映すだけで眉一つ動かそうとしない。
(これはもしや、白すぎて不気味な奴と思われているかな。それか喉に問題があって声を出せないとか?)
イーグレットは半笑いのまま憶測を働かせた。事情があるなら周りの大人がそうと教えてくれればいいのにロマはやはり不親切だ。耳は聞こえているようだし、最低限のやり取りはできるだろうが。始めた会話にイーグレットがどう収拾をつけたものか弱っていると、ぼそりと少年が呟いた。
「……そんなことを聞いてどうする?」
なんだ、喋れるではないか。単に人見知りしていただけか。
そう思って再びカロに目を戻すと、そこには心底訝しげな顔があった。
「俺の年に何か意味があるのか?」
「え? と、特に意味などは……」
「水のほかにまだ欲しいものがあったのか?」
「いや、別に私は君に催促しようとしたのではなくて」
「したのではなくて?」
矢継ぎ早に問いかけられ、今度はイーグレットのほうが詰まる。新しい侍女や侍従が来たときはいつもこういった世間話で様子見していたのだけれど。
「…………」
言葉に迷って黙り込んだイーグレットにカロはごく淡々と告げた。
「意味がないなら黙っていろ。荷物は口をきかないものだ」
「なっ……」
あまりの言い草に絶句する。姿だけでなく頭の中まで真っ白になった。
お前などただの荷物だと、今、そう言われたのか。
「あっはっは! そうだな、カロの言う通りだ!」
げらげらと前方のジェレムがさもおかしげに腹を抱える。蔑みの念を隠しもしない男に目をやり、イーグレットは父から教わったロマという言葉の意味を思い出した。
ロマとは即ち「人間」だ。ロマとロマ以外を明確に区別する彼らにとって、ロマ以外の存在など「人間ではない」のである。たとえそれが王族だろうと、亡き父の親友の息子だろうと。
(……駄目だ。やめよう。彼らに期待をかけるのは)
イーグレットは諦めて口を閉ざした。今後は黙って一行の後ろを歩くだけにしておこうと心に決める。
ひとまず放り出さないでやることがジェレムには最大限の譲歩なのだろう。ならば無闇に立てつくべきではない。イーグレットを見捨てて行くのは彼には簡単なのだから。
(今までも大切にされてきたわけではないが、さすがの私も荷物扱いを受けるのは初めてだな……)
強張る頬に乾いた笑みが浮かんで消える。
ロマの第一印象はすこぶる悪かった。それでもカロに出会ったその日は最悪だとまで感じてはいなかったのだが。
心象が悪化したのは翌日だ。川沿いの街道に沿って北上していたロマたちは辿り着いた村で悪行三昧を働いたのだ。
イーグレットは中まで同行しなかったので、耳に入った彼らの会話から推量するしかなかったが、詐欺と盗みの自慢合戦はとても品位ある人間のすることとは思えなかった。
「あっはっは! まったく馬鹿な連中だぜ。部品を抜かれてるとも知らないで、金物の修繕ありがとうございました、なんて頭下げて。あんまりペコペコするもんだから笑いを堪えるのが本当に大変だった!」
「馬の治療もだよ。ちょいとマッサージしたところで老いぼれ馬は老いぼれ馬なのに、ころっと騙されてくれるんだからな。そりゃあ血行を良くしてやれば半日くらいは馬だってご機嫌でいるさ」
「歌も占いもこっちはちっとも本気でやっちゃいねえのになあ! 奴らにゃ本物を見抜く耳や目がないのさ!」
「ああ、本当に間抜けで哀れな連中だ!」
人をこけにして笑い合う彼らの姿にうんざりする。これならまだ堂々と山賊を名乗って奪う強盗団のほうが潔い。
五年もこんな無法者とやっていかねばならないのか。
イーグレットは己の置かれた境遇に改めて気が塞いだ。とにかくもう月日が無事に過ぎるのを祈るしかない。イーグレットはケープのフードを被り直してこっそりと、声には出さずに祈り続けた。どうか平穏な旅ができますように、道中大きな問題が起こりませんようにと。切なる願いはアンディーンどころか天にも地にも届いてはいなかったけれど。
――三週間後、イーグレットは険しく長いつづら折りの峠道にいた。
ぜえぜえ、はあはあと息が切れる。背中を濡らす汗の量も凄まじい。一団がアルタルーペを登ろうとしているのはなんとなく察していたが、よもや山越えがこれほどきついとは思わなかった。
「……ハア……、ハア……」
杖代わりの枝にすがって無心で足を前に出す。右足で地面を蹴ったら左足、左足で地面を蹴ったら右足、と生まれたての小鹿のように。
人通りが少ないためか山道は荒れていた。時折小石に躓いて道の脇に転がり落ちそうになる。
まったく本当に冗談ではない。石灰質のでこぼこした白い岩があちらこちらから出っ張っている以外、崖に近い急斜面は短い草が生えているだけなのだ。見晴らしの良さは認めるが、足を滑らせれば全身血まみれ必至である。
「ああ、この辺は広々して特に風が澄んでるなあ」
「見ろよ……。小さな花が咲いてる」
「うーん、やっぱり春はいいねえ」
大人のロマたちはのんびりと風景を楽しむ余裕すら見せていた。体力のないイーグレットとは大違いだ。彼らが本気で先を急ぎ始めたら自分など半時間で取り残されてしまうに違いない。
「気持ちもいいし、ここらで一曲歌っていくか」
「おっ、いいねえ」
ローペースの旅を好むジェレムに少しだけ感謝した。今だって「ロマっつうのは時間や土地に縛られないで生きるもんだ」と彼がしょっちゅう足を止めるのでなんとかついていけているのである。
(大丈夫、大丈夫、峠さえ越えれば登りは終わるんだ。大丈夫、大丈夫、皆とはぐれないようにさえ気をつけていれば……)
そう自分に言い聞かせ、イーグレットはガクガクの足で歩き続けた。
どうにかこうにか保ってきた平常心はごうごうと吼える急流を前に脆くも崩れ去ったけれど。
(こっ、これを渡るのか……?)
真っ青になり、イーグレットは立ち呆けた。
山と山に挟まれて川が流れる場所のことを渓谷という。水は高い崖の上から滝となって滑り落ち、飛沫の膜を広げながら切り立つ岩壁に自らを叩きつけていた。その流れはいくらかまっすぐに伸びた後、また別の岩壁を抉って流れを変える。段々になって下流に伸びていく川はさながら水の大蛇だった。
なお恐ろしいのは今まで歩いてきた峠道がこの急流を前に忽然と途切れている事実である。人の歩行が可能そうな岸は押し迫る崖に狭められ、ついには水に飲まれていた。対岸に目を向けてみれば深く削れた岩場の奥に道の続きが見えている。何度確認してみても頭上の石橋は建設中で、ほかの迂回ルートもなかった。
「よーし、どうどう、落ち着け、落ち着け。お前はいい馬だ。さあ、しっかり俺に続けよ」
イーグレットには一切なんの説明もなくジェレムが愛馬の綱を引く。荷袋を背負った従順な家畜は暴れもせずに水に入った。
(うっ、うっ、嘘だろう……?)
本当にここを渡るつもりか。信じられない思いでイーグレットはジェレムを見つめる。
膝まで水に濡らしながら、しかし意外にしっかりとした足取りで彼は急流を渡り切った。一番手が道を示すや仲間のロマたちも下穿きを捲り始める。
「結構勢いあるぞ。バランス崩したら流されて戻ってこれねえな」
「春先は水嵩が増えるしね。姉さん、怖けりゃ僕と兄貴の間においでよ」
「ええ、ありがとう。そうさせてもらうわ」
どうやら渡河しないという選択肢はないらしい。子供のカロまで靴を脱いで裸足になるのを見てイーグレットは覚悟を決めた。
ついていかねば明日はないのだ。アクアレイア人ならアクアレイア人らしくアンディーンの加護を信じよう。今まで海で泳いだことすらないけれど。
(うう、渡る前から水辺に冷気が……)
いつも列の最後尾でロマの視界に入らぬよう心がけているイーグレットはここでもまたしんがりだった。だが今日は山登りで足がくたびれ果てており、置き去りにされない自信がない。――この一度だけは容赦してもらおう。そう意を決めて「先に行っていいかい?」と岸辺の少年ロマに尋ねた。最後に渡るのが己でさえなければジェレムたちは全員水から上がるのを待ってくれると考えたのだ。
カロは川面に視線をやり、それから無言で頷いた。何人かはもう向こう岸に到着済みだ。イーグレットも急がねばならなかった。
「うっ……」
雪解け水の温度は低く、爪先を浸しただけでもう降参したくなる。たちまち全身に鳥肌が立った。足を掬おうとする流れも強い。その場に留まるだけならともかく先へ進むのは困難を極めた。手にした棒きれを石の隙間に差し込んでバランスを取りつつイーグレットはのろのろと川底を歩く。
(うう、なんだってジェレムはこんな悪路を使うんだ。アルタルーペを越えるだけならほかにも峠はあるだろうに……)
文句をつけても仕方ないが、文句をつける以外に恐怖をまぎらわせる方法はなかった。なるべく平らな、べったり足裏をくっつけられる足場を選んで道の中ほどまで至る。
と、そのとき、前方から馬のいななきが聞こえた。
「えっ」
イーグレットは目を瞠った。まだ急流に足を浸けている者がいるというのに早くもジェレムが岩場の道を歩き出したのだ。
戸惑う間にほかのロマたちも濡れた足を拭いてさっさと行ってしまう。岸に上がる途中だった娘たちまでいなくなり、川中にはイーグレットとカロだけが取り残された状態となった。
(ちょ、ちょっと待て。私はとにかく子供の渡河を見守るくらい……)
イーグレットは冷や汗を垂らした。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというけれど、ロマにもそんな厳しい風習があるのだろうか。とんだ見込み違いである。
(早く追いかけないとまずいぞ)
息を飲み、慌てて進むペースを上げた。水はざぶざぶ荒い音を立てた。
不慣れな水中歩行だったが一応自力で最後まで辿り着く。陸地に足を出すと同時、安堵で膝からへなへな崩れてしまったが。
「つ、疲れた…………」
イーグレットは草の絨毯に身を投げ出した。カロを待つ短い時間に少しでも体力を回復させようとして。
が、寝そべりながら渡ってきた急流に目を戻したとき、イーグレットは己の愚かさに気がついた。大切なことを一つすっかり失念していたのだ。
(あっ、そうだ! あの子まだ小さいんじゃないか!)
自分のことに手いっぱいでそこまで気が回っていなかった。大の男が膝まで濡らす深さなのに、子供の背丈では太腿まで浸ってしまう。
案の定カロはまだ川の中央を少し越えた辺りにいた。皆の通った道筋からも外れている。歩幅が違うから安定した岩に足が届かなかったのかもしれない。
イーグレットはきょろきょろ周囲を見回した。ロマを見つけたら「彼の手を引いてやってくれ」と頼むつもりだったのだ。が、側には誰の姿もない。助力するなら自分が戻るしかなかった。
「おーい、平気かい? 一人でここまで来られるか?」
「…………」
呼びかけるとカロはじろりとイーグレットを睨みつけた。これくらい一人で平気だと鋭い目線が返事する。どうやら彼は気遣いを侮辱と受け取ったらしい。
(しまった。余計なお世話だったか)
善意だったのに上手く伝わらないものだ。小さく嘆息するとイーグレットは正面の岩場に座り直した。一人で渡れると言うならこちらはゆっくり待たせてもらうだけである。
カロは時折足を止め、細い肩を上下させながら一歩ずつ岸に近づいてきた。己以上に疲弊した顔を見ていると次第に憐憫の情が湧いてくる。一団の中には協力し合う者もいたのだから、誰か彼を運んでやれば良かったのに。
(それにしてもこんなに時間を食われて彼らに追いつけるのか……?)
南中を過ぎた太陽を見てイーグレットは眉を寄せた。ジェレムのことだから真面目に足を進めてはいないだろうが心配だ。
再び視線を向けたカロはまた少し下流に流されてしまっていた。岸まであとほんの数歩のところだが、彼には少々高すぎる岩を忌々しげに見上げている。
(うーん……)
イーグレットは悩んだ末に立ち上がった。無口で意固地な子供の前にやって来ると、どこを這い上がるか決めかねていた彼にそっと杖の先を差し出す。
「……」
「す、凄まないでくれるかな。登ってくれると早く進めて助かるのだけど」
また無駄口を叩くなと叱られるだろうか。びくびくしながら反応を待つ。
カロはしばらく警戒心たっぷりにイーグレットと木の棒とを見比べていた。
「……いきなり離すなよ」
少年は杖を掴む気になってくれたらしい。釘を刺されてイーグレットは傷心した。掴ませた杖を離すなど、彼の目にはそんな酷い真似をする人間に見えるのだろうか。
「よい、しょっ、と!」
引っ張り上げた身体は軽かった。こんな子供があの急流を渡ってきたのかと驚くくらい。
消耗しきって彼もその場にへたり込む。借りたくもない手を借りねばならぬほど疲れ果てていたようだ。すぐ山道を歩かせないほうが良さそうだった。
(ああ、まだ旅を始めて一ヶ月も経っていないのに先が思いやられる……)
と、そこに馬のぐずる鳴き声が響いた。ひょっとしてジェレムが引き返してきてくれたのかと声のしたほうを見やる。
だがそれはイーグレットの買い被りだった。少し離れた岸にいたのは三頭の馬を伴った三人の行商人だった。
「ああ、駄目だな、すっかり怯えちまってる。川を渡らせるのは無理かねえ。こいつもだいぶ年だしねえ」
「どうする? 峠村に戻って売り払うか?」
「二束三文で買い叩かれちまいそうだがなあ」
男たちは一頭の年寄り馬に困らされている様子だった。荷物を全部降ろしてやっても、撫でても擦っても動こうとしない駄馬相手に全員弱りきっている。
(す、すごい。こんな悪路をあんな大荷物で!? 商人というのはどこへでも行く生き物と聞くが、たくましい人たちだなあ)
岩陰に隠れて彼らを覗き見しつつ、イーグレットは感心した。もしかすると目的地がアクアレイアかもしれないので迂闊には近づけなかったが。
(どこからどう伝わってグレディ家に私の居場所が漏れるかわからないしな。見咎められないように気をつけなければ……)
「その馬いらないのか? だったら俺に売ってくれ」
不意に耳に入った声にイーグレットはぶっと吹き出しかけた。隣に目をやるとカロがいない。今の今まで息切れしていたはずの子供はいつの間にか馬主に交渉を持ちかけていた。
(な、何をしているんだあの子は!?)
イーグレットはぴくぴく頬を引きつらせる。
いや、馬を買おうとしているのはわかるが、一体どうしてこんな急に。
「なんだお前。ガキがそんな金持ってるのか?」
商人は見くびった態度で彼に接した。ほかの二人も忽然と現れた少年ロマに胡散臭そうな目を向ける。
「金はない。これと交換してほしい」
カロの懐から取り出されたものを見てイーグレットは「は?」と瞠目した。きらりと輝く純銀製のチェーンカフス。つい先日、落として失くしたと思っていたそれが小さな手に握られていたのだ。
「おっ? なんだなんだ? いいもの持ってるじゃないか! いいとも、交換しよう!」
馬主は大いに喜んだが彼の仲間は「盗品じゃないか?」「どうせ偽物だって」と忠告した。ロマの不道徳に愕然としつつ、イーグレットは心の中で「おい、私の持ち物だぞ!」と叫ぶ。
けれど取り返しに出ていくことはできなかった。まんまと目当ての馬を手に入れて岩陰に戻ってきた子供に尋問するくらいしか。
「カ、カロ……? 今のチェーンカフスは……?」
「二、三日前に拾った。馬に化けるとは思わなかったな」
「ひ……拾ったのか。そうか……。なら落とした者に非があるな……」
震える拳を後ろに引っ込めてイーグレットはなんとか平静を装った。そんな努力を知りもせず「自分の馬を持てたらロマとして一人前だ」とカロは嬉しげだ。いつになく饒舌で「荷物が口をきくな」と言ったことなどすっかり忘れた様子である。
「こいつを元値より高く売れればもっといい。ジェレムたちにもやる男だなと認めてもらえる。身綺麗にして、金のありそうな家に連れて行こう」
聞けばロマの世界では馬を扱う男が尊敬を受けるらしい。全員ろくでなしに見えるこちらとしては重きを置くポイントがずれている気がしてならないが。
(……はあ、まあいいか。珍しく人と会話になっているし)
馬のおかげでジェレムたちには割合すぐに追いつけた。一団は一夜の安寧を提供する峠の宿場村で歌と踊りを披露しているところだった。




