第3章 その2
――ああ、また誰も起こしてくれなかったな。
毛布の中で寝返りを打ち、力なく嘆息する。
まあいいか。どうせ誰も亡霊王子に用などない。
眠っていよう、このままずっと。
今日も、明日も、明後日も、世界が終わりを告げるまで――。
「…………」
暗すぎる部屋で目が覚めて、子供時代の夢の続きを見ているのかと思った。あの寝室は王宮で一番日当たりの悪い場所に隔離されていたし、誰かが訪ねてくることも稀だったから。
イーグレットは瞼を開き、年相応に筋張った己の掌をかざした。
視界には見慣れぬ天井。ずっしりと存在感ある石の砦。鳥の声に朝を知り、起き上がって身支度を整える。
世話されないことには慣れていた。おかげであまり人の手を煩わせずに済みそうだ。ルディアの付けてくれた護衛は気のいい青年たちだけれど、白すぎるこの身をまじまじ見たくはなかろう。
(……考えすぎか。二、三十年前とは違う)
イーグレットは壁にかかった鏡に向かって襟を正した。相も変わらずそこにいるのは真っ白な粉かぶりだ。
容姿に対する偏見は昔ほど強くなくなった。王国が交易規模を広げるにつれ君主の外見より航海経験のなさのほうが問題視されるようになったからだ。
防衛隊くらい若ければ先代の治世を知らないし、ジーアン帝国の台頭と自国の王の色白さを結びつけて嘆いたことはないだろう。それに彼らは娘の選んだ部下であり、カロとも意を通わせている。的外れな羞恥心を抱く必要はない。
(二人にはもう会えないだろうな)
我が子の顔と旧友の顔、思い浮かべて目を伏せた。
結局別れは告げられなかった。そうしたくてもできなかった。
ルディアにしろ、カロにしろ、イーグレット一人でコリフォ島へ向かうなど知れば全力で止めたに違いない。素直に諦めてくれる性分なら事前に明かせもしただろうが。
(手紙は残した。無事に手元に届くことを祈ろう)
マルゴー行きの荷物に紛れ込ませた封筒。少なくとも娘の目には触れるはずだ。慰めのように思い馳せる。
(カロ……)
気がかりなのは友人のほうだった。きっと怒らせただろうし、呆れさせて、悲しませた。一緒に逃げようと言ってくれたのを無視して黙って旅立って。
いつも彼とはすれ違う。彼はまっすぐこちらを見るが自分はそれに応えられない。どうしてもロマほど身軽になれなくて。
(王としてそこまで多く背負っていたとは思わないのだがなあ……)
ふとイーグレットは客室の隅の書き物机に気づいた。もうあんな机の下からカロが現れはしないのだ。そう思うとなんだか無性に寂しくなる。
勝手な話だ。弱き王家を守ろうとロマとの関わりをひた隠しにしてきたくせに。
例の地下通路はジーアン兵に見つからないように仕掛け石を嵌め直してきた。おそらく誰にも使われなくなって朽ちるだろう。苦い記憶を道連れに。
ぱん、と掌で頬を張る。イーグレットは壁かけ鏡の中に立つ男を睨んだ。
船路は昨日で終わったのだ。いつまでも後ろばかり振り返ってはいられない。今日からは未来のために、成せることを成していかねば。
「諸君、起きているかね?」
控室の若者たちに呼びかけると即座に「はい!」と返事があった。「開けるよ」と断って重いブロンズの扉を開く。
長身の槍兵レイモンド・オルブライトも、細身の剣士ブルーノ・ブルータスも、どうぞご命令をと言わんばかりに片膝をついてこちらを見上げた。もはや畏まって接する相手ではなくなったのに、律儀な青年たちだ。
「朝食前に散歩でもと思うのだが、君たちはどうする? 休んでいてくれても私は一向に構わないが」
無理に従う必要はないと仄めかす。しかし二人は「もちろんお供いたします」「そんじゃ俺、この辺り案内しますよ!」と嫌な顔一つ見せなかった。本当に善意でついてきてくれたのだなとありがたく思う。
「この砦、守りは固いっぽいですけど、古いわ暗いわ冷え込むわで気分上がらないっすもんねー! 今ちょうど外行きてーなって話してたとこなんすよ! 十日も波の上だったし、俺も大地を踏みしめて歩くのは大賛成です!」
元気良く手を挙げたのは槍兵だ。面食らうほど気安い調子にイーグレットは瞬きする。こちらの困惑に気づいてブルーノが隣の若者の肩を小突いた。
「……おい、レイモンド。口を慎め」
「へっ? 俺なんか失礼なこと言った?」
「陛下に対してノリが軽すぎるんだ、この無作法者!」
「えっ、ええーっ!? ウソーっ!?」
レイモンドは飛び上がって狼狽した。「す、すんません」とぺこぺこ何度も頭を下げる仕草がまた絶妙にユーモラスで、堪えきれずについ吹き出す。
「はは、いいよ、いいよ。楽にしていてくれたほうが私も気疲れせずに済む」
「おお、やった! 陛下もこう仰ってくれてっし、セーフセーフ!」
「温情につけ上がるんじゃない! まったくお前という奴は!」
「いやいや、本当に気にしなくていい。それでは出発しよう。レイモンド君、ブルーノ君」
イーグレットが促すと満面の笑みの槍兵と眉をしかめた剣士は揃って部屋を出た。なんだか愉快げな二人である。不慣れな土地で気が滅入らないか心配だったが、これなら明るく過ごせそうだ。
「おー! さっすが三月、いい天気!」
城門をくぐった先には暖かな陽光が差していた。晴れ渡った青空を見上げてレイモンドが歓声を上げる。船上では曇りの日が多かったので春の到来はより強く感じられた。
追放され、幽閉された身ではあるが、城壁に囲まれた砦町をうろつく程度の自由は認められている。門番に「少し出かけてくる」と告げてイーグレットは石畳の道を歩き出した。
「良かったっすねー、あったかくて!」
槍兵の声に頷きつつ小さな街を見渡せばそこかしこにオリーブが植わっている。風に揺れる緑の葉っぱはさんざめく光を受けて銀色に輝いていた。気候が良いのは確からしい。成人男子の胴回りより遥かに太くオリーブの樹が育つなら夏もからりと爽やかに乾いているのだろう。
緩やかな坂道は西の小山に向かって細く伸びていた。その両側を埋めるのは切石積みの古風な家々。軒下には農具が散らかり、手押し車が横倒しになっている。裏手には小さな菜園も見えた。
波の音色は届けども、橋や運河はどこにもない。水路だらけの都とはまるで異なる風景だ。
「どこ行きますー? 浜辺か聖堂か朝市か、コリフォ島ならどこでものんびりできるっすよ」
気さくな口調は変わらずにレイモンドが行き先を尋ねた。ふむ、と思案して問いに答える。
「高台がいいのだがな。できれば海を見下ろせる」
「了解っす! そんじゃルシオラの丘に登りましょ!」
槍兵は上機嫌で先頭に立った。「顔に締まりがないぞ」と言って剣士が目を吊り上げる。
(この子たちは確かルディアと同い年だったな)
そんなことを思い返してイーグレットは目を細めた。自室にも頻繁に出入りさせていたようだし、仲良くやっていたのだろう。
「しかし妙に人通りが少なくないか? 前に来たときはもっと賑わっていた気がするが」
「ああ、港のほうに集まってんだろ。朝に網引いてくるからさ」
街を見回すブルーノの疑問にすかさずレイモンドが返答した。土地勘もあるようだし、彼のほうが島に慣れている様子だ。
(集まっている、か。ということは本国がどうなったかも広まっている頃合いだな)
イーグレットはふうと小さく息をついた。トレヴァーとは話がついたが街の住人の反応はわからない。己がここにいることで悪感情を誘発させないわけがないが。
「……それでルシオラの丘というのは?」
さり気なく話題を逸らす。王家の事情に付き合わせて明るい空気を壊したくなかった。本来なら二人ともコリフォ島とは無関係でいられたのだから。
「あっ、道こっちっす! 夏の夜だと蛍とか見れるんですけどねー」
「ああなんだ、あのときの丘だったか」
槍兵の先導で小広場の角を曲がる。二人は昨夏丘の頂上で蛍狩りをしたそうだ。誕生日に見物できてラッキーだったとか、虫籠を抱えたコナーに遭遇したとか楽しそうに話してくれた。
ほっと安堵の息をつく。若者はやはり笑ってくれているほうがいい。
「行楽気分で葡萄酒に手を出すんじゃないぞ。また酔っ払われたら敵わない」
「あっ、ひでー! 俺だって護衛中に飲んだりしないっつーの!」
「罰金か減俸のおそれがあるとしたら、だろう?」
「だからそんなことねーってば!」
どうも彼らは突っかかるのを一種のコミュニケーションにしているようだ。青春をともにする友人同士の特権だなと微笑ましく眺めていると、ハッと視線に気づいた剣士が赤くなって咳払いする。
「と、とにかく。断りもなくレモンを買いに行くような突飛な行動は控えろよ」
「もー、わかってるって。今日は特に小言が多いなー」
「お前がいつも思いつきで段取りを乱すからだろうが!」
「けどまだ裏目に出たことなくない? 俺って実は結構役に立ってない?」
「レイモンド、お前さてはまったく反省していないな……?」
「えっ!? いやー、ハハ、まさかそんな……」
だんだん笑いを噛み殺すのが難しくなってきた。娘の直属部隊にはなかなか面白い人材が集まっていたと見える。
「あれっ? 陛下、どうしたんすか? なんかいいことあったんすか?」
「ふふ、まあおかげさまでね」
「頼むからお前もう黙ってろ……」
ブルーノが嘆息とともに頭を抱える。道はそろそろ古めかしい小聖堂を通り過ぎようとしていた。石畳はここで消え、緩やかだった坂の傾斜が一気に角度をつけ始める。周りの緑も一段と濃くなり、吹き抜ける風にオリーブの枝葉がざわめいた。
丘はそれなりに高いようだ。緑のトンネルが陰を作って涼ませてくれるものの、歩いているうちにうっすら汗ばんでくる。右を見ても左を見ても深い森。やっと視界が開けたのは坂を登りきったときだった。
樹冠が途切れ、森の向こうに青が広がる。
空の水色。海の藍色。間を埋めるおぼろげな陸のシルエット。
霞んで映るのは対岸の東パトリア帝国である。コリフォ島は大陸からあまり離れていないため、高台からならこうして帝国の西端を見下ろせるのだ。
(よし、街も港も一望できるな。ジーアン軍が上陸したらすぐに察知できそうだ)
イーグレットは見晴らしの確認を終えると周囲をぐるりと一瞥した。
丘には清水が湧いており、小さな泉を守るかのように老木が立ち並んでいる。茂みの奥には塔らしき人造物の残骸があった。指でそちらを示しつつ、槍兵に「あれは?」と問う。
「ああ、あれは昔の灯台っすよ。要塞にもでかい鐘楼ができたんで、朽ちるに任せてるとかで。確か灯台守の家ごと廃墟になってるんです」
「ほう」
レイモンドの言った通り、茂みの奥に進んでみると三階から先のない灯台と雑草の繁茂する空き家がぽつんと佇んでいた。基礎も壁も古い石でできており、どっしりと頑丈そうだ。しかし長年風雨に晒されて傷んでいるのは否めない。家財道具も当然残っていなかった。
(埃がすごいな。だがまあ夜露が凌げそうならなんとか……)
住める建物か見極めようと覗き込む。いざというとき移れる場所を確保しておくのは重要だった。ヘウンバオスはアクアレイア海軍にも解散を命じるかもしれない。そうなればイーグレットはあの要塞を出て行かざるを得なくなる。街中に引っ越すのは民が難色を示すだろう。自分も静かなほうがいい。好きな歌でも歌って余生を過ごせたら。
「陛下、さすがに中は危険です。外からご覧になるだけになさってください」
廃屋に踏み入ろうとしたら剣士に袖を引っ張られた。日避けのためか入口も窓も小さく設計されていて、屋内を見づらかったのだが。
「灯台はともかく空き家のほうは大丈夫だよ。大きなひび割れもないし、鳥の巣だって新しい」
「で、ですが」
「安心したまえ。あばら家を見る目は確かだ」
微笑で制止を振り切るとイーグレットは玄関の敷居を跨いだ。さっそく蜘蛛の巣の洗礼を受けそうになるが、指先でちょいちょいと払う。
「陛下ー! 行くなら行くで護衛の俺らを待ってくださいよー!」
「レイモンド君、入ってすぐ天井が低くなっているから気をつけ……」
言い終わらないうちにゴンと鈍い音が響いた。戦場で聞くような重低音だ。大柄な槍兵は半泣きでその場にしゃがみ込んだ。
「……っ!」
「へ、平気かね? 湧き水で冷やしてきたほうが」
「こ……っ、こんくらい、な、な、なんともないっす……っ」
脂汗を浮かべて強がるレイモンドにブルーノがハンカチを差し出す。行ってこいと尻を蹴られ、槍兵は「わーん!」と泉に駆けていった。
「申し訳ありません陛下。まったくあの男は、騒がしいわ注意力散漫だわで」
「二人は仲が良いのだね」
「はあ!? ……あ、いえ、そ、そんな風に見えますか?」
「見えるとも。君らといると私も朗らかな気分になるよ」
「ほ、朗らか? だ、だったらいいのですが……」
青髪の剣士はもごもご口ごもった。強気な彼にしては珍しい態度だ。ドナ・ヴラシィ軍に寝返ろうとした傭兵団長を「三点だ」と一蹴した青年と同じには思えない。気恥ずかしげに目を逸らす姿はあたかも少女のごとく映る。
あのときのあの啖呵には感心したなと振り返る。金に目が眩んだグレッグを誰も説得できそうになかったのに、「ああ、あの子の育てた兵だ」としみじみ感じたものだった。娘一家をマルゴーへ逃がす話を持ってきたときも。
「陛下ー、抜けさせてもらってすみませんでしたー! 以後気をつけます!」
と、患部の手当てを終えたレイモンドが戻ってくる。槍兵はイーグレットが床の蔓草を引っ張っているのを見て「……何してんすか?」と首を傾げた。
「いや、どれくらい深く根を張っているのか知りたくてね。除草は可能なのかどうか」
「はあ……? よくわかんないすけど、陛下って意外とアクティブっすよね? 建国祭のレガッタでも前評判を裏切る漕ぎっぷりで逆転してましたし」
「ははは、アクティブなわけではないよ。まあ王族にしては服を汚すのが気にならないほうではあるが」
「あ、それってさっき仰ってたあばら家を見る目がどうのってやつと関係あります? もしかして陛下も子供の頃は秘密基地とか作ってたクチじゃ」
「残念ながら私はそういう遊びとは無縁だったな。あばら家探しはある時期の日課だったのだ」
「へっ? に、日課?」
尋ね返されてから喋りすぎたことに気がつく。だがすぐに「まあいいか」と思い直した。二人には聞かれて困る話ではない。
「もしかして、ロマの一団と旅しておられた頃ですか?」
不意に飛び込んできた問いかけにイーグレットは顔を上げた。見れば薄暗い室内にランタンの光をかざすブルーノまでもが好奇の目を向けてきている。
不快な類の目つきではなかった。そこにあるのは親近感からくる「知りたい」という欲求だった。
不思議に親しみ深い若者だ。常の己なら警戒心が先に立ちそうなものなのに。
「……ああ、そうだ。北に向かって随分歩いたよ。野宿する日もざらだった」
返事を聞いてブルーノは小さく身を乗り出した。続きを期待する目でじっと見つめられ、ついその気になってしまう。まさか娘以外の人間とあの友人の話ができるとは思ってもいなかったから。
「君はロマをどう思う? 世間では盗人同然に見なされているが」
「私は――正直に申し上げると、カロに会うまで良い印象は持っておりませんでした。彼らは我々の法規に従わない、治安を乱す存在だと」
「では今は?」
「ほかにロマの知人がいないのでロマ全体の判断は控えますが、カロには感謝しています。随分と力になってくれましたし、簡単には裏切らないとわかっているので頼もしいです」
率直な意見にイーグレットは微笑ましく頷く。ブルーノの笑みが彼らの間の信頼関係を証明していた。
裏切らない。そう、一度仲間と認めた者にロマはどこまでも身を砕く。実感として知っているならなお安心だ。
「親しくなるまでは大変だったがね。最初は全然意思疎通できなくて、なんて酷い一団に加わったのかと途方に暮れたよ」
イーグレットは遠い昔を懐かしんだ。「是非お聞かせください」と乞われ、それなら出会った頃のことでもと語り始める。
「雪解けの季節だった。船はどんどん海に出て、港も活気づいていて……」
ブルーノも、レイモンドも、熱心に耳を傾けてくれた。
思い出話に興じられるのも今だからこそか。大きなものを失ったはずだが、それほど悪くないと思える。
「私は十五になったばかりだった。都を出るのは生まれて初めてだった」
自分はこの島を出られないけれど、若い二人には帰るチャンスがあるだろう。
いつかどこかでカロに会ったとき、今日の話をしてくれればいい。どんなに遠く離れても決して忘れないと彼に伝われば。
そうすればきっと、互いがどこにいようとも永遠に寄り添えるはずだ。




