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第3章 その1

 星のない砂漠に放り出された気分だった。灼熱は恐ろしいほど冷え切って、暗澹たる漆黒にどこまでも閉ざされている。

 片割れの言葉を思い出しながらヘウンバオスは悪夢に呻いた。

 現実という名の悪夢。零れ落ちていく時の砂。掴んだはずの蜃気楼。

 船が揺れているのか己が揺れているのかもわからない有り様で、誰もいない船室の奥、綿の詰まった長座布団にただ横たわっていた。

 喚き散らしそうになるのを耐えるだけ。必死に息を繋ぐだけ。


 ――あなたの寿命、理屈の上ではもう尽きています。


 頼みもしないのに甦るにこやかな笑みに爪を噛む。時が過ぎれば過ぎるほど告げられた言葉は紛れもない事実なのだと確信は深まった。

 九百年も忠実だったあの男を変えたもの。それは残された猶予の短さだったのだろう。間もなく死ぬと悟らねばハイランバオスとてあんな狂気の沙汰には出まい。嘘をつかれたことがないのも知っている。九百年間ただの一度も。


(……皆にどう伝えればいい?)


 バオゾに帰ってからのことを思うと息苦しさがいや増した。

 仲間はアクアレイアこそ守るべき新たな塩湖だと信じているのだ。よく似た別物だったというだけで悲しむのは明らかなのに、命の灯火まで燃え尽きんとしていると知ったら。

 分裂か反乱か。足元に火のつく可能性は極めて高かった。だと言うのに己は有効な手立て一つ考えられないままでいる。

 頭を動かそうとするとハイランバオスの無邪気な声が思考を埋めた。倦怠と無力感が血の代わりに全身を巡り、少しの力も振り絞れなくなってしまう。


(……アーク……)


 聖櫃の中枢に触れた。弟は確かにそう言った。アークが何か解き明かすのがヘウンバオスの試練だとも。

 きっと今はそれを追いかけるべきなのだろう。弟がコナーとともに消えたのだって、あの画家がアークについて重大な情報を持っていると示唆するためにほかならない。ヒントがまったく提示されていないわけではないのだ。


 それでもヘウンバオスには指一本動かせなかった。コナーを捕まえなければという気にもなれなかった。

 足掻いたところでまた幻を掴むだけではないのか。道の途上で力尽きるだけではないのか。心に生じた猜疑には歯止めがきかなくなる一方で。


(千年探してアクアレイアだけだったのだぞ。有力な手掛かりは……)


 ぎり、と強く唇を噛む。掌で押さえた額に血の気はまだ戻らない。

 レンムレン湖は涸れたのだ。乾いた砂に染み込んで、届かない深いところに隠れてしまった。そんなものを再び探し出そうとしたのがそもそも誤りだったのかもしれない。

 やはりあのとき湖と一緒に朽ち果てれば良かった。もう一度、もう一度など願わずに。


 胸が苦しい。あの懐かしい水辺のことしか考えられない。

 胸が苦しい。ただひたすらに。

 だがこれは、はたして感情だけに由来する痛みなのか。


(……私も最後は真っ黒になって死ぬのか……)


 小さな蟲が炭に変わっていく様をありありと思い出し、ヘウンバオスは身をすくませた。嫌なのに、あんな終わりは嫌なのに、凍りついたままろくな思考すらできない。

 どうして永遠に生き続けられるなどと驕った考えを持ったのだろう。仲間に見限られてしまえば己とて無力な王に成り下がるのに。

 どうやって辿り着けばいい。こんなところからどうやって。

 砂に埋もれて道が見えない。

 夢見たオアシスは遠すぎる。




 ******




 アクアレイアを発っておよそ半月、ルディアたちを乗せた王国海軍の快速船は逆風のアレイア海を休みなく走り続け、二月二十八日の夕刻、コリフォ島に到着した。

 島の東端にある要塞からも海軍旗を掲げた船が見えたのだろう。隣接の軍港に入ったときには駐在の兵士らがこぞって迎えに現れていた。その最前列にはコリフォ島基地の指揮官でジャクリーンの父、トレヴァー・オーウェン大佐の姿もある。


「お父様!」


 甲板から手を振る娘にトレヴァーはぎょっと目を剥く。中年にしては珍しく痩せ型の大佐はジャクリーンの隣にいるのが祖国の王であると気づいて再度仰天した。おろおろと周囲を見渡し、こちらの事情など知る由もない己の部下にどういうわけか尋ねている。


「お父様、ご無事で良かった……!」


 船着場にガレー船が止まるや否や、ジャクリーンは青いドレスの裾を翻して駆け下りた。普段は考えなしの行動を取る女ではないが、身内の顔につい我を忘れたらしい。父親の胸に飛び込んで再会の喜びに浸る彼女はもう「ルディア姫」ではなくなっていた。


「おお、おお、私の可愛いジャクリーン。まさかこんなところでお前に会えるなんて」

「お父様、お父様こそお元気そうで何よりですわ! 伝書鳩が戻ってきてから私ずっと心配で」


 親子は瞳に涙を浮かべてひしと抱き合う。嘆息混じりにルディアは笑った。

 本来なら「もっと王女らしくしないか」と諌めなければならないところだ。だが家族愛に水を差すことはしなかった。身代わりとしての侍女の役目はほぼ終わっていたからだ。

 ジーアンに命じられるまま王家は揃ってコリフォ島に追放された。そういう事実をでっち上げられた今、眉を吊り上げて怒るほどの失態ではない。口止めは必要だが、この場の兵士に聞かせておけば十分だろう。

 イーグレットも何も言わずに二人を見つめて微笑んでいる。最初から若い女に人身御供を強要する気はなかったに違いない。ジャクリーンとトレヴァーを引き離すどころか父は羨ましげですらあった。


「本当に、どうしてお前がコリフォ島に? しかも陛下までご一緒とは」


 トレヴァーは戸惑いを隠せないまま問いかける。それでようやく己の責務を思い出したか侍女は慌てて父親から離れた。


「いけない、私ったら。姫様のふりをしているところなのに」

「ひ、姫様のふりをしているゥ!?」


 石造りの軍港に素っ頓狂な声が響く。驚きのあまり大佐は娘に掴みかかった。


「痛い! お父様、声が大きいですわ!」

「大きくもなるよ! ひひ、姫様のふりをしているって、お前、それは、ど、どういう」


 混乱するトレヴァーを見てイーグレットが即座に船から駆け下りる。護衛のルディアたちを振り向きもせず、王はもつれ合う親子の間に割り込んだ。


「トレヴァー、無断で娘の手を借りてすまなかった。ノウァパトリア陥落以後の経緯を話したいのだが、急ぎ席を設けてくれないかね?」

「い、イーグレット陛下! こ、これはお見苦しいところを。ただいま仰せの通りに」


 トレヴァーは汗を拭い、手近な部下に軍議室の準備を命じる。すぐに数人の士官がずんぐりと巨大な砦に走っていった。

 軍港はたちまち物々しい雰囲気に包まれる。まだアクアレイアがジーアンに吸収されことを知らないコリフォ島の兵士たちは不審そうにイーグレットを盗み見た。

 即位以来、父が都を離れた例はほとんどない。ジャクリーンの発言といい、本国で何かあったと考えるのは当然だ。

 事の顛末を知ったとき、彼らはどんな反応を示すだろうか。王でなくなった王を匿うなど真っ平だと拒絶される可能性は高い。ジャクリーンならなんとか大佐を説得してくれるとは思うが。


「えっと、あの……、ところで去年から軍備が一向に補填されないのですが、まさか今更コリフォ島で海戦なんて事態にはなりませんよねえ?」


 基地に主君を案内しつつ、おっかなびっくりトレヴァーが問う。返答は張りつめた沈黙によってなされた。


「え、えーっと……、イ、イーグレット陛下……?」

「無益な戦いは私も避けたい。そのためにできる相談は済ませておこう」


 穏やかだが不穏な台詞に大佐の頬がひくりと引きつる。


(安住の地を探すのもひと苦労だな)


 そう胸中に呟いて、ルディアは父の後に続いた。




 ******




 ルディアがコリフォ島を訪れるのはこれで三度目だ。一度目はジーアン帝国に向かう旅の途上、二度目はその帰途で立ち寄った。だが砦の奥まで入るのは今回が初めてである。防衛隊は海軍とは別組織という扱いのため、管轄違いの軍事施設は利用できなかったのだ。


 イーグレットとの密談を終えたトレヴァーは王国滅亡の衝撃に青ざめつつも元国王の滞在を受け入れてくれた。曰く、十人委員会の決定に逆らう理由はないとのことだ。

 ひとまず落ち着く場所はできたらしい。到着した当日に叩き出される羽目にならずルディアは胸を撫で下ろした。


 既に日はとっぷり暮れている。ささやかな晩餐の申し出も断って父は早々と用意された部屋に引っ込んだ。高官用の小さな客室が今後の王の仮住まいだ。ルディアとレイモンドは警護がてら、その前室で寝起きすることにした。

 ジャクリーンはトレヴァーの私室に身を置くようである。父親といたほうが彼女にとってもいいだろう。何かあったときルディアたちでは彼女を最優先にできない。


 武骨な石積みの一室でルディアはふうと嘆息した。レイモンドも少ない荷を下ろして客室側のドアに張りつく。


「陛下よっぽど疲れてたんだな。もう寝ちまったみてーだぜ」


 しばし隣室の物音に耳を澄ませていた槍兵はルディアの隣に戻ってくるとぼそぼそと耳打ちした。

 長いこと気を張り続けていたのだ。泥のように眠って当たり前である。それに緊迫の日々はまだ終わりを告げたわけではない。明日からまた針のむしろが敷かれるのは目に見えている。休める間に父には休んでほしかった。


「起きてても腹減るだけだし、俺らも寝るか」


 結構いい寝床だぞと嬉しそうにレイモンドが毛布をはたく。ルディアたちに与えられた続き部屋には慎ましやかなベッドが二台、それと木製のテーブルが一組備えられていた。要塞という建造物の特徴として窓はない。壁掛け燭台の横に小さな換気用の孔が点々と並ぶのみである。

 屋内の闇は濃かった。月光を反射して揺らめく王国湾の夜とは違って。


「寝るのはいいが、装備を解いていいのは一人だけだぞ。もう一人は扉の前に椅子を置いて仮眠だ」

「えーっ? そこら中に海軍兵士がいるってのに?」

「だからだ馬鹿者。我々が歓迎されていると思うな」


 ルディアの苦言にレイモンドは「うっす」と姿勢を正す。わかっているのかいないのか判断しかねる返事である。どうしてこいつと話していると重いはずの話まで軽い響きになるのだろう。


「お前なあ、これから本当に何があるかわからないんだぞ。今のところは何も要求されていなくても帝国がコリフォ島を放置するとは考えにくい。改めて『王家の血を根絶やしにしろ』と命じてくる可能性だって残っているんだ」


 ここまで言えば暢気な槍兵も押し黙った。悪い未来ばかり強調するつもりはないが、現状から目を逸らすこともできない。父の安全はまだ確約されたとは言えないのだ。


「……本当はコリフォ島まで来たらあの人にはカロと一緒に逃げてもらおうと思っていた。失意のあまり国王は重い病を得て、そのまま亡くなったという噂を流して」


 低い声でルディアは流れた計画を語る。えっとレイモンドが身を乗り出した。


「そんな予定立ててたのか? すっげー名案じゃん」

「だがそれはできなくなってしまった。カロが船に乗れなかったからな」

「えっえっ、なんでだよ。カロには後で追っかけさせて、ジーアンに無茶振りされる前に、とりあえず陛下にゃ身を隠してもらえば良くね?」

「あの人が納得しないさ。素直に城を明け渡したのはアクアレイアのためだし、逃亡が発覚すれば皆の立場を悪くするとわかっていてこの島を脱出はしまい。それでもカロなら強引に連れていってくれると思ったんだが……」


 ルディアはふうと息を吐いた。嘆いたところで仕方がない。いない人間には頼れない。やはり考えが甘かったのだ。重大な決断を他人に委ねようなどと。


「いや、けど命かかってんだし、陛下が納得できないっつっても逃がさなきゃ危ねーじゃん。なんならカロの代わりに俺たちがさらって」


 首を振り、ルディアはレイモンドの言葉を遮った。そうできれば良かったが――否、そう決心できれば良かったが、心とはままならぬものだ。分かれ道を前にして進むのをためらうなんて今まで一度もなかったのに。


「……私が駄目だ。自分がどうするべきなのかまだ迷っている」


 ルディアの返答に槍兵は目を丸くした。さぞや驚かせたことだろう。娘なら普通窮地に立つ父親をなんとか救おうと考える。方策があり、ただちに実行に移せる立場にいるくせに、見ているだけなど考えられない。


「迷ってって、なんで……」


 戸惑いを隠せていない声に苦い笑みを浮かべた。

 だから誰も連れてきたくなかったのだ。問われれば答えざるを得なくなる。己の中の葛藤を。


「……王でなくなったあの人に、もう自由になってほしいと思う。だがあの人が王としての人生を全うしたいと願っているならその思いを軽んじたくない。もし私が同じ立場ならきっと最後までアクアレイアに尽くそうとするだろう。余計なお節介で邪魔されたくないだろうし、望む通り生きられなければ恨みに思うのもわかりきっている」


 でも、とレイモンドは眉をしかめた。理解されずとも構わない。国に対する所有意識や愛着など王族以外にわかるはずないのだ。骨の髄まで染みついた「私のアクアレイアだ」という思いがたやすく消えてくれるものならどんなに良かったか。ルディアでさえ喪失感でいっぱいなのに、その腕から波の乙女を奪われたあの人は。

 必死に守ってきたことを知っている。ろくな味方も持てないで、不吉の王と蔑まれ、目に見えぬたくさんの傷を負って。

 だがそれが父の歩んできた道だ。あの人の魂そのものだ。王冠を失ってなおこの道を行くと決めたならルディアには止められない。その意味するところが永劫の別れだとしても。


「誰も自分がどんな風に生まれつくかは選べない。それでも己に与えられた、ごく限られた選択肢の中から、これと思う生き様を選ぶことを意志と呼ぶなら――私はあの人の意志を尊重したいんだ」


 告げながら、ルディアは己の半生に思いを馳せた。

 叶うならあの人の本物の娘に生まれたかった。本物の姫に生まれたかった。願っても詮無い願いだと承知して、それでも願わずいられないほど。

 父は何度考えただろう。普通のアクアレイア人と同じ外見に生まれていたらと。苦しんでも、苦しんでも、あの人は玉座を放り出さなかった。認められずに終わった父が墓の下まで持っていける名誉があるとすればそれだけだ。


「いや、なんかそれ、天帝が国王の首を差し出せって言ってきたときに陛下が従うって決めたら止めないっつってるように聞こえるんだけど……」

「端的に言うとそうなる」

「いやいやいやいや」

「あの人が王に相応しい死を望むなら……」

「暗い! 暗いって! 暗すぎる!」


 大仰な身振りで続きを話すのは阻止される。レイモンドはぶんぶんと金髪頭を横に振り、ルディアに言い聞かせた。


「言ってる意味わかんなくもねーけどさ、生きてりゃ状況は変わるもんだろ? 今頃はカロだって必死にこの島目指してるだろうし、最初の予定通り行くかもしんねーじゃんか。とにかくその思いつめたカンジの表情はヤバいって。もうちょっと肩の力抜いてこうぜ! なっ?」


 ぽんぽんとなだめるように背を叩かれる。ルディアはムッと眉を寄せた。

 今は肩の力を抜いている場合ではなかろうに。まったくこのお気楽男め。


「私はあの人の最後の願いを……」

「だからなに弱気になってんだよ? あんたそんな人じゃないだろ?」


 問われて今度はルディアが目を丸くする番だった。弱気になったつもりなどないのに、どうしてそんなに心配そうに見つめられねばならないのだ。


「一日あれば本当に何がどうなるかわかんねーよ。俺、アルに会ってから劇的に人生変わったし、国籍取ってからもそうだった。だからさ、いつもみたいにしぶとくチャンス狙おうぜ。そっちのほうが絶対あんたらしいからさ!」

「わ、私らしい?」

「そうそう、そんな八方塞がりですなんて顔似合わねーって! もっとこう、壁に穴開けてでも進んでやるっていう気概をだなー」


 文句を言おうとしたはずなのに、気がつけば何を言うつもりだったか忘れていた。それもそうだと少し励まされたからかもしれない。突然嵐がカーリス船を襲うかもしれないし、ヘウンバオスが風土病に倒れる可能性だってゼロではない。神がかりしか期待できないのが悲しいところだが。


「ちゃんと寝て、ちゃんと飯食って、体力温存しとこうぜ。ほらほら、まずはどっちがベッドで寝るか決めねーと」


 レイモンドはポケットから硬貨を取り出すと爪で弾いて手の甲にキャッチした。図柄を隠された状態で突き出され、逡巡したのち「裏」と答える。


「はい残念、表でした。っつーわけであんたが寝る、俺は夜番な」

「おい、普通逆だろう」

「こういうのは勝ったほうに決める権利があるんだよ。いいからさっさと横になれって」


 胸甲の留め金をつつかれてルディアは渋々防具を外した。身軽になるや一気に睡魔が押し寄せて、ふらりベッドに倒れ込む。父同様、己も気を張っていたらしい。あっという間に意識は眠りの底だった。


(――その記念コイン、売らずに持っていたんだな)


 呟きは声になったのか、それともならなかったのか。知覚できたのは肩まで引っ張り上げられたブランケットの温もりだけ。

 夢も見ず、ルディアは朝まで昏々と眠り続けた。




 ******




 時同じくして、ジャクリーンは父トレヴァーと盛大な親子喧嘩を繰り広げていた。要塞の最上階、指揮官の趣味で集められた美しい絵画と細やかな彫像が並ぶ一室に似つかわしくない怒声が飛び交う。


「嫁入り前の娘が考えなしに勝手をして! 今この時期にルディア姫と名乗るのがどんな危険なことかわかっているのかい!?」


 貧相な針金ボディで威嚇しつつ父は大声を張り上げた。


「ええ、承知しておりますわ! だからこそ引き受けたのです! あのとき私以外には適役の侍女はおりませんでしたから!」


 ジャクリーンも額を真っ赤にして返す。ここで押し負けるわけにいかない。父が無理にでも王女のふりを止めさせようと考えているのは明らかだった。


「父様や母様、ばあやの気持ちも考えておくれ! 私はお前が普通に結婚して普通に幸せになってくれればそれでいいのに、お前ときたら、もう、もう……っ!」

「まあ、お父様ったらまだ諦めておられなかったの? 私は永遠に嫁入り前でございますわ! ずっとお慕いしていた姫様の役に立てるなら、お父様の言う『普通の幸せ』なんていりません! たとえこの身がどうなろうと望むところです!」

「ああー! 何がお前をそうさせるんだい、ジャクリーン!? 子供の頃から口を開けば姫様姫様と……! お前を妻にしたいという男は星の数ほどいるというのに!」


 ウウッと膝をついて泣き始めた父を見下げ、ジャクリーンは素っ気なく顎を逸らした。

 わかっていないのはどちらだか。あの方の儚げな美しさ、処女神も真っ青の清らかさ、真心溢れる優しさを守らずしてほかに何を守れというのだ。それに貴族が王家のために尽くすのは当たり前の義務であるのに嘆かわしい。崇高な忠義の精神は一体どこへ消えたのだ。


「私、毛深くて汗臭い殿方は嫌いですの! お父様がいくら反対なさったって姫様の代役を降りる気はありませんわ! 先程はつい勢い余って抱きついてしまいましたが、どうぞお忘れください。今後はお父様も私を『ルディア姫』とお思いくださいまし!」

「ば、ば、ば、バッカモーン!」


 東の空が白んでも怒号はまだ鳴りやまなかった。いつもならなんだかんだと折れる父が今回に限っては呆れるほどしつこく食い下がってくる。睡眠不足のガサガサ肌でルディア王女を演じるなんて罪深い真似はしたくないのに。

 ジャクリーンは拳を固めて唇を噛んだ。

 こうなったら根比べだ。この頑固者の父に、オーウェン家は未来永劫決して王家を裏切らないと誓わせてやらなければ。




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