第2章 その5
探し求めるという意味のトパーズが自身を表す名であったのは皮肉な話だ。欲したのは黄金よりも稀有なオアシスで、焦燥にもがく日も、夢にうなされる日もあったけれど。
再びこの手にその宝を勝ち取った今となっては懐かしい思い出である。この先はまた別の名を己に冠するのもいいだろう。
「ハイランバオス、着いたのか?」
アクアマリンの名をやった片割れに尋ねる。波に洗われる桟橋にゴンドラを舫いつつ弟は頷いた。
「ええ、ここがアイリーンの脳蟲研究始まりの地です」
王国湾には葦原や埋め立て地以外にも島らしい島があったようだ。見上げた小島は馬蹄の形にこんもりと盛り上がっていた。
丘の上の工房ではなく狭い入江に手招きされる。浜には波の侵入する小さな岩窟があり、奥には傷んだ机と木棚が据えられていた。薄暗い足元には茶色く褪せた古い資料や半分壊れた実験器具。こんなものと戯れるのが子供の頃から生き甲斐だったとはつくづく変わった女である。だが彼女には感謝しなければなるまい。我々を約束の地へと導いてくれたこと。
「……長かったな。本当に」
万感の思いを胸に呟いた。ハイランバオスも心をこめて「はい」と応える。
もう一度生まれ故郷を取り戻したい。その一念だけでよくぞここまでやって来た。野を越えて、山を越えて、血と汗を流しながら。
「色々あった。お前が突然『これからは宗教です!』と教団を作り始めたり、吟詠のパトロンに軍資金を調達させたり」
「色々ありました。総勢二十名でゾンシン朝廷に乗り込んで皇帝の重臣たちに成りすましたり、クーデターを起こしたり、籠城を決め込んだオアシス都市の城門を皆で中からこじ開けたり」
交わした視線にどちらからともなく笑みが零れる。
長かったと言ったばかりだが、振り返れば昨日の出来事のようでもあった。遠大な目的を持つ者には千年の歳月でさえ短いものだ。何しろアクアレイアが見つかる前は大陸全土にジーアン帝国を広げるつもりでいたのだから。
「ふふふ、昔話に興じていたら百年あっても足りません」
「そうだな、さっそく本題に移るとしよう」
「ではこちらへどうぞ」
ハイランバオスは机の抽斗から虫眼鏡とやらを取り出した。分厚いレンズの嵌められた、柄杓とよく似た道具である。これを使えば目には見えない小さな蟲も視認できるようになるらしい。ガラスは何かと献上されてきた贅沢品だがそんなことが可能とは知らなかった。
「アイリーンの調べによれば、脳蟲は通常極小の生物として波間に漂っているそうです。死体への寄生が成功すると宿主の脳を食らい、ぐんぐん成長するのだとか」
「ふむ、針の穴より小さくとも育てば小指の爪ほどになるのだな」
「脳って栄養たっぷりなのかもしれませんねえ」
ヘウンバオスが虫眼鏡を受け取ると弟は手桶に海水を汲み上げる。ランタンの灯りの下で差し出された生命の水を覗き込んだ。
いつぶりだろう。これほど心が躍るのは。果てしなく広がる海を初めて目にしたときでさえ胸の早鐘はもう少し大人しかったような気がする。
仲間の中にはすぐには手放せぬ仕事を任せた者もいた。遠く離れた彼らにもアクアレイアの海水と虫眼鏡を送り、確かに故郷を取り戻したぞと早く伝えてやりたかった。――だが。
「……? おい、もう一度汲み直せ。蟲の姿が見当たらない」
ヘウンバオスはむっと手桶を突き返した。海水を汲んだ場所が悪かったのか、水中に自分と同じ生き物を発見できなかったのだ。
「あれ? おかしいですねえ、いませんでしたか?」
問い返しつつ弟は古い海水を捨て、新しい海水を運んでくる。血眼になって調べるが今度も蟲は見つからない。楽しみにしていただけに苛立ちは大きく、つい声を荒げてしまった。
「アイリーンの研究所は本当にこの島で合っているのか? どこか別の場所と勘違いしているのではなかろうな?」
「そんなことありませんよ。ほら、現に彼女の取ったサンプルだって」
示された標本を乱暴に奪い、ヘウンバオスはラベルを見やる。琥珀色の瓶の下部には「脳蟲(大)」「工房島の洞窟にて採取」と細い字で記されていた。
「これは一度宿主を得たものを保存してあるのか?」
「はい。工房島とはここのことですし、中身もちゃんと」
蓋を開いてヘウンバオスは絶句した。
頭も、身体も、すべて凍りつくほどに。
「……なんだこれは……?」
瞠目したまま顔を上げる。どうにか絞り出した問いに応じる声は不釣り合いに明るかった。
「えっ? 脳蟲ですよ? そう書いてあるじゃないですか」
激昂で頭が白む。気づいたときにはヘウンバオスは弟の胸倉を掴んで怒鳴り散らしていた。
「――嘘を言え! 我々はこんなに細長くも毛むくじゃらでもないだろう!」
「あはっ! そうですね、私たちは袋状の、いわゆる輪虫ですもんね! でもアクアレイアに生きる蟲は皆こういった線虫タイプなんですよ!」
説明が返ってきたことに狼狽せざるを得なかった。弟はにこにこと上機嫌で首を絞められている。
理解できない。どうしてこいつは動じもしないで笑っている? 自分が何を口にしたか自分でわかっていないのか? 我々が探してきたのは姿の異なる別の蟲などではないのに。
「……だったら我々の同胞はどこにいる? さっさと連れて行け。私が笑っていられる間に」
「残念ながらどこにもおりません。アクアレイアにはアクアレイア固有の蟲が生きるのみです」
眩暈がした。双子の言葉を受け入れるには忌避感が強すぎた。
ハイランバオスが何を言っているのかわからない。
「……だからくだらない嘘はよせ。ここは我々の探し求めたレンムレン湖なのだろう?」
腕が、舌が、膝が震える。
悪い冗談でしたと詫びるべきなのに愚弟はそうせず首を振った。
「いいえ、王国湾とレンムレン湖は全然違います。生態こそ酷似しておりますが、脳蟲も我々とは別種の存在です」
平然と返す彼を見てますます混乱は進む。
信じられない。なんのためにあちらこちらに手を回し、アクアレイアを陥落させたと思っているのだろう。
「あはっ! 驚きました?」
返事をしてやる気になど到底なれなかった。押し黙るヘウンバオスに双子は場違いな陶酔の眼差しを向けてくる。
「ああ、あなたがそんな顔をなさるなんて……! これまでずっと内緒にしてきた甲斐がありました……!」
ぞっと背中を駆けた悪寒が締め上げていた弟を地に投げ捨てさせた。右手はほぼ無意識に曲刀の柄を握りしめる。
「ふふふふふ」
強かに腰を打ったのにハイランバオスは楽しそうに笑い続けた。心の底から楽しそうに。
「……何がおかしい?」
「いえ、おかしくて笑っているのではありません。嬉しくて笑っているのです」
「では質問を変える。何をそんなにはしゃぐ理由がある?」
釈然としない心に最初に戻ってきた感情は怒りだった。別物と承知しながらさもアクアレイアがレンムレン湖と同じ存在であるかのごとく振る舞った弟を許しがたかった。
亡き故郷に、同胞に対する冒涜である。納得のいく弁明がなくては看過することはできない。
「ふふふ、だって九百年も生きてきて、初めてあなたがこれほど動揺する様を目にしたんですよ? 喜ばずにはいられないでしょう。ふふふふふ!」
やまない哄笑が岩壁に反響する。おかしなところが――良い意味でまともでない面があるとは思っていたが、今日のハイランバオスは殊更異常だ。片割れに対し、一度も抱いた覚えのない警戒心が頭をもたげる。
「ねえ、私たち随分あっさりここまで来たと思いませんか?」
「……は?」
問われてヘウンバオスは顔を歪めた。
(またわけのわからないことを)
果たして彼は会話できているつもりなのだろうか。あまりの意の通じなさにこちらは苛立ち通しなのに。
「あなたは比類なき完全無欠の王でした。沈着冷静、深謀遠慮! 待つと心に決めたなら十年でも百年でも待ち、好機と読めば一瞬たりとも無駄にはせず、あらゆる人間、あらゆる国を思い通りに動かしてきた。どんな英雄もあなたの前では無力だった! そんなあなたとともにいられて私はとても幸せだったと思います。……でも、でもですよ?」
暗がりに倒れていたハイランバオスがゆっくりと起き上がる。彼の口にした称賛がすべて過去形だったのが引っかかった。
ヘウンバオスは対峙した男を睨む。刃からは手を離さずに。
「……ここのところ、妙に虚しくなるときがあったんです。信頼できる味方は千を超えていて、ジーアンに対抗できそうな国も見当たらなくて、ああ上手く行ってるなあと思うほど」
「……何が言いたい?」
怒気を隠すことなく問うた。弟はいつも通りの微笑を浮かべ、薔薇のつぼみの唇で答える。
「あなたには逆境が足りていないのかな、と」
言葉を――、同じ言語を話しているとは思えない。同じ言葉を、本当に同じ意味で用いているのか。
「逆境だと……?」
我ながらよく逆上しないで聞けた。
この長い旅の始まりにあった喪失を、あの絶望を逆境と言わずして何を逆境と言うのだろう。何百年も我々が何を耐え忍んできたと、この男は。
「そう、あなたという偉大なお方の物語を、もっと! もっと強く輝かせる、究極の試練というやつです! だってクライマックスが盛り上がりに欠けてはつまらないではないですか! 主人公であるあなたには想像を絶する困難を乗り越えてほしいではないですか!」
ハイランバオスは興奮のままに叫んだ。呼吸は浅く熱っぽく、頬は赤らみ、青い瞳は爛々と光る。ふふ、ふふふ、と不気味な笑い声がこだました。
「思えばあなたには本当の意味での敵というものがありませんでした。ですが宝玉は磨かれてこそ美しくなるものでしょう? 競う相手もなしに成長できるはずがない! 愚かな私はずっとそれに気づかなかったんですよねえ。
ですがようやく悟ったんです。あなたが真に輝くためには決して折れぬ心がぽっきり折れるほどの絶望が必要だったのだと! そう確信したのですよ! アークの中枢に触れたときに!」
またわからない言葉が出てきた。ヘウンバオスは頭痛を堪えて問い返す。
「……アーク? パトリア神話の冒頭に出てくる聖櫃のことか?」
弟は「はい!」と元気良く頷く。
「古の神々が地上に遺した英知の結晶――ああ、あれと接触したときの快感をあなたにも分けて差し上げたい……! ほんの一瞬で己の中に溢れんばかりの知恵の光が」
「なんでもいい、少しは私にわかるように話せ!」
ヘウンバオスは鬱陶しい口上を遮った。苛立ちは既に限界に達していた。
相通じ合っていたはずの片割れが理解できない。崇拝が幻滅に変わったわけでもなさそうなのに。
「――ふむ、それでは一番ショックな話からいたしましょうか。あなたの寿命、理屈の上ではもう尽きています」
微笑みながら告げられて頬が引きつる。彼の口から飛び出してくるあらゆる言葉が毒矢に思えた。射てほしい的は射ないくせに引き起こす災いは甚大だ。
「は……?」
「蟲の分裂って十回が上限なんですって。つまり我々の最後の分裂は三十年前に終わってしまっているんですよ。もういつ死んでもおかしくないそうです。オリジナルが死ねば同一個体は一斉に生命活動を停止するらしいので、帝国もそのとき一緒におしまいですね! あは!」
「何を急に、そんなでたらめを」
「でたらめなんてとんでもない! 私はあなたに隠し事こそしましたが、嘘をついたことはありません! これはアーク情報ですし、確かな真実です!」
「だからそのアークとはなんなのだ!?」
順を追って話すという、ただそれだけのことがなぜできないのか腹が立って仕方ない。弟はわざとこちらを撹乱したがっているようにしか見えなかった。いつもの過剰演出と同じに。詩作道楽の延長と同じに。
「アークが何かを突き止めるのがあなたの試練ではありませんか」
預言者然とした物言いに何かが切れた。ヘウンバオスは剣を抜き、切っ先をハイランバオスに突きつけて最後にもう一度問いただす。
「どういうつもりでこんな茶番を演じたのだ……?」
切って捨てる意思を明確にしても片割れの笑みは崩れなかった。それどころか嬉しそうに、心の底から嬉しそうに白い歯を覗かせる。
「あなたを絶望させるために」
迷いない声に柄を握る手の力が増す。ヘウンバオスの怒りが膨れ上がるのも構わずに弟は続けた。
「さっき申し上げたではないですか、あなたには本当の敵がいなかった、と。だからこの先は私がその役を担うんです。名案でしょう?」
半身を得て九百年、こんな日が訪れるなど想像もしなかった。足元から己の影を引き剥がされる日が来ようとは。
撤回を望んでヘウンバオスは双子を睨んだ。今ならまだ、今ならまだと胸のどこかで祈りながら。
「ねえ、今どんなお気持ちです? ようやく手に入れたオアシスは蜃気楼で、一番の腹心にはこっぴどく裏切られて。しかもあなたは明日をも知れぬ身だと知ってしまった。ああ、果たして生きている間に見つけられるでしょうか? 我らの忘れじのレンムレン湖は!」
詩人は一人酔い痴れていた。悦に入った声が酷く耳障りで、強く噛みすぎた唇からは血の味がして、目の前がどんどん暗くなる。
「本気で私の敵になりたいのか……?」
問いかけは凍えたように震えていた。王者の声では有り得なかった。それは道の途上で力尽きんとする旅人の声より惨めで頼りなく。
「あなたという至上の光のためならば、私は世界で最も深い闇となりましょう。たとえあなたが絶望を振り払えずとも、栄光を掴めずとも、それでも構わないのです。ただ最後まであなたを輝かせるために生きたのだと思えるのなら」
滅びるときは一緒です、と彼は笑う。屈託なく笑う。
ついていけなくて剣に逃げた。切らねば目を覚ませられないと思った。
それなのに。
「ガウウ! ガウガウ!」
突如響いた狼の声に身を反らす。敏捷な獣に腕に噛みつかれ、ヘウンバオスは足元に武器を取り落とした。
「ッ!?」
カランカランと抜き身が躍る。その剣を悠々と拾い上げ、ハイランバオスは狼の横を通りすぎた。
獣は彼を襲わない。むしろ弟を守るようにして立ちはだかる。
「コヨーテと言うんです。なかなか愛らしいでしょう? マルゴーの、とある伯爵から譲り受けたんですよ」
片割れは最初から工房島に番犬を潜伏させていたようだ。狭い洞窟に二対一。丸腰のヘウンバオスは迂闊に動けなくなってしまう。
「利口ですのであなたが何もしなければ手酷い真似はいたしません」
弟はどこまでも穏やかだ。いつもの彼と声音は一切変わらない。
何もできない己を置いてハイランバオスは歩き出した。獣によって塞がれた洞窟の出口へと。
「待て!」
思わず声を張るが浜に向かう足は引き返さない。
ただ最後に、片割れは一度だけこちらを振り向いた。
「……己の目でレンムレン湖を見たのは私とあなただけ。その思い出のために生きられず、本当に申し訳ありません。でも私は、最初にあなたと分かたれてしまったから、きっと一番あなたと遠く隔たってしまったのです」
出口に立つハイランバオスの表情は逆光でよく見えない。
ただ笑っているのだろうと思った。ヘウンバオスの知らない顔で。
「頑張ってくださいね! 無駄な努力に終わる可能性は高いですけど、いつもどこにいてもあなたを応援していますから! ふふっ、アクアレイアなんかのために貴重な年月を費やして残念でしたね!」
捨て台詞に腰の鞘を投げつけた。鼻唄まじりにそれも拾って弟はいなくなる。後には獣の息遣いと波の音が響くのみだった。
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工房島での顛末を聞き、吹き出しそうになるのを堪えて「それはそれは……」とコナーは置き去りにされた天帝に同情した。協力を頼まれた当初からなんて愉快な――否、独創的な企みだろうと感心してはいたけれど、まさかここまで大々的に己の主君をぶちのめすとは。
「近習には日が暮れる頃に迎えに上がるよう命じましたから、しばらく追手がかかる心配はありません。我々はゆっくりマルゴー公国を目指しましょう」
冷たい風の吹きすさぶガレー船の縁にもたれ、軍医はにこにこ罪なく笑う。時代時代に破壊的な性質の人間は現れるものだけれど、それが世界に大帝国を築かんとする男のすぐ側だったというのは面白い。
「なるほど。であれば優雅に逃亡できそうだ。しかし私までストーン家の船に乗ってしまって良かったのかな? 代わりに狐が檻に入れられる羽目になるのでは?」
「ラオタオのことなら心配ありません。あれも私の分身ですからよくよく口は回ります。それよりもあなたを我が君のもとに留めておくほうが不親切というものでしょう? あなたに吐かせればアークが何かすぐにわかってしまうんですから。やはり我が君は、焦燥と煩悶に苛まれながら真実に至るべきですよ!」
興奮に身をくねらせつつハイランバオスは熱弁する。
実に風変わりで、実にろくでもない預言者だ。あんまり彼が面白いから己もつい乗っかりたくなってしまった。
――千年をひた走ってきたあの方が最後にどんな王に化けるか、見ものだと思いませんか?
あの誘い文句は秀逸だった。完璧に頷かされたなと思うほど。
「ニンフィに着いたらどうします? 私はアルタルーペの山を越え、ひとまず北西に雲隠れする予定ですが」
「私は少々お遣いを頼まれているのでね。防衛隊の隊長殿を追いかけようかと思っているよ」
コナーはハンカチに包んだピアスを取り出し、また同じ場所へ収めた。
アニーク姫の形見の品だ。もういない彼女のために、せめてこの手で届けてやらねば。悲劇の来訪を予期していながら何も教えてやらなかったせめてもの罪滅ぼしに。
「命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に――か」
「おや、素敵なフレーズですね。なんの詩です?」
「なあに、ひと時代昔の流行歌さ。アクアレイアでも似たようなのを歌う者がいるよ」
さんざめく波を掻き分けてガレー船は北に進む。
マルゴーとジーアンの間に結ばれた休戦協定が切れるまでまだ少しあるし、天帝が公国に騎馬兵をやれるようになるのはもっと先の話だろう。ニンフィで消息を絶ってしまえば簡単に追いかけてはこられまい。そんなことよりもまずあの男は、受けた痛手から立ち直らねばならないだろうが。
「君の天帝は再び走り出せると思うかね?」
「どうでしょう? 折れたままでもひん曲がっても我が君は我が君ですから、私はそのお心と添い遂げるのみですが」
でも、と詩人の続けた言葉はこれまた預言的であった。生まれ故郷の小さく縮んだ湖と同じ、弱き命は決して宿れぬ水溜まりの目で彼は告げる。
「砂漠の柳はこう言われているのです。『――生きて千年枯れず、枯れて千年倒れず、倒れて千年腐らず』と」
まだたかが千年生きただけではありませんか。
そう笑う男に釣られてコナーも笑った。
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「うわーッ! 知らない、本当に俺なんにも知らない! コナーから監視兵を外したのはハイちゃんの命令だし、アクアレイアを出るのも許可取ってるって聞いたから! 大体共謀してたなら俺もとっくに逃げてるって! 頼むから信じてくれよーッ!」
謁見の間から響く絶叫にローガンは身震いした。盗み聞きしているだけではよくわからないが、とんでもない事態になっているのは間違いない。
夕刻、ゴンドラにヘウンバオスを乗せて戻ったジーアン兵は真っ青だった。ローガンが離れている間に何やらひと騒動あったらしい。コナーが消えたそうだから、内部に裏切り者が出たのかもしれなかった。
造反には厳しいジーアン帝国だ。ぼそぼそと魔除けの呪文を口内で唱える。ともかくここはとばっちりだけは受けないように気をつけなくては。
「ううっ、殺されるかと思った……」
控えの間に転がり出てきたラオタオは常日頃の彼らしくなく半べそで床に崩れ落ちた。よほど詰められたのか疲労困憊で立っていられないらしい。
若干引きつつローガンは「大丈夫ですか?」と手を差し出す。狐の肩はまだふるふると震えていた。
「あの、一体全体陛下に何が」
「絶対聞かないほうがいい! 家で息子が待ってんだろ!?」
当然だが部外者であるローガンに裏事情を教えてはもらえなかった。わかるのは相当な地位の人物が天帝に反旗を翻したこと、それだけだ。
冷静に状況を見定め、取るべき道を探る必要がありそうだった。帝国の膝元で甘い汁を吸うという大目的が達成されねばこちらは投資損なのだから。
「あのー、ローガン殿、天帝陛下がお呼びです」
「は、はいッ!? わわわ、私ですか!?」
藪から棒に衛兵に呼ばれ、ローガンは声を裏返した。ヘウンバオスが直々に呼びつけてくるとは何事だろう。まさか八つ当たりされるんじゃなかろうなと冷や汗が滴り落ちる。
今さっき死地から帰還したラオタオも「死ぬなよ……」と意味深に見つめてきた。面白がっているわけでもなく本気で心配されているのが怖い。これなら普段の笑えない冗談でからかわれているほうが百倍ましだ。
ごくりと両開きの扉を見やる。まだ踏ん切りがついていないのに衛兵は「さ、お早く」と扉を開けて背中を押した。いくら自分が不興を買いたくないからといってあんまりだ。
「あ、そそそ、その、天帝陛下におかれましてはご機嫌麗しゅ……」
「――一番早い船で帰る。すぐ支度しろ」
玉座の前に跪いたローガンにヘウンバオスは短く言い捨てた。平伏したままローガンは眉をしかめる。散々アクアレイアへ急げとせっついておいて今度はさっさと引き揚げたいとは一体どういう了見だ。
(ふ、船を出すのだってただじゃないんだぞ、この暴君!)
憤りはおくびにも出さず、ローガンは「帰るというのはドナにでしょうか? それともバオゾに?」と手を揉みながら問いかけた。返答を得ようと顔を上げ、ぽかんと目を丸くする。
彫像やら王冠やら錫杖やら、あらゆるものが引っ繰り返った王の座で天帝は悄然と足を投げ出していた。血の双眸に覇気はない。憤怒の力を使い果たし、くたびれ果てて横たわっている。
「…………」
ヘウンバオスのこんな姿を見たのは初めてだ。こんなにも無防備で、こんなにも憔悴した。本当に彼は己が連れてきた男と同一人物なのだろうか? これではまるで糸の切れたマリオネットだ。
「……なんだ? 言われなければどこから来たのかもわからないのか?」
「あ、い、いえ! そういうことではなく!」
急にぎろりと睨まれてローガンはさっと姿勢を正す。すぐに港へ向かわずにいるとヘウンバオスはますます両目を血走らせた。
「も、もしお疲れでしたら行きのような早馬はやめてバオゾまで私の船を使いますか? 横になっている間に着きますし、お身体にも良いかと思いますが」
勇気を出して提案する。媚を売ろうとしたのではない。豪商の直感が騒いだのだ。凄まじい商談のチャンスが訪れようとしているぞと。
「……船か。まだこの一帯の海をしっかり見たことはなかったな」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。アレイア海を出てすぐにコリフォ島という風光明媚な島がございまして、いいところだと聞きますよ。実はイーグレットたちがその要塞に身を寄せたらしいんですがね。本国は失ってもコリフォ島はまだ自分たちの領地だと勘違いしているのかもしれません」
ローガンはちらと天帝の反応を窺った。王家を追放しただけではパトリアの血は途絶えない。いつ何をきっかけにイーグレットが担ぎ出されてカーリスの邪魔をするかわからなかった。潰せるときに敵はきちんと潰しておくべきなのである。この東方交易の通商権をカーリス商人で独占し続けるためには。
「……湖はあるのか?」
予想外の質問にローガンは「は?」と尋ね返した。聞き間違いかと思ったがどうやらそうではなかったらしい。もう一度同じ質問を繰り返される。
「コリフォ島に湖はあるのか?」
「えっ、あ、ええ、確かあったと……いや、あります! あります!」
島の南西に渡り鳥が巣を作る水辺があるという話を思い出して頷いた。天帝はそれ以上何も聞かず、玉座の背もたれに身を預ける。そうしてしばし無為な沈黙が流れた。
「……あ、あの、もしコリフォ島へ立ち寄っていいのでしたら、うちの兵で島を占拠して構いませんかね? いや! 正直に申し上げると島ごとカーリス共和都市に賜りたいのです! アクアレイアが東パトリアの海を一任されていたように、我々もジーアン帝国の海を任せていただきたいのですよ!」
こう訴えた本音は「アクアレイア商船をアレイア海に封じておきたいから」だった。そうすれば市場から締め出された彼らの穴埋めはカーリス商人の仕事になるし、商売の規模をもっと広げられる。
普段の天帝にこんな話は到底できない。ジーアンがどう得をするのかと一蹴されるのがオチである。だが今日の、この思考力を失った彼ならば――。
「……好きにしろ。いいから早く私をここから遠ざけてくれ……!」
やったとローガンは心の中で拳を握った。「ありがとうございます!」と礼を述べ、足取り軽く控えの間へと退出する。
ヘウンバオスは神の化身だ。己の言葉は覆せない。コリフォ島には砦があるといったってアクアレイアは通商条件の締めつけでいくらでも脅せるし、島は手に入ったも同然だった。
なんたる僥倖! ジーアン上層部に何があったか知らないが、事件様々だ!
「ふっふっふ……! いやあ、ツキが巡っておりますなあ……!」
堪えても堪えても笑みを堪えられないローガンに衛兵とラオタオはぽかんと口を開いた。今年の春はとりわけ素晴らしい春になりそうだった。




