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第2章 その4

 ヘウンバオスが最初の意識を持ったのは遥か昔、塩の湖のほとりでのこと。その頃はヨルクという名で呼ばれていた。広い砂漠のオアシス都市、偉大なる英雄アク・キヨンルに建造されたレンムレン国の王子だった。


 ヨルクは身分違いの恋人に入水心中を図られ、一人だけ生き残ったらしい。らしいと言うのは何も覚えていないからだ。その別名を「物忘れの湖」というレンムレンの塩沢はヨルクから一切の記憶を奪っていた。

 国を統治していた母はこれ幸いと息子に再教育を施し、二度とつまらぬ女に現を抜かさぬようヨルクを厳しく監督した。生まれ変わったヨルクにとっても心惹かれたのは広がる塩湖のみ。暇さえあれば湖面を眺めて飽きもしないので母はもしや死んだ女に未練があるのかと案じねばならぬほどだった。


 それから十年。湖の傍らで勉学に励んでいた時期が最も幸福かつ平穏だったように思う。死の大地、神々の墓場と恐れられる広大な砂漠にレンムレン国はあったけれど、湖畔の柳が林になるほどオアシスは豊かだったし、西から東、東から西に、旅するキャラバンの足音は絶えなかった。肝を冷やしたのは時折聞こえてくる騎馬民族の噂くらいで。


 北方の大草原で血みどろの勢力争いを繰り広げる遊牧民は「極めて野蛮」と砂漠以上に恐れられていた。当時最も隆盛を誇ったのがジーアン族だ。彼らの支配はオアシス諸都市にまで及び、レンムレン国も属国の一つに置かれていた。ただ遠方であったため、数年おきに大がかりな上納金の取立てが行われる程度で基本的に彼らは砂漠に無関心だった。


 時代の災厄は東から来た。大国ゾンシンがオアシスを繋ぐ通商路に欲を持ち、塩湖のすぐ近くまで派兵してきたのだ。

 レンムレン国は砂漠の東端に位置する都市だ。ジーアン族とゾンシンの争いに巻き込まれるのは早かった。ヨルクは「人質としてジーアン族のもとへ来い」と命じられた。オアシス諸都市が寛大な統治を説くゾンシンになびき、背後を突かれる事態になるのを防ごうとしての要求だろう。

 母は嘆いたし、ヨルクも塩湖を離れたくなかったが、命令に従う以外の道はなかった。皇帝の気まぐれでいつ兵を引っ込めるかわからないゾンシンよりも現実に砂漠の民を掌握してきたジーアン族のほうが脅威に感じられたのだ。

 ヨルクは天突く山脈の向こう、サルアルカの街へ連れられることに決まった。大きな湖のほとりだという話が唯一の慰めだった。







 一ヶ月の旅の末、辿り着いたサルアルカは故郷とは似ても似つかず、ヨルクは酷く落胆した。街から見える雄大な山並みは美しく、緑の濃さはオアシスの比でなかったし、砂嵐に襲われない幕屋は過ごしやすかったけれど。

 湖の水が塩辛くなかった。それだけで里心がついてしまって仕方なかった。己の守るべき場所はここではない。早くあの水辺に帰らせてくれと。


 サルアルカで過ごした日々はヨルクを真に飢えさせた。できることと言えば騎馬民族を観察し、付け入る隙を探ることだけ。来る日も来る日もヨルクは街を練り歩いた。幸運にもたいした監視や拘束はされていなかった。何か問えば答えてくれる付き人もいたし、恵まれてはいたのだろう。


 サルアルカもまた隊商宿の街だった。遥か遠い西方からもたらされた交易品がゾンシン首府へ運ばれる陸路は二つあり、そのうち「草原の道」と呼ばれるルートがサルアルカを通っていたのだ。最短距離で東西を結ぶのはレンムレン国を通過する「オアシスの道」だが、難所の少ない「草原の道」も大勢の旅人に利用されていた。

 この街に一時の巣を作るのはキャラバンだけではない。夏は羊を追いながら草原を移動する遊牧民も冬は各々の宿営地に留まる。ジーアン族はサルアルカに足繁くやって来た。上納金を巻き上げようとしてではなく、家畜の干し草を得るために。


 馬上の彼らを見上げるとき、ヨルクはいつも圧倒された。体格だけを比べるならラクダも馬に負けていないと思うけれど、ジーアン馬の頑健さと勇猛さは段違いだ。それを駆る戦士はなおのこと果敢に見えた。

 騎馬民族が武勇に秀でる理由はシンプルだ。第一に馬は強い。歩兵と騎兵が正面からぶつかり合えばどちらが優位かなど知れている。定住者は己の馬など持っていないのが普通だから、最低でも一族の男と同数の馬を揃える遊牧民の戦闘力が高いのは当然だった。

 第二に乗馬は技術である。技術とは鍛錬によって高められるものだ。歩兵を馬に乗せたところで付け焼刃にしかならないが、子供の頃から馬の背に跨って育ってきた遊牧民は鞍上で矢を放つのも酒を楽しむのも自在だった。

 つまりジーアンの男は総じて騎兵なのであり、移動生活に慣れた女は総じて補給兵なのだ。そこにただ守られるだけの人間はいない。戦いありきの暮らしを送る彼らの姿はヨルクに静かな衝撃を与えた。


 せめて同等の軍を持たねばレンムレン湖を守り抜くことはできない。草原の季節が巡るたび力を渇望するヨルクの思いは強まった。望んですぐに手に入るものではないから余計に欲しくて堪らなかった。力さえあれば、敵対する力に抗うことも、ほかの力に呼びかけることもできたのだから。







 ヨルクの人質生活は存外短く、たった三年で終わりを告げた。


 ――ゾンシンがレンムレン国を亡ぼしたそうだ。


 そう伝えに来た男は酷く冷淡だった。

 遊牧民の力関係は頭目が変わると激変する。代替わりでジーアン族は結束を弱め、多くの離反者を出してしまった。今が好機と別の氏族集団からも攻撃を加えられ、砂漠にかまけている暇がなくなったらしい。使者の態度から察するに、奪われた属国を取り返す気はこれっぽっちもなさそうだった。


 ヨルクは一人放り出された。生きていくために身を置いたのは通訳を求めていた隊商の一行だった。キャラバンからキャラバンへ移り、それらしい経歴を作りながら、ヨルクはレンムレン国に関する情報を集めた。

 必死だった。帰るだけならいつでもできたが、その程度で満足できるはずがない。せめてあの湖を荒らした者に一矢報いてやらなければ。


 レンムレン国に攻め入ったのはゾンシンのオモという将軍だそうだ。オモはヨルクの母を斬首したばかりか住民を残らず連れ去り、自国の従順な民と移し替えたそうである。今なお都の一切はオモが取り仕切っていると聞き、居ても立っても居られなかった。


 一年経ち、二年経ち、ヨルクはついに帰国を決めた。行商人に成りすまし、サルアルカ風にサルヤクットと偽名を名乗った。

 霧の中の輝ける石、トパーズの別名である。ヨルクがこの世に生まれた日、居合わせた異国の男に献上されたのがこの宝石であったという。闇を払う光芒に驚いた母は同じように眩い髪と眼を持つ息子にヨルク――明るく光るものと名付けたのだ。

 あいにくとその宝石は心中騒ぎの際に塩湖に沈んでいた。だがその輝きまで損なわれたわけではない。ヨルクもまた胸の光を失ってはいなかった。掴めばたちどころに消えそうな儚い光輝ではあったけれど。


 レンムレン国に入るのはたやすかった。ゾンシンの皇帝は元々キャラバンの運んでくる香辛料や貴石に惹かれて砂漠の征服を目指したのである。行商人に門戸を閉ざす理由はない。

 久々に見るレンムレン湖は相変わらず美しく、ヨルクの目に知らず涙がこみ上げた。


 ――焦らずにやろう。必ず復讐をやり遂げよう。


 心に誓い、激情に重い蓋をした。

 ヨルクは珍品と武具を扱う商人としてオモ将軍に取り入った。

 五年かかった。文字通り東奔西走し、将軍と二人きりで密談できる仲になるまで。







 長い黒髭に濃い眉をした面長の男を小舟に乗せ、ヨルクは塩湖の中央に漕ぎ出す。

 馬鹿な奴だ。内密の話があるという誘いだけでのこのことついてくるとは。

 レンムレン国の民がまとめてゾンシン本国へ送られていて却って良かった。おかげでヨルクは誰にも正体を見破られず、本懐を成そうとしている。

 武力による奪還は早々に諦めていた。同胞は散り散りになっていたし、利用できそうな他勢力も見当たらなかった。立ち向かうにはゾンシンは強大すぎたから、ヨルクに選べる道はただ一つだった。

 鏡のごとく静止した水面。澄み切った紺碧の空。

 緊張気味にオモがこちらを見つめている。ここに至る前準備として彼には色々吹き込んだから不安で仕方ないのだろう。

 信用は既に揺らがぬものとなっていた。城内に裏切り者がいると囁いてなお将軍はヨルク自身になんの疑惑も持たなかった。まさか謀反人自身がそう申告してくるとは思いもしなかったのだろう。


「サルヤクットよ、一体誰がそうなのだ? 覚悟ならできている。どうか早くその者の名を教えてくれ」

「オモ将軍、心してお聞きください。あなたに凶刃を向けようとしている男、それは――」


 名乗る気はなかった。確実に仕留めることのほうが重要だった。

 耳打ちするふりをして上体を屈める。ヨルクは隠し持っていた短剣でオモの腹を突き刺した――つもりだった。


「サ、サルヤクット……!? これは一体……」


 唯一の誤算は将軍が懐に読みかけの木簡をしまっていたことだ。刃先は板を割っただけで標的に小さな傷さえつけなかった。


「貴様、私をたばかったな!」


 オモは獣に豹変した。乱闘に次ぐ乱闘の末、手にした短剣を奪われてヨルクは肺を引き裂かれた。

 激痛に倒れそうになる。けれどまだ敗北するわけにいかない。死に物狂いでオモを湖に突き落とし、勢い舟ごと引っ繰り返った。

 白いあぶく。濃い藍色。青で染まった世界にゆっくり落ちていく。

 泳げない将軍は上も下もわからなくなって沈んでいった。その様を、自らも同じ運命を辿りながら眺めていた。赤く煙って霞む視界に目を細め、薄笑いを浮かべながら。息絶える最後の瞬間まで――。


「…………」


 気がつくとヨルクは湖畔に倒れていた。仄暗い闇をさまよう意識に「大丈夫ですか? オモ将軍!」と取り乱す兵の声が響く。


(まだ生きていたか、しぶとい奴め!)


 人が集まる前にとどめを。そう思って跳ね起きたのに、見渡す視界に将軍の姿はなかった。目を皿にして探しても本当に影も形もない。傍らの兵は「ああ良かった、将軍がお目覚めになって!」と喜んでいるのに。

 意味がわからなかった。どうしてそれを自分に言うのか。

 波打ち際の柳林にはヨルクの骸が上がっていた。

 ますます意味がわからなかった。







 奇怪としか言いようのない形で故郷はヨルクの手に戻った。オモ将軍の魂は滅び去ってしまったのか、ヨルクの魂が彼の肉体を追い出される気配はない。


 ――なぜまだ私は生きているのだろう。


 物忘れの湖。不可思議な塩沢。そこに秘密が隠されているに違いなかった。オモと成り代わったヨルクはどうにかレンムレン湖を調べることにした。

 全体この湖は謎めいている。流れ込むのは真水なのに満ちているのは塩水だし、湖を出る川もない。古い湖水がどこへ消えるのか知る者はいなかった。

 都のほうもよそとは違った。オモの連れてきたゾンシンの民が一様に黒髪であるのに対し、元いた住人は色とりどりの頭をしていた。サルアルカの民も、ジーアン族も、隊商の異邦人でさえ毛色はせいぜい二、三色だったのに。


 ヨルクは自分が十五歳だった頃を思い出そうと努めた。恋人に殺されかけた阿呆に起きた出来事を知りたかった。

 変えたのは刑法だ。「生き残れば無罪にしてやる」とヨルクは捕らえた罪人を片っ端から湖に沈めた。

 処刑の場所は日によって変えた。烽火台に登っても一望できないほど塩沢は広かったし、ヨルクはかつての己の死地を記憶していなかったからだ。


 罪人は二人戻った。どちらもあの「物忘れ」の症状に罹っていた。

 ヨルクは男にルグ、女にユーリンの名を与えた。言葉を覚えるのに多少時間は要したが、二人はヨルクと同じように半年も経つと完全に生まれ直した。


 事故が起きたのはそのすぐ後だ。がっしりした体格のルグをラクダの世話係に、年若いユーリンを書記官見習いに任じて詳しい観察を続けようとした矢先、ラクダに蹴られてルグが死んでしまったのだ。軍医のもとへ運ばれたときには手遅れで、動かない男を前にヨルクは呆然とするほかなかった。


 その日は特に暑かった。日干し煉瓦でできた砦は乾ききっていた。

 だから酷く驚いた。屍の目元に涙が光ったのを見て。


(なんだこれは……?)


 ヨルクは瞠目した。よく見ると寝台に零れたそれは水滴ではなかったのだ。

 ――蟲だった。半透明の蟲がもがくように震えていた。


(なんだこの生き物は……?)


 異様な光景に息を継ぐことも忘れる。「それ」がそこらの虫けら同様に地を這い回るだけならばこうまで気に留めはしなかったろう。

 人を呼ぶ声すら出せず、ヨルクはただその蟲を見ていた。瞬く間に干乾びて黒一色に染まったのち、さらさらと崩れ落ちる姿を。


「…………」


 何を見たのかもわからぬままヨルクはごくりと唾を飲んだ。後には炭に似た粉がわずかに残るだけだった。







 ルグに関しては後でもう一つ奇妙な報告があった。遺体をミイラにするべく腐りやすい内臓を取り除いたところ、脳に虫食い穴ができていたというのだ。軍医の前では気のせいだろうと一顧だにしなかったが、ヨルクの心は穏やかでなかった。

 あの蟲がなんなのか早急に突き止めねばならない。ルグの体内から出てきたとしか思えない「あれ」が、もしユーリンの内部にも棲みついていたとしたら――。


 ヨルクは励まし合ってきた仲間を亡くし、落ち込むユーリンを慰めた。彼女を私室に招き入れ、酔いやすい酒を勧めた。

 警戒心など微塵も持たず、羊は深く眠り込んだ。用意した水瓶にそっと頭を沈めると彼女の脈は間もなく止まった。

 はたして蟲は再度その姿を現した。だが今度は水に浸っているからか、いつになっても黒炭化は始まらない。そのうち蟲は泳ぎ飽き、ユーリンの内部へと戻っていった。


 一体これはどういう事象なのだろう。眠れぬ夜が明けてすぐヨルクは彼女に尋ねてみた。昨夜は妙な夢を見なかったかと。

 ユーリンはいいえと首を振った。寝入ってしまった非礼を詫びる彼女が嘘をついている風には見えなかった。

 ヨルクは何度も同じ実験を試みた。結果はいつも同じだった。

 どうやら蟲は「外」にいるうちは何も記憶しないらしい。ほかにもいくつか仮説が立てられた。おそらく水生の生き物であること。死体に巣食う生き物であること。独自の意思を持つ生き物であること――。


 己の頭にも同じ蟲がいるのかもしれない。

 予感は否定できなかった。こうなれば次に知りたいのはユーリンにもヨルクと同じ「入れ替わり」が起こり得るかどうかだった。

 試すならできる限り条件を揃えねばならない。あのとき己は致命傷を負っていた。オモは溺死しただけで外傷はなかったはずだ。蟲は使える骸と使えない骸を見分けている可能性がある。死肉を食む蛆虫が健康な生者には寄りつきもしないように。


 ヨルクはその後も幾度となくユーリンを誘い、酒の席をともにした。何度も何度も水瓶で彼女を溺れさせたけれど、記憶はやはり残らないままだった。

 ある夜ヨルクは蟲を水筒に閉じ込めたまま戻さなかった。ユーリンは二度と目を覚まさず、遺体は墓地に葬られた。


 とある悪党の絞首刑が執行されたのは同じ日だ。広場の真ん中に吊るされたのは隊商の襲撃を繰り返していた盗賊で、屈強な無頼漢だった。男の亡骸を前にしてヨルクは処刑人に命じる。


「本当に死んだかきちんと確かめろ」


 処刑人は堂々と答えた。


「呼吸は止まり、心臓は沈黙し、もはや指一本動かないでしょう!」


「間違いないな?」と念を押し、ヨルクは砂上に降ろさせた死体に近づいた。さり気なく懐から水筒を取り出し、鼻や耳、口や目に中身を注ぎ、反応を見るふりをする。

 蟲が活動を開始するのにどれくらい時間がかかるかわからなかったが、幸いそこまで長くは待たされなかった。身を起こしたユーリンの第一声は「あれ、オモ将軍? あたしったらまた眠りこけちゃったんですか?」だった。


「――馬鹿者! まだ息があるではないか!」


 ヨルクの怒号に処刑人は青くなって飛び上がり、大慌てでユーリンを絞首台に引きずっていく。気楽に眺めていられたのは広場を囲む兵たちと見物人だけだったに違いない。失態を演じた処刑人は冷や汗だらだらであったし、荒縄をかけられたユーリンはわけがわからず泣き叫んだ。

 身震いが止まらなかったのはヨルクとて同じだ。

 これで証明されてしまったのだから。あの蟲こそが己の本当の姿だと。


「将軍! オモ将軍! 助けてください! どうして、ねえ! どうしてなんですか!」


 吊り上げられたユーリンはしばらくすると静かになった。すまないと詫びる代わりに顔に布をかけてやる。

 まだ誰にも、蟲である本人にも、その存在を知られるわけにはいかなかった。外の世界に零れ出てきたユーリンは引き返せずに黒くなって死んだ。







 どうしてこんな生き物がいるのだろう。いつからこの湖にいたのだろう。

 いくら考えても問いの答えは出なかった。だがもうヨルクにこれ以上の追究を行う気は起きなかった。

 死体を乗っ取って生き続けるなど化け物の所業である。公になればただでは済まない。同郷の出身者には同じ蟲を飼っている者もあるのかもしれないが、探し出そうとも思わなかった。

 この先レンムレン湖をどう守っていくべきか。頭にあるのはそれだけだった。


 数年後、オモ将軍にゾンシン本国へ戻れという指令が下った。再び力を取り戻したジーアン族が北の国境を脅かしているらしい。オアシスに駐屯中の軍を連れ、この戦線に加われとのことだった。

 またもレンムレン湖を離れなければならないとは。ヨルクはままならぬ己の立場に肩を落とした。

 だが今度の別離には希望もあった。防衛の心得や用兵術、故郷のために必要な技術を実地で学ぶ良い機会だったのだから。それに何年戻れずとも生の時間が尽きる心配はしなくて良いのである。塩沢の水を大切に大瓶に汲み、ヨルクはレンムレン国を発った。


 久々に相対した騎馬軍団は以前よりずっと強固に結びついていた。遊牧民は頂点に立つ男の才気が著しく全体に影響する。ジーアン族の新しい頭目は人を動かすに足る器らしい。

 ゾンシン軍はたびたび苦戦を強いられた。もしジーアンの長が血縁者に頼るのみでなくほかの氏族をも束ねていたら、ゾンシンは砦という砦を突破されていたかもしれない。

 だが結果は職業軍人として統率されたゾンシン軍の粘り勝ちだった。騎兵を追い払うのに二十五年も要したせいで相当な軍事費を捻出する羽目になったけれど。

 オモはすっかり老いていた。引き揚げてきた老将に皇帝は暇を告げた。


「レンムレン湖に兵を戻す後任は誰でしょう?」


 そう尋ねるとジリュウ将軍だと言われた。ヨルクは酒でも酌み交わしながら引継ぎしたいと願い出た。許可はあっさり取り付けられた。

 数日も話し込めば人柄や交友関係、知るべきことはひと通り知れる。若年のジリュウは老練なオモを尊敬したので計略にかけるのはたやすかった。

 深酒をさせ、レンムレン湖の水瓶で将軍を溺れさせる。後は自身も毒を煽り、同じ水瓶に頭を突っ込むだけだった。


 ――それから。それから五十年余りのことは思い出したくない。

 後悔が、無力感が、自責の念が大きすぎて。

 悲劇を回避するためにどうしていれば良かったのだろう?

 答えはまだわからない。

 ただ覆せない結果が残されているだけで。







 故郷に帰ったヨルクを待っていたのは湖の異変だった。春は最も水嵩の増す季節なのに、明らかに塩沢が縮んでいるのだ。

 ヨルクは我が目を疑った。見間違いだと思いたかった。

 かつての湖岸と今の湖岸の間には塩を吹く乾いた土壌が露出している。湖も、もはやヨルクの知る湖とは別物だった。

 掬った水をひと口飲んで眉を寄せる。塩分が濃く、味が悪いどころではない。

 魚も水鳥も激減していた。新しく湖畔に茂った植物もなかった。


(無理な灌漑でもしたのか?)


 そう考えて塩湖に注ぐ川を遡り、更に愕然とする。

 砂漠の地形になんらかの変化があったらしい。川の本流は異な場所で分岐し、見知らぬ土地へせっせと水を運んでいた。今まで存在した支流は大半がワジと化し、レンムレン湖へ至る流れも半分以下の水量になっている。


 ――このままでは遠からぬ将来、都に人が住めなくなる。


 事の重大さはただちに理解できた。だがヨルクにはどんな対策を取るべきかわからなかった。

 砂漠地帯の治水は甚だ困難だ。用水路に水を引くとか岸辺に堤防を築く程度ならいざ知らず、変わってしまった川の流れを元通りにするなんて試す前から不可能と知れた。それでも諦めるに諦めきれず、無謀な工事で何百人も人夫を死なせてしまったが。


 十五年に及んだジリュウの暴政に民は不満を募らせた。レンムレン湖が日に日に小さく塩辛くなって、隊商の足が遠退いたことも貧しい彼らに追い打ちをかけた。

 もはやこの地では暮らしていけない。飢え死ぬ前に別のオアシスへ移らせてほしい。

 涙ながらに直訴され、ヨルクもついに頷かざるを得なくなった。

 都は荒れ果てていた。魚は一匹たりとて泳がず、水鳥は去って久しく、柳の林も立ち枯れた。

 認めなければならなかった。レンムレン湖は死に至ろうとしているのだと。


 日干し煉瓦の砦には役人と軍人だけが残った。街と塩沢の間には相当な距離が開いており、塩混じりの砂塵が吹けば湖は烽火台からも見えなくなった。

 更に何年か経つと湖面に白い膜が張り、周辺には病を伴う悪臭が漂った。


 ――あの蟲ももう生きてはいまい。


 ひっそりと死滅した同胞を思い、ヨルクは一人胸を痛めた。







 月日は無情に過ぎていく。

 初めて会ったときは三十路手前だったジリュウもすっかりしわ深い老人になっていた。

 何十回目かの夏が来た。最後から二番目の夏だった。

 砂漠の熱を和らげるオアシスが小さくなってしまったので、レンムレン国の酷暑は年々厳しさを増していた。その年は特に日射が強く、乾ききった川底にいつまでも水流は戻ってこなかった。秋が来ても、冬が来ても、春が来ても、また次の夏が来ても。


 湖は急速に縮まった。あちらこちらに塩の結晶が墓標を建てた。

 何も知らない皇帝が命じる。砂漠の砦はもう放棄するようにと。

 運命が堪らなく憎かった。ここを離れるくらいなら湖とともに朽ちたかった。


(ああそうか、今ならせめて蟲たちと同じ場所で死ねるのか)


 慰めに囚われたヨルクは一人レンムレン湖へ歩き出した。

 自らを忘れ去ろうとしている物忘れの湖へと。


「ジリュウ様! 塩湖周辺は瘴気が濃く危険です! 早く砦にお戻りくださ――ゴホ! ゲホゴホ!」


 呼び止める声に振り返る。見れば側付きの書記官がヨルクを追いかけてくるところだった。五言絶句を詠むのが趣味の忠義深い青年である。若者は死せる塩沢に執心する将軍が心配でならない様子だ。


「最後の別れに向かうのだから邪魔をするな」

「だ、だったらお供させてください! 見ているだけにしますので!」


 邪険に扱われてもめげず、書記官はすぐ後ろをついて来る。帰れと叱るのも面倒でヨルクは若者を放置した。

 砂漠は暑い。岸に着くまでに倒れたくない。老人に余分な体力はないのだ。

 ざく、ざく、と尖った塩の柱を踏む。かつて湖底だった平原は延々と続いていた。


 どれくらい歩いただろう。照りつける太陽の下、辿り着いたレンムレン湖はもはや小さな水溜まりと化していた。

 今日か明日には地面に吸われて消えそうだ。ぽつんと佇む生まれ故郷を前にヨルクは寂しく項垂れた。

 なんて残酷な終わりだろう。あんなに大きな湖だったのに。


(ああ、本当にここまでか……)


 水は澄んで見えたけれど、それは決して命の棲めない清らかさだった。

 言い知れぬ悲しみがこみ上げる。涙は川となり頬を伝った。

 ヨルクはとめどなく溢れる滴を掌にそっと受け止めた。どんなにわずかでもいいからレンムレン湖に水を注ぎ足してやりたかったのだ。


「――え?」


 そのとき奇跡は起きたのだ。奇跡としか言いようのない完璧なタイミングで「彼」はこの世に生まれ落ちた。

 ぽたりと小さく音を立て、手中に落ちた何かに目を凝らす。

 涙に濡れた、ヨルクの右目から零れ出た半透明のその生き物は、いつか見たあの蟲にほかならなかった。


「ジリュウ様? どうなさいましたか?」


 硬直した将軍を案じて書記官が一歩近づく。なぜと考えている暇はなかった。この特異な生命は乾けばすぐに滅びてしまうと知っていたから。


「――あぐっ!?」


 振り向きざまにヨルクは書記官の股ぐらを蹴り上げた。ついてきたのが武官でなくて良かったと幸運に感謝しながら倒れた青年の腹に跨る。

 絞殺するのに片手だけでは時間を無為にしそうだった。ヨルクは己の口内に蟲を放り、まだ状況を掴み損ねている男の喉を力いっぱい締め上げた。


「うぎ……っ、ぅ、ぐぅうっ…………!」


 老いて肉体が衰えたなど感傷に過ぎなかったようだ。早く死ね、早く死ねと力をこめた両腕は今まで生きてきた中でおそらく一番強かった。

 ひ弱な詩人は白い顔を赤くし、青くし、また白くして呼吸を止める。唾と蟲とを吐き出すと、どこから湧いたかも知れぬ同胞にヨルクは人の形を与えた。もしかしてレンムレン湖が最後の希望を残してくれたのかもしれない。そんな予感を抱きながら。


「……ああ……」


 書記官の瞼の下に潜り込んだ蟲は本物の変わり種だった。伝え聞く民話にも、ヨルクの見てきた宿主たちにも、最初から人語を解した「物忘れ」はいない。しかし彼は儚く消えかかっている塩沢を前に泣き崩れ、確かにこう言ったのである。



「こんな形で生まれ故郷を失うなんてあんまりだ……。今すぐに消えた湖水を探しに行きたい……! レンムレン湖はきっと別の場所で生きている!」



 それはヨルクの胸にあったのとまったく同じ叫びだった。他人の口を借りて飛び出した本心に目を瞠る。

 何者なのだ、この男は。どうして私と同じ悲嘆に苦しんでいる?

 ヨルクはそっと書記官に近づいた。すると彼は水溜まりに映った人影に気がついてこちらを振り向いた。



「――あなたは私? 私はあなた?」



 不可思議な問いかけに面食らう。なぞなぞかと思ったが違った。彼はヨルクを自分自身だと思い込んでいた。なぜなら彼は一から百まで寸分違わぬ記憶を共有した己の分身だったからだ。


「……では我々は双子のようなものなのだな」

「そのようですね。驚きです」


 しばらく二人で話し合い、出した結論に静かな頷きが返された。信じがたい心地でヨルクは遅れて生まれた弟を歓迎した。

 奇跡だと思った。つい先程まで孤独に死のうとしていたのに、最後の最後に痛みを分かち合える同胞ができるなんて。


「ねえ、あなたが何をお考えか当ててみせましょうか?」


 弟は初めから屈託なく笑った。同じ記憶が備わっているのに不思議と性格は似つかなかった。



「一人では無理でも二人なら見つけられるかもしれない――でしょう?」



 言い当てられて破顔する。

 世界は果てしなく広いのだ。絶望するにはまだ早い。


「ああ、私とともに来い。どれだけかかってもレンムレン湖を探し出そう!」







 あの約束はヨルクが人の身に宿り、ちょうど百年目に誓われたものだった。

 弟はヨルクの手となり足となり働き、どこへでもついてきた。行商人として方々を旅して、見聞を広めて、初めて海を見たときは感動のあまり二人揃って声を失くした。

 ――これだけ広い塩沢があるのならレンムレン湖と同じ水もどこかにあるに違いない。言葉にせずとも通じ合った。喜びも、悲しみも、思うように事の進まぬ苛立ちも。


 ヨルクはそのうち一介の旅人の限界を感じ始めた。ひとたび戦乱が起きれば街道は通行止めとなり、目的地に入れなくなったり街に足止めされたりする。蛮族の住む僻地や俗人を拒む聖地、山賊海賊の巣窟など、そもそも侵入困難な場所も多かった。

 旅の続行を断念するとき、脳裏にはいつもジーアン族の姿がよぎった。縦横無尽に大草原を駆け回る、あの騎馬民族を乗っ取れたら。そんな思いを強めていた頃、次の百年が終わった。


 二人だったヨルクたちは四人に増えた。どうやら蟲は百年周期で分裂を繰り返すらしい。ヨルクから生まれた蟲はやはりヨルクと同じ記憶を持ち、弟から生まれた蟲は弟と同じ記憶を持っていた。

 もしやこの世に生き続ける限り仲間は増えていくのだろうか。

 この推測は的中した。四人は八人に、八人は十六人に、十六人は三十二人に、百年ごとに蟲は倍々に増殖した。


 こうなれば夢も夢ではなくなってくる。何しろ全員同じ根っこを持っているのだ。血よりも濃く、決して切れない強い絆がヨルクたちを結んでいた。

 怖いものなど何もなかった。ヨルクは迷わずジーアン族を手中に収めた。

 東西南北に勢力を広げ、自らが支配者として君臨すれば辿り着けない場所はなくなる。レンムレン湖もきっと見つかる。


 ――今こそ世界に旅立とう!


 決意を固めたヨルクは仲間を率いて戦った。だがこの判断は少々早計だったらしい。一時的に大草原の統一は成ったものの、諸氏族の連合体はすぐに瓦解してしまった。遊牧民が世代交代するたびにふりだしに戻るのは相変わらずで「入れもの」の死が想定以上に大きく響いてしまったのだ。


 以後ヨルクは勢いで動くのはやめにして、計画的に、徹底的に、騎馬軍団の育成を続けた。今よりも広い版図を獲得するにはもっと強く、もっと堅固な、圧倒的な武力が必要だった。

 三十二人は六十四人に、六十四人は百二十八人に、百二十八人は二百五十六人になった。この頃からゾンシンやオアシス諸都市、その他の遊牧民の内部に間諜を送り始めた。

 数が増えればできることは格段に多くなる。ヨルクは忙しく駆け回った。


 千年目、仲間はついに千人に達した。ジーアン族はゾンシンの末裔を亡ぼし、帝国として産声を上げた。

 ヨルクは――実際の呼び名は肉体を替えるごとに改めていたが――千年間の集大成となる大遠征に赴くにあたり、最も古い己の名前を名乗ることにした。今度はサルヤクットではなく、ジーアン風にヘウンバオスと。




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