第2章 その3
葦原を埋め立てた人工島と網の目に張られた水路の街。そう聞いていたものだから、もっと整然とした、自然との調和を拒んだ都市なのかと思っていた。
――美しい。エメラルド色の海に抱かれたアクアレイアを馬上から見つめ、ヘウンバオスは感慨に耽る。
街は一つの大きな流れ、大運河を背骨としてゆったりと両翼を広げていた。普通運河と呼ばれるものは陸を削り、海や湖と繋げた人工河川を指すのだが、アクアレイアの運河はそれとは別物らしい。
元々あった幾百の流れを水路に転用したのだろう。直線的な運河はほとんど見かけなかった。目抜き通りの大運河でさえ大きく蛇行し、建物の隙間を縫う小運河に至っては好き放題に曲がりくねっている。水流を妨げぬように住居が建てられているおかげで見通しは最悪だった。
迷宮都市を織り成すのに一役買っているものはそれだけではない。街全体が水に浸っているので当然だが、やたら橋が多かった。商港から王宮前の広場を目指して歩く途中、渡った橋はあれよと言う間に二十を越え、宮殿の近づく前から数えるのに飽いてしまった。
平らな橋ならいくらあろうと構わないのだがアクアレイアはゴンドラの街である。小舟を通すため大抵の橋はアーチ状に膨らんでおり、そうでなければ始めと終わりに階段が設けられていた。こんな昇り降りの億劫な橋が本島だけで四百以上あるのだそうだ。船乗りの足腰が丈夫になるはずである。
更に点在する小トンネルも曲者だった。限られた土地を有効活用するために路地の真上まで張り出した家屋がその下を通る者の頭を低く屈ませる。横坑はすこぶる狭く、大人には通行不可能と思われる道まであった。
確かにここでは馬は淘汰されるしかなさそうだ。多少の障害物ならものともしない愛馬を巧みに操りつつ次からはバオゾに置いてこようと決める。この国では荷車に代わって平舟が運搬を請け負うという話に今更ながら頷いた。
水と暮らしていくために、他の利便性を一切排除した街だった。畑どころか放牧地もなく、ただ海にのみ開かれた。アクアレイアがアンディーンの伴侶を名乗って憚らないわけである。気まぐれな女神の機嫌を損ねず、かつ愛の恵みを受けるにはそれに相応しい伴侶であらねばならないに違いない。生活と海の見事な融合、潔いまでの一心同体。まさしく「海との結婚」である。
陸への思慕を感じないのは街の基礎を築いたのが海賊だからだとの主張もある。だがこの解釈には引っかかりがあった。
アレイア海を縄張りにしていた海賊たちはアクアレイアに砦を造るとすぐにドナから本拠を移し替えたという。荒稼ぎを続けたければ待ち伏せしやすい入江の多い東岸のほうがよほど適していたのにだ。
はたして首領は何に惹かれて潟湖に根を下ろしたのか。あるいはどんな本能に導かれてやって来たのか――。
「天帝陛下ー! そこ曲がったら国民広場だってー!」
徒歩で列の先頭を行くラオタオが振り向いたのは税関岬から真珠橋を経て壮麗なアンディーン神殿の裏手に出てきたときだった。列柱連なる通りの両脇には先に行かせた兵士たちが直立不動でずらりと胸を張っている。この付近の制圧は既に完了したらしい。
建物で隠れて見えない向こう側にひしめく民衆の重たげな息遣いを感じる。愛馬に足を進めさせると大太鼓がドンと打ち鳴らされた。
前方のローガンが大声で何か叫んでいる。おそらくアレイア語で「天帝陛下のおなーりー」とでも言っているのだろう。その声が途切れる頃、神殿と宮殿に挟まれた細い通路は終わりになった。
陰の中から進み出る。瞬間、ヘウンバオスは懐かしい極彩色に息を飲んだ。
赤、青、黄、桃、緑、紫、橙に黒。実に色とりどりの頭が垂れ下がっている。キンケイの羽のような、天に架かる虹のような。
これは祝福された街に起きる同一の現象なのだろうか? ヘウンバオスは同じ光景を生まれ故郷でしか見たことがない。
期待はいよいよ高まった。逸る気持ちを抑えて広場の中央へ進む。
集められた民衆は石畳に手をついて不安げに顔を伏せ、王国海軍の兵士たちは弩も剣も取り上げられた状態で低く跪いている。東パトリア帝国との交易がヘウンバオスの采配一つにかかっていると十分理解しているからだろう。実に従順で大人しく、いっそ哀れなほどだった。
だがいかに不憫でも通過儀礼は済ませねばならない。新たな支配の実感は、流血の記憶によって強められるものなのだから。
「ローガン、ここにアクアレイアで最も信望厚い人間を連れてこい」
ヘウンバオスの命令に豪商は「はい!」と敬礼した。
ローガンはライバル都市の凋落が嬉しくてならないようだ。性の悪い笑みを浮かべるとさっそくアクアレイア海軍の並ぶ宮殿前の一列に近づいていく。
「うーん! そうですなあ、やはり彼ですかなあ!」
白羽の矢が当たったのは武骨な甲冑に白いマントを着けた初老の男だった。貴人らしい品格と武人らしい貫禄が佇まいに滲み出ている。
「シーシュフォス・リリエンソール提督です! 海軍史に残る名将ですよ!」
笑顔の悪党に肩を叩かれて将軍が立ち上がると広場はどよめきに包まれた。泣き出しそうにシーシュフォスを見つめる者、膝をついたままこちらを睨む者と反応は様々だ。シーシュフォス自身は仕方ないという表情でヘウンバオスのもとへ参じた。
馬上から品定めの一瞥を送る。ドナ・ヴラシィ軍の意表を突くクルージャ砦奪還作戦を実行したのはこの男だったか。役職から考えてもまあ不適任ということはなさそうだ。
「そこへ直れ」
言いながらヘウンバオスは刃を抜いた。相手にジーアン語が通じているとは思えないが、通訳を介すまでもなかろう。
シーシュフォスは後ろ手に腕を組み、胸を反らしてこちらを見上げた。不穏な空気に緊張してはいるものの、その目に怯えの色はない。
鞭をしならせるようにヘウンバオスはしなやかな三日月刀を滑らせた。固唾を飲んで見守っていたアクアレイア人たちが一斉に悲鳴を上げる。
「提督!」
「ちくしょう、なんてことを!」
「馬鹿、やめろ! まだ倒れてはおられない!」
飛び出しかけた海軍兵を同じ海軍兵が制する。狂乱するか逃亡するか見ものだと思っていたのに、民衆はその場に踏み止まっていた。
なかなか利口だ。実力差を見誤り、歯向かってきた馬鹿な小国とは違う。
「よく避けなかったな」
ヘウンバオスは口角を上げ、双眸から血を流す将軍を褒めた。痛みを堪え、最初の姿勢を保つ男の背中は何より雄弁に「逆らってはならん」と語っている。
深く抉ったから視力は戻らないだろう。傷を受けた本人が一番わかっているはずだ。だがそれと引き替えに、この男はもっと重要な確約を手に入れたのだ。
「お前たちもよく耐えた。反抗の意思はないと認めてやる」
広場で震えるアクアレイア人全員に告げる。血を拭い、曲刀を鞘に収めるとヘウンバオスは民を解散させるように命じた。
ローガンとラオタオが忙しく駆け回り始める。一時間もすると群衆は自分の家に引っ込んで辺りはジーアン関係者のみとなった。
――さて、あれはどこだろう。そろそろ出てきてもおかしくない頃合いだが。
ヘウンバオスはきょろきょろと周囲を見渡し、ハイランバオスの姿を探した。だが少々もったいぶった性格の弟はまだ声すら聞かせないままだ。
こちらがどれだけ今日この日を待ち侘びていたか知らぬはずがなかろうに、まったくあの道楽者は。
「ああ、陛下。弟君がお越しですよ」
と、いつの間に隣へ来たのかコナーがレーギア宮を指差す。画家に示された青銅の門を見やればバオス教の聖預言者――ではなくて、アクアレイア海軍の若き軍医が駆けてくるところだった。
やはり知っていたのだな。顔をしかめて腕組みする。
「コナー、お前は一体……」
「まあまあ、私の身の上話など後回しでいいではありませんか。今はそれより弟君と喜びを分かち合いたいのでは?」
存じておりますよ、と画家はウィンクしてみせた。あまりの胡散臭さに閉口する。しかし彼の指摘自体は間違ってはいなかった。
ハイランバオスは一番長く苦労をともにした男だ。今まで本当によく仕えてくれた。彼には大いに報いてやらなくてはならない。弟がいてくれねば自分はきっと道の半ばで息絶えて旅を始めることすらできなかったのだから。
「お待たせいたしました! どうぞこちらへ、例の島へご案内いたします!」
久方ぶりに会う弟は艶やかにうねる黒髪を揺らし、嬉しげに声を弾ませた。さあ、さあ、と袖を引かれて馬を降りる。
アクアレイア人の闖入に近習たちは驚かなかった。連れてきた仲間には事情は通達済みである。むしろにこやかに温かい目で見守られる。
「今からゴンドラに乗りますからね! 私、たくさん漕ぐ練習をしたんですよ! 我が君にお褒めいただきたくて!」
「わかった、わかった。はしゃぐんじゃない」
紅色に頬を染め、ヘウンバオスに飛びつく彼はいつもと同じハイランバオスだ。見た目は変わっても中身はまったく変わらない。その無邪気さに我知らず頬が綻ぶ。
こちらでの名はディランだったか。二年に及ぶ潜入生活で弟はすっかり櫂の使い方を心得たらしく「アクアレイアは景観も素晴らしいんです!」と通じた素振りで語ってくる。
ぐいぐいと背を押され、ヘウンバオスは広場に面した舟溜まりに連れられた。いよいよ内湾へ漕ぎ出すのだ。そう思うと否応なしに胸が高鳴った。
「あっそうだ。モリスとかいう住人は私のほうで適当にやっておいたんですが、コナーのほうはどうしましょう? 一緒に工房島へお連れになりますか?」
黒塗りの小舟に乗り込む直前になって問われる。振り返ればコナーは「私はどちらでも」と愛想良く笑みを浮かべた。
「そうだな、まずはお前と二人だけで行こう。誓いが現実になったこと、兄弟水入らずで祝したい」
ヘウンバオスの返答に感激屋の弟はうるりと瞳を潤ませた。金や物、土地や奴隷を与えるよりも彼はこういうねぎらいを喜ぶ。
「おお、我が君よ! 私ほどの果報者は世界のどこを探してもいません……! ううっ、ぐす、あなたにそんな風に仰っていただけるなんて……!」
「おい、乗ったぞ。感謝の祈りは後にして早く漕いでくれ」
ビロードの張られた座席に腰を下ろして出発を促す。ハイランバオスは感涙にむせびつつ長いオールを握り直した。
「お前たち、その画家から目を離すなとラオタオによく言っておけ」
「はい! かしこまりました!」
コナーの監視は一旦近習たちに任せることにする。逃げ出せるとは思えないが念のため兵は十人張りつかせた。
「ふふ、私なら大人しくしておりますのに。ではいってらっしゃいませ」
軽やかに手を振られる。間もなくゴンドラはたっぷりした水の上を穏やかに滑り始めた。
浅い海、櫂の音。夏にはぐんと水位の下がった砂漠の湖を思い出す。
あのオアシスにも舟を浮かべた。何度も、何度も、何度も、何度も。それが潰えてしまうまで。
「風がまだ冷たいでしょう」
椅子の後ろで水を掻くゴンドラ漕ぎの声が響く。気遣いと思わせて面白がるふざけた態度にふっと笑った。髪まで凍る草原の冬に比べれば、この程度。
「もっと厳しい寒さでも、うだるほどの暑さでも構わんさ。ここが私の愛した故郷と同じなら」
瞼を閉じれば遠い景色が浮かんでくる。ゴンドラが心地良く揺れている間、ヘウンバオスはしばし懐古に浸ることにした。




