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第2章 その2

 岩場の入江に瀕死の白鷺が浮いている。哀れな水鳥は冷たい波に喘ぎながら何度も何度も硬い岸壁に弱ったその身をぶつけている。

 飛び立つ羽が健在ならば脱出の術もあったろう。だがあいにくその片翼には深々と矢が突き刺さっていた。強い潮流に抗えぬまま白鷺は――アレイア語でイーグレットと呼ばれるそれは――波打ち際の墓場へ運ばれてしまったのだ。


 ヘウンバオスは桟橋の先でにやりと笑う。

 最高の狩りだった。仕掛けた罠に獲物が追い込まれていく様にこれほどまで高揚したことはない。アクアレイアの存在を知って十年。なんと苛烈でなんと清冽な欲望に突き動かされた十年だったか。

 やっとここまで辿り着いた。旅を続けるためにではなく、終わらせるために戦って、安息の地まであと一歩というところに。


「予定通りだ。船を出せ」


 寂れた港を振り返り、ヘウンバオスは傍らの豪商に命じた。

 今日ばかりは声が上擦るのを抑えられそうにない。唇も勝手に笑みを刻む。

 たった今隣の男から受け取った書状には望みのままの文面が記されていた。アクアレイアはジーアン帝国に所領を譲渡し、以後王権を放棄すると。


「これはこれは……えっ!? まさか今すぐにですか?」

「当然だろう。私が私の街を訪ねるのに何を遠慮する必要がある?」


 使者として役目を果たし、黄昏のドナに帰港したばかりのローガンの顔には「船旅の疲れを癒したいのに」と書いてあった。しかしこちらは待ちきれず、ノウァパトリアから早馬を駆ってきたほどなのだ。軟弱な訴えなど耳に入れる余地はなかった。

 心が逸る。この目で、この耳で、この五感すべてで早く確かめたい。求めてやまなかった楽園が、懐かしき蟲たちの巣が、ついに我が手に入ったのだと。


「おやまあ、珍しく浮ついておいでですね。しかしあんまり無茶な言いつけをなさってはローガン殿がお気の毒ですよ。船乗りたちは風に逆らい、半日以上漕ぎ続けだったのです。無用の事故を防ぐためにも一夜の休息くらいは与えておやりにならなくては」


 と、そこに待ったがかかる。したり顔で水を差したのはアクアレイアの誇る天才画家だった。


「おお、コナー先生!」


 思わぬ助け舟にローガンが色めき立つ。豪商はすっかり鼓舞されて「そう、そうです、先生のご指摘通り! それに日も暮れてもう危ないですから!」と力説した。


「私の意に背くつもりか?」


 ヘウンバオスはムッと二人を睨みつける。足止めされて面白いわけがない。目指す地はアレイア海のすぐ対岸にあるというのに。


「いえ、ただの忠告ですよ。穏やかに見えたとしても海の本性は野蛮なのです。一昨年もこの海域でグレディ家の船が一隻難破しております。あのときは私も危うく死にかけましたし、あなたの弟君も溺れられたではありませんか」


 説得の言葉にぴくりと耳が跳ねる。

 聖預言者の肉体にアクアレイアの女狐が入り込んだのは二年前の春だった。あの船にこの男も乗っていたとは知らなかった。だとすれば、コナーはそこでハイランバオスと知り合ったのか。

 本物の弟からも「こちらへお越しの際には是非コナー・ファーマーをお連れください」と頼まれているし、いよいよ怪しげな男である。探り甲斐があるという程度では済まなさそうだ。


「……ふん、まあ街が逃げるわけでもない。出航は明日の朝一番にしておいてやろう」


 ヘウンバオスは腕を組み、顎先でローガンに行けと命じた。


「か、かしこまりました。明朝確実にドナを発てるようにいたします」


 無言の圧力に押されて豪商は船に舞い戻る。入れ違いで船着場にはラオタオが現れた。


「おーい、ローガン戻ってきたんだってー!? 首尾はどうだったー!?」


 手を振りながら駆けてくるジーアンの若狐に王印付きの書状を見せてやる。一読するやラオタオは「おお!」と瞳を輝かせた。


「おめでとう、おめでとう! うわあ! なあなあ、俺も一緒にアクアレイア入りしていいんだよな!?」

「ああ、構わん。喜びを分かち合う者は多いほどいい。この男の監視役も必要だしな」

「へっ? この男ってコナー? 先生なんか悪さしたの?」


 ラオタオに尋ねられ、コナーは「いやいや」と否定する。ヘウンバオスが鼻で笑うと画家はおどけて肩をすくませた。


「うーん、私、スパイ容疑でもかけられているんでしょうか?」

「別にそういうわけではない。お前は謎が多すぎるというだけだ」

「あ、俺もすごーく気になってた! なんで自分の故郷が奪われるのを黙って眺めてるだけだったのかなーって!」


 ラオタオは食えない笑顔で横からコナーを覗き込む。しかしコナーは臆した風もなく微笑み返すだけだった。


「私は別に、アクアレイアが王国だろうと帝国だろうと困りませんので」


 語る表情に嘘や誤魔化しは感じられない。「ほんとー?」と若狐がしつこく絡んでも飄々とした態度はそのままだ。


「ええ、あの街が東方と西方を繋ぐ商人たちの聖域でさえあってくれれば」


 意味ありげにコナーが笑う。誰に理解されずとも一向に構いはしないという調子で。

 いつ頃からだったろう。好んでこういう厄介者を側に置くようになったのは。ヘウンバオスには常人の見ていない世界を見ている人間が必要だった。途方もない願いを実現させるために。


「けどアクアレイアには先生の身内だっているんだろ? もし俺好みの美人だったら横から掠めちゃうかもしんないぜ?」

「それもまた運命です。致し方ありません」

「うわ、薄情! 思ってたよりも薄情!」


 自分の行いは棚に上げてラオタオが画家を責める。

 コナーは母国への愛着に囚われていない。それは確かだ。この半年、この男がジーアンで得た情報を秘密裏にアクアレイアに流す素振りはただの一度も見られなかった。

 だが何を目的に彼がバオゾに残っていたかは不明である。ハイランバオスが名指ししたということは間違いなく蟲の関係者だろうし、飼い馴らせそうなら自陣に加えておきたいが。


「せいぜい明日の帰国を楽しみにしておけ。愚弟と並べて今までの経緯を微に入り細に入り喋らせてやる」

「おお、恐ろしい。ジーアン式の拷問にでもかけられるのですかな?」


 ヘウンバオスの宣告にコナーは身震いしてみせた。野心や功名心の類は一切感じられないし、解せない男だ。だがそろそろはっきりさせてやろう。敵なのか、味方なのか、あるいはほかの何かなのか。

 力はこの先も不可欠だ。何かを手にすれば今度はそれを守り通さねばならぬのだから。




 ******




 飛び交う怒号、悲鳴じみた泣き声。税関岬の商港はアクアレイアを脱出せんとする人々で騒然となっていた。

 先刻からひっきりなしに私有船が旅立っていく。乗せてくれと頼み込んでは足蹴にされる貧者の努力が涙ぐましい。

 空の木箱に腰を下ろし、うんざりしつつモモは埠頭の阿鼻叫喚を眺めていた。ジーアンによる占領が始まる前にと皆焦っているのだろう。普段なら航海禁止の時期なのに、お構いなしに荷と人員が積み込まれる。

 人波は絶えることなく去っては現れ、去っては現れ、こんなに多くの人間がアクアレイアを捨てていくのかと呆れるほどだ。しかし肝心の待ち人はいつになってもやって来る兆しがなかった。

「はーあ、乳母さんまだかなあ」

 待ちくたびれてついた嘆息が潮風に霧散する。隣のバジルは「そうですねえ」と間延びした返事をよこした。

 十人委員会から指令が下ったのはつい今朝のこと。乳母の用意ができたので商港にて待機せよ、と命じられた。

 アウローラ姫の安全を考慮し、出航ギリギリに駆け込む予定とは聞いている。なかなか姿を見せないのは港が混乱しているせいもあるだろう。とは言え時刻は既に正午だ。急がなければ今日中に出られないのではと心配だった。


「確かにちょっと遅いですよねえ……」


 お手製の望遠鏡を取り出してバジルが船着場を見渡す。モモは思わずずるりと足を滑らせた。

 赤子連れの女などただでさえ目立つのだから、そんな道具で視野を狭めないほうが見つけやすいと思うのだが。一体どんな遠方から現れると思っているのだろう。


「……うーん、来てないみたいです……」


 溌剌さに欠けた声にモモはつい表情を険しくした。一番酷かったときよりはマシになっているものの、まだまだ幼馴染は本調子でなさそうだ。


「バジルさあ、大丈夫なの? ちょっとは元気出てきたの?」


 薄目でそう尋ねると弓兵は肩を落とす。


「心配かけてすみません……」


 塞ぎがちに謝られるが、本当に気がかりなのはバジルではなくルディアから頼まれた任務である。こんな状態で弓兵が本来の力を発揮できるのか不安しかない。アルタルーペの高峰を越え、隣国の宮殿へと送り届けねばならないのは王家の血を引くプリンセスなのに。


「どうしても明るい気分になれなくて……」


 常日頃から面倒臭い男だが、こう湿っぽくされると本気で鬱陶しい。はあ、と盛大に溜め息をついてモモは木箱に座り直した。


「なんか溜め込んでるならモモが聞いてあげようか?」


 場合によっては慰めずに終わるけど、と補足する。

 優しくすると調子に乗られて厄介なのだが致し方ない。万全を期して護衛に臨むのが今の最優先事項だ。


「ほら、話しちゃいなって。一人じゃモヤモヤしたままなんでしょ」


 モモって本当に天使だな。己の高徳に感心しつつ促した。特別な感情もない相手を苦しみから救い出そうとするなんて、女神様でも真似できまい。


「モモ……」


 ベビーフェイスの弓兵が戸惑いがちにこちらを見上げた。重苦しさに耐えるよう、バジルはじっと息を詰めている。

 早く吐き出して楽になればいいのに。変なところで不器用なのだから。


「……戦わなきゃならない状況だったのはわかってるんです。でも自分の中で腑に落ちてなくて」


 やはりドナ・ヴラシィ軍との戦闘の件か。想像通りの懺悔にこそりと眉根を寄せた。優しいというか、甘いというか、彼はおめでたい性格だから。


「海賊を倒したのと同じだって思おうとしても駄目なんです。あの人たちにも家族や友達や恋人がいたんだって、どうしても考えてしまって……」


 バジルはうつむき、固く拳を握りしめている。そんな風に力を入れたら弓を引く手が傷つくだろうに。


「――あの、モモはどうやって割り切ったんです? それとも初めから少しも気にしてなかったんですか? 遅かれ早かれ人は死ぬから平等だ、的な」

「へっ? モモ? モモは別に、防衛隊としての務めを果たしただけだけど」


 急に問われて面食らった。戦いの心構えなら入隊前に宣言したのに今更何を言っているのだ。というかそこか。そこからか。


「そもそも人間って平等じゃなくない? でなきゃ戦えないじゃん」

「えっ」

「えっ?」


 ぽかんと二人で見つめ合う。どうやら前提から相当な食い違いがあるらしい。これは多少ゆっくりと話を聞いてやらねばならなさそうだった。


「だ……、だって元は同じ船に乗ってた人たちじゃないですか。あっちのほうが先にジーアンの手に落ちただけで」

「うん、でも敵として襲ってきたよね? 同郷人の説得にも応じなかったし」

「それはそうなんですけど、本当に殺し合うしかなかったのかなって」

「うーん、モモは難しかったと思うけど。少なくとも向こうはアクアレイアが全滅するか自分たちが全滅するかの覚悟で来てたわけで、実際あの封鎖作戦は際どかったでしょ。和解の方法があれば政府が実行済みだったと思うし。まあ裏で糸を引いてたのが天帝じゃなきゃなんとかなったのかもだけど」

「……ですよね。そうですよね」


 同意する割にバジルの表情はすっきりしない。ドナ・ヴラシィの人間を救う方法があったのではとでも言いたげだ。


「不毛じゃない? 自分の力の及ばない領域のことで悩むの」


 そう尋ねると弓兵はますますどんより落ち込んだ。

 一体どんな未来ある人物を殺めたらこうなるのだろう。反対に殺されるかもしれなかった自分の命や将来に対しては敬意を払わないのだろうか。おかしな平等もあったものだ。


「あのさあ、モモだって割り切ってるわけじゃないよ? 二つのうち一つしか選べないときに二つとも欲しがるのはただの馬鹿だから、なるべく後悔しないほうを選んでるだけ。ジーアン人とドナ人ならドナ人を助けたいけど、ドナ人とアクアレイア人ならアクアレイア人を助けたいもん。どうやったって平等になんて扱えないよ」


 王都を守る防衛隊に入る。そう決めたとき誓ったのは、いついかなる場合もアクアレイアにとって最善の選択をするということ。もうモモは正式な軍人とは言えないけれど、再結成があると信じて志は変えずにいたい。

 だがバジルの言うこともわからないではないのだ。二つ取れるなら二つとも取りたいし、自分のも他人のも涙はできるだけ見たくない。

 だからと言って二つとも取り落とす羽目になっては軍人失格だろう。すべてに対して「どうにかすることもできたのでは」と反省するのは傲慢だ。自分の力を過信しすぎている。本当は一つ選び取れたことを謙虚に喜ぶべきなのだ。でなくては信頼に足る兵にはなれない。


「バジルだってさ、守りたいものがあって戦ったんじゃないの?」


 頬杖をついて問いかける。三つ編みに顔を埋めて弓兵は歯を食いしばった。

 苦しいのは自分だけ生き延びた罪悪感があるからだろうか。背負いすぎたら潰れちゃうよと言いかけてやめる。多分これは諭しても無駄だ。一度背負ってしまったものを下ろすのは困難を極めるから。


「……守れたことは、良かったって思ってます……」

「じゃあいいじゃん。バジルはよくやったよ」

「でも、でも僕は……」


 行き交う人々のざわめきに沈黙が塗り潰される。ぷつりと切れた会話の糸を繋げられそうな言葉はなかった。ただただ暗い。生者と死者の世界が逆転してしまったかのごとく。

 モモはううんと静かに唸った。もう近日中の浮上は断念すべきかもしれない。仮に戦えないとしても、バジルにはほかの特技があるのだし。


「わかった。じゃあこう考えたら? 百回時間を戻せるとして、百回とも同じ行動を取るって思ったら、それは変えようのない出来事だったんだって」


 勢い半分諦め半分で助言する。バジルはぱちくり瞬きし、モモの言葉を復唱した。


「百回時間を戻せるとして……?」

「そう! そんなこと思い悩んでてもしょうがないでしょ? 何がなんでも譲れないものがあったってことなんだから!」

「もし『あのときああしておけば良かった』って後悔するときは……?」

「それならもうほかで頑張るしかないじゃん! バジルは何もしないで自分を納得させられるの?」


 黒目がちな緑の瞳が一瞬揺れた。何か言いかけてバジルが小さな唇を開く。

 そのときだった。みすぼらしく痩せた女がモモたちに近づいてきたのは。


「――逃げるの?」


 ぽつりと響いた小さな声。いつの間にかすぐ目の前に立っていた女を仰いでぎょっとする。

 焦点の合わぬ虚ろな眼差し。それ以上に右手で閃く鋭い刃が危険すぎて。


「ケ、ケイト……!? だったっけ!?」


 難民の名を思い出せたのは奇跡だった。彼女はやつれて変わり果てていたし、長い黒髪もぼさぼさで正気の人間には見えなかったから。

 バジルが木箱を飛び降りる。ケイトはモモが眼中にないのかフラフラと弓兵に向き直った。


「自分の国を捨てていくの……? 人を殺してまで守ったのに……?」


 よくわからないが多分まずい状況だ。こんな人混みでケイトがナイフを振り回し始めたらパニック程度では済まない。即取り押さえて警察なり海軍なりに連れていってもらわねば。


「おんぎゃああ、おんぎゃあああ」


 そこに聞こえてきた赤ん坊の泣き声にモモは「嘘でしょ!?」と目を瞠った。恐る恐る声のしたほうに目をやれば乳母らしき若い女がアウローラを抱っこして早足でこちらに駆けてきている。

 なんというタイミングで現れるのだ。乗船の気配など見せたら確実にケイトを刺激するではないか。


(と、とりあえず足払いかけて、武器は海に投げ捨てちゃって、暴れられたらその辺の人に頼むしか)


 モモは低く腰を落とした。それを制したのはバジルだった。

 弓兵は静かに首を振り、手を出すなと合図してくる。視線の動きから察するに、彼もアウローラの存在に気づいたらしい。


「モモ、行ってください。ここは僕が残ります」

「ちょっとバジル……!」

「いいから早く!」


 有無を言わせない強い語調にモモは「もう!」と憤慨する。ハラハラさせるだけさせておいて、優先順位はきちんとつけられているではないか。


「わかった。任せたからね」


 後ずさりでケイトから遠ざかり、モモは素早くアウローラたちと合流する。乳母の示したガレー船はもう出航間近だった。

 小走りに船へ急ぎつつ振り返る。視界の端にはバジルが港の奥にじりじりと後退する姿が映った。


(無事に追いかけてきてよ)


 きつく睨んで緑頭に念を送る。あまり口では言わないけれど、弓の腕も工学の知識も一応頼りにしているのだから。







 経験のない緊張に胃がキリキリと絞られる。呼吸すらままならない苦しさは逃げるなと叫ぶ心を鈍らせかけた。バジルが一歩身を引くとケイトは一歩踏み込んでくる。まるで足元に伸びた影だ。空洞の目で見張りながら逃がすまいと追ってくる。

 背中を見せたら良くない展開になりそうで、向かい合ったまま低い岬の突端へと後ろ歩きした。船着場を通り過ぎ、積み上げられた荷箱の裏まで来た途端さっと人がいなくなる。

 王国湾を出航した船はバジルたちに目もくれなかった。一艘くらいと期待をかけたゴンドラも付近には係留されていない。三方を海に囲まれた袋小路で足を止める。


「…………」

「…………」


 睨み合う、というよりは、互いに金縛りにかかってしまった感覚で。動けずに、喋れずに、ただ時間だけが経過した。

 血走った双眸に色味のない頬、汚れてしわくちゃになった服。ケイトの姿は痛ましく、堪らなくなってくる。それでも視線は逸らせなかった。


「……わからなくなっちゃったの……」


 静寂を破ったのは彼女からだ。風に混じって消え入りそうな呟きが漏れる。声は儚く頼りなげで、恋人を説得しようとした際の決然とした態度は今や見る影もなかった。


「チェイスは間違っていたと思うわ。だけど死んでほしくなんてなかったのよ。ただ戦うのをやめてほしかっただけで……」


 あんな風に追い詰めるつもりじゃなかったとケイトは嘆く。一緒にやり直すために会いに行ったのだと。輝く未来はまだ残されていたはずだったのだと。

 そう、交渉が決裂したあの後も、チェイスが考えを改める可能性はゼロではなかった。己さえあの一矢を放たなければ。


「あなたを恨むのも間違ってるって思うのに……私には何が正しいことなのか、わからなくなっちゃったのよ……」


 風に吹かれたスカートのひだに光るナイフが見え隠れする。刺されるかなと思ったが、不思議と避ける気にはならなかった。

 それよりも彼女が彼女自身を傷つけるために持ち出した刃でなければいい。今のケイトはバジルに向けた負の感情にすら潰されてしまいそうだった。

 きっと真面目な人なのだ。敵に回った同胞をたしなめようとするくらいには。もし自分が彼女と同じ立場になったら恋人を殺した人間を前に逡巡できるかわからない。

 不運だった。そんな言葉で片付けたくはなかった。仕方なかったなんて言葉ではもっと。だけど彼女とどう向き合えばいいのだろう。励ます資格も慰める資格もないのに。


(バジルは何もしないで自分を納得させられるの――、か)


 先刻問われた言葉を思い出す。モモらしいなと胸の奥で笑う。背負いはしても振り返らないあの気丈さは一体どこから来るのだろう? 叶うなら彼女と同じ強さが欲しい。ほんの少しの間だけでも。


「――あの」


 バジルの呼びかけにケイトがぴくりと顔を上げた。それ以上の反応はない。ナイフを構える様子さえ。

 こんなことを伝えても何にもならないかもしれない。言い逃れかと怒られて終わるかも。けれど自分にできることがあるとすれば、正直にすべてを明かすことだけだった。

 意を決し、バジルは己の胸中を告げる。


「あの、僕、好きな子がいるんです」


 ケイトはきょとんと目を丸くした。なんの話かすぐにはわからなかったようだ。だがそれも次の台詞で理解に変わる。


「あのときチェイスさんが彼女に狙いをつけたのが見えて、気がついたら先に攻撃していました。……でもきっと、今あの状況に戻っても僕はチェイスさんを射ると思います。僕の大切な人のために、あなたの恋人を殺すと思います」


 それでも、とバジルは続けた。

 本当は戦場に平等な命などないと知っている。もしかしたら世界のどこにもそんなものはないのかもしれない。境遇が異なるだけで明暗は簡単に分かれてしまう。人間なんて機能で見ればほとんど同じ生き物なのに。


「……それでも一つだけ謝りたいんです。頼み事を引き受けておいて不意打ちで返したこと。あなたは僕を信じてくれたのに、僕はその気持ちを裏切った。本当にすみません」


 バジルは深く頭を下げた。

 たとえ平等ではないにしても、対等ではいたかったのだ。同じアレイア海で同じように交易に従事し、確かに仲間であった彼らと。

 ちゃんと最初から敵になっていれば良かった。もっと堂々と戦えば良かった。モモの命やアクアレイアを譲る気はなかったのだから。結局は逃げ回っていた自分の弱さがこの結末を招いたのだ。


「……僕もう行きますね。やらなきゃいけないことが残っているので」


 無言で立ち尽くすケイトに告げる。バジルが岬を引き返し始めても刃を握る彼女は微動だにしなかった。すれ違うほんの一瞬息を詰めただけで、留めようとすることもなく。


(……生きててくれるかな。それともチェイスさんの後を追っちゃうかな)


 できれば生きて幸せになってほしい。あれこれ願える立場ではないから祈るしかないけれど。

 一度だけ振り返り、細い背中を目に焼きつけた。

 もしこの先彼女が困っているところに出くわしたら、そのときはきっと力になろう。そう誓う。


(早くニンフィに向かわないと)


 バジルは全力で駆け出した。幸い港に船はまだ何隻か残っている。どれかはマルゴーを目指すだろう。


「――って、あれ?」


 船着場に引き返したバジルは瞠目した。

 先刻とは打って変わって人波が引いている。一体何があったのか、三隻の船以外には誰の姿も見当たらない。

 否、いることはいた。ただしそれはニンフィの街まで同乗させてくれそうなアクアレイア人ではなかったが。


「おっ? バジル君、久しぶりー!」


 外道の狐の明るい声に身が凍る。及び腰で振り向くと長い腕にがっしり肩を捕らえられた。


「ラ、ラ、ラ、ラオタオさ……ッ」

「覚えててくれたの? 嬉しいなあ」


 ジーアン帝国の将軍は上機嫌で絡めた腕に力を込めてくる。そんなまさかと青ざめた。航海解禁の三月は一週間も先なのに、いくらなんでも来るのが早い。早すぎる。

 よくよく見れば停泊中のガレー船はカーリス共和都市及び東パトリア帝国、ジーアン帝国の三つの旗を掲げていた。アクアレイア船は積み込みもそこそこに慌てて逃げ出したものらしい。


「いやー探す手間が省けて助かったな。俺さ、実は君のことバオゾの職人宮に閉じ込めたいなってずっと考えてたんだよねえ」

「閉じ……!? ちょ、待っ、困りま……! ウワアアアー!」


 担ぎ上げられて視界が上下逆さまになる。バジルは荷袋同然にガレー船へと運び込まれ、暗い船倉に放られた。


「そんじゃまた後でねー!」


 固辞を述べる前に軽快な足音は去ってしまう。鉄格子の嵌められた扉の小窓からは船を降りていくジーアン兵の列しか確認できなかった。


(う、う、嘘っ……!?)


 ジーアン帝国は征服した街に目ぼしい技術者を見つけると問答無用で引き抜いていく。そういう噂を聞いた覚えはあるけれど。


(こ、これって僕、モモを追いかけるどころじゃないんじゃ……)


 木製の扉は分厚く頑丈だった。錠をいじれば開けられそうだがどう考えても格子の隙間から手が届かない。

 と、そこに突如馬のいななきが轟いた。


「……ッ!」


 耳慣れぬ咆哮にバジルはびくんと肩をすくませる。おそるおそる小窓を覗くと船倉のすぐ側で美しい毛並みの黒馬がたてがみをなびかせていた。

 見覚えのある馬だ。確かバオゾでヘウンバオスを乗せていた。


「――やっと着いたか」


 黄金の髪が燦然と輝く。血よりも赤い双眸と目が合って、バジルはその場にひれ伏した。

 そうせざるを得なかった。アクアレイアの新しい主は直接顔を拝する無礼を見逃してくれそうになかったから。

 説明など不要だった。もはやこの都市が自分たちのものでなくなったと理解するのに。

 歴史は今日、次のページへ進んでしまったのだ。



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