第2章 その1
アレイア海の冬の風はガレー船を北へ北へと押し戻そうと吹きつける。波が高くて船は揺れるし立っているだけで凍えるし、あまり愉快な旅になりそうな気がしない。漕ぎ手が海軍のベテラン揃いなのがまだ救いだ。冬の海はただでさえ転覆事故が多いから。
(雪降ってなくて良かったな)
レイモンドは灰色の空を眺めてひとりごちた。
王都は既に遥か彼方に遠ざかり、大鐘楼の青い影さえ見えなくなっている。ドナにもヴラシィにも寄らず、快速船はまっすぐコリフォ島に向かうらしい。
急使を乗せてきた水夫らもまさか国王を連れて基地に帰ることになるとは考えていなかっただろう。イーグレットは船室に引っ込んでいるのにお喋りの声一つ響かず、幽霊船にでも乗り込んだ気分だ。アクアレイアがジーアン帝国の一部になるという決定も暗い雰囲気の原因に違いない。
国がなくなる。それがどういうことなのかレイモンドにはわからなかった。ジーアン兵がたくさんやって来るのかなとか、商売に変な制限をかけられそうだなとか、いくつかの予測はできてもアクアレイアが何を失ってアクアレイアでなくなるのかは。
だって人間が滅ぼされたわけではない。あの国を守ってきた人々はあの国に住む人々を生かす道を選んだのだ。ルディアもそう、十人委員会もそう、それにイーグレットだって。
「あっ」
口の端から漏れた声は存外大きく甲板に響いた。うっかり水夫たちの注目を集めてしまい、レイモンドは慌てて口元を覆う。
「どうかしたか?」
船尾近くの船縁に腕をかけていたルディアにまで振り返られて「いや、その」と後ずさりした。だがすぐに彼女相手に焦る必要はないと気づく。
「……そういやあいつ乗ってこなかったなって」
声を潜めて話しかけるとルディアは「カロか」と顔をしかめた。彼女も気になっていたらしい。
「時間までに伝わらなかったんだろう。工房を留守にしていたのかもしれないし、急な出発だったからな。来られずとも仕方あるまい」
軍港からは追い出されるのが目に見えているので真珠橋から乗船するはずだったロマ。彼が同行してくれれば色々と心強かったのに残念だ。ということは、いつもの顔ぶれもしばらくは二人だけか。
「逆に俺が来て良かったんじゃね? さすがにあんたも一人じゃ不安だっただろ?」
明るく笑うレイモンドになぜかルディアは呆れた様子で嘆息する。「ああ、そうだな」とか「助かったよ」とか言ってくれると思ったのに。
「お前なあ、こっちは本当に無給なんだぞ? ちゃんとわかって乗り換えたんだろうな?」
「そんな念押さなくたってわかってるって! なんだよその胡散臭いものを見る目は!」
「らしくない真似をして、後悔しても知らないからな。いいか? くれぐれも私の財布を当てにするなよ?」
「だからしねーってば!」
これでもかと言うくらいルディアはしつこく釘を刺してくる。宮殿の美術品、ドレスや宝石、その他値打ちのあるものは今後の民の生活のために置いてきたそうでお姫様は今一文無しなのだ。
レイモンドはぷうっと頬を膨らませた。借金取りじゃあるまいし、無い袖を振らせようなど考えていない。確かに金銭報酬がゼロなのは痛いけれど。
「……なんでたいした悔いを感じてねーんだろうな?」
大真面目な質問は「私が知るか」と一蹴された。そりゃそうだ。己でもよくわかっていないのに他人にわかるはずがない。
「ところでお前、さっきからずっと妙な紐が出ているぞ。違う、袖じゃない。襟元だ」
ちょいちょいと鎖骨の辺りを指で示され、触ってみると指にたわんだ革紐が引っかかった。あああれかと合点する。公国に向かうガレー船から飛び降りたとき、弾みで出てきてしまったらしい。ちぎれていないか確認しようと全体を引っ張り出すと横からルディアに覗き込まれた。
「なんだそれは? 随分と原始て……いや、荒々しい装飾品だな」
原始的などと評された首飾りは持ち主のレイモンドですら庇いかねる粗野な工芸品だった。小指サイズの黄ばんだ牙に見慣れない線形模様の彫られた、ただそれだけの。
俺の趣味じゃないぞと弁解するべくレイモンドは「知らねー」と大きく首を横に振った。
「しばらく帰れないっつったら母ちゃんに渡されたんだよ。なんかずっと昔に俺の父親がくれたモンらしいけど」
「ふうん、そう言えばお前の父親は外国人だったな。凄まじく異文化の匂いがするが、出身はどこなんだ?」
「それも知らねー」
レイモンドの返答にルディアは思いきり眉をしかめた。「は? 知らない?」と訝しげに見つめられる。
ああ、これだ。父親の話題になると大抵同じ反応が返る。純然たる王国民の家庭で育った人間には不審の目で見られるのが運命らしい。
「お前の父親だろう? どんな人間だったのか母親に尋ねてみたことはないのか?」
そう言われてもとレイモンドは後ろ髪を掻いた。己とて己のルーツを辿ろうと試みた時期くらいある。しかし。
「だって母ちゃんも知らないっつーんだもん。精霊祭で皆が仮面つけてる夜に一度きりのアバンチュールだって誘ったらよその男だったって。アレイア語も上手かったし、こっちの歌まで口ずさむから地元民と勘違いしたんだって」
「……もしかして名前どころか顔もわからないとかか?」
「おう! すげーだろ」
ルディアはしばし唖然としたのち波打つ海に目を戻した。この衝撃の事実を幼少期に聞かされたこちらの気持ちを少しはわかってくれただろうか。
「道理で防衛隊結成前に身辺調査をさせたとき、お前だけ詳細が知れなかったわけだ」
「ちょっと待て、そんな調査してたのか?」
「当然だろう。王女の直属部隊だったんだぞ」
ルディアはごく当たり前に防衛隊を過去形で語る。あまりに自然で一瞬流しかけたほどに。
息を詰め、レイモンドは小さく唇を噛んだ。終わったことにしがみついてもなんにもならない。潮時だなと思ったらすぐに手を引く。それが利口なやり方だ。わかっているのに、そうやって生きてきたのに、やりきれなさを消しきれないのはなぜなのか。
――寒いしそろそろ船室に入ろうぜ。
そう誘いたかったが彼女の足が甲板を離れる様子はなかった。どんなに目を凝らしたってアクアレイアはもう見えないのにいつまでも船尾に張りついたままでいる。
「……北のほうの人間じゃないか?」
不意に小さな声が響いた。隣を覗けばルディアの眼差しは水平線よりずっと遠くへ注がれている。
「へ? 何が?」
「パトリア風でもジーアン風でもないようだし、お前の首飾り。もっと大ぶりだがセイウチの牙にそんな反りがあったと思う。聖像の原料になる北方だけの奢侈品だ。航路さえ確保できればいずれ王国からも定期商船団をと――」
言葉はそこで唐突に途切れた。ルディアは声を硬くして「ま、実現できずに終わったがな」と呟く。青い瞳が泣き出しそうに見えて焦る。現実には王女の双眸は潤んでさえいなかったのに。
「……ここんとこずっと大変だったろ! 頭使うのはやめにして、ほら休もう休もう!」
レイモンドはわざとらしいほど元気にルディアの肩を叩いた。こちらの狼狽に気づくことなく彼女は「痛い!」と睨みつけてくる。
「コリフォ島はあんま雪とか降らないらしいぜ! 綺麗なビーチもいっぱいだし!」
「まったく、遊びに行くんじゃないんだぞ。お前は緊張感がなさすぎる!」
再度の嘆息にへへへと笑う。感謝は別になくてもいいや。いつもの顔でいてくれるなら。
彼女の肩に回した腕は事もなげに払われた。くっついたほうが温かいだろうにがっかりだ。だがそれでこそ王女ルディアという気がした。
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久方ぶりに訪れるニンフィの港は冷えた夕闇に沈みかけていた。断崖絶壁のあばら家も、そこだけ立派なアクアレイア人居留区も、さして変わった様子はない。あえて違いを挙げるなら防衛隊にはよそよそしかった住民たちが傭兵団には優しいということくらいだ。
船着場で歓待を受ける傭兵らに混ざって息をつき、アルフレッドは一年前の任地をぐるりと見渡した。
目に留まるのは空を押し上げるかのごとく聳え立つアルタルーペの高い峰。マルゴーの首都サールへはあの険しい峠を越えねばならない。まだ雪も残っているだろうし、厳しい道のりになりそうだ。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「少々支度に手間取った。旅の間は身分を隠したいのでな」
と、背後の声に振り向くと庶民に扮したチャド夫妻が船を降りてくるところだった。二人とも狩人か見習い騎士かという格好だ。元は男のブルーノを男装の麗人などと評するのもおかしいが、羽根飾りのついた帽子とサイドテールはなかなか様になっていた。
「お荷物はこれだけですか? 殿下、俺がお持ちしますよ」
「いや、構わない。どうせ書簡がいくつか入っているだけだ」
斜めがけの革鞄に手を差し伸べるも断られる。衣食の世話は傭兵団にさせるからか、武器を携えている以外はチャドもブルーノも軽装だ。
かくいうアルフレッドも似たり寄ったりの旅装である。私物といえば万一に備えて汲んできた王国湾の海水のみ。家族に託されたお守りの類もない。
別れはごくあっさりしていた。防衛隊への入隊を決めた日と同じく、母と弟は「家の心配はしなくていいから」と言うだけだった。モモに至っては「また後でねー!」と手を振る平常運転で。
心残りがあるとすれば伯父に挨拶できなかったことだけだ。ブラッドリーは太腿に受けた矢傷の予後が悪いらしく「お前が来ると無理して起き上がろうとするから」とレドリーに門前払いされたのだった。
(生きているうちになんとかまた会えればいいが)
不安になる。次はいつアクアレイアに戻れるかもわからぬ身では。ルディアのことにしたってそうだ。何年でも何十年でも己は主君の帰りを待つ気でいるけれど。
(……静かだな)
荒くれ揃いの傭兵たちでごった返す港を見つめ、アルフレッドは目を細めた。耳慣れた声がしなくて寂しいなんて初めてだ。
動じるなと何度も己に言い聞かせる。離れていたってできる何かはあるはずだと。
「あ、お二方! お着替えは終わりましたか? そんじゃとっととニンフィを出やしょう!」
と、そこに傭兵団長のグレッグが小走りでやって来た。もう夜が来るというのに出発を告げられてアルフレッドはえっと驚く。
「今からか? 山に入るには暗くなりすぎるんじゃないのか?」
「ああ、いいんだよ。最初に通るのは洞窟だから、昼でも夜でも暗さは変わんねえんだよ」
軽い返答にアルフレッドはなるほどと頷く。言われてみればニンフィの山麓にはオールドリッチ伯爵の別荘へ抜ける洞穴があった。あの屋敷でアンバーに出会ったのだと懐かしく思い返す。洞穴はほかにも複数あったし、きっと土地の者しか知らない都への近道があるのだろう。
「しかし皆がこの様子では……」
言いながらアルフレッドは周囲を示した。
集まって騒いでいる者、宿で晩飯を注文する者、既に泥酔している者、どう見ても傭兵たちはすぐに旅立てる状態ではない。こう言ってはなんだけれど、きちんと統率が取れているのか心配だった。
「のんびりしてんのは後発組だ。何せ千人部隊だからな。一気に動くと道沿いの村に迷惑だろ? 公国内の移動はできる限り小部隊でって決まってんのさ」
「なるほど、そういうことか」
「そうそう、そういうこと!」
グレッグ曰く、今度の帰還では隊を大きく三つに分けたらしい。ガレー船に乗せてきたのは千人のうち二百人で、ほかの者は陸路でサールを目指すそうだ。
海路の先発組にはチャド夫妻、グレッグ、アルフレッドが、後発組には歩行困難な怪我人と副団長のルースが入るとのことである。
「先発組にはとびきりの精鋭を集めたんだぜ? 迅速に、かつ安全にサールへ向かわなきゃなんねえからな!」
グレッグはちらちらとチャドの顔色を窺いつつ声を張った。だが王子の態度は素っ気ない。認めてほしいなら責任を果たせと無言で怒気を放っている。
傭兵団長は涙目で震えたが、正直自業自得だった。大金に目が眩み、ドナ・ヴラシィ軍に寝返りかけたのは事実なのだ。ちょっとやそっとで失った信頼は取り戻せまい。チャドとて別に頼れる者があればグレッグ傭兵団には見向きもしなかったはずである。
「と、とにかく出発しやしょう! 俺がついてりゃ一週間とかかりませんよ! ハ、ハハハ……」
生気のない笑い声を合図に隊列がのたのたと坂道を上り始める。
「頑張れよ、グレッグのおっさーん」
「旦那ァ、こっちはゆっくり行かせてもらうぜー」
ドブとルースの適当な見送りもグレッグの哀愁に拍車をかける。傭兵団長の心労はまだまだ続きそうだった。




