第1章 その5
向かいの船に乗り込んだ騎士と槍兵を見やってルディアは息をついた。
二人とも家族との別れは無事に済ませられたらしい。わがままで振り回して申し訳ないなと改めて胸中で詫びる。
ルディアの乗ったコリフォ島行きガレー船は出航までイーグレットの到着を待つばかりだった。父は今、ローガンに勧告を受け入れる旨を伝えに行っている。ニンフィへ向かう小型船は使者が気を取られている隙に軍港を出る予定なので、そろそろ動き出すはずだった。
(終わりというのは案外呆気ないものだな)
船縁に腕をかけ、ルディアは見納めになるかもしれないアクアレイアの海を見つめる。自分一人ならどうにか戻ってこられるだろうがそれは父の暮らしが落ち着いてからの話だ。ジーアンの動向によっては十年以上どこにも行けない可能性だってある。帰還や領土の奪還についてはまだ考えるべきではない。
振り返ればすべてにおいて天帝のほうが一枚上手だった。どう挑めば帝国を切り崩せたか、いくら頭を悩ませても何も思い浮かばぬほどに。
(防衛隊以外にも助けてくれる者がいて良かった)
ルディアはチャドやジャクリーン、グレッグと交わした言葉を思い返した。
アウローラだけでもマルゴー公国へ逃がせないか相談しに訪ねた日、協力を申し出てくれたのは取次ぎを頼んだ侍女だけでなく、偶然居合わせた涙もろい傭兵団長もだった。彼らには感謝してもしきれない。
桟橋に視線を移せばユリシーズの姿があった。先程アルフレッドたちと何か話していたようだが、少しは元婚約者を気にかけてくれたのだろうか。彼との決着がこんな風につくなんて運命とは皮肉なものである。
(ああ、向こうは船長が出てきたな)
船出はもう間近だった。柄にもなくしんみりした気分で正面の船を見つめる。
と、甲板の中ほどに立つアルフレッドと目が合った。騎士の渋面は今までになく険しく、眉間のしわは極めて深く、唇は悔しさに歪み、いかにも後ろ髪を引かれていますという形相だ。思わずルディアは苦笑した。
(頑張れよ。お前ならいい騎士になれる)
声には出さずに声援を送る。いつになるかはわからないが、次に会うときを楽しみにしていると。
「出航するぞー! 櫂を持てー!」
響く号令に船乗りたちはそれぞれ長椅子の上で姿勢を正した。太いロープが巻き上げられるやガレー船はゆっくりと岸を離れ始める。
造船所の鉄門が開かれ、水路に沿って晩冬の冷たい風が吹き込んだ。赤髪の騎士はまだルディアから目を逸らさない。彼の隣のレイモンドも。
控えめに手を振った。これ以上二人が名残惜しくならないように。
(大丈夫、防衛隊がいなくたってこっちはなんとかやっていける)
少なくともアニークよりは知恵も反骨精神もあるのだから。ルディアはそうひとりごちた。
「――だああーッ! アル、ごめん! やっぱ俺あっちに乗るわ!」
信じがたい大声が轟いたのはそのときだ。
ルディアが何言う暇もなく、ガレー船の中央通路をレイモンドがものすごい勢いで走り出す。助走をつけた槍兵は今まさに桟橋を離れようとしている船の船尾から陸に向かって跳躍した。
「なっ……!?」
長身の影が飛ぶ。
アルフレッドも、真横を走り抜けられた漕ぎ手たちも、一瞬の出来事に呆気に取られて固まった。
槍兵は持ち前の身体能力でなんとか桟橋のギリギリに着地する。そそくさとこちらの船に上がってくるのを呆然と眺めていると「おお……、これが勝手に身体が動くって感覚か……」などとのたまい出すのでつい怒鳴りつけた。
「ば、馬鹿かお前は!? 何をしているんだ!?」
「ちょ、ごめん。まだ心臓ドキドキしてっからあんまデカい声出さないでくれ……」
「あれを見ろ! 船が行ってしまったではないか!」
ルディアは小さく遠くなっていく船影を指差した。亡命者のためのガレー船は当然ながら平民一人を拾うために引き返してなどこない。
「あー……。ま、ブルーノにはアルがついてりゃ大丈夫だろ」
「……っ!」
へらへら笑って誤魔化そうとするレイモンドにがっくりと項垂れる。本当にこの大馬鹿者は。
何時間でも叱り飛ばせる気がしたが、あいにくとそれ以上の苦言は続けられなかった。待っていた人物が現れたからだ。
「皆の者、敬礼せよ! これより陛下と姫様をコリフォ島へお送りする!」
シーシュフォスの野太い声が軍港にこだまする。将校らは出入口近くに整列し、質素な黒い外套に身を包んだ二人の元王族を迎えた。
イーグレットは前を向き、ジャクリーンはやや伏し目がちにうつむいている。元々ルディアを真似るのが好きだったという侍女は上手く化けてくれていた。
「やあ、君たちか。ルディアが護衛に選んでくれた若者とは」
乗り込んできた父ににこやかに会釈される。王にも王女にも近衛らしい兵は付き添っていなかった。
泣けてくるみすぼらしさだ。こんな姿で、晒し者同然に国を去らねばならぬのだから。
「では行こう」
イーグレットの合図で船は動き出す。
王家は都を出ていくと、十人委員会の布告によって民にもさっき知らされたそうだ。これで「ルディアもコリフォ島へ送られた」と既成事実を作ることができる。アウローラに関しては、対外的には死産か病死で通されることになるだろう。
門をくぐり、軍港への直通水路を後にしてガレー船は大運河の一角に入る。
と、そのとき、ルディアは前方から白い布が流れてくるのに気がついた。いくつもいくつも、まるで弔いの花を流すようにして。
なんだこれはと顔を上げる。近くの河岸に目をやるが人の姿は見当たらない。大運河に沿って立つ屋敷の窓に強張ったいくつもの顔が並ぶだけだ。
よくよく見れば白布はもっと上流からもたらされていた。
一体誰の仕業だろう。こんなことをして最後まで無慈悲に父の白皮を責める気なのか。それともそんな意図はなく、ただ王国の死を悼んでいるのか。
それならできれば後者であることを願いたい。
******
はあ、はあ、と息が上がる。走れば走るほど手足がちぎれそうになりそうになる。
ローガンの船でアクアレイアに着いてから隠れ潜んでいた倉庫の奥。そこを飛び出したのがついさっき。
もう引き返せない。カーリスの船は天帝のもとへ旅立ってしまった。
怖くてもあの人のところへ急がなければ。この目で真実を確かめなければ。
空のカラスがおいでと招く。曇天を見上げたままで追いかける。
胸が苦しい。肺が痛い。お腹が潰れて裏返りそうだ。
走り慣れていない痩せた足は何度も何度も躓いた。それでも大運河の岸辺を走るのをやめなかった。案内役の脳蟲カラスが真珠橋に降りるまで。
「待っていましたよ、アイリーン」
男の声に名を呼ばれ、アイリーンは立ち止まる。走り通しですっかり呼吸が乱れていた。はあ、はあ、と胸を押さえて目を上げる。
真珠を売って築いた財で建てられた白塗りの橋は王国で最も古い建造物だ。アクアレイア人はここで魚を釣り、塩を固め、船で運んで歴史を始めた。この橋はレガッタのゴールでもある。始まりと終わりが同時に存在する場所だ。
「…………」
アイリーンは腹を決め、静かに中へ歩を進めた。
ほかのどの橋とも違い、真珠橋には屋根がある。商売の中心である大運河にかかった唯一の橋であるため、通路の両側が銀行や商店で埋まっているのだ。もっとも今は売る物も客もなく、人の気配もなかったが。
「花が売られていないので代わりにリネンを流していたんです。こちらの葬儀では白百合を捧げるのでしょう? 郷に入っては郷に従えと言いますからね」
橋の中ほどにいるその人物は看板の陰になって姿がよく見えなかった。
緊張に耐え、一歩ずつ近づく。
穏やかな声の響きだけなら本当にあの人そっくりだ。
懐かしい記憶。初めて安心できる場所を見つけた。
「……あなたがハイランバオス様だったんですか……」
微笑を映す瞳には知らず涙が滲んだ。癖のある黒髪も、少女と見紛う相貌も、元の聖者とは似つかない。けれど透き通る水色の眼差しはそのままだ。
ふふ、と青年は笑った。
棘を隠した薔薇の頬と、毒ある林檎の唇は見知った顔。天帝の誕生日を祝うため、バオゾへ発ったガレー船に同乗していた若い軍医。確かディランという名前の。
「あなただったら気づくかなと思ったんですけどね。なりすましの偽者を世話して拝んでみせたりして、私ちょっと悲しかったですよ? ああアイリーンは平気であの方に嘘をつくのだなと」
ぞくっと背中に悪寒が走る。無意識に後ずさりしたアイリーンにディランは――否、ハイランバオスは楽しげに両手を広げた。
「まあ過ぎたことです。この街はめでたくジーアンの手に入ったわけですし、結果良ければすべて良しですよ。あはは」
咎められないのが逆に恐ろしい。この人は昔から天帝に対して心のどこかが振り切れていて、思考を掴めないことが多いのだ。
今もアイリーンにはわからないことだらけだった。彼の正体が脳蟲で、天帝の正体も脳蟲で、ジーアン帝国の要職は同種の人間もどきに占められているということだけはわかったが。
「どうして今まで何も教えてくださらなかったんです……? 私が何を研究していたか、あなたはご存知だったのに……」
バオス教の救貧院に置いて面倒を見てくれたこと、今でも恩を感じている。だが最初から利用する気で拾ったのだとしたら悲しい。どの街でも受け入れてもらえず、人間不信に陥っていた自分を救ってくれたのはハイランバオスなのだから。
「どうしてって、我が君のため以外の理由があるとでも? 私はあの方のためでないなら呼吸一つしたくないんですよ?」
聖預言者はおどけて息を止めるふりをした。
天帝のため。アイリーンに理解できないのはその動機と行動の噛み合わなさだ。ラオタオから聞いた話が事実ならハイランバオスのしてきたことは一切が徒労である。ジーアン帝国の脳蟲のためにも、アクアレイアの人々のためにも、誰のためにもなっていない。だってこの王国湾は。
「ア、ア、アクアレイアを返してください!」
「無理です。この国は我が君に献上いたします」
「なぜなんです!? そんなにこだわる必要がありますか!?」
アイリーンの問いに聖者はにこにこ、実に嬉しそうに笑う。
「ふふふふふ、アクアレイアは実に攻め落とし甲斐のある国でしたよ。潟湖と潮汐の防衛力、鍛え抜かれた強力な海軍、知恵のある政治家たちに溢れる富!
ああ、難攻不落のアクアレイアを巧みに手中に収めてみせたあの方はなんと優れた才覚の持ち主でしょう! うーん、ここはパトリア風の詩作に耽りたいところです」
ハイランバオスはうっとりと身をくねらせた。何やら空中に書きつけているのは思いの丈を綴った新作ポエムだろうか。恍惚に潤む瞳は幻想の世界を映し、アイリーンそっちのけで「素敵な天帝」を堪能している。
頭が痛い。どうしてこの人はこんなにアレでソレなのだ。ハイランバオスの性向を正確に記述するには人類の言語がまだ追いついていない気さえする。
ただ一つ確信を持って言えるのは、彼の情熱は全方向に迷惑だということであった。
「そんな倒錯をするために人の故郷を踏み荒らしたんです……!?」
涙を溜めて抗議する。ハイランバオスは首を傾げて問い返した。
「おや? 大好きな研究のために実の弟を脳蟲の宿主にしたあなたがそんなことを仰いますか?」
言葉は鋭利な刃となって胸に刺さる。違うと否定しようとして笑顔の教主に先手を打たれた。
「私が殺したわけではないという顔ですね。ですがそれは関係ないと思いますよ。弟さんの死体を見たとき『これは使える』と少しでも考えなかったですか? あなたの研究心は弟さんの尊厳よりも自らの好奇心を優先しなかったと断言できますか?」
「……ッ!」
咄嗟に伏せてしまった顔を真下からずいと覗き込まれる。聖預言者は喜々としてアイリーンを追い詰めた。
「ねえアイリーン、どうしました?」
膝が震える。冷や汗が止まらない。
弟を実験台にした過去はルディアたち以外には明かしていない秘密なのに、なぜこの人はそこまで知っているのだろう。
まさかずっと見張られていたのだろうか。犬猫や鳥を使い、今までずっと。だとしたらジーアン側に情報が漏れていたのは――。
「人間とは本当に業の深い生き物です。あなたが私を慕っていたのは私の中にあなた自身の罪を見ていたからでしょう?
私があの方のために法や命を蔑ろにするほどにあなたは安心できたんです。何事も貫き通せば尊敬を得られるのだ、何かのためという理由は免罪符になるのだと」
当たりましたかと無邪気に問われ、何も言い返せなかった。堪えきれなくて零れた涙をハイランバオスに拭われる。
「アイリーン、責めているのではありませんよ。むしろ逆です。倫理や常識に囚われていては本当に成したいことは成せません! あなたは善良な普通人には越えられない境界線を一歩こちらへ越えています! 私といればもっと自由に、もっと大胆に研究を進められますよ? どうです、一緒に行きませんか!?」
――酷い勧誘があったものだ。差し伸べられた手を前に、歯を食いしばって首を振る。
「……なるほど。私の考えは解せないと」
今度はこくりと頷いた。拒絶されてもハイランバオスは聖預言者の微笑みを崩さなかった。
「それもまた人の自由。いいでしょう、あなたの望むままになさい。生きとし生けるあらゆるものに意思を持つことは許されているのですから」
ではまたどこかで。そう告げて彼は踵を返した。「敵対するなら殺しますよ」とか「仲間を拷問しましょうか」とか脅されると思ったのに。
わからない。なんのためにこんな茶番を演じるのか。
本当に「天帝のため」なのか? だったらどうして彼は大切なヘウンバオスに最も重大な事実を知らせていないのだ?
******
思わぬところで消息不明のアイリーンがへたり込んでいるのを見つけ、カロは目を丸くした。静まり返った真珠橋の中央に驚きのまま駆けつける。
「アイリーン! 無事だったか!」
数少ない友人の猫背を支えて起き上がらせるとウワッと胸に泣きつかれた。どうやら今まで相当に心細い思いをしていたらしい。
「カロ、カロ、わ、わたし、姫様になんて謝れば……!」
「どうしたんだ? 何があった?」
答えようとしてアイリーンはいっそう錯乱する。断片的に「ハイランバオス様が」と聞こえたが彼女の周囲どころか橋上には誰もいなかった。
「少し落ち着け。アンバーはどこに――」
不意に水を掻く音に気づいてカロはハッと顔を上げる。慌てて橋の縁に駆け寄るも既に遅く、イーグレットを乗せた船は真珠橋を通過した後だった。
(しまった! 飛び移るならここしかないと聞いていたのに!)
ガレー船は速度を上げて見る間に遠ざかっていく。肉づきの悪い腕を掴むと即座に船を追いかけた。だが岸辺の路地をひた走っても一向に目標との距離は縮まらない。
「待、待ってカロ、私もう走れな……」
「!」
そうこうするうちにアイリーンが石畳に足を取られて転倒した。顔から地面に激突した彼女を放っておけずに片膝をつく。
「ご、ごめんね……。うっ……私……本当に疫病神で……っ」
「泣くんじゃない。鼻は折れてないな?」
コートの端で汚れを拭き取ってやり、手首を掴んで立ち上がらせる。大運河へ戻した目には薄れゆく船影が映った。
「…………」
罪のないイーグレットが故郷を追われて出ていくというのに、冷たい民衆は家に閉じこもったきりである。王なんて、頼まれたってなるものではない。
「……どこへ行くかはわかっているんだ。馬だ、馬で追いつくぞ」
独白のように呟いてカロは来た道を引き返した。
もはや王都に用はなかった。こんな薄情者の街には。




