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第1章 その4

 アルフレッドたちが待機を命じられた寝室にブルーノは戻ってこなかった。ルディア曰く、彼はひと足先に国営造船所の軍港に向かったそうだ。そちらで既にニンフィ行きの船が手配されているらしい。昨日チャドと話し込んでいたのはこのことだったようである。


「ブルーノにはチャドとグレッグの乗る船でマルゴーに亡命してもらう。後発の便でアウローラも。おそらく二度と『ルディア姫』の帰国は叶わないだろう。今日限り防衛隊は解散だ」


 ごくあっさりした辞令の読み上げにアルフレッドは歯噛みした。ルディアは声を乱すことなく「私は王やジャクリーンとコリフォ島へ向かう」と告げる。都を追われる父を一人にはできないと。


「ブルーノには悪いが身体を返すのはその後だ。お前たちにも随分と協力してもらったのに結果を出せなくてすまなかったな」


 濃紺の瞳に悔しさは滲んでいなかった。まるで模擬戦の後の広場でも眺めているようだ。覆せない敗北の事実を前に、せめて醜態を晒すまいとしている。

 彼女はいつから終わりを受け入れていたのだろう。一人で耐えるなどせずに後始末くらい手伝わせてほしかったのに。


(……いや、責められるべきは部下として不甲斐ない俺たちのほうだ。本当に必要ならこの人はとっくに防衛隊を巻き込んでいる)


 情けなかった。なんの力にもなれなかったこと。ルディアがそれを責めないこと。


(だがまだこの人を支える術がなくなったわけじゃない)


 アルフレッドは意を決し、ルディアの前へ進み出た。


「俺もコリフォ島に連れていってくれ。騎士として主君を守り続けたい」

「アルフレッド」


 ルディアはやや困惑気味に顔をしかめる。交錯した視線にはどこか咎める色があった。

 相応の覚悟を持って告げたつもりだ。しかし申し出はあえなく却下される。


「ちゃんと話を聞いていたのか? 私はもう王女ではない。お前に忠義や献身を要求できる立場ではなくなったんだ」


 諭されて今度はこちらが顔をしかめた。言われなくてもそのくらいわかっている。


「だが俺はそれでも――」

「それでもと言われても、だ。何も報いてやれないのに連れて行けるはずないだろう?」

「俺はあなたに報酬を望んでいるわけじゃない!」


 声を荒げて訴えるがルディアはまったく聞く耳を持ってくれなかった。報酬という言葉で何か思い出したのか「ああ、そうだ」と彼女は槍兵を振り返る。アルフレッドの決意はかたくなに無視された。


「賃上げの約束があったのに悪かったな」

「あ、いや、その」


 突然の詫びにレイモンドはしきりに両手をばたつかせる。さすがの彼も今日は文句をつけられない様子だった。


「モモにバジル、お前たちもよくやってくれた」


 年少組にもねぎらいの言葉がかけられる。

 モモはむっと目を吊り上げ、褒められるのが大好きなくせに全然嬉しそうに見えない。バジルも眉間にしわを寄せたまま物言いたげに黙り込んでいた。


「これからアクアレイアはジーアンの支配下に入る。刃を交えず降伏した街に対しては納税の義務を負わせるだけで、労働力の搾取や改宗の強制は行わないのが通例だ。直属部隊の出身でも妙な考えさえ起こさなければ殺される心配はないだろう。私や脳蟲のことは忘れ、お前たちは平穏に暮らすといい」


 もういつルディアの唇が今生の別れを告げてもおかしくない雰囲気だった。透明な壁を感じて拳を強く握りしめる。

 王女でなくなったと言うのならその高潔ぶりはなんなのだ。それこそ無力な女として誰かにすがりついたって罰は当たらないだろうに。


「改めて礼を言う。他人とこんな縁を持てるとは思っていなかった。……皆、本当にありがとう」


 なかなか楽しかったよとルディアは優しく微笑んだ。いつもは厳しさの陰に隠れて見えない彼女の本心が垣間見える。

 堪らなかった。感謝も謝罪も聞きたくなかった。

 さよならなんて言葉はもっと。


「そっちこそ、さっきから独り善がりなことばかり……!」


 気がつけばアルフレッドは苦しい胸中を吐き出していた。ルディアが部屋を去らないように扉を背にして向かい合う。正面に立つ彼女はまっすぐこちらの双眸を見つめ返した。


「見くびらないでくれ! 仕えると決めた主君を放り出すくらいなら、いっそ死んだほうがましだ! 何があろうと俺はどこまでもついていく! あなたのほうに理由がなくても俺のほうには理由があるんだ!」


 叫んで肩を震わせる。どこかの部屋に音が漏れたかもしれないが、気にしている余裕はなかった。今ここで、何がなんでも彼女に認めさせねばならない。命尽きるまで仕えるという違えぬ誓いを。

 騎士として生き、騎士として死ぬ。望むのはただそれだけだ。誰にも恥じぬ生き方ができればほかには何もいらないのだ。ルディアとて承知しているくせに。


「モモもこのままじゃ納得できないよ。ほんとについていっちゃ駄目なの?」

「ぼ、僕も、まだ何かできることがあるなら」

「あー、俺も夢見が悪くなるのはちょっと……」


 アルフレッドが食い下がるのに目をやって三人もそれぞれに主張し出す。「お前たち……」と王女はぱちくり目を瞬かせた。

 全員真剣そのものだ。たかが部隊の解散程度では退かないぞと彼女をぐるりと取り囲む。

 一人でなど行かせない。行かせるものか。

 そんなことをしたら俺たちはきっと一生後悔する。


「ふっ……ふふふ、あはははは!」


 と、そのとき、脈絡なくルディアが笑い出した。楽しげに腹を抱える彼女の姿に防衛隊はきょとんと顔を見合わせる。

 なんだ。どうした。あまりに怒濤の展開続きで頭がおかしくなったのか。


「――そう言ってくれなかったらどうしようかと思っていたぞ。ありがとう、実はお前たちに頼みがある。多少危険だが請け負ってくれるか?」


 ルディアは満面の笑みで尋ねた。「おい、引っかけか」とレイモンドが即座に非難の声を上げる。

 だが槍兵の態度に怒りは感じられなかった。ほっとしたルディアの顔を見てつまらぬ感情は引っ込んだのに違いない。


「はいはーい! モモ危ないの平気! 何したらいいか教えて!」


 一番の腕白が一番に問い返す。指揮官は覇気を取り戻したモモに、おそらく防衛隊としては最後になるだろう任務を言い渡した。


「お前とバジルにはアウローラの護衛を頼みたい。人目を誤魔化すために海軍を同行させることができないんだ。十人委員会のツテで乳母を探してもらっているところだから、後日その乳母とニンフィ行きの船に乗ってくれ。そこからアルタルーペの山を越えてマルゴーの首都サールの宮殿に向かうんだ」

「了解!」

「ニンフィからサールですね!」


 年少組は目的地をメモに取る。乳母を用意してくれるのはニコラス老との話だった。ファーマー家はあの天才コナーを輩出した家である。さぞ賢い乳母を連れてきてくれることだろう。


「それとバジル、カロに一つ伝言を頼む。もしコリフォ島へ行く気があるなら真珠橋で待っていてくれと」

「真珠橋ですか? は、はい。わかりました」


 王の友人はもっぱらガラス工房で寝泊まりしている。言づけを書き加えるとバジルは手帳を懐にしまった。


「俺たちも真珠橋にいればいいのか?」

「いや、お前とレイモンドはブルーノについてやってほしい。グレッグ傭兵団が責任を持って送り届けるとは言っているが、やはり不安だ。うっかり『中身』が出たときに対応できる人間がいないのはまずいだろう。……おい、そんな顔をするな」


 不服のあまり目つきを険しくするアルフレッドにルディアは呆れて溜め息をつく。この期に及んでまだ別ルートに行けと命じるかとこちらも憤慨しきりだった。


「あのな、俺はあなたを守ると決めて」

「私より『ルディア王女』のほうが危ない。マルゴーだって本当に安全だとは限らないんだ。幼馴染だろう? 私は平気だからブルーノを守ってやれ」

「でも!」


 どうしても承諾できずにアルフレッドはかぶりを振った。

 もどかしくて仕方ない。「一緒に来い」と命じてほしいだけなのにどうしてそうしてくれないのか。確かにたいした役には立てないかもしれない。けれど邪魔になることもないはずだ。ブルーノにはレイモンドやチャド王子もついている。だったら自分一人くらい側に置いてくれたっていいではないか。


「…………」


 壁の時計に目をやってルディアは長い息を吐いた。無為に時間を費やしたくないのだろう。「正直に言おう」と前置きし、彼女は痛烈なひと言を放った。


「どんなに乞われてもお前だけは連れていけない。たとえお前が拒んでも、私にはそうする理由がある」


 さっきの自分と似た台詞。ルディアの真意を探れずにアルフレッドは眉根を寄せる。

 室内には妙な緊張が漂い始めていた。読めない彼女の表情が不穏さに拍車をかけていた。――だが。


「私はずっと父の名声を勝ち得ようと、王家の威信を取り戻そうと生きてきた。国民の支持さえ集めれば王政はもっと確実なものになると信じて」


 ルディアは淡々と王女時代を振り返った。

 思い出されたのは初夏の建国記念祭だ。初めて王都防衛隊が彼女とあちこち奔走した。あのときからまだ一年と経っていない。それなのにもうお別れなど早すぎる。

 嫌だ。だって決めたのだ。どんなときも主君を思う忠実な騎士になろうと。疎まれても、恨まれても、サー・トレランティアがそうしたように。


「――しかし今、王国の名は泡と消え、私は次期女王でも王族でもなくなろうとしている。アルフレッド、本当にわからないのか? 私についてくるという意味が。

 私はお前まで私と同じにしたくない。マルゴーへ行けばチャドが召し抱えてくれるだろう。父の幽閉が終わるまで何年留まるか知れない、先の展望もないコリフォ島で人生を無駄にするな! お前にはハートフィールドの名を栄誉あるものにするという夢があるだろう?」


 ひと息にルディアは言い終えた。意外な思いやりを示されてアルフレッドは声を失くす。

 そんなことを考えていたのか、この人は。

 同じ苦しみを抱く者だと己を重ねてくれていたのか。


「聞き分けてくれ。陸路から東パトリア帝国に入ってアニークに仕えるのでもいい。私がそれを慰めにできるように、お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ……!」


 ルディアの苦い懇願は雷となってアルフレッドを打ち抜いた。生じた迷いに全身がわななき、すべき返答を鈍らせる。

 家名へのこだわりは確かにあった。騎士として名を成したいという思いも。けれど今、この足を凍りつかせているものは。


(この人は、王国やコリフォ島の外に希望を残したいんだ)


 今更ルディアの脳蟲としての本性に気づく。アウローラ姫もそう、ブルーノもそう。たとえそれが祖国を取り戻す布石とまではならなくとも、できるだけ盤上の駒の多くに――信じられる誰かに残っていてほしいのだ。


「……わかっ、た……」


 身を切られる思いでアルフレッドは頷く。気づいてしまったら断れなかった。諦めながら無自覚に、必死に足掻くルディアを思うと。


「レイモンド、お前もいいな? チャドなら金払いは悪くあるまい。私の用意できる再就職先の中ではおそらくこれが最上だ」


 奥歯に何か挟まったような微妙な表情でレイモンドは「おう……」と答える。幼馴染が給金の具体的な参考額を聞かないなんて初めてだった。


「不甲斐ない主君を見捨てないでくれて感謝する。お前たち、道中くれぐれも気をつけてな」


 ルディアは再度礼を告げた。

 ヘウンバオスは西パトリア諸国への侵攻に備え、足場となるアクアレイアの防備を固めてしまうだろう。そうなれば大軍をもってしても迂闊に手出しできなくなる。だが今の自分たちに抵抗など不可能だし、おそらく将来の自分たちにも不可能だ。東パトリアを飲み込んでジーアンは更に強大になった。もはやパトリアと名のつく地のどこにも単独で拮抗できる国はあるまい。

 それでも主君から最後の希望まで取り上げたくなければ行くしかなかった。ルディアがさっき言った通り、ただ彼女の慰めとなれるように。


(なんのための剣なんだ……)


 アルフレッドは唇を噛み、しばしその場に立ち尽くした。




 ******




 広い船着場の一角でユリシーズ・リリエンソールはふうと小さく嘆息した。眼前には慌ただしく出航準備を押し進める二隻のガレー船。兵士たちの監督を命じられた国営造船所でその二隻をじっと見上げる。

 カーリスのふざけた豪商が訪れるより先に――いや、ノウァパトリア陥落の急報が入った翌日には、天帝に何を要求されるかも、どこに王族を逃がすかも考えられていたに違いない。十人委員会はごくあっさりと大きいほうの船にはイーグレット、小さいほうの船にはルディアとチャドと傭兵団の幹部を乗せると告げてきた。

 ほかの船はろくな整備もされないまま運河から引き揚げられている。修理用の木材まで不足している状態で王国海軍は形無しだ。こそこそと都を発たねばならぬ王家は尚更であろうが。

 王女夫妻を隠した荷箱は既に運び入れられたそうだった。結局一度も言葉を交わさないままだったなとひとりごちる。

 こんな形で彼女のほうがいなくなるとは考えもしなかった。

 虚しいものだ。まだ己の進む道の先に、打ち勝つべき敵として君臨し続けるのだろうと思っていたのに。


「なんだか浮かない顔ですね、ユリシーズさん」


 と、背後で聞き覚えのある声がした。振り向けば乗員名簿を片手にディランがこちらを見上げている。

 軍医の彼が専門外の雑用をこなしているのは限られた関係者以外立入禁止の厳命が下り、人手不足なせいだった。議員も王国海軍もまだほとんどの者が亡命計画について知らされていないのだ。

 ディランの父は十人委員会の一員だからここに来るよう頼まれたのだろう。シーシュフォスといい、世の男親はなんでも気軽に息子に申しつけてくれる。


「こんなときにニコニコと笑っていられるお前のほうがどうかしているよ」

「嫌だな、これは地顔です。私だってジーアン軍に王都を占拠されるのは怖いですよ? ルディア姫にも無事に逃げおおせてほしいと願っていますし」


 付け足された余計なひと言にユリシーズは眉をしかめた。彼女の名前を出すんじゃないと睨みつけるがディランに気づいた様子はない。芸術畑の葡萄酒で年中酔っぱらっている彼に常識や配慮を求めるだけ無駄なようだ。


「はあ……」


 ユリシーズの嘆息をなんと勘違いしたのかディランはうんうん頷いた。


「避けられない別れだからこそ切ないですよねえ。わかります、わかります。ああ、今ならいいフレーズが浮かびそうな……」

「私を文学の題材にするな! それより仕事の途中なんじゃないのか?」


 だんだん鬱陶しくなってきてしっしと追い払う仕草をする。ディランは意に介した風もなく「後は偽造名簿を父に届けてくるだけです」とウィンクした。


「ユリシーズさんは見送りが終わるまでいらっしゃるんですよね?」

「ああ、一応そのつもりだ」

「では私の分までお願いします。これから少し用事があって戻ってこられそうにないので」


 ひらひらと手を振る友人にどこへ行くのか問うことはしなかった。王家への敬礼より優先される用事など聞いたところではぐらかされるに決まっている。今は誰がどんな処理を任されていても不思議ではない。


(やはり王国は終わるのだな)


 造船所を見渡してみても実感は薄かった。活気に満ちているわけではないが、どんより暗いわけでもない。雑然とした仕事場で人々は普段通りに働きながら嵐が逸れるのを祈っている。

 ディランの去った軍港に鐘が響いたのはそのときだった。

 正午である。ということはそろそろ十人委員会がローガン・ショックリーに天帝への返書を持たせている頃だ。


(ん? あれは……)


 不意に造船所内に現れた二つの影にユリシーズは足を止めた。小型ガレー船のほうに乗り込もうとした男たちを直前で呼び止める。


「おい、お前たちもマルゴーへ行くのか」


 問いかけに防衛隊の騎士と槍兵が振り返った。しがない平民の彼らがここにいる理由は一つだろう。王国の滅びた後も王家の血に仕えようというのだ。

 二人は顔を見合わせて警戒しつつ頷いた。きっと自分はルディアの敵と認識されているに違いない。別にそれは構わない。こちらとしてもそれを否定するつもりはない。

 だがそれならどうして自分は彼らに声をかけたのだろう。敗北し、去りゆくしかない王女のことなど放っておけば良かったのに。


「…………」


 自分から呼び止めておいて二の句を続けられず、ユリシーズは黙り込んだ。赤髪の騎士が訝しげに「なんの用だ?」と問い返す。


 ――あの人を頼む。


 そう言いかけて口をつぐんだ。守ってくれる夫がいるのにわざわざ念を押す馬鹿はいない。


「……いや、何も。確認を取りたかっただけだ。もう行っていい」


 ユリシーズが首を振ると二人は戸板の橋を渡ってガレー船に乗り込んだ。

 何も言うべきことはない。今はほかに考えるべきことがある。

 逃げるだけの金がない者、家名にかけて逃げ出せない者、ここには多くの民と貴族が残される。

 新しい旗を用意しなければならなかった。

 皆が支えにできるような、新しい、折れない旗を。


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