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第1章 その1

 幾日も続く風雪が家々の門戸を固く閉ざしている。レーギア宮から見下ろす広場は白銀に埋もれ、衛兵のほかには犬猫の影もない。

 薄ら寂しい風景だ。声には出さず、ルディアは小さく息を吐いた。二ヶ月に渡る包囲に耐え、勝利した側の街と思えない。あるべき熱狂に欠けている。


「なーんか静かだな。いつもだったらもうとっくにカーニバルの準備始めてる時期なのに」


 壁のない二階通路の片隅でレイモンドが呟いた。呑気に祭りの心配かと皮肉を返す気にもなれず、視線を国民広場に戻す。

 誰も表に出てこないのは緊張と警戒の表れだ。ノウァパトリアで起きた政変。その意味のわからぬアクアレイア人はいないから。

 交易は常に東パトリア帝国ありきで営まれてきた。もし天帝に港への出入りや取引を禁じられたらこの国は生きていけない。


「今年はカーニバルないかもよ」


 淡々とモモが呟く。事の重大さに気づいているのかいないのか、槍兵の反応は至って平常通りだった。


「あーそっか。騒ぎたくても酒も食い物も足りねーもんな」


 この馬鹿くらい頭を使わずにいられたら少しは気楽になれるのだろうか。

 この雪がやんだら。この冬が明けたら。先のことを考えるほど憂鬱になる。東パトリアを我が物にした天帝が次に狙うのはきっと――。


「今のうちに元の身体に戻ったほうがいいんじゃないか?」


 アルフレッドにそう尋ねられ、ルディアは静かに振り返った。騎士は言外に「この先は何があるかわからないぞ」と言っている。出産も済んだのだから、少しでもできる備えをしたほうがいいと。


「……いや、私はまだしばらくこの姿でいるつもりだ」


 ルディアの返答にアルフレッドは顔をしかめた。何か言いたそうに彼の口が開かれるが、ちょうど同じタイミングで鐘が鳴る。

 間もなく背後の中庭に十人委員会の面々が現れた。「ルディア王女」も暗い表情で宮殿の私室へと歩いていく。


「今日の会議は終わったらしいな。お前たち、悪いが少しこの辺りを巡回してきてくれ。私は先に寝所に戻っている」


 言うが早くルディアはバルコニーを後にした。別行動を言い渡された騎士の不満げな顔が目に入ったが致し方ない。

 防衛隊と会議の内容を共有する気にはなれなかった。今は十人委員会で何が話し合われていてもおかしくはないから。

 衛兵室を兼ねる控えの間を通り過ぎ、慣れた自分の部屋に戻るとブルーノが青い顔で震えていた。



「……姫様、アクアレイアはこれからどうなってしまうんでしょう?」



 涙目の彼に何も答えず、ルディアは会議の進展だけ問う。ブルーノは力なくふるふると首を横に振った。


「会議では、今はジーアンの出方を窺うしかないと……。でも皆、天帝が何をする気でいるのか口に出そうとしないんです。暗黙の了解という感じで」


 委員会の様子は簡単に想像がついた。家の名前だけでメンバーに入っているクリスタル・グレディと王女代理のブルーノ以外は外交経験豊かな者ばかりだ。今の勢力図を見れば否応なしにヘウンバオスの魂胆は知れる。

 黙り込みたくもなるだろう。迫る困難に打つ手なしという窮状まで自覚済みなら。

 天帝はアクアレイアを西パトリア諸国攻略の足掛かりにするつもりなのだ。急峻なアルタルーペの山々に守られたマルゴーより、王国の港を制したほうが手っ取り早くて有益だから。

 家畜同然に扱っていたアニークと結婚してまで東パトリア帝国に押し入る口実を作った男だ。他国と交わした休戦協定を守るつもりなど毛頭ないに違いない。

 例えば女帝に「東西パトリアの再統一を!」と叫ばせるだけで挙兵はできる。ジーアンはただ友軍として東パトリア兵に続けばいい。そんな展開が来る前にアクアレイアはアクアレイア人のものでなくなっているだろうが。


「ブルーノ」


 己の無力に対する怒りを極力滲ませないようにルディアは彼の名を呼んだ。

 本当はもう解放してやるべきなのだろう。勝手に身体を入れ替わった代償は十分払ってもらったし、ルディアの都合と本来彼は無関係だ。――だが。


「……お前には苦労を強いるかもしれない。先に謝らせてほしい」


 突然の謝罪にブルーノは目を瞠った。ルディアが彼の両手を握ると狼狽し、真っ赤になって後ずさりする。


「えっ? えっ?」


 同じ蟲としての純粋な好意を利用するようで心苦しいが、ほかに頼れる者はなかった。ルディアにはまだ自由に動ける身分と身体が必要だった。


「あああ、あの、ぼぼ僕は、姫様のための苦労だったら、全然そんな、苦労だなんて」


 しどろもどろに恭順を誓われ、思わず苦笑いが漏れる。

 いつまでこうして姫などと呼んでもらえるのだろうか。


(気をしっかり持たなければ)


 ともすれば震えそうになる己自身に言い聞かせる。

 この先に必要なのは策でなく覚悟だ。

 何が起こるかわからない。だからこそまだ「ルディア」には戻れなかった。




 ******




 巡回してこいと言われても街中雪に埋もれていて犯罪の臭いなどどこにもしない。水路のゴンドラは布で覆われ、曲者どころか人っ子一人いなかった。蓄えのない今の王都は泥棒にさえ見放されているのだ。

 適当にぶらつくのも早々に飽き、モモは雪玉を転がし始めた。あんまり早く宮殿に帰ってもまた外へやられそうだし、雪だるまでも作っていれば良い時間になるだろう。


「おっ、楽しそうなことしてんじゃねーか」


 と、雪玉に気づいたレイモンドが「俺も俺も」と胴体作りに参戦してくる。

 アクアレイアがこんなときなのに最近彼は浮かれ気味である。どうもドナ・ヴラシィとの戦いで良いことがあったらしい。それが何かまでは知らないが、きっと特別手当でも貰う約束をしたのだろう。どことなくルディアを見る目が前とは少し違っている。

 違うと言えば兄アルフレッドもそうだった。いつもなら「任務の途中だ」と絶対叱るのに雪と戯れるモモたちに何も言わない。この巡回の無意味さを――もっと言えばルディアが露骨にこちらを避けている意味を考え込んでいるのだろう。アニークの身も心配だろうし、気苦労の絶えぬ男である。


「いつぐらいにお城に戻ればいいかなあ」


 広場の奥、雪の向こうに薄っすらと霞むレーギア宮を見上げて呟く。

 美しい宝石箱を思わせる四角い宮殿。あの中でルディアたちは今頃どんな話をしているのやら。


「姫様は予想ついてるんだよね? アクアレイアがどうなっちゃうか」


 モモの問いに頷いたのはアルフレッドだ。


「ああ、どうもそんな感じだな」

「やっぱりかあ。それをモモたちに言わないってことは、相当ヤバいってことだよねえ」

「え? ヤバいって何が? まさか今度はジーアン騎馬軍が襲ってくるとかか?」


 状況をまったく把握できていないレイモンドに盛大な嘆息を返す。そろそろ人の顔と経歴を覚える一芸以外にも頭を使ってほしいものだ。


「ジーアンとは一応まだ休戦中でしょ」

「そうだよな? 向こう一年は武力行使しないって約束したのが去年の四月だし、いくらなんでも立て続けに戦争はねーよな?」

「武力行使されなくても詰んでるじゃん。ノウァパトリアからアクアレイア人が締め出されたって聞かなかった?」

「うっ……! そりゃ俺だって知ってるけど、だからってもう交易はできねーもんだと決めつけんのは」

「実際無理でしょ」

「無理じゃねーよ!」

「無理だってば」

「んなことねーって! 東パトリアはろくな軍船持ってねーんだし、ジーアンには海軍そのものがないんだぞ? ノウァパトリアは無理でもさ、クプルム島とかミノア島でこっそり商売続けんのはイケるだろ!」

「あー、天帝の目を盗んで?」

「そうそう! 天帝の目を盗んで!」


 なるほどと一瞬納得しかける。確かに東パトリアの雑魚船乗りとジーアンのお馬大好き軍団では広い海の隅々まで支配を徹底するのは難しい。なら公的に取引を禁じられたとしても裏でどうにかできる可能性はある。


「……でもそれって、なーんか穴がある気がするな」

「ええーっ! 名案だと思ったんだけど」

「だってさあ、レイモンドが思いつくようなこと姫様が思いつかないわけないじゃん。それにモモずっと引っかかってるんだけど、バオゾとノウァパトリアの間って船でなきゃ渡れない海峡があったよね? 皇妃を捕らえたっていうジーアン兵、なんであそこを越えられたんだろ?」


 モモの疑問にレイモンドはぱちくりと瞬きした。「そう言えばそうだな」と槍兵は少し真面目に考え出す。


「あいつらが自分で船を動かせたってこと?」

「わかんないけど……。ねえねえ、バジルはどう思う?」

「えっ?」


 話を振った弓兵は覇気のない白い顔を上げた。と、今まで彼に降り積もっていた雪がどさどさ地に落ちる。一体どれだけぼんやりしていたらこんな状態になるのだろう。凍えた唇は真っ青だ。


「あ、すみません。えーっと……なんの話でしたっけ?」

「…………」


 寝ぼけた返事にモモはふうと溜め息をついた。

 兄よりも、レイモンドよりも、彼が一番普段の彼らしくないかもしれない。そんなに長々引きずるほど戦場はバジルにとってショックな場所であったのだろうか。


「いや、いいよ。聞いてなかったなら」


 かぶりを振ってモモは雪だるま作りに戻った。

 雪が止み、新しい情報が入ってくるまでどうせ動きの取りようがないのだ。だったら悪い想像ばかりしていても仕方がない。今はアンディーンに祈りつつキュートな雪像でも建てよう。


「はあ……」


 吐き出した息は真っ白に濁った。毎年二月は仮装と仮面でどんちゃん騒ぎのカーニバルが楽しみだったのに。

 冬の終わりに航海解禁を祝して二週間続く無礼講。防衛隊が結成されたのもルディアとチャドが結婚したのもあの祝祭のさなかだった。

 近づく春への期待が一気に盛り上がり、誰の胸も高鳴る季節だ。今年も何かいいことが待っていると信じたい。




 ******




 空模様が落ち着きを取り戻したのはそれから一週間後のことだった。

 更に翌二月十八日、アクアレイアの沖合に数隻の大型ガレー船が現れる。

 高々と掲げられているのはカーリス共和都市の双子神の旗。アクアレイアの支配するアレイア海にライバル都市の船団がやって来るなど初めてだ。やけに余裕ある彼らのガレー船の漕ぎっぷりにルディアは嫌なものを感じないではいられなかった。


「カーリスの連中がなんの用だ?」

「まだ冬も明けきってないってのに……」


 警鐘を耳にした人々が国民広場にわらわらと集まってくる。不安げな人々に紛れてルディアは近づく旗艦を見上げた。

 船首に立つ偉そうなチョビ髭男には見覚えがある。ローガン・ショックリー、イオナーヴァ島でグレッグを悪徳商法の餌食にしようと試みた小悪党だ。確かカーリス共和都市では最も大きな商会の経営者である。


(やはりそういうことだったか)


 明らかになった事実にルディアは唇を噛む。

 ノウァパトリアにジーアン騎馬軍を輸送した協力者。電光石火のクーデターだったという報告から、必ず裏で手引きした者がいると確信していた。それはノウァパトリアの地理に明るく、港と宮殿への出入りを許可された、おそらく皇室御用達商人であると。


「天帝陛下より書状を預かってまいりました。読み上げさせてもらっても?」


 ローガンはいやらしい顔で笑う。甲板を降りた男が国民広場に上がってくると周囲からさっと人が引いた。


「なんでショックリー商会が天帝の書状を持ってくるんだよ?」

「もしかして繋がりがあったのか?」


 ざわめきに応えてローガンは大きく頷く。ただでさえコットンで着膨れた胸を得意げに張られ、チッと舌打ちしたくなった。


「ええ、近頃では一番のお得意様ですよ。弟君はアクアレイアにご執心のようでしたが、ジーアンのトップはなんといっても天帝陛下ですからねえ!」


 最悪だ。これで最後の逃げ道も塞がれた。もしヘウンバオスによる経済封鎖が本格化しても、派兵できない島々でならと考えていたのに。

 カーリス共和都市はパトリア圏の海で唯一アクアレイアに対抗し得る強力な海軍を有している。そのうえ奴らは筋金入りの利己主義だ。大喜びで縄張りを広げ、自分たちの商売圏内からアクアレイア商人を排除しようと奮闘するに違いない。


「それではさっそくかのお方からの書状を――」

「ローガン殿、どうぞレーギア宮へ! お持ちくださった書状は謁見の間にて受け取らせていただきます!」


 豪商の台詞を遮る形で飛び出したのは十人委員会のナイスミドル、カイル・チェンバレンだった。勝手にうちの国民に何を聞かせるつもりだと怒った顔に書いてある。


「おやおや、カイル殿ではありませんか!」

「お久しぶりです、ローガン殿」


 向かい合った二人はバチバチと派手に火花を散らした。両者ともまるで心のこもらない不気味な愛想笑いである。どうも過去に因縁があるらしい。


「お出迎えありがとうございます。しかしせっかく皆さんが寒さを堪えて表に出てきてくれているんですよ? ここで一緒に天帝陛下のありがたいお言葉を聞かせてやっても良いのではありませんか?」

「そのようなお気遣いは結構! さあ、謁見の間へ! さあ!」

「うーん、そう仰られてもどうにも気乗りしませんなあ。皆さん聞きたがっているようにお見受けしますしなあ」


 押し問答はそれから四、五分続いたろうか。頑として広場を動こうとしないローガンに痺れを切らし、だんだんと民衆たちが騒ぎ始める。


「なあ、天帝はなんて言ってるんだ?」

「俺たちに商売続けさせてくれるのか?」

「別に構いやしねえじゃねえか! 今ここで教えてもらってもよお!」


 黙れと叫ぶわけにもいかず、ルディアは周囲をきつく睨みつけた。

 馬鹿者どもめ。弱みを露呈してどうするのだ。これからジーアンとなんらかの交渉をせねばならないのは明白なのに。


「――わかった。ここで話を聞こう」


 そこに落ち着いた声が響く。堪え性のない誰かが使者から書状を奪う前に、父が正門をくぐってきたのだ。

 ローガンはにやりと口角を上げた。ろくでもない話なのはわかりきっていた。一国の王に対し、豪商は会釈さえしなかったのだから。


「ま、長々と申し上げても仕方ないので、要点だけにしておきますね」


 誰も彼もが息を飲む。その音がいやにはっきり響く。

 とてつもなく長い一秒だった。ローガンが口を開くまで。


「『我が伴侶にして東パトリア帝国の女帝アニークは、同帝国とアクアレイア王国間の一切の取引を禁ずる。ただしアクアレイアが王権を放棄し、ジーアン帝国の属領となることを認めるならば従来の商業特権を剥奪するのみとする』――だそうです」


 しん、とその場は静まり返った。

 当たってほしくはなかったが、ほぼ予想通りの要求だ。独立を捨て、租税を納めよ。幾多の街に突きつけられてきたシンプルな。


「返答は一両日中にいただけますかな? それまでは港で待機しておりますので」


 ローガンは悠々と踵を返す。着膨れた彼の背に噛みついたのはカイルだった。


「この痴れ者めが! アクアレイアが天帝の手に渡ればどうなるかわかっているのか!? お前たちの古王国はここから侵略されていくんだぞ!」

「はっはっは、これは異なことを。パトリア古王国はとっくにジーアン帝国と不可侵条約を締結済みですよ?」

「天帝が真実約束を守る男なら東パトリアとて安泰だったさ!」

「ふふ、そうかもしれませんねえ。しかしまあ我々カーリス共和都市にとってジーアン帝国の領土拡張は大きな問題ではないのですよ。彼らには我々が必要だし、我々にも彼らが必要だ。世の中持ちつ持たれつってね!」


 高笑いを響かせてローガンは船に引き揚げる。「このド腐れコットンデブ!」とカイルの遠吠えが響いた。

 渡された書状を手にイーグレットもレーギア宮へ消えていく。残された民衆は顔を見合わせて黙り込んだ。

 ジーアン帝国の属領となる。それはつまり、ジーアン軍の常駐を受け入れて彼らの掟に従うということだ。

 海を理解しない騎馬民族の下でこれまで通りに暮らしていける保証はない。アクアレイアはもしかするとただの漁場になってしまう可能性もある。

 だがジーアンと戦おうと言い出す者は誰一人いなかった。それは歯向かった対岸の惨状を知っているからというより、満身創痍の自分たちの現状を知っているからに相違なかった。


「…………」


 唇を引き結び、ルディアは急ぎ王宮へ向かう。

 十人委員会の招集を告げる鐘はもう響き始めていた。


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