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序章

 長い、長い、ゴンドラの列が大運河を漕ぎ進む。

 重苦しい曇天と静寂。ひと掻きごとにたぷんと揺れる暗い水。岸辺に集った人々は頭を垂れて祈りを捧げ、偉大な女性を亡くした悲しみに打ちひしがれている。

 棺に手を添えるふりをしてイーグレットは振り返った。どうして兄弟のうち自分だけが宮殿の奥に秘されてきたのか。葬送を見ればその理由もわかる気がした。

 人も、船も、纏うのは白い装束。水路には献花されたアンディーナリリーが新雪のごとき花弁を散らし、ゆっくりと押し流されている。


 ――白は弔いの色なのだ。


 母アリアドネが急死したのはイーグレットが十二歳のときだった。奇しくも葬儀は自分自身の披露目の場となり、酷く息が詰まったことを覚えている。

 露骨に歪む民の表情。身も凍るほど冷淡な眼差し。列席の貴族にまで縁起が悪いと囁かれた。あれが国王の長子でなくて本当に良かったと。

 あの当時、イーグレットが次の君主になることを誰が予見していただろう。父ですら「この子には王族らしくあることを求めない」と公言したのに。

 学問に耽るのも、芸術を志すのも、神殿の門を叩くのも自由だと兄たちとは違う教育を与えられた。自由といっても実際は放任、なんの働きも期待されていないだけだった。

 それでも腐らずいられたのは、誰かの支えがあったからなんて理由ではなく腐り方さえわからないほど箱入りだったゆえだろう。

 王宮に引きこもっていれば無慈悲な衆目に晒されずに済む。そうして一生を終えることに悲哀は感じても疑問はなかった。――なかったのだが。


「…………」


 喉まで出かかった嘆息を押し殺し、イーグレットはかぶりを振った。小会議室を見渡せば十人委員会の面々が揃って渋い顔をしている。

 いくらヘウンバオスが狡猾な男とはいえ、これほど見事に東パトリア帝国を奪われるとは誰も考えていなかったのだ。長い宗教紛争で国力は衰えていようとも、そう易々と打ち倒される東の雄ではない。その証拠に天帝も皇妃一派を傀儡とすることであの国とは手を打ったではないか、と。


「……結局我々も皇妃もまんまと騙されたわけですな」


 苦々しいカイルの舌打ちが室内に響く。

 急使の持ち帰った情報を元に現状分析を始めて早二日、読み取れるのは王国にとって進退窮まる事実ばかりだった。


「アクアレイア人はまとめてノウァパトリアを叩き出されたわけでしょう? やはりアニーク皇女、いや、アニーク帝にうちと交易する気はないということですかね?」

「王国全体の意向として今までずっと皇妃のほうに肩入れしてきたからのう。引き立ててもらうのは難しいかもしれんぞ」

「そう、それに女帝がどうかではなく天帝にその気があるかだよ」

「ドナ・ヴラシィを押さえられてるだけでもつらいってのに、交易先まで連中のもんになっちまうとはなあ……」


 溜め息も肩をすくめる仕草も連鎖反応的に広がる。

 誰もはっきり言わないが、ヘウンバオスの仕掛けたゲームが終わりに近づきつつあることは明らかだった。少なくともアクアレイアという駒はジーアンの手に落ちようとしている。

 アニーク皇女、ドナ、ヴラシィ、一年限りの休戦協定、バオス教、聖預言者ハイランバオス――彼の持ち駒はわかっていたのに、どの駒をどう使うつもりなのか少しも読めていなかった。国を取り巻く情勢がこんな形になって初めてその深謀が見えてきたのだ。

 ヘウンバオスにとってもやはり東パトリア帝国は巨大だったのだろう。それで彼はまず敵国を南北に分かつヌル教に取り入った。

 生き神として君臨した天帝の言葉は絶対のもの。たとえ異教の徒が相手でも不可侵条約は守られる。おそらくこれがその後の予断を招いてしまった。

 続いて彼は東パトリア皇室に接近する。愛息を帝位につけたい皇妃は喜んでアニークを人質に差し出した。そうすれば国境は侵さないという天帝の約束を信じたのだ。事実しばらく東パトリアは平和だった。

 ジーアンは次にアレイア海東岸を狙った。だがアルタルーペの高峰に阻まれ、マルゴー公国への侵攻は断念せざるを得なくなる。騎馬軍はドナとヴラシィに向かった。ジーアンは東岸の都市国家群を着実に陥落させていった。

 困り果てたのがアクアレイアだ。寄港地を失って、王国の商売は規模縮小が相次いだ。そうして二年の歳月をかけてじわじわ弱らされていった。

 ノウァパトリアの対岸に都を遷したヘウンバオスは腰を据えて機を窺ったに違いない。皇妃を操り皇帝を弑し、アニークに代替わりさせる機を。

 だがまだいくつか弊害があった。その一つがアクアレイア海軍だ。

 大国でも海軍を常設している国は稀である。陸軍なら農夫を掻き集めるだけで形になるし、農閑期に鍛えることも不可能でないが、船を操る海兵は片手間では到底育成できないからだ。

 建国の年よりずっとアクアレイアは東パトリアの海上警備を任されてきた。その報酬として皇帝は王国商人の商業特権を認めてくれていたのである。

 特にこの頃の東パトリア帝国は海の防衛をアクアレイアに頼りきっていた。ノウァパトリアが外敵に襲われたとき、アクアレイア海軍なら独断で武力介入できるだろうと囁かれるほどに。

 将を射るにあたり、ヘウンバオスはまず馬を遠ざけることから始めたのだ。ドナ・ヴラシィの男たちに「アクアレイアを落とせば故郷はお前たちに返してやる」と約束したのがそれである。

 予期せぬ戦闘にアクアレイアは兵力を釘づけにされてしまった。主力船団もノウァパトリアから距離のある交易地で冬を迎えていた。

 この形勢が整った時点でヘウンバオスの企ては九割がた達成されていたのだろう。脱走奴隷が勝利しようと敗北しようとどうでもいい。王国海軍が皇妃や皇子の救出にさえ向かえなければ――。


「いずれにしても、武力包囲よりもっと厄介な経済包囲は完成してしまった。交易しか生きる術のない我々ではもはやヘウンバオスに逆らえまい。本当に、嫌になるほど国の急所というのを理解しているよ。アクアレイアを押さえればノウァパトリアが、ノウァパトリアを押さえればアクアレイアが手に落ちると最初から見抜いていたのだろう」


 イーグレットの呟きに十人委員会の面々は重く沈黙する。

 アニークを妻に娶った天帝が王国にどんな態度を示してくるか、楽観視などできようはずもなかった。

 カタカタと細い窓が鳴る。みぞれ混じりの雪が激しく打ちつけている。

 ぶるりと肩を震わせたルディアに己の膝掛けを差し出すと遠慮がちに首を振られた。

 もう部屋を暖める燃料すら不足しているのだ。使いなさいと半ば強引に押しつける。


「この冬最後の嵐かのう」


 ニコラス老の間延びした声が卓に落ちる。

 雪を見ると母の葬儀を思い出すのは何故だろう。あの人が逝ったのは真夏の出来事だったのに。

 あれが最も強烈に自分の「色」を意識した最初の経験だからだろうか。

 白は死の色。不吉だと恐れおののく人々の声が甦る。


 ――あんなのが王になったら国が滅んじまうんじゃないか?


 予言はおそらく、現実になろうとしている。




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