第5章 その4
激戦の幕が開けた日から、クルージャ岬の緑の丘は大量の血で洗われ続けた。雨が降ろうと雪が降ろうと無関係に。
毎日一箇所大きな穴を開けられる砦の補修に追われつつリーバイは半ば呆然と指揮を執る。押し返すどころかドナ・ヴラシィ軍はじわじわ後退させられていた。傭兵団と海軍による強固な包囲網によって。
ピルス川への道が閉ざされたのは最初の攻撃から十日目のことだった。上流から届いた物資は残らずアクアレイア軍に奪われた。
確保してある食糧だけでどれくらいもつだろう。砦の中は昼間だというのに薄暗く、失意が蔓延しつつある。
罵り合う気力もなかった。一点突破を狙ってピルス川への最短距離を攻めるも傭兵たちに撃退され、疲労困憊して砦に引き返すだけ。希望の光など見えやしない。
ずっと優勢だっただけに皆のショックは激しかった。沖に晒された仲間の船と同じに日ごとにボロボロになっていく。
「……もう降参するか?」
誰かが聞いて、別の誰かがすぐ首を振った。
「降参してどうするんだ? またジーアンに送り返されるのを待つのか?」
一生奴隷で終わりたくない。だったらまだアレイア海で散ったほうがいい。口にせずとも気持ちは皆同じである。勝利の可能性が残されているならそれにすべてを賭けたいけれど。
「……あれはどうした?」
不意に老将ランドンが尋ねた。「あれ?」とリーバイは聞き返す。
「パトリア古王国の使者が持ってきた莫大な金じゃ。今の今まで忘れとったが、あれを使えば戦局を変えられるのではないか?」
ぴくりと片方の眉が跳ねる。生き残りの幹部たちは色めき立った。
「……そうだよ! 傭兵どもを買収すりゃいいんだ!」
「小金握らせて食い物を届けさせようぜ!」
「いや、それより俺たちに雇われないか交渉するのはどうだ? アクアレイアの連中にも奴らの槍攻撃を食らわせてやりてえだろ?」
「そりゃいいな! あいつら慌てふためくぜ!」
傭兵団をドナ・ヴラシィ軍に引き入れるという妙案に誰もがはしゃいで手を叩く。さっそく奥に片付けられていた大箱が引きずり出され、パトリア金貨の勘定が始まった。
数えてみれば小さな島一つ買えそうな額が収められている。これには重傷の兵たちまで狂喜乱舞した。
「金で主君をコロコロ変える連中だ。絶対に俺たちのほうに寝返るぞ!」
万全を期し、裏で傭兵に接触するのはサロメの役と決まる。
朗報がもたらされるのをリーバイたちは波の乙女に祈って待つこととなった。
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素晴らしい働きだ、お前はマルゴーの誇りだと散々チャドに誉めそやされてグレッグは有頂天だった。川べりの林をスキップする足取りは軽く、鼻歌まで口ずさんでしまう。
「ふんふんふふーん」
こうして武勲を認められるとなんて気分がいいのだろう。何日だって何時間だってぶっ通しで戦えそうな気がしてくる。
補給路は傭兵団がばっちり抑えたし、後はドナ・ヴラシィ軍がへこたれるのを待てばいい。クルージャ砦に白旗の上がる日が楽しみだ。
「――旦那、旦那」
ひそひそ声に呼ばれたのはそのときだった。木立の連なる一帯に人影らしい人影はない。声の主を探してグレッグは辺りを見回した。
「旦那、こっちこっち」
振り向けば大樹の陰に隠れてルースがちょいちょい手招きしている。長身を小さく屈め、人目に触れたくないと言わんばかりだ。
「なんだあ? お前クソでも漏らしたのか?」
「そんなみっともない真似するか! いいからほら、こいつを見てくれ」
「えっ? お、お前これ……!?」
袖口に覗く黄金にグレッグは息を飲んだ。色といい、重さといい、混じり気なしのパトリア金貨だ。一枚でウェルス銀貨一千枚に相当する富裕層御用達の貨幣がルースの手元でなんと二十枚近く擦れ合っている。
「さっきヴラシィの若い娘さんがくれたんだよ。ちょいと目つきがキツいけど、出るとこ出てて引っ込むとこは引っ込んでる瑞々しい白い肌の……」
「いや、そこは素っ飛ばして本題を言えって。ヴラシィの奴らが俺らにこんなもん寄越すってことは……」
声は無意識に低まった。アクアレイア兵に聞かれたら事だぞと警戒を強める。
「ああ、味方にならねえかってさ。王国の四倍出すって話だぜ」
「よ……ッ!?」
思わず叫びかけたのをルースの手に押さえ込まれた。むぐむぐとグレッグは呼吸に苦しむ。
「しょ、正気かそりゃ?」
尋ね返す己の声は疑いに満ちていた。今でさえアクアレイアとは月に百五十万ウェルスの高額契約を結んでいるのにその四倍など有り得ない。もしかしてドナ・ヴラシィ軍は計算できない人間たちの集まりなのだろうか?
「金は持ってるみたいだな。ちょいと砦に招待させてもらったが、少なくとも五百枚はこの目で確認した。仮に四倍がハッタリだとしてもバックにゃ天帝や聖王が控えてるそうじゃねえか。支払い能力はあると思うね」
「…………」
金貨の輝きに目を奪われ、しばし口も利けなくなる。
四倍ということは六百万ウェルス。パトリア金貨六千枚。現実とは思えない数字だ。
「……いや、駄目だ。それはできん」
が、精神を奮い立たせてグレッグは誘惑を拒絶した。批判気味に「なんでだよ?」と顔をしかめたルースに気高く力強く説明してやる。
「どんな理由があったにせよ期間中の契約破棄は有り得ねえ。グレッグ傭兵団の信条に反する。俺たちゃ決まり事を破らねえってんであちこちの王侯貴族が重宝してくれてんだ。いくら金が欲しくてもそいつはやっちゃいけねえよ」
決まった。なんて見上げた傭兵団長だとルースも感動したに違いない。
が、返ってきた反応は今ひとつだった。傭兵団のブレーンでもある副団長はがっくり項垂れて溜め息を吐きこぼす。
「ほんっと馬鹿だなー旦那は! 今日が何月何日かもわからないで話聞いてたのか?」
「は?」
「一月二十九日だよ! 俺たちがアクアレイアと契約したのが十一月の頭で、それが三ヶ月契約だったんだから、明後日には綺麗に鞍替えできるじゃねえか!」
あっとグレッグは拳を打った。
本当だ。言われてみればもうじき満期終了ではないか。
「いや待て、チャド王子はどうすんだ? 俺は王子を悲しませたくないぞ!」
「王子のためにはアクアレイアが負けたほうがいいかもだぜ? 田舎者だとか山猿だとか、あの人言われたい放題だろ。可愛い嫁さんと赤ちゃん連れて一家でマルゴーに引っ越したほうが確実に幸せになれるって」
「う、うーん」
それはそうかもしれないと一瞬納得してしまった。そのうえ「王子なら傭兵団の懐事情もわかってくださるよ」と言われ、また「そうかも」と思わされてしまう。
傭兵団の運営にはとにかく馬鹿ほど金がかかる。千人が一斉に移動しながら生活するのだ。出費は並大抵ではなかった。
「まあ最終的に決めるのは旦那だけどさ、俺は悪くねえ話だと思ってる。明日までにどうするか考えといてくれ」
駄目押しに金貨数枚を押しつけてルースは立ち去った。
まばゆい黄金を眺めているとついにんまりしてしまう。装備を一新するのもいいし、少々贅沢な晩餐を団員に振る舞ってやるのもいいだろう。皆の喜ぶ姿を想像すると心が躍る。だがグレッグの胸にはまだもう一つ小さな引っかかりがあった。
(こっちにゃ世話になった奴がいるからなあ……)
思い浮かんだレイモンドの顔に罪悪感が湧いてくる。あの男がいなかったらグレッグは今もイオナーヴァ島に囚われの身だったかもしれない。レモンの件でも感謝しているし、やはり恩には恩で報いたい。
だが傭兵団が生きていくのに金が必要なことも事実だった。ルースが勧めてきた通り、この契約は確かに受けるに値する。団員でも雇い主でもない市民に気兼ねするから、なんて理由で断るのはもったいないと思うくらい。
(いっそ誘ってみるか? アクアレイアはおしまいだから、グレッグ傭兵団に入らねえかって。このパトリア金貨見せれば案外食いついてくるかもしれねえぞ?)
そうだ。レイモンドはどう見たって純粋な王国人ではないのだから、故郷に未練などないかもしれないではないか。こんなところで死なせるには惜しい男だし、一度説得してみよう。
******
吹く風も多少やわらぐ昼下がり。レイモンドが傭兵団長に呼び出されたのはまだ小競り合いの一つもなく、今日はなかなか穏やかだなとのんびりしていたときだった。
「――は?」
あまりに無礼な扱いを受けると人の頭は真っ白になるらしい。眩暈がするのをなんとか堪えてレイモンドは問い返した。
この頃似たようなことにばかり腹を立てている気がするが、そろそろキレていいだろうか。
なんだってどいつもこいつも金に釣られて俺がなんでもやってのけると思うのだ?
「だからさあ、俺は個人的にお前を気に入ってるんだって! お前なら仲間も歓迎するだろうし、槍が得意ならすぐに頭角を現せる。そうすりゃ特別褒賞も……」
話の続きはもう耳に入ってはいなかった。右から左へ擦り抜ける声に怒りがかっと燃え上がる。
レイモンドはクルージャの丘に張られた天幕の裏側にいた。ドナ・ヴラシィ軍を岬の北端へ追い込んで砦から出られなくする逆封鎖作戦に防衛隊の一員として加わっているのだ。
やっと戦闘が落ち着いてきたと思ったらこれだ。二月からもっと給料のいい職場へ行く? 傭兵がいなきゃアクアレイアは戦線を維持できまい? だからこっちへ来ないかとは一体どういう了見だ。
「な? どうだ? もしほかにも連れていきたい奴がいるならそいつの面倒も見てやるぜ」
「ふうーん、破格の待遇だなー」
「おう! なんつってもお前にゃ借りがある。こんなところに放っていけねえよ」
「そっかそっか、そこまで思ってくれてたなんて嬉しいぜ」
乾いた笑いが喉に張りつく。グレッグはレイモンドの冷めた目に気づかずにニコニコと笑っていた。
見くびりやがって。確かに自分は皆ほど仕事熱心ではないが、生まれ故郷に後ろ足で砂をかけるような真似をした覚えはないぞ。給料分しか働くつもりはないという秘めた決意はあるにせよ、これから王国の敵に回るなどとのたまう傭兵団に転職するほど人でなしではないというのに。
(ほんっと損な見た目に生まれちまったぜ)
グレッグはレイモンドの身を案じてくれているようだが、そういう問題ではなかった。自分が同胞に槍を向けられる人間だと思われているのが癪に障って仕方ない。
生き延びるために戦場から逃げ出すのと、後ろから仲間を刺し殺すのとではわけが違うではないか。
「……で、おっさんはどれくらい本気であっちに寝返ろうと思ってんだ?」
レイモンドの問いにグレッグはうーんと唸る。「まあ、気持ちはほぼ固まってっかな!」との返答に笑顔でうんうん頷いた。
そう決めているのならこちらも遠慮の必要はあるまい。祖国の存亡に関わる案件はすぐに政府に報告するのがアクアレイア国民の義務だ。
「ありがとな、大事な相談してくれて。そんじゃ何人か一緒に連れていきたい奴がいるから、おっさんからその話してくんねーか?」
「おお、いいぜいいぜ!」
レイモンドは親しげにグレッグの肩に腕を回した。そのまま天幕の裏手から入口側に歩いていき、適当なところで足払いをかける。
「うおっ!?」
バランスを崩し、傭兵団長は尻餅をついた。レイモンドはすかさずその身体を担ぎ上げ、天幕内に放り込む。そうしてあらん限りの声で叫んだ。
「このおっさん、リーバイに今の契約の四倍出すって言われたんだと!」
王国の最重要人物――イーグレットにシーシュフォス、チャドに十人委員会まで集まっていた小会議の輪はたちまち騒然となった。周辺警護についていたアルフレッドやルディアも素っ飛んできて、転がったグレッグに剣の切っ先を突きつける。
「うわわわわッ」
「今の話は本当か!?」
「貴様、裏切り者の末路は承知しているのだろうな!」
起き上がろうとしたグレッグは有無を言わさず蹴り倒され、這いつくばって手を上げた。無抵抗を示す彼がなお「一月いっぱいはあんたらの味方だって! その後どうしようが俺らの勝手だろ!?」と主張すると今度はチャドが長弓を引く。
「グレッグ、どういうつもりだ!? 返答次第では私がお前に引導を渡すぞ!」
至近距離で矢をつがえられ、グレッグは狼狽した。哀れな男は青筋を立てる王子を必死で制止する。
「ひえッ! 勘弁してください! お、俺殺してもルースの恨み買うだけですよ!? あいつ団員丸ごと連れて向こうの砦に行っちまいますよ!?」
悲鳴じみた叫びと同時、チャドの細い目がはっと開かれる。それからすぐに渋々といった様子で長弓は引っ込められた。
この反応に力づいたのはグレッグだ。この場で本当の主導権を握っているのは誰なのか、王子の態度が傭兵団長に勘付かせてしまったのだ。
予想外の展開にルディアはきつく眉を寄せる。海路を塞ぎ、補給路を奪い、二ヶ月がかりで辿り着いた王手に待ったがかかるとは。
ふてぶてしくもグレッグは天幕の真ん中で胡坐をかく。今はアクアレイアのほうが彼にすがらねばならないのだと察して強気になったらしい。
ブラッドリーが戻り、封じ込めにも成功したとはいえ均衡はまだ危ういものだった。傭兵団がどちらを雇い主とするかで戦況は逆転するに違いない。ドナ・ヴラシィ軍に行かれる前に発覚したのは幸いだったが、ここで対応を誤れば話は同じだ。まったく厄介な心変わりをしてくれた。
天幕内には異様な緊張が立ち込めた。出入口と傭兵団長の周囲を固め、簡単に逃がさぬようにはしたものの、こちらのほうが追い詰められた気分である。
「……ちょっと待て。彼らにそんな高値で傭兵を雇う金があるのか?」
シーシュフォスのもっともな問いにグレッグは耳をほじって「スポンサーの金でしょうね」と答えた。クルージャ砦にはパトリア金貨が五百枚近くあると聞き、十人委員会の面々がざわめく。
「ご、五百!?」
「なかなかの大金じゃねえか」
「まさかそれほど隠し持っておるとはのう……」
お歴々たちはぼそぼそと何やら小声で話し合う。短い擦り合わせが終わると委員の中でも弁の立つ外交官カイル・チェンバレンが恭しく膝をついた。
「グレッグ殿、あなたとて数多くの部下をドナ・ヴラシィ軍に討たれたはず。賃金を据え置くとは言いません。値上げの努力は最大限いたします。ですのでどうか今少しアクアレイアに味方してはもらえませんか?」
傭兵団長のリアクションは薄い。「どれくらい出せるんだ?」と具体的に問う彼に二百五十万ウェルスの雇い料が提示されるとグレッグは嘆息とともに首を振った。
「去年は敵対してた領主に今年は奉公する、なんてこと俺たちには日常茶飯事だ。あっちは六百万も出すって言ってくれてんだぜ? 二百五十万じゃ話にもならねえよ」
上流貴族の貯蓄さえ尽きかけている現状を思えば今の王国には百万ウェルスの値上げが関の山だろう。既に多くの貴族が祖国のためと身銭を切ってくれている。これ以上は叩いても埃一つ落ちてはくるまい。
「……私の味方だと言ってくれたのは嘘だったのか?」
わなわなと怒りに肩を震えさせてチャドが尋ねた。グレッグは多少慌てたが、すぐに気を取り直して「王子とご一家の安全は保障しますよ! 一緒に公国へ帰りましょうぜ」と持ちかける。
「少し会わない間にすっかり金勘定が得意になったらしいな! 見損なったぞ、グレッグ!」
「い、いや王子、王子だって傭兵団の生活苦は知ってるじゃ……」
「なら差額の三百五十万は私が払ってやる! さあ、来月からのアクアレイアとの契約書にサインしろ!」
「も、もう! 俺がマルゴー人からは金取らない主義だって知ってるでしょ!」
チャドは羊皮紙とペンを押しつけるがグレッグはかたくなに受けつけない。二人はしばし取っ組み合いの喧嘩を続けた。
「馬鹿だ馬鹿だと誰がお前を笑っても、私だけはいつもお前を信じていたのに!」
「だ、だから王子に悪いようにはしないってさっきから」
「いいや、お前は根本的なことがわかっていない! 金に目が眩んでいるのだ!」
「無償でお守りしようってのにその言い方は酷くないです!?」
諍いを止めたのはイーグレットの提案だった。
「……ではクルージャ砦が陥落した際、出てきた金貨をすべて君たちの取り分とするのはどうだろう?」
これは順当な妥協案に思えたが、グレッグのお気には召さなかったようだ。やはり首は横に振られる。
「あっちも全額手元に持ってるとは限らないんでね。まあ前金として四分の一は先にいただくのが通例なんで、海に捨てらんなきゃ百五十万はぶん取れると思いますけど」
「ということは、君たちに六百万支払うにはあと二百万ウェルス融通できればいいわけだな?」
王と提督と十人委員会は再度相談を開始した。「美術品を売りさばけば」とか「買い手がつくまで時間がかかるぞ」とか不安げな声が漏れてくる。
アクアレイアのお偉方が右往左往しているのを見てグレッグはニヤついた。マルゴー人の僻み根性だ。金持ちの目を白黒させるのが傭兵どもは大好きなのだ。
こうなってはチャドの声もグレッグの胸に響かなかった。アクアレイア王家の一員として歩み始めようとしていた王子の心など、庶民の傭兵団長には最初から想像できなかったのかもしれないが。
「で? 国王陛下、結局どうなさるんで?」
余裕たっぷりにグレッグは尋ねる。困り果てて押し黙るイーグレットを見て傭兵団長は完全に調子づいた。王への無礼がルディアの怒りを加速させているとも知らず。
「もし払えそうにないってんなら、残念ですけど俺らはあっちに鞍替えしますよ?」
振り返ってみれば薄い氷の上を渡るかのような二ヶ月だった。王家ばかりか政府の信用まで失墜するし、取り調べなど受ける羽目になるし、謀反人は自由を得るし、国庫は燃えるし。間に合わせの市民兵や数の足りない海軍が初戦を持ち堪えられたのも奇跡だった。グレースがブラッドリーを見つけてくれたのだってそうだ。何が欠けてもこの逆転劇は実現できなかった。
やっとの思いで手繰り寄せた勝利をたかが六百万ウェルスごときで引っ繰り返されてたまるか。
私のアクアレイアはこんなところで終わる国ではない。
「――三点だ」
不機嫌を露わにした呟きが天幕に低く響く。
焦り顔で金策を考えていた十人委員会とシーシュフォスが、怒りに青ざめていたチャドが、瞠目したイーグレットが、両脇で見守っていたアルフレッドとレイモンドが、憤然と腕組みするルディアを見つめた。
「は?」
「傭兵団長として貴様は三点だと言ったんだ」
聞き返してきたグレッグの間抜け面を睨みながら答えてやる。唐突な侮辱に愚か者は「なんだと!?」と声を荒らげた。
「能なしに能なしと言って何が悪い!? 状況把握も満足にできないくせに、よく偉そうにふんぞり返っていられるな!」
「ああ!? 状況わかってねーのはてめえだろ! 舐めた口ききやがって!」
「や、やめんかブルーノ・ブルータス!」
「グレッグ殿を怒らせるんじゃない!」
ルディアを黙らせようとして十人委員会の老人が怒鳴る。雑音は頭から無視して更に大きく声を張った。
「だったら答えろ! 普段の貴様の主な雇用主は誰だ!」
「はあー!? んなもん聞いてどうすんだ!?」
「いいから答えろ! 答えないなら私が言うぞ! 飽きもせず年中身内で戦争ばかりやっているパトリア古王国の腐れ貴族どもだろう!」
「それがどうしたっつーんだよ!」
「馬鹿者が! パトリア古王国軍とドナ・ヴラシィ軍がアクアレイアの包囲網を完成させたとき、パトリア貴族の連中がどう考えたかもわからないのか!?」
「ああッ!?」
「パトリア貴族はこの戦い、どちらが勝つと踏んでいたかと聞いているんだ!」
「――」
ルディアの怒声にグレッグが瞬きする。根っこは素直な性分の彼は短い沈黙を挟んで「……えっ? ドナ・ヴラシィ?」と答えた。
「そうだ! 二ヶ月前の我々は飢えるしかないと思われていたんだ! つまり傭兵団があちらに乗り換えて勝ったところで奴らにはなんの意外性もない! むしろ不利な立場のアクアレイアを見捨てたと思われて終わりだ! だがもしこのまま我々がドナ・ヴラシィ軍を破ったらどうなる!? 絶体絶命の王国を救ったのは何者だったか、誰の目にも明らかではないか!」
「……そ、そりゃそうだが、傭兵が強い側に味方するのは別に普通の……」
「まだ言うか!? だから貴様は三流なんだ! この戦いに王国が勝利すればグレッグ傭兵団というブランドがどれほど価値あるものになるか、高い給金を払ってでも引き入れたい戦力になるか、そういう未来の試算が本当にまったくできないのか!? 単発で六百万ウェルス稼ぐのと、高額雇用が永続するのとどちらが傭兵団のためになる!? 言っておくが、こんな物語じみた大舞台は百年に一度だぞ! ここで将来に投資できず、目先の大金に手が出るようなら貴様は一生三点の凡骨団長で終わりだな!」
空気がビリビリ振動する。誰もが無言で息を飲む。
気迫に押されたグレッグは座ったままで後ずさりした。
「しょ……将来に、投資?」
「そうだ。アクアレイアの繁栄は先を見通す眼力を持った商人たちの賜物だ。お前も先を読む人間になれ! そうすれば公国ももっと豊かな国になる!」
きっぱりと言い切るとルディアは腕を組み直した。雰囲気に飲まれたか、男はどこかぽかんとしている。
「わかったか!?」
強い語調で戦士に問うが返答らしい返答はなかった。グレッグはただ双眸を瞬かせるのみだ。
「わかったかと聞いているんだ!」
駄目押しの問いに「は、はい」と傭兵団長は頷いた。一応は彼にもこちらの訴えが理解できたらしい。
腕組みを崩さないままルディアはクイと顎を上げた。すると両脇から契約書を持ったアルフレッドと羽根ペンを持ったレイモンドが歩み出てくる。
「サインはここに」
「おっさん、あんた最高についてるぜ!」
もはやグレッグはルディアの言に逆らわなかった。交渉は当初提示した通りきっかり二百五十万ウェルスで決着した。
「うむ。アクアレイア商人はマルゴー傭兵の活躍ぶりを行く先々で知らしめるだろう」
そうイーグレットが約束するとグレッグは深く感謝の意さえ示す。
流されやすい単純な男で良かった。態度にはおくびも出さず、一同はほっと胸を撫で下ろした。
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一難去った天幕の外でレイモンドはふうと息をつく。最悪の事態にならずに良かったが、なんだか凄まじく疲れた。
たとえ相手がマルゴー人でもアクアレイアを裏切れると思われるのはやはりつらい。落ち着いてくるとその事実がじわじわ心を苦しめた。
何度こんなことを繰り返さねばならないのだろう。
それとも一生こんなことが続くのが自分の人生なのだろうか。
「お手柄だったな、レイモンド」
と、背後でルディアの声がした。振り返り、レイモンドは冗談っぽく溜め息をつく。
「金出せばなびくって思われてただけだ」
「いいじゃないか。お前のところにその手の話が集まると助かる」
皮肉でもなんでもなくルディアは笑う。人の気も知らないで勝手なお姫様だ。
きっとルディアはこんな傷つき方をしたことなんてないのだろう。当たり前にアクアレイアを愛していて、皆からもそれが当たり前だと認められている。いつも誰からも根なし草に見られる己とはたいした違いだ。
「お前が本当に仲間を売るような男なら困るがな」
「はは、仲間と思ってるのはそっちだけかもしれないぜ?」
挑発的な笑みを浮かべて王女の顔を覗き込んでみるが、レイモンドの脅しを真に受ける彼女ではなかった。「実際そうしなかったではないか」と軽い口調でいなされる。
「大体お前は汚い金が嫌いだろう? いや、と言うより金を汚すのが嫌いなのかな。不当な請求は絶対にしないし、そこは感心しているよ。上っ面しか見ていない奴にはわからんようだし、本当に都合がいい」
意外な評価に面食らった。「ケチ」や「がめつい」は絡み半分でよく言われるが「金を汚すのが嫌い」は初めてだ。
「――俺、そんな風に見えるの?」
「なんだ? 妙なところに食いつくな。防衛隊の給与を裁定する私が言うのだ。間違いない」
「ふーん。へーえ? ほおおー?」
「なんなんだ一体。ニヤついていないでそろそろ警備に戻るぞ。クルージャ砦の奪還までもう一息だ、気合いを入れろ!」
「おう! 任せとけっ!」
いつの間にか落ち込んでいた胸はすっかり楽になっていた。己としたことが敵軍の企みを未然に防いだ功績の特別手当を打診するのも忘れるほど。
ドナ・ヴラシィの敗北が決定したのはこの十日後のことだった。
******
日増しに強くなる悪臭。体温を奪い去る隙間風。食べる物も飲む物も尽き、砦は死に満ちていた。
瓦礫と骸に躓きながらリーバイは階下の軍港を目指す。まだ息のある仲間に魚か何か食べさせてやりたかったから。
しかしなかなか足が進まない。全身が鉛のようである。
細い通路に横たわるサロメの側を通り過ぎた。彼女は砲撃を受けた際、壁の崩落に巻き込まれて死んだ。
そのすぐ側には幼い女の子とランドンの遺体。老将は悲嘆に暮れて動かなくなった。
やっと階段に辿り着くも、まともには下りられない。段差の前で座り込み、海の遠さに息を吐く。
誰か手伝ってくれないか。そう呼びかけようとして砦がしんとしているのに気づく。
いつの間に呻き声すら止んでしまったのだろう。これでは魚を獲ってきても誰に食べさせればいいのだか。
リーバイは冷えた石壁に身を預けた。もはや一歩も進めそうになかった。
(このまま終わりか。呆気ないな……)
重い瞼をそっと伏せる。
ひと目でいいから妻と子供に会いたかった。「おかえりなさい」と家に迎えてほしかった。
それくらい願っても良かったはずだろう。それくらい願っても。
「…………」
誰にともなくごめんなと詫びる。連れて帰れなくてごめんなと。
――不意に遠くで大勢の足音が聞こえた。
誰だろう。ついにアクアレイア軍が砦内部に踏み込んできたのだろうか。
耳を澄ませて確かめようとするけれど、意識は薄れて遠のいた。
間もなく冷たい暗闇がリーバイを包み込んだ。
******
クルージャ砦に王国旗が返り咲くと、国民は貴族も平民も抱き合って喜んだ。
勝敗の結果を知ったパトリア古王国軍も包囲を解いて撤退し、脅威はすべて消え失せた。アクアレイアには二ヶ月ぶりの平和が戻ったのだ。
シーシュフォスともども称賛を浴びるバルコニーの父を見上げてルディアは頬を綻ばせた。民衆は本気で王を見直したらしく、口々に「ダイオニシアス様とアリアドネ様の血を見事に受け継いでいらっしゃる」と褒めちぎった。
雨降ってなんとやらだ。祝勝会だ、波の乙女に感謝が先だ、俺は陛下の彫像を作るぞと人々は盛り上がる。移り気な民衆が今度はどれくらい支持を保ってくれるかは不明だが。
本当に大変なのはむしろこれからである。公式に天帝に抗議せねばならないし、アンバーとアイリーンがどうなったかも調べないといけない。東方交易を本来の軌道に戻すまで安心はできなかった。
「――ん?」
歓喜に沸く国民広場に鐘の音が鳴り響いたのはそのときだった。間を置かず「船だ」との声が耳に飛び込んでくる。
まさかドナ・ヴラシィ軍の残党か、と防衛隊は目配せし合った。だがそれはいらぬ心配だったらしい。しばらくして大運河に現れたのはアクアレイア旗を掲げたガレー船だった。
「一隻ぽっちでどうしたんだろ?」
「漕ぎ手が疲れ切っている。かなり急がせたみたいだな」
ハートフィールド兄妹が背伸びして観察する。まだほかの商船が帰ってくる時期でもないし、なんだか嫌な予感がした。
「……宮殿へ戻ろう。一隻だけということは急使の可能性が高い」
果たしてルディアの読みは的中した。ガレー船は一週間前、コリフォ島海軍基地を出航してきたものだった。曰く彼らは、ノウァパトリアから命からがら逃げだしてきた複数のアクアレイア商人に「とんでもない政変が起こった」と聞かされたそうである。
「――ひ、東パトリア帝国の皇帝が殺された!?」
いつも通り王女の寝室に集まった面々はブルーノから使者の伝言を聞くなり絶句した。
しかも話はそれだけでは済まなかった。息を潜めてブルーノは衝撃的な報告を続ける。
「それで皇妃は自分の息子を帝位につけたそうなんですが、東パトリア帝国の正統な後継者はアニークのはずだと天帝から物言いが入って……。先の皇帝の暗殺も皇妃親子の仕業に違いないと断定され、二人とも処刑されたそうです」
「しょ、処刑……!?」
馬鹿なとルディアは目を瞠る。いかにジーアンの力が絶大でも他国の内政に口出しする権限があるはずない。まさかアニークがヘウンバオスに頼ったわけでもあるまいし。
「お、皇女は? アニーク姫は生きておいでなのか?」
アルフレッドも血相を変えて問いかけた。騎士は気が気でないだろう。短い間だが親身になって世話した相手だ。
「ええと、順を追って話すね。そもそもヘウンバオスが挙兵したのは『不当に玉座を占拠する逆臣を排除し、継承権第一位の妻を即位させるため』だったんだ」
待て待て待て。話を聞いているだけで眩暈がしてくる。
妻とはなんだ? どういうことだ?
それではあの男は最初から傀儡政権の擁立なんて生温いものを狙っていたのではなくて――。
「ヘウンバオスは女帝アニークと結婚して、東パトリア全域の支配権を自分のものにしたんだよ」
やられた。ジーアン帝国の真の狙いはこちらだったのだ。
ドナ・ヴラシィの男たちをけしかけたのは時間稼ぎに過ぎなかった。本当は親アクアレイアの皇妃が王国海軍に助けを求めるのを妨害していたのだ。
「東パトリア全域って……、ノウァパトリアもクプルム島もエスケンデリヤもイオナーヴァ島もミノア島もか?」
レイモンドの問いに息を飲む。槍兵が並べたのはアクアレイアにとって重要な交易地ばかりだった。
喉元の刃をかわしても心臓を掴まれたのではどうしようもない。
嵐はまだ過ぎてくれそうになかった。




