第5章 その3
目と鼻の先を掠めていった黒い矢にモモは「うわっ」と仰け反った。思わず矢の飛んできたほうを振り向くと更なる異常事態に気づく。
「ちょっ、バジル何やってんの!?」
いつの間に出てきたのか、幼馴染とケイトを乗せた小舟が敵ガレー船の正面で停止していた。しかも二人は複数の水兵に弩を向けられている。
すぐに助けに行かなくては。モモは大急ぎで飛び跳ねてきた小舟の浮き橋を引き返した。
(まだ攻撃はされてない! 敵がケイトに当たるかもって躊躇してくれてるのかな!?)
それならどうにか間に合うかもしれない。自分が注意を引きつけている間に二人が上手く逃げてくれれば。
「うわわわわ! ダメダメダメーっ!」
だがドナとヴラシィの男たちはケイトを裏切り者と見なしたようだ。一旦は下げかけたクロスボウが構え直され、モモは慌てふためいた。
「ダメだってばーっ!」
必死の叫びに応えてくれたのはグラキーレ砦の砲台だ。
ドスン、ドスンと轟音が大気を揺るがす。敵も味方も一瞬争いを忘れるほどの。ただしさっきのイーグレットのときと違い、響いたのは空砲だったが。
「へっ!?」
砦を仰げば砲台はすべてアレイア海の上空に向けられている。なんのために大きな音が鳴らされたのか、答えは間もなく波の彼方から現れた。つい先程、アレイアハイイロガンが飛んでいったのを目撃していればもっと早くにピンと来ていたかもしれないが。
「船団だ……」
誰かが呟く。
南方に目を凝らせば数隻のガレー船が北上してくるのが見えた。
一隻、二隻と数を増やし、七隻になった船団はいずれも王国旗を掲げている。先頭を行く旗艦には威風堂々たる伯父の姿まであった。
「おい、ブラッドリー中将だぞ!」
「俺たち夢でも見てるんじゃないか!?」
「き、奇跡だ! 商船団が帰ってきたぞーっ!」
市民軍に歓喜と熱狂が沸き起こる。うろたえたのはドナ・ヴラシィ軍のほうである。
彼らはただちにこの帰還の意味を悟った。敵指揮官が一時撤退を命じるのにたいした時間は要さなかった。
******
報告を受けたとき、リーバイは耳を疑った。春まで戻らないはずの商船団が――アクアレイア海軍の主力が――王都に戻ってきただなんて。
「馬鹿を言うな! 奴らはクプルム島かエスケンデリヤで冬越えの真っ最中のはずだろう!」
「けど事実帰ってきてんすよ! 奴らがここにいて、コリフォ島に残してきた俺たちのガレー船がいないってことは、海峡は突破されたんだ!」
喚き散らす若い兵を別の兵が半べそで慰める。次にリーバイが耳にしたのは更に信じがたい訃報だった。
「すんません……。こいつチェイスを看取って気が動転してて……」
「死んだ!? チェイスがか!?」
リーバイは愕然と唇を震わせる。戦死報告は相次いでいた。しかしまさか、こんなときに弩の名手まで喪ってしまうなんて。あの若者は戦力的にも精神的にも皆の支えだったのに。
(どうする……。戻ってきたって言っても所詮は七隻だ。封鎖された海門さえこじ開けられれば互角に渡り合える船はある。だが海で勝負すべきなのか? 上陸兵はまだ退いてない。このままじゃ俺たちは……)
くそ、と拳を壁に叩きつける。けれど痛みでは冷静さを取り戻せなかった。
どこで判断を誤った。海の対応は後に回すべきだったのか。だがあの状況を放置することはできなかったはずだ。駆けつけて痛手を被らせねば北側からも敵軍に乗り込まれていたかもしれないのだから。
「リーバイ、南にもっと兵を回してくれ! 相手が増えて押されとる!」
階下からランドンの急かす声が響く。老将にどう現状を伝えればいいか頭が痛い。ともかくも退却してきた兵のうち動ける者には剣を持たせて送り出した。
「お、俺たち負けねえよな?」
「弱気になるな! まずは陸で、次は海で挽回すりゃいい!」
誤算だった。どうやってかは知らないが、アクアレイアが外から海軍を呼び戻したこと。それに二ヶ月足らずで十五隻ものガレー船を建造し、市民を兵に仕立てたこともだ。
弱っていても根っからの海運国というわけか。食糧が尽きればどうしようもなくなると、戦力差は引っ繰り返しようがないと慢心していたらしい。
「今はクルージャの南を、ピルス川への道を守り通すんだ。古王国からの補給を断たれたら終わりだぞ……!」
何度も何度も増援を要求するランドンが危惧しているのも同じ可能性に違いない。
アクアレイア海軍とマルゴーの傭兵団は西南に向かい隊列を伸ばしていた。連中が補給地とクルージャ砦の間に割り込もうとしているのは明らかだ。船の通行を妨げたのもアレイア海からピルス川を遡れなくするためだろう。そう、つまり奴らの狙いは――。
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「逆封鎖だ! なんとしても逆封鎖を完成させるぞ!」
ユリシーズの張り上げた声に兵士たちは雄叫びを上げる。先刻帰還した船団からも戦闘員が加わって士気は上がる一方だった。
ドナ・ヴラシィ軍は全兵力を西南の戦線に投じることに決めたようだ。剣を振るい、向かいくる敵を薙ぎ倒しつつ「上等だ」と口角を上げた。
陽動だとは聞かされていたが、それだけの役目でもないのはわかっていた。敵の生命線を断つのはむしろ陸攻めの自分たちが果たすべき大任だ。あの手狭な海門に彼らの大型ガレー船は十隻も展開できない。ならば補給路を確保するべく最後は陸に注力するのは読めていた。
正真正銘ここが最激戦区である。名誉を勝ち取るのにこれ以上の狩場はない。囚われの反逆者から救国の英雄となれるのだ。退けるわけがないではないか。
「敵は軽装だ! 恐れずに立ち向かえ! 連中に次の矢を補充する暇を与えるな!」
連日の小競り合いが嘘のようにあちこちで咆哮が轟く。丘一面に充満する血と汗の臭いは冬の寒さなど忘れさせた。
当初は数に押されて劣勢だったアクアレイアだが、思わぬ増援に戦況は逆転しつつある。本当に誰がブラッドリーに王国の危機を伝えてくれたのだろう? おかげで勝利はぐんと近づいた。
傭兵団を含めて兵力差は体感で二千人ほどに縮まっていた。これならいけると軍人の直感が告げている。敵軍はしぶとく持ち堪えているが、そろそろ例の船が出る時間だ。アクアレイアの技術に驚き、目玉を剥くがいい。
「おい、砦が! クルージャ砦が砲撃を受けたぞーッ!」
戦場にどよめきが走る。敵兵は慌てふためき「嘘だろう!?」「グラキーレ島の砲弾がここまで届くはずない!」と叫んだ。
「砂洲からじゃない! 海だ! 大砲を積んだ船の仕業だ!」
ユリシーズは高笑いを堪えた。国営造船所が威信をかけて新造した最新式の武装船が満を持して登場したらしい。
予定通り市民軍が海門を制圧した証だった。敵船が航行可能な状態であればたった一隻しかない新型船をアレイア海に送り出すなどできないのだから。
「なんでだよ!? どういうことだ!?」
「くそぉッ!」
粉塵の上がる拠点を振り返り、ドナ・ヴラシィの兵たちはすっかり動揺している。もう少し海に近ければクルージャ砦に相対する巨大軍船も見えたろうに惜しいことだ。
重すぎる大砲は、これまでは城砦に備え付ける固定タイプか家畜に引かせる陸上移動タイプしか存在しなかった。しかしアクアレイアの技師たちはそれを船に積み込めるほど軽量化するのに成功したのだ。砲身を軽く薄くした代償に一発撃つと壊れるという欠点はあるにせよ。
それでも鋳型さえあれば何度だって同じものを作り直せる。回数は限られているが敵の砦を直接攻撃できるのは大きな前進だった。海門を出られない奴らには止めようもない。
敵軍は潟や潮の満ち引きにはよくよく気をつけていた。彼らに過ちがあるとすれば、戦術も兵器も日々進歩しているのを失念していたことだろう。だから昨日までなかったものは想定できなかったのだ。
(ついでに陸上専門の兵に関しても対策が甘かったようだな)
ユリシーズはちらとグレッグ傭兵団を盗み見る。マルゴー人の活躍ぶりには目覚ましいものがあった。
グレッグやルースの身体能力にも驚かされたが、特に戦果を上げているのが長槍部隊だ。列を組み、大人数で一体となって突撃を繰り返す彼らはまったく敵を寄せつけず、こちらがゾッとするほどだった。
彼らが味方で助かった。何かの手違いでドナ・ヴラシィ軍に雇われていたら今頃は大変な目に遭っていた。
そういった意味では少しはチャドの存在価値を認めなければならないのかもしれない。これからはアクアレイアでも陸上防備が重要になると提言していたルディアのことも。
(……フン、しかし所詮傭兵は傭兵だ。わざわざ政略結婚までして防衛基盤を固める必要はなかった。連中を満足させるだけの金を国民に稼がせて、好きなだけ雇えば済んだ話なのだから)
舌打ちし、八つ当たり気味にユリシーズはバスタードソードを振り上げる。喉を切られた敵兵が血を噴いて草に倒れた。
暴れ足りない。この程度ではまだ届かない。
死体の山を築けば築くほど望む高みに近づけるのだ。どんなに手を汚すことになったとしても、必ず星を掴んでやる。
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奪い返した海門の守りにシーシュフォスと市民軍を残し、ルディアたち防衛隊は「ブラッドリーに会いたい」と言うイーグレットを連れて一旦宮殿に引き揚げた。
目当ての男は謁見の間で待機していた。太腿を痛めているのか、衛兵が彼を支えて立っている。
「伯父さん!」
姿を確かめるや否やアルフレッドが走り出した。続いた王も有り得ない再会に頬を紅潮させる。
「おお、ブラッドリー! 本当にブラッドリーなのだな?」
「遅くなって申し訳ありませんでした、陛下。コリフォ島を通過する際に少々手こずらされまして」
「酷い傷だ。大丈夫なのか?」
「私は命があれば十分。しかし帰還に際して多くの船を失ってしまいました。ミノア島で連絡を受けたとき、商船団の半分はエスケンデリヤに旅立っていて二十五隻の船しかなかったのです。私は軍人だけを乗せ、十隻の船で帰ろうとしたのですが……」
「戻ったのは七隻だったな」
「はい。海戦の結果、五隻しか残せませんでした。二隻は敵船を拿捕したものです。クルージャ砦からよく見える位置に錨を下ろしてやっています。それと帰還兵は前線に回し、持ち帰った食糧も水揚げさせているところです」
「そうか、よくぞ生きて戻ってくれた。皆もさぞかし勇気づけられただろう。だがブラッドリー、一体どうやってアクアレイアが危機に瀕していると知ったのだ? 使者をやりたくとも我々には方法がなかったのに……」
イーグレットに問われてブラッドリーは目を丸くする。ルディアは笑いそうになる口元をそっと掌で覆い隠した。
「ご存知なかったのですか? 渡り鳥です。アレイアハイイロガンが私の船に降りてきて、手紙と指輪を届けてくれたのです」
「渡り鳥? 手紙と指輪?」
「ええ、うちの家紋の入った指輪が。伝書鳩でもないのに利口だなと感心していたのですが。てっきり私は動物商か誰かに調教させたものとばかり……」
「いや、そんな鳥の話は聞いていない。ウォード家で飼っていたのではなく?」
「まさか、水鳥ですよ。巣に帰ったのかもう飛び去ってしまいましたし」
ブラッドリーがポケットの物証を示すとイーグレットはぽかんと口を開いた。「信じられん」と掠れた声は本音だろう。何から何まで普通では考えられない状況だ。
「これは私の妹の指輪です。間違いありません。イーグレット陛下がご存知でないのなら――アルフレッド、お前が何か知っているんじゃないか?」
嘘のつけない騎士はごほんと咳払いする。彼では脳蟲の件をはぐらかせないと踏んでルディアが代わりに歩み出た。
「アレイアハイイロガンに手紙を持たせたのは我々です。しかしまさか、本当に届くとは夢にも思ってもいませんでした。きっと守護精霊に祈りが通じたのでしょう! アクアレイアはアンディーンに守られているのです!」
いけしゃあしゃあと女神の御業と言ってのける。神話ではこの程度の霊験はままあることだ。不思議なこともあるものだ、でこの場は納得してもらおう。
イーグレットもそれ以上深くは追及してこなかった。精霊の思し召しとしておいたほうが兵も波に乗れると考えたに違いない。
なんにせよ、我々はこれで主導権を握り返したのだ。
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「ねえバジルー、大丈夫ー?」
人気のない宮殿裏の水路で幼馴染に問いかける。待てど暮らせど返事はなく、間延びした己の声が空しく響くばかりだった。
バジルは小舟の縁に掴まりずっと胃液を吐いている。ケイトやドナの兵たちと何かあったらしいのだが、黙りこくって何も言わない。こういうとき無理に聞き出すのは趣味でないので仕方なく彼の気分が落ち着くのを待っているものの、己としてはさっさとクルージャ岬に戻りたかった。
モモは小さく嘆息する。市民軍に預けたケイトも抜け殻同然になっていたし、はしゃがずに側についているべきだったろうか。
あの危機的状況で、とりあえず二人とも死なずに済んで良かったけれど。




