第5章 その2
総攻撃の意志を固めたアクアレイアは早くもその晩軍事行動を開始した。
いよいよだなとひとりごち、グレッグは寒々しい一月の空を見上げる。
月も星も厚い雲に覆われて夜襲にはうってつけの闇夜だった。まさか敵軍もこんな視界の悪い日に海に出る馬鹿がいるとは思うまい。仮に警戒されていたとして目視できねば発見されるおそれもなかった。
(ま、代わりにこっちの視界も最悪だがな)
誇張ではなく何も見えない周囲を見回す。揺れる足元と静かに波を掻く櫂のちゃぷちゃぷという音でかろうじて自分がアレイア海にいることはわかるが、それだけだ。この真っ暗闇の中、ろくな掛け声もなくガレー船を動かす水兵の力量には素直に感心した。
グレッグが宮廷での作戦会議に呼ばれたのは夕刻。王国政府のお偉方は一気に勝負をかけると言った。傭兵団は海軍とともにクルージャ岬の南の浜に上陸せよとのお達しである。最初に敵の鼻柱を折りにいく切り込み隊というわけだ。
(へへ、うちの王子様のためにも頑張らねえとな)
最初のガレー軍船がひっそり陸に取りついたとき、時刻は午前零時を過ぎていた。五隻の中型船に満載された戦闘員が続々と甲板を降りていく。手にした武器と神経を研ぎ澄ませて。
想定される敵兵の数は七千。対するこちらは傭兵が千人と海軍が二千人だ。最初から倍以上の差をつけられている。
だがドナ人もヴラシィ人も所詮は海の民である。地に足をつけた今、恐れる気持ちは微塵も湧いてこなかった。
(俺たち傭兵国家の強さ、今こそ思い知らせてやるぜ)
グレッグは部下を率い、入江の砂浜を突っ切った。急勾配の坂を上るとすぐなだらかな丘に出る。木立はまばらで身を隠せそうな場所はない。クルージャ砦の篝火は遠く離れて揺れており、完全な不意打ちを仕掛けるのは困難なように思えた。
「……」
隣に屈むルースと無言で頷き合う。この大所帯ではすぐに勘付かれるだろうが、なるべく身を低くして部隊を敵陣に近づけさせた。ユリシーズ率いる海軍も傭兵団の動きに倣ってごく静かに移動する。
高まる緊張に笑みが浮かんだ。久々だ。こんな危ない橋を渡るのは。
「旦那、今ちらっと松明の灯りが」
「チッ! もう気づかれたか?」
展開しろと即座に命じる。人数が少ない分こちらのほうが陣形完成まで早い。
低い丘に隊列は横へ伸びた。海軍の弩兵も迅速に列を整える。
ややあってワアッと勇ましい雄叫びが石の砦から響いてきた。突然の襲撃に驚いた敵歩兵が慌てて飛び出してきたらしい。
そうだ、どんどんこっちへ来い。いくらだって相手をしてやる。
沸き立つ血肉にグレッグは口角を上げた。さあ行くぞ。手加減は無用だ。
「準備はいいな、グレッグ傭兵だ――」
「矢を放て! 奴らが固まっている間に使い果たす気で射続けろ!」
と、威勢良く呼びかけようとした声にユリシーズの号令が被さった。ずるりと足を滑らせたグレッグを面白そうにルースが見つめる。
「ぷぷっ! 何してんだよ旦那!」
「笑うな馬鹿! おい、グレッグ傭兵団、俺たちも……」
「っしゃ! 俺たちも射撃祭りに参戦だ! その後はわかってんな!?」
副団長の指示に傭兵たちはハーイとお利口に返事する。
どうしてうちの部下どもは己よりルースの言うことを聞くのだろうか。一番偉い団長はこっちだぞ、こっち。
「敵さんは元気いっぱいだし、王子は後衛にいてくださるし、いっちょ派手にかまそうぜ!」
長い髪をなびかせて矢を射かけまくるルースはとても楽しげだ。弓矢の応酬が収まると甲冑嫌いで身の軽い彼は先陣切って飛び込んでいった。
激しい剣戟、怒号と悲鳴、断末魔。騒々しい戦場の音楽は夜風に乗って潟湖へと運ばれる。この猛攻こそが王国湾に潜むシーシュフォスへの合図だった。
******
すっぱりと半分に切れた月には重たげな雲がかかっている。新月の暗夜ほどではないにせよ、王都を包む闇は深い。
これから深夜未明にかけて波は沖へと引いていく。いいタイミングで干潮が重なった。海戦はないと敵が油断している隙に作戦は決行できるだろう。
待機していた舟の列がゆっくり動き出したのに気づき、ルディアたち防衛隊は狭い平舟で互いに顔を見合わせた。この一団が行動を開始したということは、ついに陸地で剣と剣での戦闘が始まったのだ。
グラキーレ島を出発した三千艘の市民軍は慎重にクルージャ岬へ漕ぎ進んだ。少しの音も漏らさぬよう櫂の先端は布でぐるぐる巻かれている。夜間灯の類もない。ただ前を行く小舟の縁に垂らされた真っ白な手拭だけが闇の中での目印だった。
不気味なほど海は静まり返っている。時折遠くから物騒な悲鳴が聞こえた。狙い通りドナ・ヴラシィ軍は傭兵団と海軍の強襲に釘づけになっているらしい。
小舟の列は本当にゆっくり進んだ。そのためしんがりにいたルディアたちがクルージャ岬の海門に辿り着くまで通常の三倍ほどの時間がかかった。
王国海軍のガレー船は姿がなく、辺り一面を覆うのは市民兵が操る平舟だけである。無言の提督の指揮の下、彼らはあくせく働いていた。
手から手へ、次々と重い砂袋が運ばれる。ずっしりとした積荷に沈められた舟は王国湾とアレイア海を分断するバリケードに早変わりした。
敵が拠点とするクルージャ砦は海門のすぐ内側に軍港を有している。標木を抜いた王国湾に深入りできない彼らにとって、ここは唯一アレイア海へ通じる出入口だった。つまりこちらがバリケードを維持する限り、敵船団は軍港内に閉じ込められてどこにも行けなくなるのである。
(やたら小舟を量産させるから一体なんだと思っていたが、よくぞこんな奇策を考えついたものだ)
さすがは名将シーシュフォスである。こんな裏方の隠密行動なら間に合わせの市民兵でもどうにかなる。
しかも主力の軍人を囮に使うとは見事な意趣返しではないか。クルージャ砦を奪われた日、アクアレイアはドナ・ヴラシィ軍に同じ戦法でしてやられたのだから。
石はせっせと三千の舟に積み上げられた。一万の市民に混ざってルディアも額に汗を流す。
傍らではイーグレットも同じ一団に加わっていた。見渡せば古い剣を携えた老議員や聖像の守護をするべき神殿騎士の姿まである。アクアレイアの命運がかかった一戦に、戦える男は残らず出てきてくれたのだろう。
一人だけだがモモ以外の女もいた。防衛隊が厳重監視せよと命じられている要注意人物だ。
隣にバジルを配置させた彼女は名をケイト・ヒーリーという。ドナの難民で「同胞の暴走をこれ以上見過ごせない」というのが兵に志願した理由だった。
どこまで本気かわからないし、放火犯の娘と同じく不穏な企みを秘しているだけかもしれない。気を許すなと十人委員会には釘を刺されている。
言われるまでもなく信用する気はゼロだった。委員会の古狸たちとて敵兵の動揺を誘う道具としてしか見ていないだろう。
今のところケイトは真面目に作業に当たっていた。小舟に細工を施すような素振りもない。
(バリケードが完成するまで何事もなければいいが……)
身を切るような冷たい風が深淵の闇を吹き抜けていく。海門封鎖には朝までかかりそうだった。
失敗は許されない。戦力で劣るアクアレイアにほかの手段は残っていない。
次第に大きくなっていく小舟の壁を見つめながらルディアはアンディーンに祈った。
波の乙女よ。王国を守護する者よ。どうか今しばらくの静穏を。
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「お姉ちゃん、怖いよう」
ぐすぐすと鼻声で訴える妹をサロメは胸に抱きしめた。砦の外から間断なく響いてくる荒っぽい叫び声に幼子はすっかり怯えきっている。
「大丈夫よ。なんてことないわ」
早く妹が泣き止むようにサロメは優しい声で囁く。
最低限の人員を残し、兵は全員アクアレイア軍との戦闘に出ていた。見張りを任された塔の一角で姉妹はふたりぼっちだった。
想定より数日早かったとのことだが、祖父は近く大規模な反撃があることは読んでいたようだ。退路を断たれた人間は最後に猛然と立ち向かってくるもの、ここさえ凌げば故郷に帰れると出陣前にサロメを勇気づけてくれた。
やけくその攻撃の勢いなど続かない。ランドンがそう言うのだから、勝利を疑う余地はなかった。争いが苛烈になる一方でも、運ばれた負傷者が動かなくなっても、何も怖がる必要はないのだ。
震える腕で震える妹にすがりながらサロメは己にそう言い聞かせた。暗がりを照らすのは頼りないランタンの灯火だけで、鼠の影さえ死神に思えてくる。
実際もう何十人も死者が出ていた。頑張ってねと送り出したばかりの人も。
「……もうすぐ夜明けよ。アクアレイアには兵が足りてないんだもの。明るくなればあたしたちが優勢だって確かめられるわ」
胸の不安を振り払い、薄闇の中サロメは立ち上がる。慰めに暁の空を拝もうと塔の縁に近づいたそのときだった。岬の異変に気がついたのは。
「あ、あ、海が……! 海が塞がれてる!」
サロメの絶叫はクルージャの砦中に響き渡った。すぐさま下階の兵士たちが飛んできて沈没船の溜まり場を見下ろす。
「……ッ!」
海の男の判断は早かった。総大将のリーバイに伝令を飛ばすと彼らは急いで軍港へと駆け出した。
「何部隊か戻せ! 奴ら海のほうにも来てやがる!」
焦りの滲んだ声が轟く。明け方の冷えた空気を乱して足音が走り去る。
それから間もなくガレー船が動き出した。憎らしいアクアレイアの上陸軍がほくそ笑んでいたのにも気づかず。
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「見つかったぞ!」という誰かの声が響いたのは作業も終わりに差しかかった頃だった。市民兵の大半は小型ガレー船十五隻に乗り換えを済ませていたが、ルディアたち防衛隊は築いた壁のすぐ側で未だ小舟の上だった。グラキーレ砦の奥で出番を待っていた旗艦も漕ぎつけ、にわかに緊張が高まった。
(来たか……!)
朝もやの奥から現れた敵船は二隻。陸の対応に追われるドナ・ヴラシィ軍がすぐに動かせたのはそれだけだったらしい。だが寄せ集めでしかない市民兵にとって二隻の大型ガレー船は十分な脅威であった。
わずかな時間、狭い海門で睨み合う。開戦を知らせるようにグラキーレ砦の鐘が鳴った。
「奴らにバリケードを撤去されるわけにはいかん! ここは死守するぞ!」
ルディアの呼びかけに両脇のアルフレッドとレイモンドが勇ましく吼える。モモは斧とクロスボウを担いで「やったー! 射程範囲だ!」と駆け出した。どこへ行くのかと思ったら少女は器用に小舟から小舟へ飛び移り、まっしぐらに敵船へと向かっていく。
「モ、モモー! 気をつけてくださいよー!」
隣の小舟でハラハラ見守るバジルに「おい」と呼びかけた。わかっているなと目配せすると弓兵はちらりとケイトを一瞥する。敵船からアクアレイア軍に雨あられとクロスボウの矢が降り注いだのは直後だった。
「構えろ!」
数ある武器の中でもトップクラスの殺傷力を誇るのがクロスボウだ。太く鋭い矢は鋼鉄の甲冑さえ貫通する。身を屈め、ルディアは初撃をやり過ごした。
市民軍も負けじと弩の矢を発射する。だが甲板に立つ彼らが勇敢だったのはそこまでだった。
「う、うわーッ! 痛ぇ! 痛ぇーッ!」
「大丈夫か!?」
「何やってる! 次が来るぞ! 早く新しい矢を装填するんだ!」
不運な兵がもんどりうって苦しむのに不慣れな兵が気を取られる。介抱してやろうとして己が射られるお人好しまで出る始末だ。
負傷者たちは存外な痛みに泣き叫んだ。狙い撃たれたガレー船では阿鼻叫喚の光景が繰り広げられた。
「ひええーッ! 血がッ、血がッ!」
「こんなの無理だよ! 軍人でもなきゃこんなところで戦えねえって!」
「しっかりせんか! やり返さんとやられ放題じゃぞ!」
誰かが叱咤するけれど、取り乱す市民兵たちにその声は届かない。旗艦からシーシュフォスが怒鳴っても無駄だった。「戻れ!」「守れ!」と繰り返される命令を無視して逃げ出す輩が続出する。武器を放り、櫂を掴み、小型ガレー船のほとんどが一目散に本島へ引き返そうとした。
(う、烏合の衆とはここまで悲惨なものなのか)
怒りを通り越してルディアは呆れる。道理でシーシュフォスがブラッドリーを待ちたがったわけである。こうなる可能性は高いと提督は知っていたのだ。
「まともな部隊は残っていないのか!?」
踏みとどまる者を探してルディアは目を皿にした。しかしどのガレー軍船も臆病者が多数を占めているらしく、独立戦争世代の老人が戦場を指差しているのに見向きもしない。
全軍見事な総崩れだった。たった一撃クロスボウの掃射を食らっただけだというのに。
「オッサンたちいくらなんでも度胸が足りてねーんじゃねえの!?」
「俺たちだけでも迎撃するぞ!」
小舟に取り残されていたルディアたちは空しい抵抗を試みた。けれどこんなもの当たったところで掠り傷だ。このままではせっかくの障壁も綺麗さっぱり崩されるに違いない。
(どうする? どうしたらいい?)
焦燥は募れども名案は浮かばない。味方の船はどんどん遠ざかっていく。
グラキーレ砦の砲台が火を噴いたのはそのときだった。
「――……ッ!」
ドン、ドン、と耳をつんざく火薬の轟音。着弾点に屹立する複数の水柱。
突然の砲撃は否応なしに居合わせた者の目を奪った。
「な、なんだ!?」
弾は何にも当たっていない。そもそも敵船は明らかな射程距離外にいた。
一体誰の指示だったのかとルディアは背後を振り返る。するとまだ小舟の列に残っていたイーグレットが高々と白い右腕を上げていた。
「いい加減にしろ、お前たち!」
怒号を響かせるや否や、自ら一艘のゴンドラを操り父は前方に漕ぎ出した。まだしも安全なバリケードの側を離れ、市民軍の船へと近づくようにして。
「お前たちは私を海にも出られぬ意気地なしと笑うくせに、私より先に逃げる気か!? 見ろ、私はここから離れんぞ! 敵船を退けるまで絶対にだ!」
天突く叫びが海門にこだまする。直立不動で敵船と対峙するイーグレットに市民軍は呆然と口を開いた。
王はバリケードを守り、たった一人で立ち塞ぐ。数十本の矢が飛んできてもなお微動だにしなかった。まるで矢のほうがイーグレットを恐れて避けたかに見える。
怖気づいていた市民兵たちは正気に返って旋回した。「あんなところに一人でいたら陛下が殺されちまうぞ!」と今度は我先に戻ってくる。
なんという身体を張った説得だろう。確かにあの人にそう言われたら嫌でも武器を取るしかない。アクアレイアの男は皆イーグレットより己のほうが勇猛だと自負しているのだから。
ともかく早く援護せねばとルディアたちも慌てて小舟を移動させた。敵兵はまだのこのこ出てきた王国の頭を狙っている。
予想に違わず次の射撃が無防備なイーグレットに襲いかかった。ほとんどの矢が横殴りの寒風に逸れていく中、黒塗りの一本だけは軌道を変えずに飛んでくる。
「危ない!」と叫ぶ。だが王は動かない。
懸命に舟を漕いだがとても間に合いそうになかった。凶暴な矢は今にも父の心臓を貫こうとしていた。
「まったく、無茶をする奴だ」
重いものが弾んだ衝撃で思いきり足元が傾いたとき、低い呟きが聞こえた。
確かめるまでもなく跳ねていったのはカロである。どうやら彼も小舟の列を全力疾走してきたらしい。手にした櫂で黒い矢を叩き落とすと王の忠実な友人はくるくる回って着地した。
「来てくれると思ったよ」
「ギリギリだったぞ! 二度とするなよ!」
これ以上なく心強い護衛を得てイーグレットは満足そうに微笑する。
だが戦況が有利になったわけではない。緩んだ頬はすぐに引き締め直された。
「ここは必ず守り抜く! 退却はない! いいか、一度でも私を侮った人間が逃げるのだけは絶対に許さんからな!」
積年の思いが込められた一喝にルディアはつい吹き出しそうになる。優しいあの人も意外に恨みに思っていたのか。
軍船と軍船が正面からがっぷり組み合い、戦いは本格的になりつつあった。矢を浴びた市民兵は泣きながら、それでも歯を食いしばって耐えた。
朝日はまだ昇り始めたばかりである。ルディアは小舟をイーグレットの横につけ、自らも敵船に弩を向けた。
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(ここまで近いとさすがにはっきり顔が見えるな)
敵味方のガレー船が入り乱れる戦場でレイモンドは眉をしかめた。
別に怯んだわけではない。狙うならできるだけ知らない相手のほうがいいと思っただけの話だ。
だがそんな贅沢は言っていられないらしい。良心からの躊躇を嘲笑うように殺意の矢はレイモンドにも向けられた。どの敵を射るか視線を散らした一瞬の隙を突かれる。
「馬鹿! こっちに屈め!」
怒声と同時、小舟の底に引き倒された。間一髪で耳の真横を風切り音が通過する。半分転んだまま見上げると、左腕を押さえたルディアがアルフレッドに傷口を確かめられているところだった。
「掠っただけだ。問題ない」
平然と王女は構え直す。あまり淡々としているので庇ってもらったとすぐに気づかなかったほどに。
「わ、悪ィ」
驚きを隠せないままレイモンドは謝罪した。
なんだ、なんだ。どういうつもりだ。防衛隊から犠牲を出しても王族の安全は確保せねばとかどうとか、前はそう言っていなかったか。
「おい、レイモンド。顔見知りばかりでやりにくいなら引っ込んでいて構わんぞ」
「えっ」
「さっきから注意散漫だ。距離を詰められたせいだろう?」
こんなときなのに他人のことをよく見ている。気まずさを誤魔化そうとしてレイモンドはかぶりを振った。
「気遣い無用だっての。殺しにきてる連中に顔見知りもへったくれもねーよ」
本音は告げずに立ち上がる。ここで戦わなくてはまた「やはりお前は純粋なアクアレイア人じゃないからな」と言われるに決まっているのだ。そんなのはごめんだった。
「つーかそっちこそ下がってなくていいのかよ? でかいガレー船に移れりゃいいけど、この状況じゃ俺もアルもあんたを守れるかわかんねーぞ」
問いは鼻先で笑われた。「自分の身くらい自分で守る」とルディアは答える。
その言葉に目を尖らせたのはアルフレッドだ。「無茶をして掠り傷で済むことなんて滅多にない」と騎士が渋い顔をするとルディアは少々ばつ悪そうに返事した。
「仕方なかろう。今のは身体が勝手に動いたんだ」
クロスボウを撃ち終えたルディアはハンドルを回して弦を引き始める。
なんだそりゃ、と再びレイモンドは瞠目した。
「仮に私が倒れても、誰かが――例えばお前たちが、アウローラを守って立派な王女にしてくれるだろう? だから私は私のやりたいようにやろうと決めたのさ」
軽口めいたルディアの台詞にアルフレッドの嘆息が響く。どことなく親しみのこもった嘆息が。
なんだそりゃ。それじゃこの人は守りたいから俺を守ってくれたのか?
「気をつけろ、また来るぞ!」
アルフレッドの忠告にハッとレイモンドは敵船を仰ぐ。甲板を埋める水兵はもうほとんど市民軍のほうに向き直っていたが、中にはしつこく君主の小舟を狙う者も残っていた。
再装填のために片膝をついたルディアにも流れ矢は飛んでくる。槍の石突で攻撃を弾くと「助かった」と微笑で礼を述べられた。
(なんか変だな)
前から彼女はこんなだったろうか。いつの間にかすっかり人が変わった気がする。だってここまで綺麗ではなかった。一緒に蛍を見た夜も、見惚れていたのは景色のほうで。
「さあ根比べだ! この海門を制したほうが戦いを制するぞ!」
呼びかけに動揺し、レイモンドは我知らず視線を上方に逸らした。ちょうどそのとき雲の切れ間から光が零れ、十字の影が空を横切る。
「あっ!? アレイアハイイロガン!?」
時季外れの渡り鳥は悠々と砂洲を飛び越えていった。「彼女」の影はそのままアクアレイア本島へと消えていく。
戦況はまた大きく変わりそうだった。
******
市民軍のガレー船からもイーグレットの小舟からも離れていたのでバジルのもとに届く攻撃はなかった。女性連れだからかもしれない。平舟の上を飛んで跳ねて最前線で弩を撃ちまくっているモモもまだ標的にはされていない様子だ。
「…………」
今の位置からも弓を射ることはできるのに両手は櫂を離さないままだった。戦況を窺うというよりは、ついていけずに立ち尽くしている。そんなバジルにケイトが小さく声を潜めた。
「あの、お願いがあるの。ドナの船に寄せてもらえないかしら?」
「えっ!? ド、ドナの船にですか?」
「話したい人がいるのよ。アクアレイアが不利になる真似は絶対にしないわ。波の乙女アンディーンに誓って!」
必死の形相にバジルはたじろぐ。ケイトは敵船に知り合いを見つけたらしく、居ても立ってもいられない様子だった。
彼女が示す方角には孤軍奮闘中のモモもいる。守らねばという一心でバジルは小さく頷いた。
小舟はゆっくり進み始める。交戦中のガレー船の陰に隠れ、少しずつ目標に近づいた。
「チェイス!」
声が届く距離まで来るとケイトは今まさに矢を放とうとしていた若い男の名を叫んだ。
「武器を下ろして! チェイス!」
呼ばれた青年が目を瞠る。弩を引っ込め、船縁からこちらを見下ろす彼の顔は半分火傷で爛れていた。
「ケ、ケイト……!? どうしてここに……!?」
「決まってるでしょう、あなたたちを止めに来たのよ! アクアレイアに刃を向けるのはもうやめて!」
念のためにバジルは矢筈に指をかける。話が平和に終わってくれれば何よりだが、現実はそれほど甘くない。一応いつでも動けるように備えておく必要があった。きちんと敵を仕留められるかはまた別の話だが。
「……悪いけど、ケイトの頼みでもそれはできない」
青年はきっぱりと断った。痛ましく震える声で。
困惑したのはケイトのほうだ。どうしてと尋ねる彼女にチェイスは強く唇を噛んだ。
「家に帰りたいからに決まってるだろ!? ほかにどんな理由で皆が戦ってると思うんだ!?」
非難めいた叫びが海門にこだまする。
同郷人の仲間割れは他人事ながら肝が冷えた。モモや仲間と敵対するなんて自分には考えられないが、彼らは実際そうなってしまっている。アレイア海に食指を伸ばした天帝のせいで。
「それならどうしてジーアンに抵抗しないの!? アクアレイアになんの非があったって言うのよ!?」
「倒せない相手に挑んで返り討ちに遭ってどうするのさ!? それじゃあ結局ドナには戻れない!」
「言ってることが滅茶苦茶だわ! チェイス、あなたいつからそんな卑怯者になったの!? 私の知ってるあなたはもっと強い人だったわ!」
責める言葉にチェイスはぐらりと後ずさりした。
いつの間にか周囲には弩を下ろし、二人のやりとりを見守る者が増えている。中にはケイトに憤慨して罵声を浴びせるドナ人もいたが、彼女は間違った考えだと一向に耳を貸さなかった。ケイトはただ決然と彼らの罪を暴き立てる。
「私だって故郷に帰りたい……! でもこんな方法でドナに帰っても仕方ないじゃない! チェイス、あなたいつか自分の子供が生まれたとき、どんな顔で今日の戦いを語るつもりなの!? 自分たちこそ正義だったと我が子に言えるつもりなの!?」
ぐっと喉を詰まらせたチェイスからの反論はなかった。目尻に涙を浮かべたケイトは強く拳を握りしめ、最後の説得にかかる。
「あなたが私を逃がしてくれたこと、感謝してもしきれない。今でもあなたを愛しているわ。だからこそ愚かさを認めて投降してほしいのよ……!」
朝日を反射する海に大粒の雫が跳ねた。
青年は呆けてそれを見ていた。
二人の間に刺々しい空気はない。けれどバジルの胸騒ぎはやまなかった。
「……君が全然変わってなくて嬉しいよ」
チェイスの笑みは心からのものだった。少なくともバジルにはそう見えた。
偽りでも、皮肉でもなく「守れて良かった」と彼は呟く。
「ケイトは俺の好きだったケイトのままだ。けど俺は、さっきケイトが言ったみたいに変わっちゃったんだ。流行の服を着たって火傷で全然見栄えしないし、中身もいじけてひねくれてさ」
黒羽根の矢をつがえたクロスボウが再び高く掲げられた。チェイスは静かに、本当に静かに笑んでいる。
諦めを受け入れた眼差しは南を向いた。
視線の先には斧を携えた少女がいた。
「……もう疲れたんだ。泥だらけでも血まみれでも温かいベッドで眠りたい。バオゾで死んだ友達の墓を立ててやりたい。正しいとか正しくないとか、その後でなきゃとても考えられないよ」
ごめんねとチェイスが引き金に指をかける。
説き伏せても無駄だとわからせるために、ここまで堕ちたと証明するためにモモを殺すつもりなのだ。瞬時に察してバジルは息を飲み込んだ。
「――」
何も考えていなかった。頭の中は真っ白だった。
矢筒から矢を引き抜く。弦を引けば弓のしなる耳慣れた音。指を離せば的にまっすぐ飛んでいく影。
矢はあっさりと男の喉元を貫いた。
(――あ)
馬鹿だった。すぐに目を閉じれば良かったのに、血飛沫も、色の抜けていく双眸も網膜に焼きつけてしまう。
チェイスはやけにゆっくり倒れた。どさりと大きな音が響いた。
急に目の前が暗くなる。
朝なのに、もう夜が来たみたいだった。




