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第5章 その1


 ちょっと待て、一体なんだこの警鐘は。

 夜襲にしてはアレイア海が静かすぎるし、聞き間違いでなければ「火事だ」と聞こえた気がするが。


「だからー! 国庫が燃えてるんだってばー!」


 モモの叫びにルディアは「なんだと!?」と椅子を蹴って立ち上がる。すぐさま王女の寝室を飛び出し、宮殿二階のバルコニーから赤々と燃える大運河の西端を確かめた。

 暗い夜空に黒煙が立ち昇っている。その様は大運河の東端にあるレーギア宮からも容易に視認することができた。眼下の国民広場にはけたたましい鐘の音に叩き起こされた人々がわらわら集まり出している。


「どういうことだ!? なぜあんなすごい煙が!?」

「モモも詳しくは知らないけど、多分放火だって。冬は東の風だから、近所の人も焦げ臭いのになかなか気づかなかったみたい」

「見張りは何をしていたんだ!?」

「当直だった兵士は探しても見当たらないとかで……」


 説明を聞いても状況は把握しきれなかった。モモも急いで駆けてきたせいでたいした情報収集ができなかったらしい。

 非番の彼女が自主パトロール中に火事と遭遇したのはおよそ二十分前。その時点で火は少なくとも数時間燃え盛った後だったそうだ。


「入口に近い貯蔵袋は消火しながら外に運び出されてるけど……」

「……ッ! 我々もすぐ現場に向かうぞ!」


 防衛隊が宮殿を飛び出すと同時、近衛兵を連れたイーグレットもばたばたと起き出してくるのが見えた。何が起きたのか知ろうと群がる民衆をやんわりと追い払いつつ王はゴンドラに乗り込む。

 ルディアたちも適当な小舟に乗り込み、猛スピードで大運河を行く王室船の後を追った。致命的な損害ではありませんようにと波の乙女に祈りながら。

 ――だがその願いは届かなかったようである。現場に着いたルディアたちが目にしたのは四方から運河の水を浴びせられる大窯状態の国庫だった。

 全国民のおよそ三ヶ月分の食糧が貯蔵可能な大倉庫。火勢で開いた窓からは強い炎が上がっている。延焼しにくい石造りだったのが災いし、却って発見が遅れたらしい。どこかに飛び火していればまだ軽い被害で済んだだろうに。

 火の粉に紛れて灰塵が舞う。豆の焼ける匂いがする。貴重な蓄えは刻一刻と失われていた。


(……なんということだ……)


 ぎり、とルディアは歯を食いしばる。握った拳は怒りに震えた。

 よもやこんな落とし穴が待っているなんて。小競り合いに赴くより街の警邏に重きを置いておくべきだった。夏には国営造船所でも――国中の大型船舶を建造・修理する船渠でも――不審火は報告されていたのだから。


「どこのどいつか知らんが絶対に許さんぞ……! おい、レイモンド! 住民を手伝いながら聞き込みしてこい!」

「えっ!? き、聞き込みって何聞きゃいいんだ?」

「見張りの兵士についてに決まっているだろうが! さっさと行け!」

「ひえっ! りょ、了解!」

「バジル!」

「は、はいっ!」

「お前は一秒でも早く火を消す方法を考えろ!」

「ぜぜぜ善処します!」

「アルフレッド! モモ!」

「俺たちは不審人物の捜索か?」

「とっくにこの辺りからは逃げちゃってると思うけどなあ」

「そんなことは承知済みだ! どんな小さな手がかりでもいい、犯人の痕跡を見つけてこい!」


 ルディアの剣幕に四人は若干引き気味だった。昨日までの穏やかさはどこへ行ったと嘆く槍兵にキッと鋭い視線を投げる。

 これが落ち着いていられるか。外国商人を取り込んでやっと少し持ち直したと思ったのに、こんな形で得たものを失う羽目になるなんて。


(何日分の食糧が消えた? くそ! 盗難のほうが奪い返せる希望があるだけましだったな)


 わかっている。下手人を捕らえたところで負った深手は変えられない。次の放火を心配しなくて良くなるだけだ。それでもじっとしていられなかった。


(備蓄も増えてしばらくは安泰だと皆ほっとしていたのに。この炎が消えた後、確実にもうひと揉めするぞ)


 ルディアは燃える国庫を前に被害報告を受けるイーグレットを振り返った。いつも、いつも、悪いことはまとめてあの人のせいにされてきた。非があろうとなかろうと父が糾弾されるのは目に見えている。


(お父様……)


 信じられない。なんて手落ちだ。取り戻す方法があるなら今すぐに実行するのに。





 悪い予感はその日のうちに現実となった。

 やっと炎が鎮まったのは朝の鐘が突かれる頃。無事だった食糧はすぐに兵士に計量された。

 昼過ぎには宮殿前の広場に民が集められ、重々しい足取りで王と提督が登場し、そして――。


「およそ半月で配給は困難になると思われる」


 告げられた調査結果に広場はたちまち騒然となった。




 ******




 覚悟はしていたが凄まじいまでの罵詈雑言だ。布告用のバルコニーから民を見やり、イーグレットは息を飲んだ。

「だからあんたが王位につくのは嫌だったんだ!」とか「不幸を呼び込む災いめ!」とか散々な言われようである。二十年間の在位中、一番酷いブーイングかもしれない。過激な者はボタンや靴まで投げつけてくる。

 今までは資産がじりじり減っていっても国がなんとかしてくれるという信頼があったのだろう。だがそれも最後の命綱が切れるとともに掻き消えた。市民が見回りをしていた地区ではなんの問題も起きていないのに王国政府と海軍が管理していた国庫から出火したのだ。憤る気持ちはよくわかる。

 監督不行き届きだったとシーシュフォスははっきりと詫びてくれた。日中はグラキーレ島での戦闘、夜は新兵の育成と休む暇もなかったろうに。

 責任はむしろ自分にあった。海の男たちからは敬遠されているからと、海軍のことは海軍に任せきりでいた。

 何度この弱さが災禍を招いてきただろう。初めてここに立ったときも、王になるとはどういうことかまるでわかっていなかった。あの頃よりも少しは成長したと思っていたのだが。


「わざわざ寄付を集めきってから焼いちまうなんて!」

「国が平等に配分するって言うからなけなしの小麦まで渡したんだぞ!?」

「なんとか言えよ、王様!」

「そうだそうだ! これからどうするつもりなのか言ってみやがれ!」


 痛む耳にイーグレットは目を伏せた。

 責められることに慣れていて逆に良かったかもしれない。逆風知らずの王であればとても平静でいられなかった。


「何をそんなに落ち着いてやがるんだ!」

「まさか王宮に食べ物を隠してるんじゃなかろうな!?」

「どうせ自分たちだけいいもの食ってたんだろう!」


 半狂乱になった人々がレーギア宮の正門に詰めかけた。押し返す兵と衝突し、砂塵と罵声が入り混じる。もはや暴動寸前だ。


「通してやれ!」


 イーグレットは声を大にして叫んだ。突然の大声に民衆だけでなく衛兵たちまで面食らう。


「門も扉も全部開け放ってやれ!」


 波打ったように静まり返った広場にもう一度声を轟かせた。わずかでも理解してくれればと願いながら。


「調べたい者は気の済むまで中を調べろ! 城にも余分の蓄えはない!」


 戸惑う衛兵に身振りで開門を促す。おずおずと槍が引っ込められても宮殿に踏み込む者はいなかった。ただ忌々しげな「開き直りやがって」という舌打ちが響くばかりである。


「お前たち、落ち着かんか!」


 険悪な空気を見かねて呼びかけたのはシーシュフォスだ。皆に慕われる名将がたしなめると熱くなっていた者たちもばつ悪そうに目を見合わせる。これが人望の差かと思わず笑い出しそうになった。


「食糧は本当に半月分しか残っていないのだ。陛下も姫様も皆と同じ食事しか召し上がっておられんし、今度の火事には甚だ心を痛めておられる。どうしてそれがわからない?」


 イーグレットには良くて半信半疑でも、シーシュフォスの言葉なら民は素直に聞き入れられるらしい。いつしか群衆は平静を取り戻していた。老いも若きも畏まり、提督の声に大人しく耳を傾けている。

 我知らず視線は地上をさまよった。寄りかかる杖を求めるように古い友人の姿を探す。

 祈る者。震える者。白い目でこちらを見上げる者。視界に映る人々の反応は様々だ。

 立ち尽くしているドナからの避難者もいた。火事の後、仲間から裏切り者を出してしまったと密告に来た若い娘だ。焼け跡から兵士の骸が見つかったことを教えると彼女は泣いて頭を下げた。せめてもの償いに市民兵を手伝いたい、と。

 難民の監視にも人員は割いていたはずなのだが、やはり人手不足であったのだろうか。今更何を反省しても遅いけれど。


「だがな、よく聞け。気落ちする必要はないぞ」


 シーシュフォスの呼びかけが続く中、イーグレットは探していた男を薄灰の目に留めた。人混みに埋もれていても彼の姿はよく目立つ。一人だけ季節外れの褐色肌だし、ロマの側には普通の王国民は近寄らない。

 カロはいつもと何も変わらず心配そうにイーグレットを見つめていた。その眼差しに鼓舞されて、やっと膝の震えが止まる。

 ――大丈夫、大丈夫だ。

 胸中で繰り返した。

 この程度の逆境でへこたれてはいられない。孫も生まれたばかりではないか。娘も、国も、守りたいものはたくさんある。

 引き延ばせないなら戦うまでだ。王冠を獅子のたてがみに代えて。


「我々はまだ敗北したわけではない。そうだろう?」


 シーシュフォスが力強く民に問いかける。広場に漂っていた絶望感は次第に薄らぎ始めていた。

 本来は君主がああして民を牽引すべきなのだろう。

 だが己では反感を買っておしまいだ。ここは彼に任せるのが正しい。弱き王は引き立て役で構わない。


「初めから冬は越せないものと見なしていたのだ! 主力の帰還を待つという一縷の望みが断たれた今、もはやほかに進むべき道はない! 今こそ敵軍殲滅に全力を注ごうではないか!」


 ハッと人々が目を瞠る。「そうだよな、最初は一月半ばまでしか食べられない計算だったんだ」と誰かが言った。

 声は広がり、じわじわと彼らの意識を塗り替える。

 ただ初めの状態に戻っただけ。否、兵力が増えた分、少し良くなっている。手足をもがれたわけでも心臓を取られたわけでもない。その波が広がりきったとき、シーシュフォスが雄叫びを上げた。


「さあ、皆の者! 武器を取れ! 船に乗り込め! 我らの国庫を焼いた炎を反撃の狼煙とするぞ!」


 勇将に応える咆哮が冬の冷気を吹き飛ばす。

 悔しさはあった。なぜいつもこんな情けない王でしかいられないのかという思いは。

 それでも今は誰の力を借りてでも国を一つにまとめ上げねばならなかった。気まぐれな海の女神をこちらに振り向かせるために。




 ******




 同じ頃、孫娘との再会にランドンは狂喜していた。くたびれ果ててヘトヘトの赤毛の姉妹を抱きしめて「よく来てくれた」と頬擦りする。

 サロメは幼い妹とどうにかこうにか王国湾の西の外縁を漕ぎ続けてきたそうだ。潟湖に面したクルージャ砦の軍港に辿り着くまで半日がかりだったという。

 小さなゴンドラで目立たなかったおかげだろうが、海軍に発見されず本当に運が良かった。

 しかもサロメは穀物倉庫に火まで放ってきたという。なんと豪胆な少女だとほかの仲間も孫娘を褒めそやした。


「ヴラシィに新たな女傑誕生じゃな! お前に比べたらあのアリアドネも霞むわい!」

「いやだ、お祖父様ったら言いすぎよ」

「言いすぎなものか! お前は奴らを窮地に追い込んでくれたのじゃぞ!」


 石壁に響く若い娘の声を聞きつけてドナの男もヴラシィの男もこぞって暗い軍港に集まってくる。姉妹合流の経緯を知った彼らの士気は大いに上がった。


「救護院にはほかに誰がいたんだ?」

「俺の妹は!?」

「ミランダって女の子はいたか!?」

「回し読みできる一覧を作っておくれよ!」


 孫娘は早くもあちこちで引っ張りだこだ。リーバイが「少し休ませてやれ」と諭すまで騒ぎは長いこと続いた。


「ああ、もっと早くこっちに来るんだったわ! ほんの少し勇気を出すだけで良かったのに、あたしったら馬鹿だった!」


 干し肉をたっぷり食べさせてもらってサロメはすっかりご機嫌の様子である。さっそくできた取り巻きが「アクアレイアが降参するのも時間の問題だな」と笑うのを聞いて「それじゃ祝杯をあげましょうよ!」と言い出すほどだった。


「こりゃ、いくらなんでもまだ気が早いわい。宴は勝って王都を占領してからじゃ」

「あーん! 久しぶりに葡萄酒が飲めると思ったのに」

「なんじゃ、救護院では飲酒禁止じゃったのか?」

「違うわよ。いいものはなんでもあたしたちの口に入る前にアクアレイア人の口に入っちゃうの!」


 おかげでこんなに痩せちゃって、とサロメは袖まくりしてみせる。晒された細い腕を慌てて元に戻させると、奔放な孫は意に介した様子もなく今度は妹の頭を撫でた。


「この子もあまり背が伸びていないでしょう? 子供だからって大人の半分も食べさせてもらえないの。それじゃ栄養が足りないわよね」


 ランドンは次第に孫が不憫になってきた。一応の寝床は与えられても生活は不自由だっただろう。厳しい労働に従事させられていたわけではないが、両親に大切にされてきたこの子らには――。


「葡萄酒が飲みたいんじゃったか?」

「え? 別にいいわよ、今は駄目なんでしょ?」

「どんちゃん騒ぎをするわけにはいかんが、新年の祝いもろくにしとらんし、一杯ずつなら……」


 甘いと首を振られるだろうかとリーバイに目配せすると年下のボスは無言で頷いた。少なからず呆れた表情には気づかなかったふりをする。


「よし、それじゃ酒樽を開けるとしよう! 誰か一つ二つ持ってきてくれ!」

「おお、やった!」


 生き別れの家族と巡り会えたからといってまだ気を抜くわけにはいかない。籠城もできなくなったアクアレイアが打って出てくる日は近い。飲ませるのは幹部以外の部下だけにしておかなければ。


「お祖父様、ありがとう!」


 はしゃぐ姉妹の無邪気さにランドンの頬は自然とほころんでいた。

 王国海軍の取れる手はもはや捨て鉢の特攻のみだ。こちらが潟に深入りすることはないし、勝負は見えた。後は連中がなんとか包囲を突破しようと試みるのをかわせばいい。

 どんな敵が襲ってきても蹴散らしてやるぞとランドンは決意を新たにする。

 ほかの仲間にも早く懐かしい人に会わせてやりたい。

 老いた拳に宿る闘志は十分だった。





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