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第4章 その2

 ああ、よもや赤ん坊がこれほどわんわん泣き叫ぶ生き物だったとは。産んだその日は怒濤のごとく過ぎ去ったから考える暇もなかったが、一週間、二週間と経つにつれ、小さな嵐はますます猛威を振るうようになっている。

 ブルーノはうつ伏せた枕に深々と息を吐いた。

 わかった、わかった、抱っこしてやればいいのだろう。お乳も存分に吸うといい。疲れ果てて眠りにつくまで付き合ってやれば満足なのだろう。


「こら、ルディア。お前は大人しくしていなさい」


 寝台を這い出て起き上がろうとした矢先、君主の声に制された。孫を構いに部屋へ来ていたイーグレットが揺り籠の乳飲み子を抱き上げる。子育て経験者なだけあってさすがに慣れた手つきである。


「おお、どうしたのだねアウローラ? 何がそんなに気に入らないのだ?」


 問いながら国王は笑う。この白い男が屈託のない笑みを浮かべるのは珍しい。特に戦争状態になってからは険しい顔で沈黙してばかりだったのに。

 いい名前だと褒めてくれたのを思い出す。曙の光は女神アウローラの薄衣、きっとこの子が王国に夜明けを導いてくれるだろう、と。

 上手い具合に勘違いしてくれたので本当の由来は明かさなかった。この人が真実を知ったらどんな反応をするのだろう。ブルーノの身体に入ったルディアを叱ったり抱きしめたりするのだろうか。――それとも。


「体調はどうだね? 初産は堪えるそうだから心配だ」

「ええ、もうすっかり。この子が乳母に慣れないので睡眠不足な程度です」

「それはいかん。眠れるときは極力眠りなさい」


 心配そうな目にやや怯む。ブルーノは父に一度もこんな眼差しを向けられたことがなかったから。気遣いどころか友人関係も将来の展望も尋ねられた覚えすらない。

 父は――コンラッド・ブルータスは、おそらく息子が別人に取って代わったと気がついていたのだろう。死した王女に脳蟲を入れさせられた張本人だし、同じ時期に二人も被験者を目の当たりにしたのだ。アイリーンを勘当したのは直後だし、具体的な状況や証拠は掴めなかったにしても彼女が何かしたのだと直感したのは間違いない。

 まるきり性格の異なるルディアがブルータス家で暮らしていてもコンラッドは一切関わろうとしないらしい。それを聞いて長年の疑いは確信に変わった。やはりあの人は息子の紛い物を無視することで心の安寧を保っていたのだと。


(姫様たちにはこんな思い、しないでほしいな)


 楽しげに孫をあやすイーグレットを盗み見る。

 ルディアたち親子がどれだけ互いを思い合っているか知っている。

 悲しい破綻は見たくなかった。ただでさえルディアは『ルディア』の人生を乗っ取った罪の意識に苦しんでいるのだから。

 軽口で茶化していたが自分にはわかる。彼女は今も重圧の中にいる。

 アウローラはルディアにとっても希望の光だ。彼女と王家を結びつける唯一の絆だ。何があっても、たとえ我が身に代えてでも守り抜かなければ。 


「おや、もうこんな時間か。そろそろ委員会を招集せねばな」


 と、イーグレットが壁掛け時計を見上げて言った。と同時、大鐘楼の鐘の音が王都に夕刻の到来を告げる。

 一日の終わりに戦況や街での出来事を報告させるのは十人委員会の恒例行事となっていた。防衛隊の皆やチャドも敵軍が退けばレーギア宮に戻ってくる。

 どうか今日も全員無事であってほしい。祈るしかできないのがもどかしくてならなかった。男の身体に戻れれば自分だって戦えるのに。

 出産が済んだ今もルディアはルディアに戻る気がないようだ。おそらくこの戦いの決着がつくまではと考えているのだろう。

 昔思い描いていたよりもずっと利発で勇敢な彼女。その輝きがブルーノには堪らなく愛しい。身勝手な同族意識だと、ルディアのほうには特別な思い入れなどないと自覚していても。

 それともこの思慕も脳蟲の本能に分類されてしまうのだろうか。ブルーノが最も美しいと感じるのはアクアレイアのために奔走するルディアなのだ。巣を守りたいがためにその番人を慈しんでいるだけかもしれない。


(……余計なことを考えるのはよそう。あの人に尽くすって誓いは変わらないんだから)


 かぶりを振って起き上がる。寝台の脇の安楽椅子に身を移す。

 黒いローブの重鎮たちは間もなく寝所へ集まってきた。




 ******




 どんな日も太陽は昇り、また沈む。手塩にかけて育てた息子が捕まった日も、祖国が突然戦火に見舞われた日もそうだった。

 日陰者として余生を送るつもりでいたシーシュフォスが海軍提督に復帰してから一ヶ月半の時が過ぎた。精霊祭も新年祭もなかったが、なんとかここまでアクアレイアは生き延びている。先日の新王女誕生も暗くなりがちな暮らしの中で心温まる慶事であった。

 人々は「ルディア様に似ているらしい」「無事のお産で良かった」と薄めた酒で乾杯したそうである。宮廷に祝いの品を届けた者も少なくはなかったらしい。その大半は例のお触れに釣り上げられた新アクアレイア人だったという。

 彼らのおかげで飢えの心配は遠のいた。一月も半ばになるが、配給への不満は今のところ出ていない。

 胃袋が満たされている間に市民兵をできるだけ実戦レベルに近づけなければならなかった。決戦のときが訪れる前に。


(結局ガレー軍船は三十隻しか用意できなかったな。船の数でも水夫の腕でも分が悪い。敵の武装船は三十五隻、コリフォ島のを合わせると五十隻近くなる。慎重にタイミングを計らなければ……)


 大運河を上り下りする訓練船の甲板でシーシュフォスは腕組みする。日中のグラキーレでの戦闘後、市民軍を見舞うのが提督としての日課だった。

 以前に比べ、薄闇の中でも船は機敏に動くようになった。だがそれだけだ。船長の振るう鞭に対する反応を見る限り、彼らは新兵以下である。恐怖や苦痛に対する耐性があまりに低い。軍人でもない職人に多くを求めすぎるのは酷なことだとわかってはいるが。


(まったく心労は尽きないな)


 国中の建材を掻き集め、果ては廃屋の柱まで持ってきたのだ。どうあっても船はこれ以上造れなかった。一番良いのはブラッドリーたちが帰ってくるまでなんとか持ち堪えることなのだが。

 あの男ならコリフォ島海域での待ち伏せ程度必ず突破してくれる。主力さえ戻れば形勢は五分五分だ。


(……無理があるか。三月下旬までは増えた食糧でも耐えられまい。商船団がよほどの良風に恵まれればまた別だが……)


 シーシュフォスは嘆息した。ブラッドリーを待つにせよ、市民兵を育てるにせよ、時間は稼がねばならない。どこまで粘れるかが勝負の分かれ目だった。

 策はある。踏み切れないのは勝算がまだ低すぎるせいだ。

 素人同然の市民兵が果たして何人血みどろの戦闘に耐えられるだろう。懸念は心に重く圧し掛かった。


(国庫をもっと厳しく監督しよう。ほんのわずかの量り間違いもないように)


 配給の徹底管理。民を生かしつつ細い糸を渡り切るにはそれしかない。

 シーシュフォスは大運河の終点にある倉庫街で訓練船を降りた。

 祖国を思っての締めつけが災禍を呼び込むことになるとは微塵も予感しないままで。




 ******




「渡せるものが何もない?」


 古びたゴンドラを懸命に漕ぎ、はるばる食糧倉庫の裏手にやって来たサロメを待っていたのは申し訳なさそうに項垂れた衛兵だった。


「本当にごめん! 昨日からチェック体制が三重になって、豆一粒も持ち出せなくなっちゃって」


 サロメはぽかんと目を丸くする。今日はオリーブの実を分けてくれるのではなかったのか。妹だって救護院で楽しみにしているのに。


「そんな、あなた少尉なんでしょ? 若いなりに偉いんじゃないの?」

「いや、たとえ僕が中将でも提督直々のお達しじゃ何もしてあげられなかったと思う。在庫は数えられちゃったし、配給表の写しも提出しちゃったから……今日からは、本当にもう」


 すまないと頭を下げられた。まるで縁切りの言葉みたいに。

 誠意で腹が膨れるのならいくらだって聞いてやるが、欲しいのは食べ物だ。謝罪されても意味などない。


「……酷い……」


 呟きに男は慌てた。腿に矢傷を負っていることも忘れて兵士はサロメのすぐ側に飛んでくる。

 こんなことなら家の備蓄を寄付するんじゃなかったとか、僕だって女の子の期待を裏切りたくなかったとか、耳元で不快な言い訳が繰り返された。聞いているとだんだん腸が煮えてくる。

 なんて不甲斐ない男だろう。女一人助けられずに何が貴族だ。ふざけるな。


「あなただけが頼りだったのに……!」


 責められた男は弱りきってまた詫びた。謝るしかできないのかと罵倒しそうになるのを飲み込む。

 ここで自分が暴れても仕方ない。下手をしたら穀物庫に近づくことさえできなくなる。それは駄目だ。


「何か手はないの? 妹がひもじいって泣くのを見るのはいやなのよ」


 訴える身振りこそ大仰だが口にしたのは本音だった。

 そもそもアクアレイアが難民にも国民と同じだけの小麦を配分してくれないのが悪いのだ。自分は差し引かれてしまった分を取り戻そうとしているだけで不当に蓄えを増やそうなんてしていない。なのにどうしてそれさえ叶わないのだろう?


「もし君が市民兵に志願するなら配給量はぐんと増えると思うけど……」


 無神経すぎる男の言葉に一瞬頭が真っ白になった。己の怒りが爆発したのもすぐには認識できなかったほど。


「――志願なんてできるわけないじゃない!」


 サロメはキッと衛兵を睨む。悔しさのあまり耐えきれなかった涙がぽたぽた零れた。


(食べるために戦えって言いたいの? 生まれ育った街の皆と?)


 どうかしている。心がないか、さもなくば頭が足りないのではないか。


「ご、ごめん。泣かせるつもりじゃ」


 男は焦って言い訳した。その態度が火に油を注いでいるとも知らず。

 だったらどういうつもりでほざいたのだ。まさかこちらが提案を受け入れて王国民の一員になると自惚れたのではあるまいな。


(いえ、もしかしてその通りなんじゃない?)


 はたとサロメは泣きやんだ。烈火のごとく渦巻いていた怒りもたちまち消え失せる。

 ああそうか、この男は勘違いしているのだ。貴公子の優しさに胸を打たれた哀れな娘が自分にのぼせあがっていると、最初の安い演技を信じたままでいるのである。

 ぞくぞくと背筋が粟立つ。サロメは頬の涙を拭い、「ごめんなさい」とできるだけしおらしくうつむいた。


「……あなたはあたしのためと思って言ってくれたのよね。だけどあたしにはヴラシィの人に刃を向けるなんてできないわ」

「いや、謝らないでくれ。僕のほうこそ考えなしだった」


 サロメが落ち着いたのを見て男はほっと胸を撫で下ろす。さあもうお帰りと促され、おもむろにその腕にすがりついた。


「あたしたちもう会えない?」


 男は戸惑い、顔を逸らす。「いや、その」と返事は酷く歯切れが悪い。あまり近辺をうろうろされると怪しまれると気にしているようだ。


「今夜もう一度ここへ来てもいいかしら? 何もいらない、ただ今までのお礼がしたいの。それできっと最後にするから……」


 抱きついた男の背中に腕を回す。柔らかな胸や頬を押しつけられ、鼻の下を伸ばした兵士は若い娘の申し出を拒まなかった。


「ゆ、夕方、提督が国庫のチェックから引き揚げたらしばらく人払いできると思う」

「わかったわ。夕方ね」

「日が沈んだ後しばらく待ってもらわなきゃならないよ。ひょっとして会えるのは夜中になるかも」

「そのほうがいいわ。明るいと恥ずかしいもの」


 わかりやすく照れる男に「じゃあ後で」と別れを告げて小舟に戻る。

 倉庫街に背を向けたサロメの双眸は冷たかった。

 夜までにランタンを用意しなければ。それから隠し持てるナイフを。

 純潔の代償はたっぷりと支払わせてやる。




 ******




 深夜未明、がさごそという物音でケイトはぱちりと目を覚ました。

 誰かが廊下を歩いている。ぐずった幼い泣き声が聞こえる。

 ひょっとして空腹に耐えかねた子供たちが食べ物を探しているのだろうか。だとしたら無計画に手をつけてはいけないと注意してやらなくては。

 粗末なベッドから起き上がったケイトは廊下の突き当たりの階段を下りた。こそこそと救護院を出ていこうとするサロメ姉妹と鉢合わせたのは、ちょうど一階に着いたときだった。


「ちょっと、こんな時間に何をしてるの?」


 咎める声に振り向いた少女はいつものサロメではなかった。髪は乱れ、額は黒く煤けており、小さく尖った唇には不敵な笑みを浮かべている。


「ケイト、あたしやってやったわよ」


 上擦った声はどこか誇らしげであった。瞳も爛々と燃えている。


「やったって何を?」


 怪訝に問えば彼女はますます興奮した。血走った目でぺらぺらと早口に己の所業を語り出す。


「穀物庫に火をつけたの! 目につく油をそこら中に撒いてやったからすぐに燃え広がったわ! 今頃アクアレイア人は急いで水をかけてるところでしょうね!」

「なっ……!」


 予想外の返答にケイトの頭から血の気が引いた。慌てて窓に飛びついて本島のほうを見やると薄闇に紛れて黒煙が立ち昇っている。火勢は相当な勢いだ。遠い救護院からも火の粉が夜空を染める様子が確認できた。


「小火のうちに気づけば消し止められたのに、残念だこと。まああたしが彼に人払いさせたせいだけど」

「サロメ、あなた自分が何をしたかわかってるの!?」

「わかってるわ。馬鹿な兵隊さんが眠りこけてる間に敵の兵糧を台無しにしたのよ。どうせあたしたちの口には入ってこないんだから、灰にしたほうが早く決着がつくじゃない?」


 ――信じられない。なんてことを。

 震える膝から力が抜けてケイトはその場にへたり込んだ。まさか彼女がそこまで分別に欠けていたとは。


「恩を仇で返すなんて最低よ! それに食べ物を粗末にして!」

「なんとでも言いなさい。ドナの人間のくせにアクアレイアの肩を持つあなたよりずっとまともでしょ」


 悪びれもせずサロメは言い返す。半分眠りの国にいる幼い妹を抱えると炎のごとき娘は玄関を開け放った。


「どこへ行くつもり!?」

「お祖父様のところよ! きっとよくやったって褒めてくれるわ!」


 高笑いを響かせる彼女を追うことはできなかった。騒ぎを聞いて起き出してきたほかの難民仲間に止められて。

 町長夫人は「このまま行かせておやり」と首を振った。放火犯としてサロメが吊るし上げられると残った皆が困るから、と。


「そんな……」


 こんなのおかしい。間違っている。

 ケイトは呆然と倉庫街の黒煙を見つめた。大鐘楼が火事を報せる警鐘を打ち始めたのはそれから間もなくのことだった。





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