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第4章 その1

「アウローラ……ですか?」

「ああ、天空の光を司る女神から取った名だ。ぴったりだろう」


 健やかな寝息を立てる我が子を抱いてルディアは微笑む。小さな姫に名前が欲しいと乞うてきたブルーノは意外そうに瞬いた。


「ですがそれでは姫様と同じ由来になるのでは?」


 彼の疑問はもっともである。音こそ違うがアクアレイアに親子で揃いの名を持つ者は多くない。寝台を囲む防衛隊の面々もルディアの案に目を丸くした。


「私はやはりルディアであってルディアではないからな」


 静かな声で名づけの真意を語る。不穏な切り出しにアルフレッドたちは表情を曇らせた。

 ずっと考えていたことではあるが、打ち明ける気になったのは今日が初めてだ。墓場まで持っていくつもりだった弱気な言葉を。


「知らずに育てられたから騙したと思いたくはないが、私はただの身代わりだ。本物の『ルディア』は死んでもういない。己が何者であるかを知ってこの国を守りたい気持ちは以前より強まったが、王位を継ぐには正当性に欠けているなと感じていた。だから――」

「生まれた赤ちゃんにルディア姫のやり直しをしてほしいの?」

「ま、そんなところだな」


 モモの問いかけに頷くと、バジルが「そんな!」と首を振る。「僕は姫様こそルディア姫だって思ってますよ!」との熱弁を受け、思わず苦笑いした。


「ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ」

「ふーん。ごちゃごちゃしたことはわかんねーけど、俺は給料さえ貰えるなら姫様が何者だって構わないぜ」

「はは、お前はわかりやすいな」

「モモも姫様がルディア姫やればいいと思うよー。元の姫様は帰らぬ人だし、姫様より姫様に向いてる人なんていないでしょ?」

「うむ。そこは私もそう思っている」


 冗談まじりに答えると一同に軽い笑いが起きた。「なんだか雰囲気が変わったな」とアルフレッドに瞠目され、ブルーノにも「前より明るくなられたような」と評される。

 棘の抜けた自覚はあった。虚勢を張らずに良くなって自然とそうなったのだ。

 すべて託せる者がいるのはなんと心強いのだろう。今ならなんだってできる気がする。依然変わらず王国は敵に包囲されているというのに。


「もう一つ重大発表がある」


 こほんと咳払いすると、なんだなんだと皆が前のめりになった。笑ったままでルディアは告げる。「防衛隊も今日からグラキーレ島へ出るぞ」と。


「ええっ!? 戦場へは行かないんじゃなかったんですか!?」


 叫んだのはバジルだった。せっかく危険のない宮廷勤めなのにと青ざめた顔に書いてある。弓兵はモモが心配なのだ。


「本当!? 思う存分戦っていいの!?」


 当の斧兵は喜色満面で念を押してきた。頷くルディアを見てモモはきらきら瞳を輝かせる。


「やったああ! 毎日アンディーン様に早く戦えますようにってお祈りしてて良かったー!」

「それにしてもなぜ急に方針を変えたんだ? 前線へ出る気はないと断言していたのに」

「私が死んでも王家は終わりでなくなったからな。思いきり難敵にぶつかってみたくなった」


 いけないか、とルディアが問うと騎士は笑って首を振った。


「いいや。それなら俺たちは全力であなたを守るだけだ」


 満足のいく返答。満足のいく面差し。

 信頼と忠誠をありがたく思う。良い部下に恵まれたと。

 重かった枷が一つ外れた。これからはもっと自由に駆け回れるはずだ。己の心の求めるままに。


「我々は基本的にチャドと行動をともにする。戦況によっては市民兵や海軍に加わる可能性もあるが……」

「はいはーい! 特別手当つく?」

「戦果を挙げればな。前線は弩弓の撃ち合いがほとんどだ。この中ではバジル、特にお前に期待しているぞ」


 名指しされた少年は「ひえっ!?」と声を裏返した。ドナ・ヴラシィ軍にも百発百中の名手がいるらしいと教えてやるとバジルはアイリーンばりに蒼白になってうろたえる。


「ぼ、ぼぼぼ僕、こういう対人戦にはあまり自信が……っ」

「甘えたことを言っている場合か。お前の弓なら敵に攻撃が届くのだから気合を入れろ。ほかの者もいつもの装備だけでなくクロスボウを準備しておけよ」

「はーい!」


 一番元気に返事をしたのはモモだった。嬉しくて堪らないという様子で彼女は屈伸運動を始める。

 ルディアは寝台から心配そうにこちらを見上げるブルーノに腕の中の赤子を委ねた。「頼んだぞ」との声がけにレイモンドが「やっぱ本物の夫婦みてー」と呟く。


「やめろ。人が聞いたら誤解を招く」


 嘆息を一つ挟んでルディアは剣の柄を握った。アルフレッド、レイモンド、バジル、モモ、ブルーノと、しっかり瞳を交わし合う。

 彼らがどこまでついてきてくれるかはわからない。だが今日まで秘密を守り、側にあってくれたことを感謝したい。そしてできればこの先も。


「出陣だ」


 短いマントを翻したルディアの後に四人の足音が続いた。

 昨晩王都に降り積もった綿雪は陽光を浴びてゆっくりと溶け出していた。




 ******




 遠く鳴り響く荘厳な鐘の音色。突如向かいの小砦で始まったトランペットの高らかなファンファーレにリーバイたちはぎょっと目を剥いた。

 アクアレイア海軍が総攻撃でも仕掛けてきたのかと思ったが、矢間から覗く限りそんな気配は見られない。新年の祝いにはまだ二日ほど間があるし、一体なんの騒ぎだろうか。


「ふん、きっと王国には余力があると見せかけたいのじゃ。こんな包囲はするだけ無駄じゃとな」


 落ち着いた声で分析する老将ランドンになるほどと頷く。

 リーバイたちはルディアの懐妊自体を知らず、これが小さな姫の誕生を祝うささやかな演奏だとは微塵も気づいていなかった。小癪なあの国のやりそうなはったりだと誰もが忌々しく舌打ちする。

 敵になると決めてからアクアレイアを庇ったり認めたりする者は誰もいなくなっていた。あいつらは助けにきてくれなかった。使うだけ使って自分たちを切り捨てた。そう思い込んでいたほうが冷酷になれるからだ。

 仮初の憎しみは今や本物の憎悪として凝り固まりつつあった。疲れや寒さ、傷つき倒れた仲間の呻きが被害妄想をより強固にしてくれた。

 これでいい、とリーバイは考える。アクアレイア人に詫びるのは故郷の土を踏んでからで構わないと。たとえ恨みの旗の下でも仲間が団結していれば。


「しかしそろそろ一ヶ月か。奴ら意外に粘りやがる」

「早々に食べるモンがなくなると踏んでたのにな」

「何、じきに国庫も空っぽになるさ。そうなりゃ連中の間にこっちに付きたいって奴が出てくるはずだぜ」

「ああ、それまでの辛抱だ。皆、焦るんじゃないぞ」


 リーバイは定期報告に集まっていた各ガレー船のボスを励ます。

 クルージャ砦を奪ってから戦況は自軍優位で安定していた。グラキーレ島に出す船は四隻もあれば十分だったし、岬に敵兵が上陸してくる兆しもない。

 アクアレイアの戦力不足は明らかだった。戦おうにも潟を出られず、ラッパを吹いて虚勢を張るだけ。そんな連中に怯える必要は皆無である。


「さすがに春まではもたねえさ。奴らは結局決死隊すら編成できずにいるんだしな」


 商船団が帰還するのは早くて三月後半だった。それまでに王都の占拠が完了していればなんら問題はない。

 補給なし、耕作地なしで十万人を養い続けられる都市などありはしないのだ。勝利の女神はドナとヴラシィに微笑んでいる。信じて待っていればいい。




 ******




 最高潮まで達していた昂揚は、第一矢を放つなりその矢とともに急落した。


「これ不良品じゃない!?」


 モモは支給されたクロスボウをいじり回して憤る。やっと出番が訪れたのに、ようやく前線に立てたのに、敵船にかすりもしないなんて!


「うわーん! 頑張って限界まで巻き上げたのにー!」


 グラキーレ島の石砦に悲嘆の声がこだまする。モモの射た矢は無様に波間を漂った。その少し奥、クルージャ岬の手前にはドナ・ヴラシィのガレー船団が戦闘態勢で停まっている。予定ではちゃんとあそこに届くはずだったのに。


「今日は横風もありますからね。角度をつけて射撃するのは弾道が安定しないかも……」

「じゃあまっすぐ撃てばいいの!?」

「直射じゃ飛距離が出ませんよ」

「だったらモモの攻撃どうやっても当たらないじゃん!」

「いいじゃないですか。向こうの攻撃もこっちに届かないってことなんですし」


 バジルに諭されて憤慨する。自分は戦場を見学しにきたのではない、戦場に参加しにきたのだ。こんなに近くで指をくわえて見ていろなんて酷すぎる。


「仕方がない。俺たちはチャド王子とバジルのサポートに徹しよう」


 自分のクロスボウを試し撃ちして無駄だと悟った兄までもがさっさと武器を片づけた。レイモンドとルディアの二人も隊長に倣う。

 クロスボウ――いわゆる弩は船乗り全員に携帯が義務づけられているくらい海ではお馴染みの装備である。使い方は簡単だ。引き金のある台座に水平に弓を取りつけて、滑車とロープの組み合わさったハンドルをぐるぐる回し、弦を引っ張り、太い矢を設置する。後は的に狙いをつけて発射するだけ。専門性もへったくれもない誰でも扱える道具だが、装填に時間がかかるのと材質の違いで長弓ほどは飛ばせないのが弱みだった。

 対してバジルとチャドの愛用するロングボウは発射が速いだけでなく、射手の技量次第で風も計算に入れられるし、射撃の角度もつけやすいし、まさしく痒いところに手が届く逸品だ。「弩があるから別にいい」なんて言わないで己も少しくらい嗜んでおくのだった。


「ねえ、モモ海岸に下りちゃダメ? グレッグのいる辺りだったらクロスボウでも届くと思うんだけど……」

「駄目に決まっているだろう。お前は護衛のくせに王子をほっぽりだして戦う気か?」


 生真面目な兄に嘆息される。そうだよねーとモモはがっくり肩を落とした。ユリシーズやシーシュフォスの船に乗せてもらうのは手柄を横取りされそうな気がするし、悔しいが諦めるほかないらしい。


「あのー、こっち一緒にやる?」


 と、歩廊の片隅から傭兵団の少年が声をかけてきた。彼の横には傷んだ矢が山と積み上げられている。少年はギプスの巻かれた片足を作業台代わりにして矢のリサイクルに勤しんでいるようだった。


「あっ! こないだ砲台からチャド王子を守った子だ?」

「いや、別に守ったってほどじゃ」

「小さいのにお手柄だねー。名前はなんて言うの?」

「ド、ドブだけど……」

「ふーん! モモはモモだよ!」

「うん。さっきから自分のこと名前で呼んでるから知ってる」

「ほんとだ! バレてた!」


 モモはニコニコしながらドブに近づいた。暇潰しになりそうな仕事があって良かったと隣に腰を下ろす。するとバジルが顔色を変えて「なな、なに仲良くなってるんですか!?」と振り返った。


「うるさいなあ、バジルは戦えるんだから真面目に戦ってて。モモはこれからドブにゴミ矢の直し方を教わるから」

「後ろで楽しそうにされたら気が散って戦えませんよ!」

「は? それじゃバジル、モモの直した矢がいらないの?」

「すみませんでした使います。あと記念に一本取っておきます」


 欲望に忠実な弓兵が前へ向き直ると手持ち無沙汰のレイモンドたちも補修の輪に加わった。座ると海や浜の様子が見えなくなるせいか、戦場とは思えないなごやかな空気が漂う。


「しっかし拍子抜けだなー。一応槍も磨いてきたのに」

「ああ、俺もまさか敵船が弩の射程距離にも入ってこないとは思わなかった」

「でもさ、傭兵はちゃんと撃ち合いできてるんだよ。単にモモたちの場所取りが終わってるんだよ」

「まー俺らは王子様の安全第一だからなあ」

「とか言ってレイモンド、ほんとはラッキーって思ってるでしょ?」

「へへへ、だって俺危ないの嫌いだもーん」


 悪びれもせず槍兵は舌を出す。モモが「バカバカ! モモは戦いたいの!」と怒るとそれまで無言で王国湾やクルージャ岬を観察していたルディアが不意に口を開いた。


「そう腐る必要はない。出番なら必ず来る」


 確信めいた口ぶりにモモはぱちくり瞬きする。王女は淡々と言葉を続けた。


「シーシュフォス提督が何をする気か大体読めた。あの男は内通者が出るのを恐れて策の全容を明かさないのだな」

「お、おお!?」

「一体どんな策なんだ?」

「モモも聞きたーい!」

「馬鹿者、私が言ってしまったら元も子もないだろう。だがいつそれが来てもいいように刃は研ぎ澄ませておけよ」


 ぎろりと鋭く睨まれてモモたちは姿勢を正す。なぜかドブまで萎縮していて笑ってしまった。ルディアの威圧は隣国の少年にまで通じるらしい。


「そう言えば僕の父さんも技師として国営造船所に呼び出されてるんですよ」


 と、矢筒を空にしたバジルが小走りに皆の輪まで駆けてくる。きっと寂しさに負けて会話に混ざりにきたに違いない。


「技師として? ガラス工がか?」

「ガラスじゃなくて鋳造のアドバイザーだそうですけど、僕も詳しくは」


 ルディアの問いに弓兵はかぶりを振った。腕いっぱいに新しい矢を抱え込むとバジルはすぐにチャドの横に戻る。バシュッバシュッと小気味良い風切り音を響かせる幼馴染を見ていたら羨ましくて堪らなかった。

 できるだけ早く提督が秘策とやらを実行してくれますように。

 包囲が解けたらアンバーとアイリーンの無事を確かめにいけますように。

 声には出さずにそう祈る。ここで自分も頑張るからと。







 困ったなあ、とバジルは秘かに眉を寄せる。

 本当に困った。さっきから少しも、びっくりするほど弓が言うことを聞いてくれない。こんなのは初めてだ。

 取り繕って射てはいるが、矢は飛びすぎるか飛ばなさすぎるかのどちらかで、まだただの一人も仕留められていないように感じる。チャドはしっかり敵軍を脅かしているというのに。


「実戦は初めてかい?」


 惨状を見かねたらしい王子がこっそり話しかけてくる。ひそひそ声で「いえ」と返すとチャドは意外そうに首を傾げた。


「獣ではなく人間を相手にするのも?」

「ええ、海賊船に遭遇した経験は人並みにありますから」

「ふむ、であれば身体が硬いのは別の理由だな。思い当たる節はあるかい?」


 問われてバジルは考え込む。防衛隊も攻撃に加わると聞いて最初に心配したのはモモの安全についてだった。その次に浮かんできたのは「戦いたくない」という率直な思い。

 バジルが初めて海に出たのは四年前、十一歳の夏のことだ。最初に到着したドナの港で陽気な水夫がわんさかと船に乗り込んできたのを覚えている。その次のヴラシィ港でも同じように。

 対峙する敵船にあの頃世話になった誰かがきっと乗っている。そう考えると弓を引く手に震えが走った。

 殺意はおろか害意も湧かないのではどうしようもない。偽れないのが長弓だ。我ながら馬鹿だと思う。こちらが武器を捨てたところであちらは戦いをやめてくれはしないのだから。


「……悪人だって認識してないせいでしょうね」


 矢をつがえるが腕は震えたままだった。指もまったく普段通りに動かない。モモや皆が戦うことになる前に一人でも敵を減らしておくべきなのに。


「戸惑いは誰にでもあるさ。幸い我々の戦場は緩慢だ。焦る必要はない」


 強く矢を射るチャドの励ましは優しかった。てっきり叱責されるかと思ったのに、ゆっくり気持ちを慣らしていこうと力づけられる。


「的を見ないで私と同じ方向に飛ばすことだけ心がけたまえ。その後に死体が転がっていても私がやったと思えばいい。言い訳しながらでなければ人は案外戦えないものだからね」


 え、とバジルは糸目の王子を振り返った。遠慮するなと言うようにチャドは顎で敵船を示す。


「稀にだが、マルゴー人同士が敵として巡り会うことがある。雇われ兵の悲惨なところだ。どうしても一戦交えねばならない場合は今私が言った通り、極力見ないで仕留めるのだよ。誰が同胞を殺したか絶対にわからないように」


 壮絶な裏事情を聞かされて背筋が凍った。傭兵大国の王子は平常と変わらぬ笑みでバジルに構えを催促してくる。


「ほら、騙し騙しでも頑張りたまえ。君にも可愛い人がいるんだろう?」


 意を決し、バジルは矢筒の矢を抜いた。飛距離を出すために少し斜めに背を反らす。隣ではチャドが同じ姿勢を取っていた。

 放った矢はどこまで飛んで落ちたのだろうか。どうにも不安の拭いきれない参戦一日目であった。




 ******




「サロメ、これはどういうこと?」


 顔をしかめて問いかけると少女はギクリと肩を強張らせた。ケイトの手には動かぬ証拠が握られている。気晴らしに救護院中の掃除をしていたら出てきたビスケットの袋である。


「あなたのブランケットにくるまれていたのだけど?」


 サロメ姉妹が使用している相室の寝台を指差しながら迫ると少女は誤魔化すように笑った。あちこちを泳ぐ視線が人には言えないやり方で手に入れたものだと証明している。確かにここ数日はまた一段と、量といい質といい救護院の食事が貧しくなっていたけれど。


「まさか盗んできたんじゃ……」

「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでよ。そのビスケットは親切な人に貰ったの。見つかっちゃったものはしょうがないし、内緒にしててくれるならケイトにも少し分けてあげるわ」

「貰ったってどこの誰に? 盗んだんじゃないならどうして今まで黙っていたの?」


 まだ疑いの目を向けるケイトにサロメは「しつこいわねえ」とうんざりした態度を見せる。観念したのか開き直ったのか、彼女はあっさり入手経路を自白した。


「国庫の番をしてる若い兵隊さんよ。お喋りして仲良くなったの。妹がお腹を空かせてるって言ったらこっそり持ち出してくれただけ! 言わなかったのは二人分しかなかったから! どう? これで満足?」

「若い兵隊さんって……」


 ケイトはもしやと息を飲む。懸念はすぐさまサロメが自分で否定した。


「言っておくけど不道徳な関係じゃありませんから! 純粋に同情してくれたのよ。海軍って貴族のお坊ちゃんしかいないのね。ころっとほだされちゃって面白かったわ。うふふ、あたし女優になれるかもしれないわね」


 妙に得意げに彼女が赤髪を掻き上げる。十五歳という年齢にそぐわぬ肉感的な胸を突き出され、ケイトは思わず赤面した。

 何をやっているのだこの娘は。実際に交渉がなくとも誘惑したなら同じことではないか。


「サロメ、あなたそんな真似して恥ずかしく……」

「ケイトも試してみれば? あなた美人だから救護院の皆を養えるかもよ?」

「サロメ!」

「あはは、冗談だってば。ケイトにはできっこないない。他人にお説教できる立場じゃなくなっちゃうものね!」


 嫌味の棘がちくりと刺さる。「どういう意味?」と尋ねるとサロメは苛立ちに眉を歪めて睨み返してきた。


「悪いことはしてないんだから、小うるさく構わないでって言ってるの!」


 ほとんど突き飛ばされる恰好で部屋の外へと追い出される。固く閉ざされた扉はもうケイトには開かれなかった。





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