第3章 その5
「あったま来ちゃう! 難民は潮干狩りも魚釣りも自由にしちゃ駄目なんですって!」
救護院の扉を開くなり大声で吐き捨てた少女をケイトはぎょっと振り返った。不機嫌を隠しもせずに食堂を突っ切ってくるのは燃え立つような赤い巻き毛を翻すサロメだった。
激しやすい性格が苦手でケイトはつい彼女を遠巻きにしてしまう。ヴラシィでは名の通った貴族の娘だそうだけれど、今日はまた何があったのだろう。
「食事の用意は!?」
「ま、まだよ。配給が滞ってるみたい」
「昨日も一昨日もそうだったじゃない! もしかしてあたしたちには一日一食で十分だって言うんじゃないでしょうね!?」
「そんな。遅れてるだけでちゃんと届いてるわ。量はちょっと少なくなるって通告はされたけど……」
「適当に誤魔化されてるんじゃないの!? 攻撃してきてるのはうちの男たちなのよ! あたしたちがアクアレイア人に嫌がらせされたってちっとも不思議じゃないんだから!」
「ちょっとサロメ、誰のおかげで皆が暮らせているのかわかって……」
「わかってるわよ! でもついさっき、空腹に耐えかねたあたしが貝を拾おうとするのを邪魔したのもアクアレイア人なのよ!? これだけ状況が変わったんだもの、救護院を追い出される日も遠くはないかもしれないわね! ああ、飢えて死ぬ前にお祖父様が助けにきてくれないかしら!」
あんまりな物言いにケイトはぽかんと瞬きした。王国人に聞かれたらあらぬ誤解を受けそうだ。そう断じ、すぐさま彼女に苦言する。
「サロメ、あなた何を言って……」
「そうよ、アクアレイアが負ければいいのよ! そうしたらあたしたち自分の家に帰れるんでしょう?」
「――ッいい加減にして!」
一喝に一瞬サロメがたじろいだ。だが彼女はすぐに怒りでそばかす顔を赤く染める。
「何よ、いい子ぶって! あたしだって食べ物を我慢するくらいできるわよ! だけど妹がひもじいって泣いてるのを放っておけるわけないでしょ!?」
叫ぶだけ叫んでサロメは集会堂を兼ねている一階から小部屋の並ぶ二階へと駆け上がった。彼女を追いかけようとして床に残った涙の染みにふと気づき、心がずしりと重くなる。
「…………」
サロメの言っていることもわからないではない。己でさえわざと配給の順番を飛ばしたのではないかと勘繰りたくなるときがある。だが保護してもらっている立場では、あまり図々しいことを口にできないではないか。
(どうしたらいいのかしら……)
パンを得る方法がないわけではなかった。地元の男と親しくなって食べ物を分けてもらえばいいのだ。当然その対価は払わねばならないだろうが。
「……ッ」
ゾッと鳥肌の立った肩を抱きしめる。いくら飢えを凌ぐためでも身売りなどできそうにない。もしチェイスに知られたらと考えるだけで足が震えた。
(それだけは絶対にいや! でも禁止されている漁に手を出せば難民から囚人に早変わりだし……)
残る手段は兵役に従事することくらいだった。政府の募集している市民兵の一員になれば小麦の配給は増量される。
だが兵士になれるのはアクアレイア人に限られていた。それに王国軍として武器を取るのは同郷人に対する裏切りと同義である。クルージャ砦に愛しい男がいると知っていてどうしてそんな選択ができよう。
(チェイスたちに賛同はできないけど、敵に回るのだって同じくらい無理な話だわ……)
苦悶するケイトの耳に大鐘楼の鐘が響いた。ハッと顔を上げて窓の外の海に目をやる。
戦闘中のグラキーレ島で何か起きたのだろうか。やきもきしてもこの救護院からは遠くて何も見えなかったが。
(とにかく今日の配給が来たら、私の分はサロメの妹に分けてあげよう。子供がお腹を空かせているのは良くないものね)
なんの解決にもならないことはわかっている。なんとかしなければならないことを先送りにしているだけだと。
己の無力さを痛感してケイトは拳を握りしめた。不毛な争いを始めた男たちへの怒りはどこにもぶつけられぬまま。
******
真新しいガレー船がふらつきながら大運河を上っていく。熟練船長の号令に合わせ、難儀そうに櫂を回すのは新米水夫たちだった。市民兵として祖国防衛に立ち上がった彼らは軍船を漕ぐ練習を積んでいるのである。
この三週間余りで建造された船は二十隻を超えた。造船所の親方はまだまだ国中の木材を掻き集め、限界まで進水させるつもりらしい。しかし船は大半が三十人から五十人乗りの小型船で、乗員もドナ・ヴラシィ軍に挑めるほど訓練されてはいなかった。大運河の流れは非常に緩やかなのに、怖々と進む彼らの頼りなさと言ったらない。
アクアレイア本島の中心に架かる真珠橋の屋根に腰かけ、成果らしい成果も見えぬ特訓の様子を眺めつつ、カロは小さく嘆息した。
この国の人間はいい。微力でもできることがあるのだから。
自分はどうだ。兵士になりたいと志願してもアクアレイア人ではないからと断られ、成り行きを見守っているだけだ。今こそイーグレットの力になるべきときなのに。
(側にいても何もできないのでは二十年前と同じではないか)
苦い記憶が甦る。ロマの仲間を説得できず、友人への反感を拭えないままにしてしまった。
宮殿の外からでも彼が無理をしているのは見て取れた。気を張って、疲労や緊張を隠していること。全体あの男は一人で苦労を背負いすぎだ。それが義務だと笑ってみせるがカロには少しも納得できない。
もっと自由に生きればいいのに。土地や人間に縛られることなく。こんなに大きな街ではなく、イーグレット一人だけなら自分の力で十分守ってやれるのだ。
「……!」
と、前触れもなく鳴り響いた警鐘にカロは面を上げた。
砂洲での攻防に目を光らせる見張り兵が新たな動きを察知したらしい。遠く聳え立つ大鐘楼から激しい鐘の音が響き渡る。
繰り返される鐘撞は敵船の到来を示していた。朝からの戦闘はまだ終わっていないはずだから、これは増援があったということだ。
思わずカロは真珠橋から国民広場へと駆け出す。もっと具体的な戦況が知りたかった。そう考えたのは己だけではなかったらしい。カロが到着する頃には青くなった民衆が大鐘楼の麓に集まり始めていた。
よほどの悪天候でもない限り戦闘は毎日繰り広げられている。だが敵が途中で兵を増やすなど初めてだ。慌ただしくレーギア宮へ出入りする伝令の姿などもあり、辺りには物々しい空気が漂った。
だがどうやら悪い事態ではなかったらしい。その後伝わってきた話によれば、ユリシーズの攻勢に押されたドナ・ヴラシィ軍が応援を一隻やっただけのことだそうで、大勢には変化ないようだ。敵がアクアレイア湾に侵入してきたわけではないと知り、人々はほっと胸を撫で下ろした。
「……けどそのうち、奴らここまで乗り込んでくるかもね」
「いくら新しい船を造ったところで水夫やパンが足りてないんだもの。私らもいつまで元気でいられるかわかったもんじゃないわ」
「国王陛下があんなお方でさえなきゃねえ……」
ひそひそと聞こえてくる悪口に辟易する。どういうつもりだと胸倉を掴んでやりたいところだが、実行には移せなかった。
ロマに庇われたところで恥にはなっても名誉にはならない。問題を起こせばイーグレットの心労を増やすのみである。
(剣を振るうくらいなら俺にだってできるのに)
首を縦には振られないと承知でカロは宮殿前の小天幕に足を向けた。臨時に設けられた兵士募集所では黒いローブを羽織った数人の議員たちが戦力と物資の提供を群衆に呼びかけている。
人波を掻き分けてカロは前方へと進んだ。するとこちらに気づいた男が隣の男に耳打ちする。
「ちょ、あいつまた来ましたよ」
「ああ? 駄目駄目! 王国軍に外国人は入れない決まりだから!」
募集状況を尋ねる前にブンブン手を振って押し戻される。議員たちは「配給目当てのロマの相手なぞしている暇はない」と言いたげだった。
失礼な話だ。たとえ食うに困っても力を出し惜しみする己ではないのに。
「市民兵に応募を――」
「だから規則でお前には無理だと昨日も一昨日も説明したろうが! とっとと失せろ!」
唾が飛ぶほど怒鳴られて仕方なく引き下がる。諦めなければ聞いてもらえるかもしれないと今日まで希望は捨てずにいたが、やはり軍の一員に加わるのは難しいのだろうか。
(こうなったら単身グラキーレ島に乗り込むか?)
ふむ、とカロは一考した。
イーグレットの許可なくそんな真似をして迷惑でないか引っかかるが、案外マルゴーの傭兵たちに紛れられるかもしれない。試しにやってみる価値はある。
安全な本島で燻っているのもそろそろ限界だ。グラキーレ島で様子を見て、奪われたクルージャ砦を強襲できそうならそのときは――。
「しかしあのロマ以外も結構来ますね、外国人」
「まあ商人なんかはここに財産置いてる奴が多いからな」
「あー、船で商売しようと思ったらまずアクアレイアに拠点持ちますもんねー」
「そうそう、そんで王国商人との待遇の差を嘆くんだよ。俺もアクアレイア人に生まれれば良かったって」
「じゃあ『協力者にはうちの国籍あげますよ』って言ったら王都にいる外国人が残らず志願してくるかもしれませんね」
「ハハ、それは大いに有り得るぜ。何せどんな金持ちでも二十五年待たなきゃ手に入らない特権中の特権だからな!」
立ち去りかけたカロの足を議員たちの雑談が止めた。回れ右して「それだ」と呟く。聞く者は誰もいなかったが。
指針が定まってからの行動は早かった。カロは国民広場の脇に舫われた小舟の一つに飛び乗ると友人の私室に直行した。もちろん人目につかないように例の地下通路を使ってだ。
「おや、君が昼間に現れるとは」
忙しいイーグレットにしては珍しく、今日は部屋に本人がいた。臨時会議を終えてちょうど自室に戻ってきたところらしい。眠れていない、食事もろくに取れていないのが一目瞭然のやつれ顔で心配になる。
「もしかしてまた外で何かあったのかな? さっきの警鐘についてなら報告を受けたばかりだが」
イーグレットは少々構え気味に問うてきた。彼の腰かける執務机の真下から上半身だけ這い出して「違う」とカロは首を振る。身を起こす時間も惜しんで聞いた話を手短に伝えると友人は薄灰色の目を大きく瞠った。
「そうか、なるほど国籍の付与か! 外国商人を巻き込む発想はなかったな。すぐに委員会で掛け合ってみよう」
「ああ、さっさと決定してくれると助かる」
「もちろんだとも。盲点だったが妙案だ。カロ、ありがとう」
「くれぐれも最低いくらの寄付金が必要、なんて条件を付け足してくれるなよ。俺が兵士になれなくなってしまう」
「えっ? 待ってくれ。もしかして君も戦うつもりなのか?」
「ああそうだ。どうしても市民兵に混ざれないなら俺一人でもクルージャ砦に切り込んでやる」
カロの返事にイーグレットはたじろいだ。たじろいだまま「どうしてだい? 君がアクアレイアのために命を懸けることはないのに」などと返され、こちらのほうが困惑する。
「……友人が困っているときは力を貸すのが普通だろう。少なくとも俺たちはそうする」
ロマの生き方はシンプルだ。持てる以上のものは持たず、持っているときは惜しみなく与える。そう生きるのが誇りだし、そうできないならロマではない。
若いという年齢はとうに過ぎたが肉体はまだまだ頑健だ。任せてくれと胸を叩いた。――否、叩こうとした。
「わざわざ危険に飛び込まないでいい。これは私の国の問題だ」
床の穴に身を屈め、イーグレットは真剣な顔で首を振った。
握られた手首が痛い。眼差しは突き刺さるほどだ。
けれどわかったと素直に頷く己ではなかった。
「忘れたのか? ロマの男のしつこさを」
微笑を浮かべ、古い記憶を掘り起こさせる。放浪時代の諸々を思い出したかイーグレットはふうと大きく溜め息をついた。
「俺は窮地のお前を放っては――」
台詞は途中で終わりになった。こちらの手首を握っていた彼の手がするりと肩へ伸びてきて。
「…………」
立派な城で育てられたイーグレットはあまり他人の身体に触れない。極端に寒い日とか、感極まったときくらいしか。
カロから抱きしめ返すことはしなかった。イーグレットは少し離れて囁いた。
「止めるのはよそう。だが無茶はしないでくれ」
「約束はできない。戦場では何が起こるかわからない」
「わかった。ならば力を合わせ、こんなことはさっさと終わらせよう」
友人は穏やかに微笑む。白い頬に差していた翳りはいつの間にか随分と薄くなっていた。
「ありがとう。君には本当に助けてもらってばかりだな」
イーグレットは足早に王の私室を後にする。
告げられた感謝の言葉に嘆息した。俺はまだお前に何もしてやれていないぞ、と。
この翌日、外国人の兵士登用は正式に認められる運びとなった。更に翌日、一番に募集所に並ぼうとしたカロは自分よりずっと早くに馳せ参じた諸外国の商人たちの長い列を見ることになる。
全員喉から手が出るほどアクアレイア国籍を欲してきた者だった。凄まじい反響に議員たちは歓喜の悲鳴を上げていた。
新たに登録された兵の数や寄付された物資の量は桁違いだったらしい。もう二ヶ月余裕で戦えるくらい国庫が潤ったと後でイーグレットが教えてくれた。
念願叶って王国民として認められたカロはガレー船の櫂漕ぎ練習に誰よりも熱心に参加した。
開戦からおよそ一ヶ月の時を経て、アクアレイアはようやく反撃の第一歩を踏み出したのだった。




