第3章 その4
「あーん! モモもグラキーレに行きたいよお! 行きたい行きたい行きたいよお!」
発作的な少女の喚きにルディアは「またか」と嘆息する。
年明けも近づいた十二月二十五日、いつも通りルディアたちは護衛の名目で王女の寝室に集っていた。
ひっきりなしに会議が続いていた今月初めに比べると十人委員会の多忙さもだんだん下火になってきている。この頃は朝夕の二度、戦況や街の様子が報告される程度だった。
静かな宮殿の奥にいると今が交戦中とは信じがたい。現実に戦闘が行われていると教えてくれるのは敵軍の襲撃を告げる大鐘楼の鐘の音だけだ。
「行きたい行きたい行きたいったら行きたいー!」
モモは前線で大暴れするつもりだったらしく、一向に出陣命令が下らないのを一人悲しんでいた。そんな彼女をはらはら見つめ、バジルが優しく宥めようとする。
「本当に残念ですね。だけど退屈でも安全なほうがいいじゃないですか。僕はモモが大怪我したり、戦死しちゃったりするのは嫌ですよ?」
「モモは戦えるくせに戦ってないのが嫌なの! だいたい王都防衛隊が王都の防衛をしてないってなんなの!?」
「そ、それは僕らがルディア姫の親衛隊扱いだからで」
「わかってるもん! バジルの馬鹿!」
「ひええ、理不尽ですよおお!」
やかましい年少組に「臨月の妊婦の前でぎゃあぎゃあ騒ぐな!」と一喝する。瞬間、半べそでぽこぽこ拳を打ったり受けたりしていた二人はぴたりと動きを止めた。
「いや、いいよ……バジル君もモモちゃんも気にしないで……。少しうるさいくらいのほうが今はありがたいからさ……」
覇気のない声に寝所の空気が暗く澱む。安楽椅子と一体化してぐらりぐらり揺れるブルーノは近づく予定日に心底怯えた様子だった。
初産というだけでも相当な心労なのに、戦争は起きるわ姉は安否不明になるわ、顔に死相が浮いている。焦点の合わぬ視線は虚ろに天井をさまよった。
「だ、だいじょぶか?」
レイモンドの問いに対する返事も「だいじょーぶ……だいじょーぶ……」と儚すぎて安心できない。もう一つストレスが加わったら永遠に起き上がらないのではないかと思えた。
「うーん。せめてクルージャ砦を奪還できれば少しは落ち着いてお産に臨めるんだろうが……」
腰の愛剣に手を伸ばすアルフレッドにルディアはムッと眉をひそめる。
「お前まで戦場に出たいとほざくのか?」
「もちろん出ろと言われればすぐに出られる準備はしてある」
天然なのかわざとなのか、返された答えは微妙にずれていた。
バオゾで彼に言われた台詞を思い出す。一人だけ安全な場所に逃げ込んだと誤解されるのは耐えがたいと、血でも吐くように訴えられた。
「残念だが防衛隊の出番は来ないぞ。内政に関わりのないチャドはともかく、次期女王である私が倒れるわけにいかん」
ぶーぶーとモモが唇を尖らす。それをねめつけ、赤髪の騎士を振り返った。
「臆病者だの税金泥棒だの、言いたい奴には言わせておけ。パトリア古王国に繋がる血筋が途絶えれば西パトリアにも侵攻の理由を与えることになる。王都を守るにはまず王家を守らねばならんのだ」
「ああ、心得ているさ」
騎士の明瞭な頷きにやっと少しほっとした。己も少し神経過敏になっていたらしい。
小さなことで苛々するのは心に余裕がないからだ。できるならアルフレッドにもモモにも存分に戦わせてやりたい。けれど万人の望みを同時に叶えられるほどルディアは優れた王女ではなかった。
(私がブルーノの身体を使っていなければチャドの指揮下に防衛隊を置くこともできたんだが……)
期待に応えられない未熟な自分を受け入れるとき、心が痛む。理解を示してくれる相手には尚更だ。
「あーあ。リリエンソール家が人気になりすぎないようにモモたちも頑張ろうって思ってたのになー」
モモの嘆きが胸に刺さった。それはルディアも対策せねばと考えていたことだったから。
最後の望みがシーシュフォスに託されているだけあって、親子の人気は絶大だ。四十路になって初めて父が得た名声はわずか数日で地に落ちたのに。
国民の熱狂ぶりを放置するのは危険な気がする。シーシュフォスは妙な野心を持つタイプでないけれど、ユリシーズのほうは――。
(……政敵ということになりそうだな)
苦笑いしかできなかった。
本当に、何もかも裏目に出てばかりだ。
******
「耐えろ! じきに日没だ! 敵は間もなく撤退するぞ!」
張り上げた声に「おお!」と咆哮が返る。ユリシーズ率いる百余名の水兵はクルージャ岬とグラキーレ島の差し向かう狭い海門で激しい攻防を繰り広げていた。
激しいと言ってもやっているのはいつもの小競り合いである。敵兵が甲板に乗り移ってこないようにアクアレイア軍船は標木を抜いた王国湾を出ないし、ドナ・ヴラシィ軍もグラキーレ砦からの砲撃を避けるべく射程距離に近づこうとしない。互いに顔の判別もできない距離で弩の撃ち合いをしているだけだ。それでも今日の戦場が混迷を極めているのは敵船に常識外のスナイパーがいるからだった。
前々から兵の間で「すごい腕前の射手がいる」と噂になってはいたのだが、こちらの恐怖を倍加するため彼の矢だけ黒塗りされることになったらしい。
次々と甲冑を破壊していく漆黒の矢に兵士らは震え上がった。ただ命中率が可視化されただけなのに、こうも立て直しに手間取らされるとは不甲斐ない。
(連射できないクロスボウでまだ助かったな)
ユリシーズは甲板に深々と突き刺さる太い矢を見て眉を寄せた。
ディランのもとへ送った負傷兵の数は普段の倍以上である。だが弓の名手も戦い通しで疲れてきたか、はたまた西日に目が眩んだか、少しずつ狙いが雑になっていた。夕日を背負って対峙するこちら側にはこれからが有利な時間だ。受けた損害分はきっちりお返ししてやりたい。
「おい、指揮官席を離れるなよ。危ないぞ」
ユリシーズを庇って前へ出た幼馴染を「大丈夫だ」と退ける。さあ兵士らを鼓舞して反撃を、と思ったところで敵船からの射撃が止んだ。
潮の引く時間になったのだ。ドナ・ヴラシィ軍のガレー船はくるりと旋回し、何事もなかったようにクルージャ砦に帰っていった。その優雅な漕ぎっぷりに内心舌打ちする。
忌々しい連中だ。逆光だの干潮だの自分たちが不利になる条件下では決して刃を交えようとしない。
「あいつらムカつくぜ。朝方は眩しいのわかっててバンバン射てきやがるくせに!」
地団太を踏むレドリーの文句には同意しかなかった。極力態度は乱さずに、ユリシーズは「戦闘開始から一時間が最も多く怪我人を出している。何か対策を考えねばな」と腕組みする。
新たな船の建造が終わるまでは仕掛けられた攻撃を凌ぐしかない。わかっていても焦る気持ちは抑えがたい。
ユリシーズはちらりとグラキーレ島の小砦を仰いだ。敵船の背に向けられた厳めしい砲台の脇には例の田舎王子の姿がある。視力があるのか疑わしいほど細い目でチャドは敵軍の挙動を追っていた。
いかにマルゴーが傭兵大国であっても山の男が海戦の役には立つまい。最初にそう考えたのはどうやら間違いだったようだ。
婿入り道具の長弓を手にした彼は類稀なる狩人で、波に揺られる船上の敵を淡々と討ち取った。しかも安全な矢間からではなく、胸壁の歩廊からである。
祖国の王子の目があっては傭兵たちも手抜きできない。独自の存在感を示すチャドにユリシーズの敵対心は大いに刺激されていた。
(ふん、足場の不安定なガレー船でも同じことができたら褒めてやる)
あの男には武功の数で負けたくない。暗い情熱を腹の底で煮えたぎらせる。
(せいぜい用心しておけ。調子づいて腕を折ったり目を潰したりせんようにな)
と、ユリシーズは脳裏に浮かべた己の台詞に足を止めた。
――あるではないか。あの忌々しい狙撃手に対抗する方法。
「ユリシーズ? どうかしたか?」
幼馴染の声は耳を素通りする。
そうだ。射手など目を潰してやればいい。どんな手練れであれ獲物の位置がわからねば狙いなど定めようがないのだから。
「レドリー、戦線を退いた負傷兵の中で動けそうな者を集めてくれるか?」
「えっ?」
「それから皆の盾を回収してくれ」
「いいけどどうするんだ?」
「空が曇ると使えん手だが、少し考えがある」
口角を上げたユリシーズにレドリーは戸惑いながら頷いた。
翌日も前線に出る兵には休息を、それ以外の者には夜通し作業に当たらせる。夜明け前、ガレー船の左舷船縁に並んだのは鏡のごとく磨かれた円盾と弩弓を構える水兵の列だった。
「さあ、昨日の返礼と行こう!」
反射する陽光に網膜を焼かれ、色も輪郭もぼやけてハッキリ見えなくなる。日射の弱い明け方のうちは鬱陶しいながらも耐えていられたが、昼が近づくにつれてアクアレイア軍の姑息な策はじわじわ効果を高まらせていた。
「くそっ……!」
眉をしかめてチェイスは指で瞼を擦る。さっきから的に当たっている手応えがまったくない。ただ闇雲に矢を発しているだけだ。
厳しいアレイア海の冬にはありがたいほど暖かで晴れた一日なのに、今日はさっさと雨雲にでも雪雲にでも覆われてほしくて堪らない。そうしたら一番にこんなくだらない戦法を編み出した人間を退場させてやれるのに。
「チェイス、もう下がってろ! 無理して失明したらどうすんだ!」
「リーバイさん、でも!」
「でもじゃない! どうせ奴らは潟湖から出ちゃこれねえんだ。敵を殺すより自分を生かすことを考えろ!」
怒鳴られて甲板の後方へ引っ込まされる。「リーバイさん、俺はまだやれるよ!」となお食い下がろうとしたら別方向から首根っこを捕えられた。
「大将の言うことは聞いとけって。火傷のせいでただでさえ左目悪くなってんだろ、お前」
「それはそうだけど、せっかく皆が俺専用の心理作戦考えてくれたのに」
チェイスはしゅんと肩を落とす。悔しさに押さえた額の半分は、爛れて赤く変色した皮膚に覆われていた。
ジーアン軍と戦った際の癒えない傷痕。こんな形でこの火傷に苦しまされる羽目になるなんて。
「いい恰好させてやれなくてすまないな。けどケイトのためにも身体は大事にしといたほうがいいと思うぜ」
生き別れになった恋人の名に思わず身を硬くする。命がけで逃がした彼女は王都のどこかで自分たちの蛮行を見ているはずだった。
月の女神よりモラルにうるさいケイトのことだ。ドナに富をもたらしてきたアクアレイアを攻めるなんてと今頃呆れているに違いない。
それに彼女が好みだと褒めてくれた顔にも醜い仮面がくっついたままだった。あんなに好きだった人なのに、今は会うのが怖いほどである。
(また昔みたいに戻れたらいいけど……)
初めて好意を伝えたとき、「女のほうが年上なんて変じゃない?」と嫌がった彼女を思い出す。それを必死に一年がかりで口説き落としたのだ。いつか二人で王国に引っ越そうと言ったら笑顔で頷いてくれるまでになったのに。
(俺の顔こんなでも、やっぱりドナで暮らそうって言っても、側にいてくれるかなあ?)
仲間は「大丈夫さ、ケイトだってわかってくれる。これは故郷に帰るための戦いだって」と言うが案ずる気持ちは消えてくれない。
せめて戦いに決着がつくまで会わずにいたかった。もし彼女に責められたら矢をつがえることもできなくなりそうだったから。
チェイスはガレー船の帆柱に寄り、日陰にそっと膝をついた。
引きつる顔面を寒風に晒して恋人を思う。炎の熱さも裏切りの恥も知らず、無邪気で幸せだった時代を。




