第3章 その2
全体に平坦な地形の汽水域には珍しく、ごつごつとした岩場の目立つ小さな島の一軒家、その主人であるモリス・グリーンウッドは「おお、疑いは晴れたかね!」と防衛隊の帰還を祝福してくれた。
だがのんびりと話し込んでいる暇はない。挨拶もせず「例の猫はどこだ?」と尋ねたルディアに初老の親方は眼鏡の奥の目を丸くした。今更彼女になんの用だと不思議そうに瞬きされる。
「うちで大人しく飼われとるよ、狭いケージの中じゃがね。ところでバジルとレイモンド君の姿が見当たらんが……」
「いいから猫を連れてきてくれ。大急ぎで頼みたいことがある」
戸惑いながらモリスはこくりと頷いた。怪訝そうではあったものの、こちらの剣幕に押されてか素直に階段を上がっていく。代わりに問いをぶつけてきたのは引き気味のアルフレッドだった。
「おい、まさかグレース・グレディに伯父さんを探させる気か?」
騎士は憤慨というよりは驚嘆の色を示す。
「あんな女信用できるの?」
眉をしかめたモモもなかなか辛辣だ。
「背に腹は代えられん。本当は私自ら飛んでいきたいくらいだが、王国がこの有り様ではな」
ハートフィールド兄妹の懸念はよくわかっていた。伝令など頼んだところであの女狐が大人しく従うわけがない。自由の翼を与えるだけ損だと言うのだ。
そんなことはルディアとて百も承知だった。だが次期女王の己が危険な空の旅に出られるはずなかったし、ほかの脳蟲ではブラッドリーを見分ける知能が足りなかった。
グレースにやってもらうしか手はないのだ。解き放たれた彼女から、いつか毒を受ける羽目になったとしても。
「脳蟲には巣を守ろうとする本能がある。そうだろう? ならば今、我々の敵とお祖母様の敵は同じだ」
ルディアはきっぱり言い切った。あれはアクアレイアが他人の手に渡るのを黙って見過ごせる女ではないと。
アルフレッドたちももう何も言わなかった。肉を切らせても骨を断つ。万策尽きるまで抗うと決めたルディアに頷くだけだった。
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「うぉーい、言われた通り獲物仕留めてきたけどこんなので良かったかー?」
そう問いながらレイモンドはガラス工房の玄関を開く。溶鉱炉の据えられた作業場には先に工房島を目指していた主君らが顔を揃えていた。
「怪我させないようにってメチャクチャ難しかったですよ!?」
続いて扉をくぐったバジルが文句を垂れつつずっしり重い死骸を突き出す。急な狩りを命じられ、即席の罠を拵えてくれた弓兵は簡素なテーブルの中央に一羽の雁を横たえた。
アレイアハイイロガンは秋の終わりから冬の初めにかけて南方へ飛ぶ、大型渡り鳥の一種である。レイモンドたちが遅れてきたのはこの鳥を捕まえるのに思ったより手間がかかったからだった。
「ご苦労だったな。そこの水桶に頭を突っ込んでおいてくれ」
ルディアに示された水桶を見やればそのすぐ隣で懐かしの茶毛猫がニャアと鳴く。
「うわっ、こいつ檻から出して大丈夫なの?」
驚いて尋ねたレイモンドに主君は「ああ」と落ち着き払った声で答えた。
「もう話はついている。お祖母様にはこの書を持ってブラッドリーのところへ飛んでもらう」
「おおー、バジルの予想したまんまだ」
レイモンドは感心しきって弓兵を振り返った。二人で葦原のハイイロガンを追いかけ回している間、お利口な少年は「姫様はきっとこの雁に脳蟲を仕込むつもりなんですよ」と推測していたのだ。グレディ家の前当主を足にするとは本当になんでもありのお姫様だ。
猫が首を絞められて渡り鳥と同じ水桶に沈められると、ややあって灰色の翼が羽ばたき出す。新しい肉体を得たグレースは二、三度墜落を経たのちにごく滑らかな旋回を始めた。そうして飛行の練習に満足すると、グレースは生まれながらの鳥のように優雅に作業机に降り立つ。
「必要なことはここにすべて書いてある」
ルディアの手で雁の硬い足首にきつく文が結ばれる。さらにもう片方の足首にはモモの手で銀のリングが固定された。
「伯父さんが一大事だと思ってくれないと困るから、これモモのだけど貸してあげる」
指輪にはウォード家の鷹の紋章が刻まれている。嫁いできたときモモの母親が持参した品だろう。凄まじい念の入れようだ。この小狡い女が確実に役目を果たしてくれるとは限らないのに。
(うわー、あれ代々の家宝とかじゃねーの? もったいないとか言ってる場合じゃねーんだろうけど)
やはり純アクアレイア人は違う。進んで私財を差し出すなど己にはできそうもない。
レイモンドは秘かに唸った。モモでさえこれほどの献身を見せるなら、貴族だけでなく平民の中にも船の建造費や傭兵の人件費を寄付する者が多いという話は事実に違いない。
「よし、これでいい。任せましたよ、お祖母様」
旅立ちの準備が整うとグレースのために大きく窓が開かれた。ハイイロガンはゆったりと、ためらいもせず曇天に両翼を広げる。
「クウウ! クウウ!」
最後に響いた鳴き声が高笑いに聞こえたのは気のせいか。
彼方に影が見えなくなるまでたいした時間はかからなかった。
「……後は祈るしかないな」
「ああ、少なくとも伯父さんたちに急報を届けるまでは協力してくれると信じよう」
当のルディアやアルフレッドたちも半信半疑の様子である。
よしんばグレースがブラッドリーに会えたとして、ガレー船団が冬の航海に耐えられるかどうかは別問題だ。しかも本国に帰還するにはコリフォ島を監視している別の船団を突破しなくてはならない。レイモンドでも期待薄の戦力とわかる。
「ったく、ユリシーズは無罪になるわ、グレースは空に放すわ……。二人とも苦労して捕まえたのになあ」
ぼやくレイモンドにルディアはキッと目を吊り上げた。別に悪気はなかったのだが、お姫様の神経を逆撫でしてしまったようである。
「フン。あの女が私にたてつくつもりなら、そのときはもっと太い縄をかけてやる。目先の損得などどうでもいい。小さな痛みを避けて通る者はより大きな痛みに苦しむ羽目になるのだからな」
窓を閉め、ルディアは一時解散を告げた。今日は全員家に帰ってゆっくりと取り調べの疲れを癒せとのことである。
命じた当人が一番休まなさそうだったがそこには触れずに了解した。七日も拘束された挙句、狩猟まで手伝わされてヘトヘトだ。一刻も早く寝床にダイブしたかった。
(さっさと帰ってさっさと寝て、なるべく早く忘れちまおう)
油断していると耳の奥で不愉快なしゃがれ声が再生される。何が「ドナにもヴラシィにも友人は多いだろう?」だ。「金への執着も強いと聞くし」だ。
へらへら笑って流したが、こんなに腹が煮えたのは久々だった。自分だってアクアレイアが最初から自国の子供だと認めてくれてさえいれば、守銭奴にも八方美人にもならずに生きてこられたのに。
(君に流れている血は半分しか信用されないと肝に銘じておきなさい、だったか? よくそんなアドバイスができたもんだぜ)
堪えた自分を褒めてやりたい。モモならきっと拳で返していたところだ。
(どうせ俺は給料分の忠誠心しか持ち合わせてねーよ)
休息命令に従ってガラス工房を出る直前、「大丈夫ですか?」とバジルに袖を引っ張られた。心配されると途端に構えてしまうのは踏み込まれたくないからだろうか。
「何が? 大丈夫だよ」
「すみません、無理させて。僕だけでハイイロガンを捕まえられたら良かったんですけど」
「ああ、平気平気! 体力だけが取り柄だしな。そんじゃまた明日!」
なんでもないように別れを告げてアルフレッドたちとゴンドラに乗り込む。
――本当に一ウェルスも受け取らなかったんだな?
憎らしい問いかけはいつまでもレイモンドを追ってきた。
もっとアクアレイア人らしくなれば同じ国の人間から疑われたり蔑まれたりしなくても済むのだろうか。
高額な国籍を買って、宮廷勤めにもなって、これ以上何をどうすればいいのか全然わからないけれど。




